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Laura Nyro/Eli And The Thirteenth Confession/2002 Sony Music Entertainment Inc. SICP 8051



一度聞くと忘れられなくなるような驚くべきレコードがいくつか存在する。そういったレコードはその時点から永遠に自分の中に住みつくようになる。1968年、感受性強い15歳の少年だった私は、ビートルズ、ボブ・ディラン、ザ・バーズ、ジミ・ヘンドリクス、そしてローリング・ストーンズらの最新のレコードがかからないかと願いながら、絶えずラジオにかじりついていたことを覚えている。最初に私がローラ・ニーロの“Sweet Blindness”を聞いた時、私はたちまち打ちのめされてしまった。それは単なるニーロの健全な娯楽としてのメッセージが私を捉えただけではなかった。そこには歌が発するゴスペルの炎と、並外れたヴォーカル・パフォーマンスと、びっくりするようなテンポ・チェンジがあった。

Eli and the Thirteenth Confessionを聞いたあと―そのアルバムに“Sweet Blindness”が入っていた―私はその全てから活力を与えられたように感じた。私はそれ以前にそういった息をのむようなサウンドの結合を経験したことがなかった。それはあたかもソウル、ジャズ、ブルース、フォーク、ロックンロール、ゴスペル、クラシック、ティン・パン・アレイそしてブロードウェイさえも含む素晴らしい要素が渾然一体となって、その豊かな栄光の中へと集結し、ニーロの詩的な歌詞と情熱的なヴォーカル・スタイルにふさわしい色合いを添えているかのようだった。

ニューヨークで育ったニーロは音楽に囲まれていた。彼女の父はジャズ・トランペッターだった。母親はオペラ通で、ニーロに黒人オペラ歌手リアンティーン・プライスや、印象主義クラシック作曲家のモーリス・ラヴェル、クロード・ドビュッシーを聞かせた。ニーロはマンハッタンの名高い音楽芸術学校に通い、そこで彼女はマイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンのフリー・ジャズを探求し始め、同時にボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ピート・シーガーら社会派フォーク・シンガーにも興味を持ち始めた。14歳になったニーロは地元のストリート・グループに加入し、街角、アパートのホール、駅のホームなどで歌い始めた。こういった即興グループでの経験によって、ニーロは様々なドゥーワップと、ブリルビルディング・クラシックのソウルフルなソプラノ・スタイルを自然と身につけていった。1965年までに彼女は地元のクラブで歌い出し、サンフランシスコの伝説的なコーヒーハウス、Hungry iにも出演するようにさえなっていた。

数年後、19歳になったニーロはヴァーヴ/フォークウェイズ・レーベルで、ファースト・アルバム、More Than a New Discoveryをレコーディングした。アルバムは商業的には成功しなかったが、他のアーチストがそのアルバムの中からいくつかの曲をカヴァーし、それがヒットすることになった。例えばザ・フィフス・ディメンションは“Wedding Bell Blues”と“Blowin’ Away”(“Stoned Soul Picnic”と“Sweet Blindness”がグループの初の大ヒットとなったが)を掘り当て、バーブラ・ストライザンドは“Stoney End”を、ジャズ・ロック・バンドのブラッド、スウェット・アンド・ティアーズは“And When I Die”を、という具合であった。

1967年になり、ニーロは初の大々的なコンサートとして、あの伝説的なモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに出演した。バットウィング・スリーヴ(袖ぐりが深くゆったりして、手首で細く詰まった袖)の衣装を着た彼女は、フェスティヴァルのプロモーターが用意したバック・バンドを従えてステージを務めた。しかし不幸なことに、バンドは全体にその複雑な楽曲をプレイする能力を備えていなかった。困惑してしまった彼女は、ステージを短く切り上げることにしてしまった。ちょうどその頃、やがてメディア界の大物となる音楽エージェントのデヴィッド・ゲフィンがローラのファースト・アルバムを聞き、彼女の卓越したヴォーカルに深い感銘を受けていた。そして彼は彼女に会い、彼女のエージェントを申し出た(のちに彼は彼女のマネージャーとなる)。続いて彼は彼女のコロムビア・レコーズとのレコーディング契約を獲得した。それがコロムビアからのデビュー作、Eli and the Thirteenth Confessionだった―これは今なお―絶対的珠玉の一枚である。

Charlie Calelloによるプロデュースで1968年の1月と2月にレコーディングされたEliは、当時の他の作品からは遠くかけ離れていた。そこには、様々なジャンルを持ち込み一個の新しいサウンドとしての新生面を切り開くという野心あふれる意図があった。憶えておいてほしいのは―これは1968年のことであり、自らの属するカテゴリーから飛び出し、冒険しようと嬉々として取り組むレコーディング・アーチストはそれほど多くはいなかった時代であったことだ。そして当時のレコード会社もそういったことを望んではいなかった。お前はロック、お前はフォーク、お前はソウル、お前はジャズ、お前はカントリー、それでよし、以上。

ニーロはその壁を破壊してしまった。小組曲に挑戦した“Once It Was Alright Now(Farmer Joe)”に注目してみてほしい―一聴すると伝統的な‘独唱部-コーラス-独唱部’スタイルを彼女はひっくり返してしまった。そこには少なくとも3つの異なる歌が存在している。ガーシュイン風パロディからゴスペルへ、そしてジャズへと進んでいく。しかしそれら全ては、オーケストラ的観点から見てもテーマ的に見ても完全にフィットしているかのようだ。加えてその甘いソプラノ・ヴォーカルは、天使のようなささやきからギア・チェンジし、ゴスペル色強いソウルへと変わってゆく。そこであなたはこの歌が何か違ったものに変わってしまったことに気づくだろう。ニーロが心の奥深くまで沈んで行き、それぞれの最後のヴァースで感情をしぼり出す様は、Eliに収録の“Poverty Train”の中の詞、“I swear there’s something better than/gettin off on sweet cocaine”で聞くことができる。

そこには様々な詞がある。ロマンチックな願い、成熟、孤独と疎外―全てが存在する。性的欲求でさえもだ。ニーロにとって“The Confession”の中で“love my lovething/super ride inside my lovething”と歌ったことは、確かに1968年において革命的な概念だった。そしてそれは成功した。

Eliは批評家たちの耳を捉え、他のアーチストが宝の山であるアルバムのマテリアルをカヴァーし、ニーロのソングライティング能力は広く知れ渡るようになった。再びフィフス・ディメンションは今回、“Stoned Soul Picnic”と“Sweet Blindness”を取り上げ、大ヒットを記録した。スリー・ドッグ・ナイトは“Eli’s Comin’”をカヴァーし大ヒットさせた。

さらに重要なこととして、Eli and the Thirteenth Confessionは、他の同種の都市に悩む女性シンガーソングライターたちの道を開いたことだ。アルバムとそれに付随する批評家たちの称賛、プラス他人に提供したヒットの源泉となったことは、様々な音楽スタイルで自由にそれぞれが好みの音色に仕上げても通用する楽曲であることを証明し、必ずしもフォーク・ミュージシャンとしての基準に達する必要などないことを示していた。ニーロのEliがのちのリッキー・リー・ジョーンズと彼女の意識の流れであるスキャット、フィービー・スノウと彼女の特徴であるヴィブラートのかかった抑揚のつけ方、そしてスザンヌ・ヴェガと彼女の印象派ストーリーテラーとしての才能、それらのドアを開く大きな役割を果たしたのである。さらにニーロの繊細な影響力は今日でもいたるところに生きている。それはTori Amosの催眠的表現に難なく聞くことができるし、都会的なテクノ・ミュージック、Ani DiFrancoの情熱的なヴォーカル、そして時の異端な個性たちも同様だ。

私が初めてEli and the Thirteenth Confessionを聞いて以来34年、はっきりいって私はこれを聞くたびに、その誠実さ、率直さ、エネルギー、パッション、そして構造的な輝きに今なお驚かされてしまうのである。ずば抜けたR&B調のピアノ-ホーン-ストリングスによる“Luckie”のグルーヴが聞けるオープニングから、むき出しのソウルの嘆きが聞ける最後の“The Confession”までの間に、私は再び屈託のない15歳の私に戻ってしまう。言いかえれば、Eliは時を超越するのであり、その資格を有する芸術作品はそう多くあるものではないということだ。

Rick Petreycik
April 2002


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