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The Kinks/Muswell Hillbillies/2010 Sanctuary Records Group Ltd. 2738367



キンクス以外の者にとっては、彼らの1971年のアルバム、Muswell Hillbilliesは、絶望と憂うつを伴うきびしい教訓であり続けているのかもしれない。実際、このようなウィットとユーモア、音楽的な繊細さ、そして天武の才を感じさせる詞を誇れる他の彼らのレコードは存在しない。都市の再開発というあまり見込みのないテーマを選んだレイ・デイヴィスは、哀感とシニシズムを伴うかぐわしい風味ある歌を次々と書きおろした。

「僕はあのアルバムを誇りに思ってるね」 今日の彼はいう。「僕はキンクスが作った中でも素晴らしいレコードだと思う」 弟のデイヴ・デイヴィスも同意する。「僕はMuswell Hillbilliesが大好きだね。あれは本当に僕たちの幅を広げてくれた。本当に不思議なレコードなんだ。僕たちのロンドンの生い立ちにすごく根ざしていながら、あらゆる感情的な要素と多くの楽器編成が採用されている。アメリカン・ブルースのね。興味深い考えが本当にうまく調和しているんだ」

新たにRCAとレコード契約を果たし、キンクスのキャリアが新しい時代に入ったように、全てが魅惑的な達成感に包まれていた。60年代後半、バンドはすぐれたアルバム群―Something Else, Village Green Preservation Society, Arthur―を連続して発表したが、プロモートされただけで、時折事実上、彼らのレーベルであるパイ・レコーズと聴衆によって無視されていた。

しかし60年代の終わりまでには前進する手がかりがいくつかあった。米国音楽家連盟との長期にわたる論争は解決し、そのことによって4年ぶりにバンドがUSツアーを再開できるようになり、一方でシングル“Lola”は、英米での彼ら最大のヒット曲のひとつとなった。バンドはすぐに野心的なコンセプト・アルバム、Lola vs. Powerman & The Moneygoroundをリリースした。そのアルバムは、音楽業界の官僚支配に挑んだ彼らの個人的な闘いに分け入ったものだったが、またしてもパイはそれを軽視した。

今日レイは振り返り述べている―「僕はRCA自身が実際、何をほしがっていたか、あるいは何を手に入れようとしていたのか分かっていなかったと思う。彼らは何かもしかするとだけど、‘ザ・キンクス’っていうブランド・ネームをほしがっていたんじゃないかと思う。僕が実際に交渉に参加したのは初めてだったし、それは彼らにとって本当にうんざりするような頭痛の種だったんだ。でも僕たちはほしいものを手に入れた。僕たちにとって本当にいい契約だったね。彼らは僕たちをとても公正に扱ったから」

「それまでのキンクスの中でも賢いやり方だったね」 デイヴも同意する。「おかげで僕たちはよりアメリカの活動に集中することができた。それは僕たちが目指していたことだったんだ」

キンクスがどんなことをやるにせよ、RCAは彼らがすぐにクラシックとなるようなシングルを生み出すだろうと、当然のように考えていたのは間違いない。しかし“You Really Got Me”、“Waterloo Sunset”、そして“Lola”の作者は別の考えを持っていた。「僕は60年代によくはまっていたわなに、またはまることを恐れていた」 レイは説明する。「あの頃、僕らがアルバムを発表しても、レコード会社はシングルをプロモートするだけだった。それでMuswell Hillbilliesで僕は単に意図的なトップ40シングルを書きたくなかったんだ」

新しいレーベルでの最初の作品でキンクスが安全にふるまい、快適でコマーシャルなポップ・レコードをリリースするのは、彼らにとってたやすいことだったろう。しかしレイ・デイヴィスはRCAの期待に服従することを拒否した―「僕はよくよく自問自答した―‘僕は自分自身の実存主義的なレコードを作りたい。誰かが期待するものじゃなくて、自分が楽しんで書けるものを書きたいんだ。’ってね。僕たちは“Lola”で大ヒットを飛ばして、アメリカに活路を見いだしていた。状況は上向きになっていた。それで僕はMuswell Hillbilliesを作った。それは時計の針を数年戻すようなものだったと思う。それは人々が予想していたものは出さないっていう典型的なやり方だった。僕はそういうことをするのが大好きだった」

1971年8月、ニュー・アルバムのためのセッションが北ロンドン、ウィルズデンのモーガン・スタジオで始まった。レイはすでに20曲ほどのデモを用意し、最終的にそのうちの15曲がレコーディングされた。「本当に楽しい経験だった」 デイヴ・デイヴィスは思い出す。「セッションのあと、レイと僕はよく僕の家へ戻って、いっしょにテープを聴いて、次にやりたいアイデアを出し合っていた。本当に特別な時間だったんだ。多分その時がレイと僕がそういうことをしていた最後だったと思う」

アメリカでのキンクスのキャリアが復活したことによって、ある者は彼らがノース・ロンドンのルーツを装い、文化交差的な混成となった大西洋両岸のロック・アンセム的なアルバムを作り出すことを期待したかもしれない。しかしそれどころか、レイの指摘によればこうだ―「Muswell Hillbilliesは僕らの最高のワーキング・クラス・アルバムだった。キンクスについて覚えておかなきゃならないのは、僕らがグレイトなワーキング・クラス・バンドだったってことだ。僕らがロバート・ウェイスとグレンヴィル・コリンズにマネジメントされて60年代にスタートした時、彼らはアッパー・ミドル・クラス出身で、2つの階級は混ざり合って僕らは一心同体になったんだ。でも半年間でその月日は死んでしまった。70年代がやってくるまでに、イングランドの誰もがミドル・クラスになりたがっているように見えた。自分のルーツを示すことはクールじゃなくなったんだ」

キンクスのルーツ、とりわけデイヴィス兄弟のそれは、ノース・ロンドン地域にあった。そこは第2次世界大戦中、激しい爆心地となっていた。「僕の母親はバーンズベリー出身だった」 レイはいう。「僕の父親はエドモントン出身で、彼らはしばらくの間、イズリントンあたりに住んでいたと思う。でもその全地域が次第に再開発されるようになって、彼らはマスウェル・ヒルに出て行かなきゃならなくなった。そこはどこもかしこも空襲被災地域だった。他の場所では昔ながらの古い家があったけど、廃墟には新しい家が建てられた。地方委員会は明らかに全地域をいったん取り壊して、一から再建するのが手っ取り早いと考えていた。でも1つ問題があった。彼らは人々のことを忘れていた。それから彼らのスピリットと思い出だ。それがMuswell Hillbilliesを駆り立てている」

「60年代のアメリカのTVコメディで最も人気のあったひとつがベバリー・ヒルビリーズで、そこでは田舎の南部人一家が石油発掘で大金持ちになって、ハリウッド近隣の高級住宅地に引っ越すんだ。Muswell Hillbilliesの全体のアイデアはそこから来ている」 レイは笑う。「それはまるで僕の家族が突然大金持ちになって、5マイル北の裕福な郊外住宅地域に移住するようなものだったんだ。僕はTV番組のクレジットの向こうに映っているベバリー・ヒルビリーズと同じように、自分の母親と父親がトラックの荷台に全ての家財道具を載せているところを想像した」

デイヴィス一家のルーツは、アートワークに至る全てのプロジェクトに取り入れられていた。「ジャケットの写真はアーチウェイ・タヴァーン(パブの名称)の中で撮った」 レイは説明する。「当時はMuswell Hillbilliesの制作中で、僕たちは家族としてみんなで行ったんだ。実際、本当の家族としても最後の外出だった。僕はよく2人の姉と父親といっしょに木曜の晩にあそこへ行っていた。店は世界最悪のカントリー・アンド・ウェスタン・バンドを持っていた―アイリッシュ・バンドだった。アイルランド共和軍支持者がやって来て、ユニオン・ジャックを燃やす晩には行かなかったね」

オリジナル・アルバムの見開き部分には、戦時被爆区域に封鎖する波形の鉄柵の前にいるキンクスの写真が載せてあった。「あの辺りはたくさんの僕たちの親類が育った場所だった」 レイはいう。「全ては、彼らが寄宿舎生活をしていたノース・ロンドンを一掃したこの都市再開発のテーマと結びついていた」

それぞれの歌は、ジグソーパズルの小片のように全てがぴったりとあるべき所におさまっていた。アルバムはテクノロジーと近代化の情け容赦ない進行に反対する心からの抗議である叙事詩、“20th Century Man”で幕を開ける。「“20th Century Man”はその区域にいた最後の男で、彼は自分の古い家を取り壊すのに反対しているんだ」 レイはいう。「この歌を書いた時の僕のスタンスは、爆発物を持って自分自身と家をくくりつけているようなものだった。もしブルドーザーがとどめをさしにくるのなら、彼らは人間もろとも一掃しなきゃならない。やるかやられるかだ」

他のところで、レイは歌の中で自分の家族の経験を断片的に織り込んでいた。「“Uncle Son”、“Holloway Jail”、“Oklahoma USA”のようなトラックは、僕の両親の人生に実際に存在した人々についてだ。僕には本当にアンクル・サンがいたし、母親には小さい頃ロージー・ルックっていう友人がいた。彼女は“Muswell Hillbilly”の歌の中に出てくるキャラクターだ。“Have A Cuppa Tea”は僕のおばあちゃんについてだった。彼女はよぼよぼのゴッドマザーみたいだった。いっしょに座っていても彼女は何でも知っているんだ。子供、孫たち全員がどこにいるのかをね。それは彼女に備わった特権だった」

レコードの中で設定が一時的にノース・ロンドンからどこかへ移っても、その焦点は変わらなかった。一見、“Holiday”は都会の退屈な仕事、ストレスから逃れ、美観と息抜きのオアシスのことを歌った歌のように見える。しかしレイの詞が胸にぐさりとくるように、私たちは海が汚染され、太陽が輝きを拒んでいることに気づく。それでも偉大な英国のワーキング・クラスの伝統にのっとって、歌のキャラクターたちはとにかく自分たちの休日を楽しもうと決心する。

“20th Century Man”の拒否者と同じように、“Holiday”のメイン・キャラクターは進歩のための進歩には興味を持っていない。「彼はクラクトン(イングランド南東部)で最後のホリデイメーカー(休暇を取る人)だった。僕はそういう風に彼を見ていた。彼はズボンの裾をまくり上げて、頭にハンカチーフを巻いていた。実際、それは奇妙なんだけど。僕はこの歌をレコーディングする時、やる気が起こらなかったことを覚えている。たばこを口にくわえてピアノの前に座っていた。僕自身がホリデイメーカーみたいなものだった。でも多分それがこの歌のパフォーマンスをリアルにしていると思う」

レイの歌詞に漂うユーモアはアルバムに悲喜劇的な風味を添えていたし、それは同様にキンクスの音楽的な幅を広げる決心をうながした。Muswell Hillbilliesの中で陰うつな2曲である“Acute Schizophrenia Paranoia Blues”と“Alcohol”は、英国のトラッド・ジャズ・バンド、マイク・コットン・バンドのブラス・プレーヤーによるヴィンテージなニューオリンズ風フレーズによって、いくらかその陰うつさが和らげられている。

コットン、ジョン・ビーチャム、そしてアラン・ホームズは、BBCテレビ特番のためにキンクスへの参加を要請され、70年代初頭を通じてバンドの準メンバーとしてその役割を効果的に果たした。「僕はそういうパブでやるジャズみたいなのが大好きなんだ」 レイ・デイヴィスは認めている。「それで彼らにアルバムに参加してもらった。このサウンドを聴くと、僕はよく家族が集まって陽気なダンス・パーティーをやったことを思い出すんだ。トランペット・サウンドを作るために古いくしや紙を使ったりしてね。家族でやる最も基本的なタイプのジャズだ。奥の部屋でやるようなね」

多くのロック・アーチストたちが、自分たちの音楽に本物のリズム&ブルース風味を加えるために、メンフィス・ホーンズのような重厚なブラス・セクションを採用していた時に、キンクスは1920年代と30年代に立ち返ったサウンドを選んだ。「僕はまるでホーン・セクションが違う部屋で鳴っているかのようなサウンドにしたかった」 レイは笑う。「廊下に1本のマイクロフォンを立てて、バンドがトイレにいる感じだ。実際、僕はモーガン・スタジオでそういうことをした。ある1曲のために、僕はトイレの中にホーン隊を送り込んだ!」

「誰もがよりへヴィにトリッピーに向かっているような時期だった」 デイヴは回想する。「彼らはみんなステージに上がる前にマリファナを吸って、それから永遠に続くかのような退屈で長ったらしいクソみたいなソロをとるんだ。僕たちにはそういうのはしっくりこなかった」 レイも同意する―「ロックはすごくハイテクになって、モンスター級のレコード契約やセールスなんかが現れた時期だった。ビッグなロック・スターになってマディソン・スクエア・ガーデンでプレイして、プロモーターからダイアモンドの時計をもらって・・・っていうね。ぞっとするような時代だった。過剰な時代の始まりだった。Muswell Hillbilliesはそういうこと全てに逆らっていたんだ」

またこれは、彼らが特定のテーマを持ったアルバムを連続して制作することになる70年代の最初に、キンクスの議題を設定することになった。それらのアルバムはしばしば誤解されたが、結果的には彼らの傑作として認知されるようになった。1998年に振り返ったレイ・デイヴィスは、Lola vs. PowermanとMuswell Hillbilliesの差異を通して、いかに彼らの60年代の作品が70年代に発展していったかを、明確な考えを持って述べている。「“Lola”は2人のお人好しについての歌で、女装した男と無防備な男が、彼らを利用しようとする世界に入っていく。Muswell Hillbilliesは同じお人好しな側面も持っているけど、それは経験による学習なんだ。ルーツに戻るってことだ。それは街角の小さな家に住むことについてで、“Lola”の抽象的な概念上の闘いからきっぱり遠ざかって、現実の世界の中へ戻るってことだった。それでもMuswell Hillbilliesの人々は無邪気なんだけど、彼らは政府や役人なんかが彼らに対してやることに病的に疑い深いんだ」 これと同じパラノイア的感情は、続くデイヴィスの作品の数々―Preservationの大作シリーズから彼の“我流自伝”X-Rayまでに見られるとおりだ。

Muswell Hillbilliesは1971年11月24日にアメリカでリリースされ、2日後に英国でリリースされた。アルバムからのシングル・カットはなく、これはカルト的なステイタスを獲得することになった。「Muswell Hillbilliesは人々の目から見たキンクスに再度焦点を定めたんだ」 レイはいう。「僕は我が道を行って、やりたいことをやって、自分たちにとって価値あるものを引き出したバンドとしてのアルバムだと思っている」 以来、これはキンクスの声明として存在し続けている。

ピーター・ドゲット


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