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The Kinks/BBC Sessions 1964-1977/2001 Sanctuary Records Group Ltd SANTV010



おそらく20世紀後半のブリティッシュ・カルチャーの中で、キンクスとBBCよりも全く異なった視点を持った2つの象徴を見つけ出すのは難しいだろう。それはもちろんレイとデイヴ・デイヴィスの目を通したイングランド郊外の生活へのねじれた洞察と、BBCの一般的イメージである堅苦しい上流的姿勢と世界的な規範のことだ。それでもこの2つの奇妙なペアは断続的に30年間に渡って手を組み、注目すべき24のセッションを生み出してきた(デイヴ・デイヴィス抜きの2つの‘イン‐コンサート’含む)。最初のセッションは1964年9月7日にまでさかのぼり、最後は1994年10月8日の昼間のラジオでのライヴだった。このコレクションは全てのセッションから選ばれたわけではないが、それでも私たちにBBCの“キンキーな”宝石箱の中身を垣間見せてくれる。

ついにこれら“長らく所在不明だった”パフォーマンスの数々が初めて公式に姿を現わし、それはキンクスの同僚たちがすでに同じような形でリリースしたBBCコレクションと同等の位置につくことになった。このアンソロジーは単なる歴史的ドキュメントであるだけなく、当時公式にリリースされなかったトラック含むキンクスの20年余りのキャリアに、ユニークな洞察を与えてくれる。これら剥き出しのBBCレコーディングは、キンクスが演奏能力に欠けたバンドであったという神話を壊していく様子がとらえられている(そういった神話は部分的にレイ・デイヴィスによる発言「僕らがプロになったその日に僕らは骨抜きにされた」から間違いなく来ている。このコレクションは、実際キンクスが同時代のバンドたちと音楽的才能において全く同等であったことを、偽って伝えてきた神話があったことを明らかにしている。

またこれはパイのスタジオ・レコーディングに相対する興味深い比較対象としてのBBCレコーディングの数々だ。本質的に、BBCレコーディングは“リアルな”キンクスを見せてくれるし、より真実に近いバンド・サウンドを聞かせてくれる。多くの初期パイ・レコーディングで1つ覚えておかなければならないのは、キンクスがドラマーとしてボビー・グレアムやクレム・カッティーニのような様々なセッション・プレーヤーたちを使っていたことだ。この相違点は特に顕著だ。とりわけミック・エイヴォリーのドラミングは前述の“セッション・マン”たちとは対照的だ。まさに初期のマテリアルでは、セッション・ドラマーたちはより大胆で攻撃的であるし、BBCセッションではダビングや補強が施されなかったため、わずかに濃厚さには欠けている。「僕たちはバンドをまとめる時間がなかったんだ」とレイ・デイヴィスが指摘するように、BBCセッションのマテリアルはバンドの生の姿が表われている。

私たちは当時、非常に力の強い労働組合のあった保守的なBBCに対し、これらレコーディングの存在について感謝しなければならないが、それらレコーディングはBBC側とそれぞれの労働組合の間の協定によるものだった。しかしそれによって、BBC社内のエンジニアとミュージシャンたちの仕事を確保するために、キンクスらプロのバンドによる商業用レコーディングは極度に制限されていた(“needle time”((レコード放送番組の時間))と呼ばれていた)。この協定は、ロックンロール出現前、国のラジオでの主力商品がダンス・バンドと軽いオーケストラだった時に作られていた。ロックンロールの産みの苦しみがあったあとでさえ、BBCはその甘い汁を吸う体制を保持し続けた。ひょっとするとBBCはロックンロールは死産であり、その誕生を信じたくはなかったのかもしれない。実際、見たところBBCはロックンロールを疫病のごとく避けていた。BBCの答えは(リップ・サーヴィスのつもりで)ヒット・パレードのできの悪い無難な匿名のカヴァー・ヴァージョンを提供するというものだった。

電波に乗った“本物”の音楽を聴く唯一の手段は、ラジオ・ルクセンブルグにチューニングを合わせることだったが、放送時間は限られ、その反応は控えめにいっても冷淡なものだったことはよく知られている。Good Friday 1964とエセックス海岸からの最初の“ポップ海賊局”Radio Carolineが出現して初めて、英国国民は丸一日ポップ・ラジオ・ステーションを聞けるようになったが、限られた電波によってRadio Carolineは誰の耳にも届くわけではなかった。続く数ヶ月の間に、多くの沖合の海賊局がRadio Carolineに加わったが、ほとんどは電波が弱く同じような状況だった。1967年になると海上電波取締法が制定され、“海賊”たちは違法とされた。そして1967年9月30日、BBC Radio Oneが出現し、英国は本土中に届く24時間のポップ・ステーションを持つに至った。

1967年までは、ポップ・ミュージックに飢えた国民の大多数は、“The Joe Loss Pop Show”、“Top Gear”、“Saturday Club”のようなBBCの軽い番組にチューニングを合わせていた。そこではアーチストたちがBBC用にレコーディングしたパフォーマンスが流されていた。ブリティッシュ・ビート・ブームの全盛期に、これらの番組が巨大なオーディエンスを魅了したのは何ら不思議なことではない。そういった番組に出演することは、アーチストにとって重要なことであったにもかかわらず、彼らは平均3〜4時間セッションで4曲か5曲をレコーディングしても、名ばかりの報酬しか与えられなかった。これらセッションは何ら安全策なしでレコーディングされていた―ほとんどがワンテイクで録られ、必要最小限のオーヴァーダブで済まされた。当時の商業用レコーディング・スタジオに比べれば、BBCの設備はいくらか原始的なものだったと思われるが、しかしそのことが逆に魅力を加えることにつながっていた。

だが確かに、BBCが軽率に蓄積したものが、どれほど歴史的なアーカイヴであったかは誰も分かっていなかったに違いない。この巨大な株式会社自身でさえ、マスター・テープのほとんどが紛失あるいは消去されたことを把握していなかったのである。私たちが測り知れない価値のあるアーカイヴを保存してくれたことに感謝しなければならないのが、録音放送/独立局の放送のサーヴィス機関だ。それら多くのレコーディングは、海外向けの放送のために、毎週“Top Of The Pops”(同名のTV番組とは別)という様々なアーチストのためのラジオ番組用に編集されていた。

このタイプのアンソロジーをまとめるのは簡単なことではない。以前BBC自身が述べたように、少なくとも70年代半ばに至るまで、彼らは自分たちの持つ貴重なアーカイヴに対してちゃんと管理をしてこなかったのである。このアンソロジーの制作過程においては、いくつかの難しい決断をしなければならなかった。いくつかの重要なセッションはどうしても見つからなかった。また時には見つかりそうもないレコーディングが見つかっても、音質の問題によりここに収録することができなかった。いくつかのキンクスのかなめのレコーディングは、残念ながらこのアンソロジーから漏れてしまった。しかしここに収められたものは、キンクスとBBCの奇妙な混合物として、全く公正に描写されている。

通常、BBCセッションを獲得しようとする“新人”アーチストは、審査員たちの前でオーディションを受けなければならなかった。彼らの生み出す音楽が、国民の耳にふさわしいものかどうかを見極めるために!多数の好意的評決が下された時にのみ、そのアーチストはBBCで継続的に働くことができた。しかしながら、‘You Really Got Me’がチャートをあまりに急上昇したことによって、このうかがい知れない慣習は棚上げにされた。最初のセッションは検討のために、試験的なものとして許可された。もちろんキンクスはとんとん拍子にいったが、実際、彼らがオーディションにパスしたかどうかは全く知らされなかった!

‘You Really Got Me’がヒット・パレードのナンバー1に向けてばく進する中、キンクスは1964年9月19日の“Saturday Club”の一部で放送するために、9月7日にプレイハウス・シアターでBBCのための最初のセッションをレコーディングした。人生の大きな皮肉のひとつとして、この時のセッションは‘You Really Got Me’がナンバー1になった時にオンエアされた。このセッションでレコーディングされた4曲のうち3曲が今日まで生き残り、2曲がここに収録された。ギターのオーヴァードライヴ・サウンド(電気的増幅が施された)によるキンクスの独創性に富んだ作品‘You Really Got Me’に加えられるのが、ボ・ディドリーのカヴァーである‘Cadillac’の白人パンク野郎ヴァージョンだ。‘Cadillac’は当時レコーディングされていたデビュー・アルバム、Kinksに収録されることになっていた。

ここに収められている‘You Really Got Me’は、1964年10月終わりのセッションからだ。初期のパイ・レコーディングでのボビー・グレアムによる、より攻撃的で大胆なドラミングがミック・エイヴォリーの抑え目な初期のスタイルを凌駕し、BBCでのプレッシャーをかけられた危なっかしいヴォーカルがスタジオ版では注意深くバッキング・ヴォーカルによってぜい沢にオーヴァーダブされている点を除けば、ヘヴィ・メタル発明者としてのキンクスの初期のサウンドは、ここでの最初の2枚のヒット・シングル(‘You Really Got Me’と‘All Day And All Of The Night’のこと)で本質的にそのまま表われている。

‘You Really Got Me’にまつわるインタビューの中で、ブライアン・マシューがキンクスのことを“もじゃもじゃ軍団の5人の代表”と紹介し(ひょっとすると、のちにデイヴィス夫人となるラサ・ディーペトリスがバッキング・ヴォーカルとしてそこにいたことをほのめかしているのかもしれない)、ピート・クエイフが自分の長い眉毛について皮肉っぽく反応していることに注意してみよう!しかし本当に印象的なのは、インタビューを通じてグループの寿命に関してレイ・デイヴィスがかもし出す確信に満ちた悟りきった様子だ。レイは明らかに自分のキャリアが次の世紀にまで続いていくことは考えていなかっただろう!

残念なことに、2回目と3回目のセッションの中身は現存していない。これらのセッションは、当時キンクスがステージで取り上げていたカヴァーを中心に組み立てられていた。例えばキンクスがレコーディングしなかったチャック・ベリーの‘Bye Bye Johnny’などのナンバーがフィーチャーされていたことが分かっている。しかし不幸にも、この回のユニークなBBCセッションは全て跡形もなく消去されたと考えられている。

4回目のセッションでは会場を変え、バンドはピカディリー・シアターに向かった。このセッションはよりソフトなナンバーを含み、最初の音楽的方向性の変化がとらえられている。しかしながら、ここで強く注意を引きつけるのは、キンクス・スタイルの大胆なヘヴィ・メタルの原型であり2枚目の世界的ヒットとなった‘All Day And All Of The Night’だ。「‘All Day…’は全くのFMロックだ。その言葉が発明される前にBBCの弱い電波に乗って流されたんだけど!」 このレイ・デイヴィスの主張を補強するのがこのヴァージョンだ。

5回目のセッションはおそらくオーディエンスを招待しての放送だったが、あるいは録音さえされなかったかもしれない。6回目のセッション(1965年4月、BBCの名高いマイダ・ヴェイル・スタジオでのレコーディング)もまた、最近まで失われたと考えられていた。このセッションは当時のニュー・シングル、‘Ev’rybody’s Gonna Be Happy’とセカンドLPのKinda Kinksからの数曲を含んでいた。また同セッションでは3枚目のヒット・シングル、‘Tired Of Waiting For You’のスタジオでのリハーサルが含まれていると考えられている。この時のセッションまでに、キンクスは英国のグループとしてストーンズ、ビートルズに次ぐ名声を確立していた。

‘Ev’rybody’s…’のBBCヴァージョンは、オリジナルのパイ録音(バンドがスタジオでレコーディングした時にメンバーが覚えた曲!)を凌ぐ決定的な鋭さを持っている。そのヴァージョンはここに収められ、ライヴでくり返しプレイされてきたことを物語っている。“オリジナル”よりもさらにルーズでエネルギッシュだ。あるいはキンクスが求めていたタムラ・モータウン・サウンドに、より近いかもしれない。

以前のセッションとは対照的に、8月6日にエオリアン・ホールでレコーディングされた6曲のトラックとそれに添えられたレイ・デイヴィスのインタビューは、後世に伝えるべく録音された。このセッションはキンクスのスペシャル番組‘You Really Got Me…’の一部として、1965年のオーガスト・バンク・ホリデイに放送された。このセッションは間違いなく、初期のバンドのキャリアのターニング・ポイントがとらえられている―草分け的な‘See My Friends’のことだ。この曲の鮮明さは、パイ録音のそれ(いくらかヒス・ノイズがあった)を凌いでいることに注意して聞いてみよう。またこの時のセッションではさらに、キンクスのマイナー・クラシックとして知られる‘This Strange Effect’が生まれた。これはデイヴ・ベイリーによって、ヨーロッパ大陸中で大ヒットとなった。

一週間以内にキンクスはBBCのスタジオに戻った。今回はSaturday Clubのためのセッションで、場所はプレイハウス・シアターだった。この時のレコーディングで注目すべきは、キンクスが当時のほとんどのステージでエネルギッシュにプレイしていた“スリーピー”ジョン・エステスのカヴァー、‘Milk Cow Blues’だ。‘See My Friends’は依然チャート上での成功を続け、再びここで取り上げられた。それに加えられるのが、セカンド・アルバム、Kinda Kinks収録のビート・ナンバー、‘Wonder Where My Baby Is Tonight’だ。

キンクスは12月13日に再びプレイハウス・シアターに戻った。ここでは多くの注目すべき事項があった。まず完全に自作のトラックをフィーチャーした最初のセッションだったことと、バンドが1年以内にBBCのためにレコーディングしたのが8回目にもなっていたということだ。それはグループに桁外れな仕事量が降りかかっていたことを暗示している。またこのBBCセッションは彼らが始めてから1年半目に当たるものだった。ここでのハイライトは間違いなくシングルB面の傑作、‘Where Have All The Good Times Gone’と当時のヒット・シングル、‘Till The End Of The Day’、そしてサード・アルバムKink Kontroversy収録のデイヴ・デイヴィス・ナンバー、‘I Am Free’だ。どうやらこのナンバーのみ放送されることのなかったレコーディングらしい。

このセッションはバンドのキャリアの第1段階として、多かれ少なかれ明確な1つの区切りとなった。キンクスはレイ・デイヴィスの顕著になっていた美しいヴォードヴィル調ナンバーに重きを置き、R&Bナンバーを控えるようになっていた。4枚目のアルバム、Face To Faceがこの方向性をフルに示したものとなり、続く67年のLP、Something Elseでレイ・デイヴィスは観察眼的なソングライティングの技術を完全にみがき上げていた。キンクスがバンドの成長期に当たるこの重大な時期に、BBCスタジオへ頻繁に向かわなかった理由は推測に頼るしかない。

しかしこのコレクションが示すとおり、その欠落によって逆に目を引くものがあり、また不可解なことでもある。とりわけその理由として、この時期、キンクスはアメリカから“締め出し”を食らい、彼らは国内とヨーロッパのマーケットに専念せざるを得なかったため、BBCへの出演はこの重大事には控えめに言っても有用なものだったのではないかということだ。ひょっとすると、バンドの最初の商業的衰退において、これは助けとなる要素だったのかもしれない。皮肉にもアーチスト的なキンクスのレベルは絶頂期に達していたが。1967年10月のセッションからは、アルバムSomething Elseからの風変わりな1曲、わくわくするような合唱歌、“Harry Rag”を収録した。

次にキンクスは1967年8月にBBCラジオのスタジオに入ったが、それは間違いなくデイヴの‘Death Of A Clown’がチャートを急上昇したことによるものだった。デイヴはここで忠実に再現している。8月14日のセッションの本物のお宝は、ブルースマン、ジョン“スパイダー”コーナーの‘Good Luck Child’のデイヴによるカヴァー・ヴァージョンだ。デイヴは歌詞を変え、タイトルを‘Good Luck Charm’と変えているが、おそらくこのナンバーは彼が1967年のソロ・アルバムに収録しようと考えていたものだろう。この時期にキンクスよりも多くのレコーディングを行なったアーチストはほとんどいない。キンクスは10年の間に14枚のアルバムと30枚のシングルを作った。

デイヴ・デイヴィスはここでのインタビューで、キンクスがスタジオでいかに忙しく働いていたかをほのめかしている。「次のキンクスのシングルは100曲のうちから選ばれることになるよ」 彼は述べている。それはキンクスが当時いかに多くの作品を生み出していたかを示す発言だ。このセッションで注目すべきは、キンクスの非公式な5人目のメンバーであるニッキー・ホプキンズの参加だ。彼はいつものように鍵盤を叩いている。ホプキンズは1965年以来、キンクスのレコードでプレイしてきたが、これがグループと共に参加した初めてのBBCセッションだった。彼は1968年の夏を通じて、バンドと共に定期的にBBCスタジオに入ることになった。

12回目のBBCセッションは、1968年7月1日にピカディリー・スタジオで始まった。キンクスはBBCのために遅きに失した彼らのトレードマーク・ヒットのレコーディングを行なった。このセッションがレコーディングされた時、‘Waterloo Sunset’がヒットしてから1年以上が経過していた。しかし興味深いことに、ここではパイのヴァージョンにはないニッキー・ホプキンズのピアノ・パートがフィーチャーされている。このセッションからの傑出したナンバーが、デイヴの‘Love Me ‘Til The Sun Shines’だ。ミック・エイヴォリーのいかしたドラム・ブレイクと、ポップ感覚あふれたガレージ・パンク風なオルガンによるゴージャスな装飾が加えられている。これはキンクスが、より“ミュージック・ホール”的な作品を開拓していたことで知られる頃のものだ。しかしキンクスは60sパンク全盛期のスタンデルズのようなバンドと互角に渡り合えることを一気に証明してみせた。そして素晴らしくユニークでリラックスしたヴァージョンの‘Days’がこのセッションを締めくくっている。これは‘Monica’の独特なヴァージョンとはチグハグな印象だ。‘Monica’は14回目のセッションで、LP、Village Green Preservation Societyの公式リリース約4ヶ月前にレコーディングされた。

60年代が終焉に向かうにつれて、限定的な“needle time”(レコード放送番組の時間)の慣行はゆっくりと衰退していくことになった。これは間違いなく、1967年9月にBBC自身が着手したポップ・ステーション、Radio Oneによるものだった。これとほぼ時を同じくして、レコーディング・アーチストたちはシンプルなオーヴァーダブと既存のレコーディングの単なるリミックスを好み、特定のトラックをBBCのために再録することに嫌気が差し始めていた。これは“当て振り”を禁止するミュージシャンズ・ユニオン周辺に企てられた“策略”だった。

次にキンクスがBBCスタジオに入ったのは、Village Green Preservation Societyがリリースされた週だった。この1968年11月のセッションは、もっぱらその傑作アルバムからのトラックがフィーチャーされている。そしてタイトル・トラックのみが新たにレコーディングされた(残りはパイ録音のオーヴァーダブ/リミックス・ヴァージョン)。‘Village Green Preservation Society’のBBCレコーディングは、この傑作への新しい側面を提供している。アルバムでのニッキー・ホプキンズとは対照的なレイのピアノ・ワークに注意してみよう。それはデイヴのギターへの驚くべきカウンターパートであり、キンクスの天才ぶりを示すものだ!このセッションに付随するレイ・デイヴィスのインタビューは実に独特なものだ。その中で、レイはキンクスの数ある不朽の名作のうちの1枚に関するコンセプトを率直に語っている。

ソングライティングの才能を開花させていたレイ・デイヴィスは、BBC TVシリーズ、At The 11th Hourのプロデューサーの目に留まることになった。当時そのシリーズは、“コメディ、詩、大衆音楽を融合した実験作品”として試みられていた。番組は1967年12月から1968年3月まで放映された。レイは10シリーズのうち9つのために曲を書いた。これはレイにとって“依頼曲”として書いた初の体験だった。当時彼は、新聞の見出しからインスピレーションを引き出し、締め切りのプレッシャーを楽しんでいたと発言している。‘Did You See His Name’は、ジーニー・ラムによってオーケストラ・アレンジ付きで番組の中で歌われた。ここに収められたヴァージョンは、1968年の春にレコーディングされた。キンクスはおそらくこれを自分たちでもレコーディングするほど気に入り、その価値のあるナンバーだと考えていたのだろう。確かにこの曲はこの時期に公式リリースされた他のどんな曲にも並ぶほどの出来だ。

1968年暮れ、ネッド・シェリンは彼がプロデュースした映画、レズリー・トーマスのベストセラー小説、The Virgin Soldiersの配役として出演しないかとレイにオファーした。レイはそのタイトル・ミュージック(‘The Virgin Soldier March’)を提供することを提案し、その申し出を断った。その結果、レイはシェリンのプロデュースしたBBCテレビの風刺番組、Where Was Springのために音楽を提供することになった。レイは1969年1〜2月に放映された6つの番組のために5曲を書き下ろし、そのうちの1曲が、Where I Turn Out The Living Room Lightだった。キンクスは番組のためにこれらの曲をレコーディングしたが、音楽のみがテレビで流された。彼らは出演しなかったが、その音楽はクラウス・フォアマンによる短編漫画に使用された。

気をもませるかのように、2曲がレイ・デイヴィスのソロ・アルバム(The Songs I Sang Auntie/The Ray Davies Song Book)にフィーチャーされる予定になっていた。確かにレイは様々なテレビの企画のために書いた曲をまとめ、再レコーディングする準備をしていたが、残念ながらこの計画は実現しなかった。

BBCのための続く3つのセッションは、1969年4月、1969年12月、1970年5月に行なわれたが、多くはスタジオ・ヴァージョンの少しのリミックスだった。そんなわけでそれらはこのコレクションには含まれていない。興味深いものとはいえ、これらBBCレコーディングの数々はダイナミクスに欠けている。しかしそのことが初期のBBCヴァージョンを魅力的なものにしていることは事実だ。これらのセッションの中で間違いなくハイライトといえるのが、全くの生レコーディングであるパワーあふれるデイヴの‘Mindless Child Of Motherhood’だろう。なぜこのB面の傑作ナンバーのみが完全に再録されるのがふさわしいと考えられたかは、はっきりしない。しかしここで聞けるハードなサウンドは、当時バンドがコンサートで見せていた成長ぶりを思わせてくれるものだ。とりわけ1969年暮れから1970年初頭の間は、アメリカ・ツアーが復活した期間だった。ここでのヘヴィなスタイルは、キンクスの次のLP、The Kinks Part One : Lola versus Powerman And The Moneygoroundのサウンドがはっきりと表われている。

この時期のキンクスのBBCレコーディングは、より断続的なものとなった。間違いなく、それはグループがアメリカへ再度、目を向ける選択をしたことを反映している。1965年暮れから1969年初頭まで、彼らはプロらしくない不品行によって、残酷にもアメリカ・ツアーを禁じられていたからだ!

キンクスは伝説的なBBCのDJ、ジョン・ピールの2つのセッションのために、大きなUSツアー・スケジュールの時間を割いた。最初のセッションが1972年3月で、それは当時のシングル、‘Supersonic Rocket Ship’のリリースと同時に行なわれた。奇妙なことに、‘Supersonic…’のヴァージョンはレコード・ヴァージョンの使いまわしだったが、バンドは前年の好評のLP、Muswell Hillbilliesから3曲を完全に再レコーディングした。そのアルバムのプロモーションは大部分USマーケットに焦点を当てていたため、LPはバンドの故国ではほとんど無視されていた。ひょっとすると、UKでMuswellsを売り込むのに、これがよい機会だと考えられていたのかもしれない。ここに収められている‘Skin & Bone’と‘Holiday’には、多くのコンサート活動によって得た自信がにじみ出ている。The Mike Cotton Soundのホーン・セクションは、USのMuswell Hillbilliesツアーの後半に参加したが、彼らはこのコレクションの中で傑出したプレイを聞かせてくれる。Mike Cotton Soundはこの段階で自らのアイデンティティと高い自律性を保持し、その時のコンサートで実際、そのように紹介されているところが興味深い。皮肉にも、この唯一のセッションでマイク・コットン自身は不在で、代わりにマイケル・ローゼンがプレイしているが。

2度目のピール・セッションは1974年6月に行なわれ、今回はPreservation Act 兇UKリリースに合わされた。キンクスはPreservationからの“尖った”3曲(1曲はPreservation Act 気ら、2曲はPreservation Act 兇ら)をプレイしている。この時のセッションまでに、キンクスはラインナップを大きく拡張し、3人組のホーン隊と2人の女性バッキング・シンガーを加えていた。これら補強されたミュージシャンたちは、このセッションで証明されているように、キンクスのサウンドに驚くべき効果をもたらした。前回のセッションとは違い、ホーン・セクションは自分たちのアイデンティティを脇へ置き、単なるキンクスの一部として機能している。ここにフィーチャーされている‘Money Talks’と‘Demolition’は、キンクスの新しい方向性をうまく示している。

数日後、キンクスはBBCのマイク・スタンドの前へ戻った。今回はゴールダーズ・グリーン劇場での総がかりだった。70年代初頭のアーチストたちの一部は、ライヴ・コンサートをそれ自体が1つのアートとしてみなすようになっていた。BBCスペシャルの“イン‐コンサート”のオファーは、そういうものとして、より快く受け入れられるようになった。そこへのキンクスの最初の進出は、特別にBBCラジオのオーディエンスが招かれ、前述の会場で1974年7月14日に行なわれた。この時のコンサートはグレイトなタイム・カプセルとなり、1974年頃のキンクスのライヴ・サウンドを代表するものとなった(BBCコンサートがいつもそうなるとは限らない)。このショーはここに収められている6曲のように、真に素晴らしい瞬間を生み出した。ショーの幕開けを飾る‘Victoria’が、キンクスの大きく幅を広げたサウンドを象徴している。とりわけホーン・セクションがコーラスを叩き出す部分にそれが顕著に表れている。

この時期のキンクス・ショーでオープニングとして定番だった‘Here Comes Yet Another Day’(アルバムEverybody’s In Showbizに収録)は“二番手”に甘んじた。当然のことながら、グループの当時の最新アルバム、Preservation Act 兇ら何曲かが同様にプレイされた。“イン‐コンサート”でのお気に入りであった‘Money Talks’と当時の最新シングル、“ホンキー・トンク”スタイルの‘Mirror Of Love’は、Preservation Act 兇はるかに明暗をくっきりと浮かび上がらせたアルバムであり、当時の批評家たちが評したよりも、はるかに素晴らしいアルバムであることを証明している。失われた傑作、‘Celluloid Heroes’は、常にキンクス・ショーのハイライトであり、ここでバンドが堂々と示している通り、失望させることなく、‘ヒットするはずだった’決定的ヴァージョンとなっている。

アルバムMuswell Hillbilliesは、70年代を通じてのキンクスのライヴで切っても切れない2曲を生み出した。‘Alcohol’(残念ながら不思議なことにこのコンサートではプレイされなかった)と‘Skin And Bones/Dry Bones’だ。後者はここで見事なロング・ヴァージョンとなって収録されている。これを初期のピール・セッションでのヴァージョンと比べてみれば、数年の間にいかに発展してきたかが分かるだろう。

キンクスが再びBBCによるコンサートに戻ってくるまでに3年の月日が流れた。この時期、バンドは名高いOld Grey Whistle Test、1977年のクリスマス・イヴ・コンサートのSight and Sound、Radio 1とBBC 2 TVのためのライヴを行なっていた。この放映はご機嫌なキンクスをとらえていた。それはちょうど大きなUSツアー・スケジュールの裏でオフを取っているかのようだった(1977年のアルバム、Sleepwalkerは、キンクスが長い間“失っていた”USのオーディエンスを再び獲得するための大きな任務を帯びていた)。そこでは古いナンバーと共に、Sleepwalkerのハイライト・ナンバーがプレイされた。真のキンクスの伝統芸として、彼らはその祭典を可笑しなほどオーバーに演じ、キラキラ輝く皇太子の衣装でプレイした!おそらくこのコレクションの締めとして、世界中の敗者へ向けた賛歌であり、めったにプレイされなかった‘Get Back In The Line’の見事な再録ヴァージョンよりもふさわしいものはないだろう。そこでは、過小評価されたデイヴ・デイヴィスのギター・ワークによって終わっている。キンクスはこのコンサートで、パーカッショニストのレイ・クーパー(エルトン・ディーンとの競演で知られる)と、未来のChildren’s TVの司会者キム・グッディーをバッキング・ヴォーカルとして起用していた。このトラックではレイ、デイヴ、ジョン・ゴスリングのみであるが。

このアンソロジーはここできちんと線を引こう、なぜならキンクスが名だたるBBCのマイクの前に立つまでにさらに17年間もの歳月が流れたからだ(それはほとんど別のストーリーだから!)。ザ・キンクスは“約束の地”(アメリカ)での大きな成功によって、混乱の年月を送った。大ベストセラー・アルバムの数々(Low BudgetからWord Of Mouthに至る)と、その成功による必然的な大きなツアー・スケジュールによって。

誰がこの2つの正反対の英国名物が、長きに渡って実りある協同関係を保っていくことを考えただろうか?そんな奴はいないって?間違いない!このBBCのキンキー・クローゼットの中身をチラッと垣間見て楽しんでくれればと願う!全ては英国一の2つの無類の存在を楽しむために残されたものだ。

ラッセル・スミス (2001年1月)


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