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The Kelly Brothers/Sanctified Southern Soul/1996 Excello Records CDKEND 137



ケリー・ブラザースは1948年シカゴで結成された。ビショップ・ウィリアム・アディアーがミシシッピのシェルビー出身の3人兄弟、アンドリュー(バリトン)、ロバート(テナー)、カーティス・ケリー(ハイ・テナー)を見出したことから始まった。これにミシシッピ、ヘルナンドの住人だったオーフェ・リース(テナー)を加えてスピリチュアル・グループ結成に乗り出したのだった。グループは数年間地元の教会で歌い、1954年アート・シェリダンのチャンス・レコードからゴスペル・シングルを出すことになった。しかしシェリダンはリリースを見合わせたため、グループはブレイクの機会を逃したのだった。

ケリー・ブラザースは1955年頃、C.H.ブリューワーの小さなレーベルから‘God Said He Is Coming Back Again’という曲をリリースした。新メンバーにT.C.‘チャールズ’リーも加わっていた。この時までにリースがビショップ・アディアーに代わりマネージャーも兼任していた。ブリューワーのリリースはグループの自費出版だったため、まだブレイクすることはなかった。翌年グループは本格的なレーベル、ヴィー・ジェイからレコードを出したが、彼らの過去のキャリアからヴィー・ジェイはほとんどグループに注意を払わなかった。リースはやっとリリースに漕ぎつけたのだと会社に報告していたため足元を見られたようだ。そしてグループはナッシュビルに行き、ナッシュボロ・レコードでレコーディングを行った。1957年と1959年で出したシングルではベースパートのリロイ・ギルバートをフィーチャーしていたが、彼の存在は6人のグループがまとまらない原因となっていた。

1960年、グループはフェデラル・レーベルに移った。それはシンシナティに拠点を置いたキング・レコードのシカゴ支社であった。続く2年彼らは7枚のゴスペル・シングルと1枚のアルバムを、ソニー・トンプソン傘下のプロダクションから発表した。最初のリリース‘I’ve Been Striving So Long’は大ヒットとなった。彼らはたちまち有名になった。リーは言う。“いろんな人たちと歌ったね。クララ・ワード・シンガーズ、ソウル・スターラーズ、ディキシー・ハミングバーズ、ザ・マイティ・クラウズ・オブ・ジョイなど誰とでもね。全国を回ったよ。” しかし状況が変わった。サム・クックはゴスペルから転向し、1957年にはショービジネスの世界で大成功していた。そしてケリー・ブラザースも1963年世俗音楽としてのシングルを出すことになった。R&Bグループとして名前をキング・ピンズに変えた。これは親会社のキング・レコードにもフィットしていた。セカンドシングル‘It Won’t Be This Way Always’は1963年トップR&Bヒットとなった。しかしキング・ピンズとしては7枚のうちの1曲だけのヒットに終わった。キング・レコードはいつもアルバムを出したがっていた―R&Bはシングル市場だったのにもかかわらず―そしてキング・ピンズのアルバムが1枚発表された。

1964年シカゴのフェデラルは営業を停止し、キング・ピンズはナッシュビル拠点のシムズ・レーベルに移った。そこはラッセルとキャロル夫婦によるレーベルだった。グループは元のケリー・ブラザースに名前を戻した。シムズで1964〜1967年まで彼らは11枚のシングルとアルバム‘Too Much Soul’を発表した。ほとんどの曲はロバート、カーティス・ケリー作でマッスルショ−ルズのフェイム・スタジオとナッシュビルのナッシュボロ・レコードが指揮するウッドランド・スタジオで録られた。グループはカーティス・ケリー作の‘Comin’ On You’とT.C.リー作の‘Time Has Made Me Change’の素晴らしいシングルでレーベル・デビューを飾った。これは若干フェデラル時代を思わせるゴスペル・ルーツがあり、少しだけメインストリームの当時のポップな面も反映していた。後のシングルはよりディープにサザンマナーになっていくが、このファーストシングルは続くいくつかのシングル同様それほどのヒットにはならなかった。

最初の2年間は基本的にグループは現状を維持していた。しかしベテラン・プロデューサーのナッシュビル出身、ボブ・ホームズが彼らに就いた時マジックが起こり始めた。ホームズは正統音楽教育を受け、デューク・エリントン楽団にも在籍していたことがあった。また映画の脚本もいくつか書いていたし、西洋の堅苦しい音楽の世界に挑んだ唯一の黒人であった。最初の成果は1966年初頭の‘Falling In Love Again’のR&Bチャートでの成功だった。マイナーヒットではあったが、39位で3週間圏内にとどまり、北部の町では手堅い売れ行きを示した。リースによるとシカゴだけで6万枚は売れたそうだ。‘Falling…’はサザンナンバーで、歌に入る前のイントロのギターがいい味を出している。‘You’re That Great Big Feelin’’もよい出来で、これはトミー・タッカーの‘Hi-Heel Sneaker’を借用している。続いてグループは‘Make Me Glad’と‘I’d Rather Have You’という素晴らしいシングルを発表した。‘Make…’はゆったりしたミドルテンポでナショナルチャートに食い込んだ。‘I’d Rather…’はJBのリフを借りたナンバーでこれは効果的だった。

その直後グループはダラスに飛び、‘The!!!Beat’というTV番組に出演した。それはナッシュビルのWLACのDJホセ・アレンが司会を務める番組だった。出演したのはグループの3人にリースとギタリストのディラード・クラムだった。彼らは2回のショウで4曲歌った。最初のショウではバーバラ・リンとシカゴの仲間、ブルースマンのマイティ・ジョー・ヤングで彼らはグループのヒット曲‘Falling In Love Again’と‘I’d Rather Have You’を歌った。パリッとした洒落た金色がかった茶色のスーツでステップを踏む彼らは、テンプテーションズさえも羨むほどだったという。ケリー・ブラザースはTV出演よって大きく印象付けられた。番組のエンディングも出演者全員参加となってグループの歌う‘Amen’によって劇的に締めるという栄誉が与えられた。2回目は再びバーバラ・リンとトリのジョー・テックスとの共演となり、抜群の‘Make Me Glad’と‘You’re That Great Big Feelin’’の熱唱となった。

ホームズのホーンの使い方は素晴らしい。グループはムーディなサザンバラッド‘If That Will Hold You’を1967年にヒットさせた。1966〜7年にかけてのグループの成功は経験を積むためのよい機会となった。ロバート、カーティス・ケリーはフェデラル時代は多作のソングライターチームではなかったが、シムズでは次々と作品を書くようになり、それらはホームズによってスタジオで素晴らしい成果となった。さらに彼らはリードシンガーを二人持っていた。バラッドはカーティス、アップテンポ・ナンバーはロバートである。フェデラル時代はリーとリースがほとんどリード・ヴォーカルをとっていたが、シムズではロバートとカーティスが取るようになった。グループがナッシュビルのホームズのところへ歌いに来たとき、ホームズはまず歌を録音し、アレンジを書いていた。普通南部のスタジオでのR&Bのレコーディングではヘッドアレンジが一般的であったのとは対照的である。彼は素晴らしいホーンとギターのアレンジ用意し、ウッドランドスタジオのミュージシャンに曲を持ってくる前にリハーサルに必要な時間を充分にとっていた。

“ケリー・ブラザースは本当に仕事をやりやすいグループだったね。”ホームズは言う。“彼らは大ヒットを望んでた。他のアーティスト同様、自分たちを証明したかったんだ。そしていいソングライターチームだった。思うにゴスペルの背景が曲作りとそのリフレインにはあるね。多くの曲はリフレインが何度も出てくる。それは彼らの最大の持ち味で、簡単に曲にすることができる理由だったんだ。”ミュージシャンにも何人かソングライティングに関わっていた。ロバート・ケリーはギターも弾いたし、二人のゴスペル系ミュージシャンもいた。ディラード(G)とルーファス(B)兄弟で、シムズでは多くの曲にクレジットされている。ルーツにはゴスペルがあった。“僕はほとんどケリー・ブラザースのような教会出身のグループに感銘を受けていた。”ホームズは言う。“他のR&Bアーティストよりうまくいくチャンスがあったよ。なぜなら彼らに向かって石を投げるような連中じゃない聴衆の前で、上達する機会が彼らにはあったから。そういう集団が彼らを励ますことになって一生懸命になるし、スタジオでいろんな実験をするチャンスも生まれるんだ。それが自然にできないグループと違って、彼らのような教会出身グループは確かなコード上で実験ができるんだよ。例えばコード上でフラットセヴンスを使って4度上げるとかね。教会出身グループはそれがうまくできるんだ。“

1967年暮れ、グループは最高のシングル、南部的な‘You Put Your Touch In Me(オーティス・レディングのようだ)’とアップテンポの‘Hangin’ On Me(ジョー・テックスのようだ)’を発表する。これは素晴らしかったが、ほとんどヒットしなかった。なぜならラッセルとキャロル・シムズがレーベルを閉鎖する手続きに入っていたためだ。リースは言う。“ラッセル・シムズは僕らによくしてくれたよ。でも資金不足だといってた。それで僕らをプッシュできないから誰かにレーベルを売るつもりだといってたよ。” シムズは複数の会社に身売りした。1967年にナッシュボロはケリー・ブラザースのシムズのカタログを買上げ、エクセロ・レーベルからリリースを始めた。‘Sweet Soul’がそれであった。ジャケットにはグループののうち3人だけが写っていた。なぜならリースとリーはツアーに参加することがだんだんと少なくなっていたからだ。しかしながらレコーディング・セッションでは必ず5人が揃っていた。

アルバムはシムズ作品とメンフィスのハイ・スタジオで録られた2曲が含まれていた。ハイ作品はシングルとしてリリースされ、A面はドン・ブライアント作の‘That’s What You Mean To Me’だった。これはカーティスとロバートが交互にリードを取り合っている。ハイのトレードマークである跳ねるようなリズムとウィリー・ミッチェルのアレンジがグループの良さを完全に引き出している。B面の‘Comin’ On In’はスローバラッドで典型的サザンソウル・フィーリングに溢れていた。多くをメンフィス録音に頼ったが、しかしながら期待した大ヒットを生み出すことはなかった。次のエクセロからのリリースは1968年で、‘If It Wasn’t For Your Love’だった。これはホームズ傘下のウッドランド・スタジオで録られた。他のケリー・ブラザース・ナンバー同様ゴスペル・ナンバーだった。元々のタイトルは‘If It Wasn’t For The Lord’だったが、グループは世俗的アプローチを試みたもののきわめてゴスペル臭漂うものとなった。そのためR&Bラジオでかかるには限界があったようだ。

グループのエクセロでの4枚目は、アラバマ、マッスルショールズ・レコーディング・スタジオで録られたトミー・ジェイムス・アンド・ションデルズのカヴァー、‘Crystal Blue Persuasion’だったが、様式上これは新たな出発となった。グループのヴァージョンは驚くほどノーザン・テイストで、ほとんどポップレコードであり、評判も素晴らしいものであった。トミー・ジェイムスの方は1969年ブラック・コミュニティでかなりのセールスを記録したため、ケリー・ブラザースも黒人がカヴァーすることで二匹目のどじょうを狙ったのであったが、それも失敗に終わってしまった。エクセロからは1970年もう1枚シングル‘Not Enough Action’がリリースされた。しかしレーベルはグループを解雇し、皮肉にもその曲のタイトルがケリー・ブラザースのセールス状況を言い当てているようであった。

グループはレコード契約を奪われ、シカゴに戻ったが、リースは言う。“僕らはその後も活動を続けたよ。R&Bを演ってたんだが、みんながゴスペルに戻ることを望んだから、またゴスペルを歌い始めたんだ。” リースは自身のレーベルを経営しゴスペルとR&B両方を扱った。80年代半ば以降、ラジオでゴスペル・ショウも務めている。T.C.リーは現在地方の教会の牧師だ。メンバーは皆西側で今もライヴを行っている。リースとリーは今でもたまにアンドリュー、ロバート、カーティスと一緒にケリー・ブラザースとして歌っている。

ロバート・プルーター
R&B編集担当、ゴールドマイン・マガジン


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