Welcome to my homepage


The Kinks/Are The Village Green Preservation Society Special Deluxe Edition/2004 Sanctuary Records Group Ltd SMETD 102



“僕にとって、ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティはレイの代表作だ。彼にとってのサージェント・ペパーさ。このアルバムでレイは決定的なポップの桂冠詩人になったんだ。”

―ピート・タウンゼンド、2004年

うこそ、ポップ・ミュージック最高の奥義が隠された秘密の場所へ。それはかつてレイ・デイヴィスが書いた“いなくなってしまった友人たち、ドラフト・ビール、モーターバイクにまたがった人たち、いたずらな魔女たち、空飛ぶ猫”の世界だ。ようこそ、ノスタルジア、走馬灯、思い出、善悪、そして現実と想像の世界へ。ようこそ、ヴィレッジ・グリーンへ。

「まれにみる失敗の大傑作だね」 レイ・デイヴィスはあなたが今手にしているアルバムについて悲しげにそういう。LP史上、最も偉大な1枚であり、最も誤解された1枚だ。「子供のまま大人になったようなアルバムだね。この子供はちょっとすてきで、歳をとらなかったんだ。いつも同じところに佇んでただけだ」

60年代の画期的名盤の中で、The Kinks Are The Village Green Preservation Societyは最も控えめだ。不名誉なことに、1968年11月22日のリリース時、その秋にリリースされた他の大物たちのアルバム―ストーンズのBeggars Banquet、ヘンドリクスのElectric Ladyland、そしてもちろんThe Beatles、別称The White Albumらに絶賛の嵐とビッグ・セールスがもたらされる中で、ザ・キンクスのニューLPは踏みにじられてしまった。そのLPは全くチャート入りせず、すぐに忘れ去られてしまった。しかしVillage Greenには何か不思議な力がある。それは単なるキンクスの最高傑作、レイ・デイヴィスの無類のウィット、悲哀、静かなる怒り、そして魔力の完全なる表明であるだけでなく、時が経つほどに、60年代の行く先を想い描き、次に起こることを考えさせてくれるポップ時代の唯一のアルバムとして、その姿を見せてくれる。

レイ・デイヴィスはいう。「コマーシャルなレコードを作るのはやめにしたんだ。コマーシャルにするつもりはなかったし、聴いてもらおうとも思わなかった。変ないい方をすれば、レコードを買って友人の家にふらっと聞きに行く感じだった。Starstruckみたいな曲が何曲か入っている。たしかにラジオでかかりやすい曲ではあるんだけど、あれはラジオでかけてもらうように作ってた時期のあとの段階っていうか、片手間にラジオに耳を傾けてもらうような感じだ。僕はクリエイティヴになりたかったし、コマーシャルな世界じゃないものについて何かいいたかったんだ」

当時の音楽的傾向―ハード・ロック、ビートルズのRevolution、ストーンズのStreet Fighting Man―は問題ではなかった。ドラフト・ビール、クリケット、そしてストロベリー・ジャムについて穏やかに語られる歌は、むこうみずで、ファッショナブルなものではなかった。「時代の最先端を行ってるか、完全に時代遅れかどっちかだったね!」 全く無反応だった当時を思い出すデイヴ・デイヴィスは笑いながらそういう。「レイみたいな歌を書く奴なんてどこにもいなかったね。ロックンローラーはとにかく何でも破壊することを歌っていた。新しければオーケーだった、だろ?でもVillage Greenが特別なのは、現代に残すべき過去もあるんだっていう視点を持つ希望だったことなんだ。変化のために何でもかんでも捨ててしまうんじゃなくてね。こういう考え方は90年代になるまで流行らなかったな」(あるいはドラマーのミック・エイヴォリーはこういう―「いつも最先端のトレンドを設定するのがキンクスだったんだ!」)

オリジナル・ベーシストのピート・クエイフは、LPがリリースされてからまもなくグループを去って行った。彼は単に潮時だと考えたに過ぎないと思っている。「僕たちの最高作だね」 彼はきっぱりとそういう。「酷評されたのは分かってるよ。でもこれを聴くといつも何かがこのアルバムにはあるって思うね。実際、本当にあるんだけど」

Village Greenの制作過程は入り組んだストーリーであるが、そのあらましはこうだ。ヒット・シングルに明け暮れたザ・キンクスでの3年間のあと、レイ・デイヴィスは自らを再検討しようと立ち止まった。グループの成功はリード・シンガーとして、メイン・ソングライターとして、そして徐々に高まるレコード・プロデューサーの役目として彼に活力を与えてきたが、デイヴィスの仕事量は恐るべきものとなり、彼に与えるプレッシャーは凄まじいものとなっていた。彼は精神的、肉体的に疲労困憊していた。「僕は当時のマネージャーだったグレンヴィル(・コリンズ)とロバート(・ウェイス)といっしょに出かけたんだ」 80年代に彼は回想している。「僕はこういった。‘いいかい?僕はWaterloo Sunsetを書いたんだ。これ以上何がほしい?僕は今までこれだけのシングルを書いてきたんだ。何か違うことをしたいんだよ’ってね。すると彼らはこういった。‘ああ、レイ、分かったよ。でもシングルは書いてくれよ。僕たちがうまく行くかどうか考えてみるからさ’ってね」

それと時を同じくして、デイヴィスは印税に関する長い法的闘争に巻き込まれ、さらにこの時期、キンクスはアメリカでのコンサート活動から締め出されていた(1965年の悲惨なアメリカ・ツアーにより)。その容赦のない厳罰は、グループの運命と彼らのリーダーの意欲に影響を与えた。「アメリカ締め出しは僕に深い影響をもたらしたね。そのことがあってから、僕は特に英国的なものを書くようになっていった。ある意味それは自分のルーツに目を向けさせることになった。僕は掘り下げて引き出すべき意見が、自分の中にあることに気づいたんだ」 1966年6月のSunny Afternoonから、いわゆるデイヴィスの書く‘イングリッシュネス’が新しいキンクスのトレードマークとなった。それがVillage Green Preservation Societyで頂点に達した。

デイヴ・デイヴィス:「Village Greenは、そのインスピレーション源を考えれば、ある意味ロック‐フォーク・ミュージックみたいなものだった。僕らはピアノの周りに座ったりしてリハーサルしていたから、キンクスはフォーク・グループみたいなものだったね。うまく行かなくなると、僕らはいつもギターを何本か持ち寄って居間に集まったり、ピアノの周りに集まったりしていた」

1968年に入ると、レイ・デイヴィスはヒット・マシンとしての単調な仕事と、それに付随する要求から距離を置きたがるようになった。「Village Greenはとてもプライヴェイトで個人的なレコードなんだ」 彼はいう。「僕は牧歌的な想像の世界を思い描いた。それは現実逃避主義者の世界じゃなくて、実際の世界だ―善と悪が存在しているんだけど、彼らは現実の世界ほど手荒く扱われることはないんだ。ひょっとすると、それは僕たちの誰も経験したことがないけれども、ある人たちはもしかすると知っていたかもしれない幼少期の視点なのかもしれない。その当時の僕は大人になったばかりだった。僕はすでに家族を持っていたから責任があった。もしかすると僕が家族に聞かせようとしていた物語なのかもしれない―僕の娘たちはまだ本当に小さかったから。まるで僕はこの世界と同時に存在する、もうひとつの世界の物語を作っていたようなものだ。そこには邪悪なものやいたずらっ子がいるんだけど、そういったものと対立したり闘ったりするのとはちょっと違うんだ」

それらの証言を裏付ける証拠がある。初期の段階で、レイ・デイヴィスはこれらの曲をソロ・アルバムとしてリリースするつもりだった。1967年のデイヴ・デイヴィスは、キンクスとしてレコーディングしたDeath Of A ClownやSusannah’s Still Aliveで、ソロとして成功していた。「その計画はデイヴのためのものだ。初期のキンクスのナンバーと共に彼の曲もやるっていうね。そうすればキンクスはグループとしてもっと洗練されるのさ」 その秋にマネージャーのロバート・ウェイスは語っている。そして当時のプレスはそれに対応するレイ・デイヴィスのオーケストラ付きミュージカル・ストーリー的な内容のソロLPについて報告している。「Village Greenは理想的なソロ・アルバムになるはずだったんだ」 今日のデイヴ・デイヴィスはいう。「キンクスとは全く競合しないからね。なぜならすごく個人的なレコードだったから」

レイ・デイヴィス:「一番最初に書いた曲が、“Village Green”そのものだったと思う。レコードの全構想は頭の中にあった。それは僕たちが育ったフォーティス・グリーンの村の雰囲気だった。僕は教会の学校に行っていた。こぎれいな地区だったね。1平方マイルの世界が全てだった。5歳の子供の目を通して見るのに相応しい密接な世界だ。でも僕は大きくなって村を出て、町へ向かった・・・」

細部まで気を配ったデヴィッド・ホイッタカーのアレンジメントと、ニッキー・ホプキンズのハープシコードが施された“Village Green”は、実際、早くて1966年暮れ、もしくは遅くとも1967年初頭にはレコーディングされていた。それは前のアルバムであるSomething Else By The Kinks収録のTwo Sistersと同じセッションだった。デイヴィスはその曲をとっておいた。「その間に僕はコマーシャルな曲を作らなきゃならなかったし、ツアーもあった。でも僕は集中してたよ」

この時期にキンクスがレコーディングした多くのトラックは、メロトロン・マーク2・キーボードが素晴らしくフィーチャーされた点で注目に値する(例えばBerkeley Mewsの最後の部分で現れる不思議な‘サキソフォン’はメロトロンのテープループだ)。「シンセサイザーの前身のメロトロンは、ストリングスやフルートに近い音を出すグレイトなマシンだったね」 レイ・デイヴィスは回想する。「サウンドとしてレコードにイングリッシュ・フォーク色が加わることになった。サウンドはとてもアコースティックなんだけど、多くはキーボードを使って書いたんだ。それにフルート奏者を呼ぶより、メロトロンをプレイする方が僕にとっては簡単だったしね。僕たちは“Village Green”で本物のストリング・セクションを使ったけど、それは他の曲のひな型になったし、メロトロンを使ってその弦の音に近づけることができた」

デイヴィスは多くのパートを彼自身でプレイしたが、ニッキー・ホプキンズは依然キンクスのセッション・マンとして、ピアノ、オルガンからハープシコード、メロトロンまで担当した。「彼はプレイする前に曲を理解してしまうんだ」 ピート・クエイフはいう。「どうプレイすればいいか正確に分かってしまうんだ。正確にね!びっくりだったよ」

1968年を通して、キンクスはどんどんと増える素晴らしい新曲をレコーディングするために、パイ・スタジオ2にこもり続けていた―ネオ・サイケデリックのWicked Annabella、ものういSitting By The Riverside、自伝的なPicture BookとDo You Remember Walter(デイヴ・デイヴィスによれば、一部デイヴィス兄弟の甥のテリーに触発されたらしい。テリーは両親のローズとアーサーとともにオーストラリアに移住していた)。

しかしながら、急激に移り変わるポップ・シーンの中で、キンクスはすぐに人々の視界から滑り落ちてしまった。コンサート活動は不定期で不十分なものとなった。ハード(訳注:ピーター・フランプトンのいたバンド)、トレメローズと共に回った時代遅れなティーニーボッパー向けパッケージ・ツアー、スウェーデン‘フォーク・パークス’の悲惨なツアー、トップハット、スペニームーア、ストックトン‐オン‐ティーズ(イングランド北東部)のクラブ・フィエスタのような北方の労働者向けのクラブでの、変てこで不釣合いな出演などだ。

さらに悪いことに、新しいキンクスのニュー・シングルが苦闘し始めた。4月にリリースされたWonderboyは不意にも失敗してしまった。3ヵ月後、永遠の美しさをもつDaysは、トップ10をわずかにかすった。レイ・デイヴィスのソロ・アルバムの見通しは後退し始め、代わりにキンクスのアルバムとしてのVillage Green(当時は単にVillage Greenだった―まだPreservation Societyは付いていなかった)の構想に変わった。「メンバーたちはいつものようにやって来て手伝ってくれた。僕は彼らが助けてくれたことは永遠に忘れないね」 デイヴィスはいう。

6月、デイヴィスは契約に基づき、キンクスのUSレーベル、リプリーズに‘完成済みの’12曲を差し出すことを余儀なくされた。彼は編集済みのアルバムに、仮タイトルとしてFour More Respected Gentlemenと付けた。結局、Village Green Preservation Societyに落ち着いたが、そのLPはリリースされなかった。そこに収録されていたのは、Village Greenセッション曲に加え、デイヴ・デイヴィスのオリジナル、BBC TVショーのAt The Eleventh Hourのために書かれた1曲(Did You See His Name)さえ含んだ不調和な混ぜ合わせだった。レコード会社はしかるべき対応をした。キンクスは最終的なVillage Greenのためのセッションを再開した。

グループ内は間違いなく緊迫状態にあった―Daysのレコーディングがその顕著な発火点だった。クエイフはレイとの間の激しい口論のあと、怒って部屋を飛び出してしまった。アルバムは完成間近だった。しかし4人はスタジオの中での協力関係を取り戻す。

ミック・エイヴォリー:「よりバンドは1つになったね。ただのセッション・マンみたいにやるんじゃなくて、みんなが協力して働いた」

デイヴ・デイヴィス:「バンドは1つの家族のように働いた。みんなが少しずつ役割を持ってね。何かいいアイデアだと思った時は、それを試してみた。そうすれば他のアイデアが導き出されるんだ。基本的にレイの曲に基づいていたけど、アイデアやリフなんかの意見を取り入れて音楽がふくらんでいった」

ピート・クエイフ:「それがあのアルバムをユニークなものにしたんだ。LPを作る時、僕らはそれぞれのアイデアを取り入れて、うまく曲の中に当てはめていった。素晴らしかったね」

レイ・デイヴィス:「あの頃は本当にバンドが結束していた。ファミリーとはいいたくないな。全ては歌の中に出てくる友情に関係しているんだ。青春時代の終わりみたいなものだった。ピートとはクラス・メートだったからね。それは本当の意味での若さとナイーヴさの終焉で、バンドの中に存在した最後の絆だった」

8月半ばまでに、LPは少なくとも理論上は完成した。そこには新しいフル・タイトルの1曲、The Village Green Preservation Societyが収められていた。12曲からなるテスト・プレスが作られた。ハムステッド・ヒース(ロンドン北西部の大きな公園)の背の高い草の中を歩くグループの写真が撮られ、ジャケットのアートワークが用意された。リリースは9月の終わりに設定された。キース・アルサムのような親しいNMEのジャーナリストがキンクスのニュー・アルバムの試聴に招かれ、週刊のポップ雑誌に広告が打たれた。
しかし9月27日が過ぎてもキンクスのアルバムは店頭に並ばなかった。ぎりぎりになってデイヴィスは12曲入りLPのマスターテープの採用を取りやめた。しかし一部のマスターは、フランス、イタリア、スカンジナヴィア、ニュージーランドに送られてしまった。それらの国のファンたちはその‘未完’ヴァージョンLPをすぐに買うことができた。2ヵ月後、The Kinks Are The Village Green Preservation Societyが英国のレコード店に並ぶまでに、DaysとMr. Songbirdが外され、新たに5曲が加えられていた。「タイミングの問題があったんだ」 デイヴィスはいう。「たぶんVillage Greenにとって、Daysの役割は他の曲で埋め合わされていたんだ。Daysは少しの間、大ヒットしたからあの中で浮いていた。でも問題は解決して全てがしかるべきところに収まったね」

10月、キンクスは最後の2曲、Last Of The Steam-Powered Trainsと壮大なBig Skyをレコーディングするために、パイ・スタジオ2に戻った。後者はカンヌにあるカールトン・ホテルのバルコニーで書かれた。そこはレイ・デイヴィスが1968年初頭にMIDEMミュージック・フェスティヴァルのために短期間滞在していたところだった。のちに彼がローリング・ストーン紙におどけながら語ったところによると、俳優のバート・ランカスターの(単調な)歌を聴きたかったらしい。たしかにデイヴ・デイヴィスは、兄のしゃべるような歌い方は、ランカスターの物まねであることを認めている(「僕らの間で流行っていたジョークだったんだ」と彼はいう)。またそこでは珍しくバッキング・ヴォーカルとして、出産間近だったラサ・デイヴィスがフィーチャーされている。

2年を費やして完成したアルバムは、レイ・デイヴィスの望んだ全てが反映された傑作となった。それでもその11月の金曜日に実際にアルバムを買った誰もが、急ピッチで仕上げられたと感じたに違いない。レーベルの曲のタイトルとカヴァーには食い違いがあった。サイド1は3曲のみの表示だったし、ミスプリントさえあった―Phenomical(原文のまま) Catだ。そのLPはすぐに回収されたが、様々な改訂、遅れ、そしてヒット・シングルの欠如によって、不幸にもセールス的はずみは弱められてしまった。

なぜデイヴィスは12曲入りヴァージョンのアルバムを取りやめたのか?明らかに彼はLPが未完成だと感じていたし、追加したい新曲を何曲か持っていた。しかしキンクスはそういったことを考慮するレコード会社との信頼関係を持っていなかった。10月初め、レイは特価としてVillage Greenのダブル・アルバム(詳細は分からないが18か19曲)をリリースすることをパイに提案したが、財政的理由からパイはこれを却下した。

同時にデイヴィスはパイによるアルバムのプロモーション失敗に失望していた。パイとしては、10月21日に最終的な15曲入りのヴァージョンが提出された時にも、依然キンクスをシングル・ヒット・グループとして考え、1曲2曲のヒットしそうな曲を入れるよう望んでいた。デイヴィスはその要求を完全に拒否したが。Village Green Preservation Societyがやっとリリースされたのは、こういった行き詰まりと孤立状態の期間の中であった。ほとんどプロモートもされず、アルバムの表面的な‘野暮ったさ’によって、これを聴いた少数の‘流行り物好き’によってすぐに退けられてしまった。

全く奇妙なことに、数ヶ月内にVillage Green Preservation Societyにリヴァイヴァルが起き始めた。「ヴェトナム戦争当時のアメリカのアンダーグラウンドにこのレコードがなじんだんだ」 レイ・デイヴィスはそう考えている。「平和運動と村のコミュニティ(village green)としての祖国を思う人々にとって、これはほとんど平和のスローガンみたいなものだった。誰もがつながりを持てるようなね。僕の場合、それが村の共同体(village green)なんだけど、それは人々が意識の中で通じ合えると僕が考える世界のことだ」 その年(1969)の終わりまでに、すでにピート・クエイフはいなかったものの、キンクスは新しいコンセプト・アルバム、Arthur Or The Decline And Fall Of The British Empireの成功に乗ってアメリカへ戻っていた。そのアルバムはローリング・ストーン紙で、グレイル・マーカスによって“1969年のベスト・ブリティッシュ・アルバム”として称賛された。しかし今回これはまた別の話だ。

「僕はこのアルバムでいっていることなんかじゃないと思うけど、人々の好きなイメージを呼び出すんだと思う」 デイヴィスはVillage Greenの感じさせる‘イングリッシュネス’と、人の注意をほかへそらす要素として彼が考えることをテーマに、モジョ誌に語っている。2004年春、彼は詳しく述べている。「つまりこういうことだ。これは僕たちが現実の世界から身を守るために、頭の中に作り上げた世界だ。逃避ではなくてね。でも君が仕事でストレスを感じたり、君の上に何か問題がふりかかった時に、君自身のヴィレッジ・グリーンを想い描けばいいってことなんだ。そう考えてくれればいいね」

35年を経て、レイ・デイヴィスはアルバムがカルト・ファンにのみ受け入れられる存在から、空前のクラシック作品へと遠い回り道をしたことについて思慮深く受け止めている。「人々が入るクラブみたいなものだ。‘君はヴィレッジ・グリーン協会のメンバーかい?’ってね。それは全て頭の中にあるんだ。あまり売れなかったのは素晴らしいことだと思う。これはラジオから流れてくることのなかったアルバムだ。でもいいアルバムだから、再評価されたのはすごくうれしいね。僕はこの内容について口達者にしゃべれる人間じゃないけど、たくさんの歌を書くことはできた。でももし君が落ち込んだら、ヴィレッジ・グリーンのことを考えればいいと思う。君自身のヴィレッジ・グリーンをね。これでいいかな?」

アンディ・ミラー、2004年5月


サンクチュアリのアンドリュー・サンドヴァル、ダグ・ヒンマン、ラッセル・スミス、ビル・オートン、ウィル・ニコル、ニック・ワトソンそしてジョン・リードに感謝する。

スペシャル・サンクス:レイ・デイヴィス、デイヴ・デイヴィス、ピート・クエイフ、ミック・エイヴォリー

Andy MillerはThe Kinks Are The Village Green Preservation Society(Continuum Books)の著者である。


1967年暮れから1968年暮れにかけて、キンクスは数多くの素晴らしいマテリアルをレコーディングした。何曲かはアルバム用、何曲かはそれ以外だ。Village Green村周辺の道を見つけるのは、キンクス・マニアたちが知っているように困難なことだ。そこで今回のThe Kinks Are The Village Green Preservation Society特別版の地図をここに示そう。

ディスク1にはオリジナルのマスターテープから新たにリマスターされた、アルバムのフル・ステレオ・ミックス及び、DaysとMr. Songbirdのステレオ・ミックス、そしてDo You Remember WalterとPeople Take Pictures of Each Otherのオルタナット・ステレオ・ミックスが入っている。最後の4曲は最初に回収されたアルバムのヴァージョンだ。あなたのCDプレーヤーで以下のようにうまくプログラミングすれば、オリジナルの12トラック版を作ることができる―1, 18, 3, 4, 14, 17, 9, 16, 13, 10, 11, 19の順だ。

ディスク2にはこれもオリジナルのテープからリマスターされたアルバムのモノ・ミックスに、Village Green期の他のマテリアルのオリジナル・シングル・モノ・ミックスが入っている。

1966年から1969年のマテリアルをさらに聴くことができるディスク3は、珍しいヴァージョンの貴重な宝のコレクションとして、まさに我々のVillage Green遺失物だ。多くは未発表、あるいは初CD化だ。Village Green期の1966年暮れからアルバムが完成したあとの1969年初頭までをカヴァーしている。くまなく捜しまわりながら楽しんでほしい。

キンクス研究家メモ:このスペシャル版に含まれるトラックのうち、LP用と考えられていたのが以下だ―Rosemary Rose, Mr. Songbird, Berkeley Mews, Polly, Wonderboy, Days, Misty Water, そして(うまくいけば)Lavender Hill。

さらに事をややこしくするのが、一般的にはキンクスのこの時期に関係するいくつかのトラックで、ここに収録されなかったものだ。DaysのB面だったShe’s Got Everythingは、リリース2年前の1966年2月にレコーディングされた。これはVillage Green制作に入るかなり前の時期に当たるため、今回省かれた。Picture In The Sandは1968年の春にレコーディングされ、アルバム用とされていたが、残念ながら今回のリイシューで手に入らなかった。最後に。When I Turn Off The Living Room LightとTill Death Us Do Partは、それぞれBBCテレビのWhere Was Spring?と、映画Till Death Us Do Partのプロジェクトのためにレコーディングされた。前者はサンクチュアリがリリースしたキンクスのBBC Session 1964-1977で聴くことができるが、後者は今回手に入らなかった。

レコーディング・セッションとデータに関するオリジナルのパイ・アーカイヴの多くは失われたか破棄された。我々の持つ情報は、大部分をダグ・ヒンマンの決定的キンクス・クロニクル本―The Kinks-All Day And All Of The Night (Backbeat Books, 2004)に負っている。そこには役立つレコーディング・データが豊富に載せられている。


ホームへ