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Laura Lee/The Chess Collection / 2006 Universal/Island Records Ltd. 983-229-4



“チェスレコードでは貴重な体験をしたわ。”ローラはデトロイトからの電話でいった。そこは彼女が7歳の時から住んでいる家だ。“チェスのオーナー、レナード・チェスは、本当に素敵な人だったわ。弟のフィルとはあまり仲良くなかったけど。彼にとって私はちょっとはしゃぎすぎな女の子だったのよ。でも彼らは私の声を気に入ってくれて、マッスルショールズのリック・ホールのフェイムスタジオに送り出したの。私は命令されるのが嫌いだったけど、リックは寛大で、私をリラックスさせてくれた。スタジオに裸足で入ったりしてたわ。”

セッションは素晴らしいものとなった。‘Love More Than Pride’と名付けられたアルバム(一部シカゴ録音)は、ローラをアレサ・フランクリンに次ぐソウルシーンの存在とし、シングル‘Dirty Man’(元々はシカゴで録られたが、再度マッスルショールズでレコーディング)は、今日まで彼女のテーマソングとして残っている。

それは彼女のじらすような意志の強いボーカルによって成り立っている。彼女のトレードマークであるブルージーで、ダウンホームな歌唱によって、完璧に表現されているのである。またそれは後に再利用され、大きな影響を与えるべく誇張された詞の内容を持ち、そういった分野を開拓したのだった。例えばもっと大きな成功を収めたベティ・ライト、ベティ・デイヴィス、ミリー・ジャクソン、そしてザ・ソウル・セッションズでカヴァーした後のジョス・ストーンである。そのB面であるジェイムス・クリーヴランドの‘It’s Mighty Hard’は、リーの最も雄弁なボーカル・パフォーマンスのひとつである。心が砕かれるような詞でありながら、そこには誇りと威厳が備わっている。ビリー・デイヴィス・プロデュースで、それは後のロタリー・コネクションとミニー・リパートン、アレンジャーのチャールズ・ステップシーの忘れられないオーケストレーションの好例となっている。

情熱的な‘He Will Break Your Heart’(ジェリー・バトラー、カーティス・メイフィールド、クラレンス・カーター作)は、ジェリー・バトラーの初期のヒットで、カーティス・メイフィールドが書いたのと同様の効果をもたらしている。ジェリー・バトラーがカヴァーした‘Need To Belong’は、リーの壊れやすく繊細なトーンを背景にもち、彼女にとって理想的な曲である。ジ・インプレッションズの‘People Get Ready’を彷彿とさせる。

リーはこのようなくすぶるようなディープソウルバラードの力強さを持っていたが、同時に脈打つようなファンク・ソウルの達人でもあった。例えば、‘Mama’s Got A Good Thing’‘It Ain’t What You Do(But How You Do It)’そして‘It’s How You Make It Good’などで、後者はリーの高揚する圧倒的な存在感を備えていて、それはジェイムス・ブラウン・バンドの歌姫、マーヴァ・ホイットニーのようだ。

また後のリン・コリンズのようなセンセーショナルな小悪魔的雰囲気も持っている。それらは1970〜1974年にかけてのホットワックス・レーベル時代の音楽的方向性にヒントを与えたのだった。チェス時代の彼女のトップ20R&Bヒット、‘Uptight Good Woman’は、そのB面に初のリズミックなナンバー、‘Wanted, Lover, No Experience Necessary’を含んでいる。

これは間違いなく彼女のゴスペル・スタイルを存分に発揮した最良の3分間で、バッキングボーカルはアレサ・フランクリン風の活気に満ちたものだ。この曲はソウル界に影響を与えずにはおかなかった。リーのホットワックスでのレーベルメイト、ハニー・コーンは‘Want Ads’と名付け拝借、1971年そのレーベルにとってのR&Bトップヒットとなった。リーはその若さにも拘わらず、チェスに入社した1966年までに既に立派なキャリアを獲得することとなった。

1945年2月9日シカゴ生まれの彼女は、デトロイトに移りインスピレーションを求め教会を目指した。“ゴスペルを愛してたわ。教会もね。学校にいない時はいつも教会で過ごしたわ。”アーネスティンとリバレンド・エドワード・アレン・ランドルズ(かつてソウル・スターラーズのメンバーであり、ニュー・リバティ・ミッショナリー・バプティスト教会の牧師でもあった)に採用され、彼女はフランクリン姉妹と共に自分の歌を磨き上げていった。フランクリン姉妹とは、アレサ、アーマ、カロリンのことである。

“ジェームス・クリーヴランドはピアノを弾いたわ。彼は私をエンプレス(女帝)と名付けたわ。私たちは町中あちこちを歌って回り、アレサの父親が持っていたラジオショーに通い続けたわ。”またリーはデラ・リースのいた母親のゴスペル・グループMeditation Singersでも歌っていた。

“世界中をまわって歌ったわ。デラが抜けるとリードシンガーにもなった。ツアーから戻ると月曜から学校なんだけど、午前中は疲れてほとんど居眠りしてたわね。”デラはソロシンガーとなり、グループを彼女のバッキングシンガーとして雇い入れた。

“私たちはラスベガスで最初に出演したゴスペルシンガーだったわ。それからニューヨークのコパカバーナ、ワシントンDCのハワードシアター、パリのオペラハウス、アンティーヴ・ジャズ・フェスティバルにも出たわね。一般リスナーは私たちを気に入ってくれたわ。ラスベガスでは、お金をすった人たちは私たちがステージに上がるとブーイングだった。でも歌い始めるとみんな賭け事をやめて私たちに見入っていたわ。”

彼女に夢中になったフランク・シナトラは、彼女をリプリーズ・レーベルと契約させようとした。“彼とサミー・デイヴィスJRは、自分たちのショーの後よく私を観ていたわ。私の事を‘大きな声の小さな女の子’と呼んでた。で父に契約の話を持ちかけたんだけど、まだ私は若すぎるってことで父はその話を断ったの。”母のグループで歌う傍ら、リーはモデルの仕事を見つけた。彼女の美しい容姿と長いまつ毛は、ペプシコーラとの契約を勝ち取ったのである。

“モデルの仕事は好きだったけど、一方でインテリア・デザイナーになりたかった。父は会計士になってほしかったみたいね。私は子供の頃から数学が得意だったから。でビジネス学校に行ったんだけど、ドロップアウトしてしまった。その時までに私は歌に専念しようと決心してた。母とジェームス・クリーヴランドを説得したわ。彼らはノーとは言えなかったわね。”

フェルプス・ラウンジというナイトクラブを経営していたエドワード・フェルプスという男がいた。彼はローラにソロアーチストになるよう提案した。

“最初の反応はどうしようもなかったわ。母は私を殺しかねなかったわ。”彼女は笑う。“母はとても支配的な存在で、私はしばらく母から離れる必要があったわ。母は私がいなくてはメディテイション・シンガーズが崩壊するんじゃないかって凄く心配してた。でも私がバックコーラスで起用したからそうはならなかったわ。”

リーは世俗音楽アーチストとしてエド・ウィンゲイツのデトロイトにあるレーベル、リック・チック(後のインヴィクタス/ホットワックスのレーベル仲間である、パーラメンツ、フレイミング・エンバーズ、メルヴィン・デイヴィスと共に)に、1965年“To Win Your Heart”を吹き込んだ。

“リック・チックとゴールデン・ワールドは家族のようだった。”彼女は懐かしく思い出す。“私はスタジオからほんの6ブロックところに住んでいて、何もすることがなくてもスタジオに行ってたむろしてた。そこで起こる事を楽しんでた。セッションがあれば集まってバッキングボーカルを提供してたわ。私とメディテイション・シンガーズのパット・ルイス、エドウィン・スターが一緒にいた時、エドによると、彼はよく歌の間の取り方に苦労してたらしいわ。私は彼をスタジオに連れて行ってよく手助けしてあげた。”

この頃リーはモータウンのオーディションを受けて断られている。“モータウンは私の声が好みじゃなかったのね。私は失望したけど、ミッキー・スティーヴンソンが連絡を取り続けてくれて、また受けたんだけどやっぱり私の声は彼らにとって重すぎてディープすぎたみたいね。”

しかしながらチェス・レコードが彼女の才能を大いに認めた。“リトル・ミルトンが仲介になって直ちにチェスと契約したわ。ビリー・デイヴィスとボビー・ミラーは‘Dirty Man’を書いた人ね。あとレナード・カストン。彼らはグレイトな仕事仲間だった。みな私の才能の引き出し方を知っていたわ。”

シカゴでのいくつかのレコーディング・セッションのあと―1966年の‘Stop Giving Your Man Away’、1967年のオリジナル、‘Dirty Man’と同年の‘Are You Doing Me Wrong’含む―リーはチェスのレーベル仲間、エタ・ジェイムス、アーマ・トーマスを追う形で、間違いなく彼女の最良のマテリアルとなるナンバーをレコーディングすべく、マッスルショールズに向かった。“学校があったから一週間しかいなかった。ボビーが曲を与えてくれて、3時間後には演奏を始めてたわ。2〜3テイクしか録らなかった。”

結果は1968年の全米トップ40ヒットとなった‘As Long As I Got You’と1969年の、スタックス風‘Hang It Up’で、それらはキーボードにスプーナー・オールダム、ドラムにロジャー・ホーキンス、ギターにジミー・ジョンソン、そしてメンフィス・ホーンズの面々で、素晴らしいナンバーであった。ローラは4年間レーベルにとどまったが、レナード・チェスの死によって契約が途絶えてしまった。彼女はそれでも進み続けることを決心し、ブライアン・ホランドが兄弟のエディと、ラモント・ドジャーと共に設立した、インヴィクタス/ホットワックス・レーベルに移ることになった。ローラはソングライティングチームのウィリアム・ウィザースプーン、ジェネラル・ジョンソン、HDHと共同して、彼女の既に確立していたセンセーショナルな要素―信じられないほどセクシーで急進的なスタンス―を新しいレーベルに供給し、音楽的野心に燃えるプロデューサーやソングライターのノーマン・ホイットフィールドやフランク・ウィルソンに提供し、モータウンを追う形となった。

ローラの潜在的論争術―‘Wedlock Is A Padlock’‘It’s Not What You Fall For, It’s What You Stand For’‘Rip Off’そして‘Women’s Love Rights’―これらは声明書であり、どこにでもいる虐げられた女たちの涙である。ジェーン・フォンダは彼女に一緒にツアーに出てほしいと依頼したが、残念ながらリーは断っている。そしてリーは女としてのソウルの側面を表し始めた。‘Since I Fell For’における独白は、ミリー・ジャクソンの‘Caught Up’三部作の原型を提供することとなった。ホットワックス時代ローラはいくつかのR&Bヒットを放っている。彼女の歌い方はホランド・ドジャー・ホランドの短命に終わったレーベル、Music Merchantとその最重要作品であるEloise Lawsの枠組として役立ったのである。ただリーの心はやはりチェスにあった。

“ホランドとの仕事はよかったわ。でも正直に言うと、マッスルショールズの方が楽しかった。”彼女は認める。“ホットワックスでは何をしろとか何々を歌えとかいつも言われた。マッスルショールズではずっと創造的自由が持てた。私はハニー・コーンとメディテイション・シンガーズをホットワックスでバッキングコーラスとして持てたけど、ウィリアム・ウィザースプーンとはよく論争になったし、いつも口論に発展したわね。”

レーベルは難しい時期を迎え、ドジャーは1973年レーベルを離れ、それに伴って1974年ローラの商業ヒットにもかげりが見え始めた。1973年の映画‘デトロイト9000’に出演し、彼女は1974年、3枚のアルバムを残してホットワックスを去った。そして1976年、‘Love’s Got Me Tired(But I Ain’t Tired Of Love)’をアリオラ・アメリカ(レーベル?)のグレッグ・ペリーと作り、1979年には、癌と告知される前のファンタジー・レーベルのドン・デイヴィスと‘Sat-Is-Fac-Tion’を発表した。

“辛い時期だった。神に祈り、うまくいくよう活動を再開した。その後伝道師の仕事を始め、アフリカを旅したわ。”

そしてついにローラはスタジオに戻り、去年ウィザースプーンと再び組んでアルバムをレコーディングした。“チェスの頃に戻ったようだった。”彼女は言う。“また歌える喜びを感じられたし、歌いたいものを歌えるのが本当に嬉しかったわ!”

編集及び注釈:ルイス・ウィルソン、モジョ・マガジン
デヴィッド・ネイサン、デヴィッド・コール、コリン・ディルノット、ジョン・ハリントンに感謝する



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