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Keith West/Excerpts From…/1995 RPM Records Ltd. RPM 141



Keith Westは、ほとんど伝説となっている‘Grocer Jack’としてのシングル、“Excerpt From A Teenage Opera”の声の主として最も記憶されている―これは1967年のサマー・オブ・ラヴに大ヒットを記録した。もちろんサイケデリアが商業的成功を収めた年であり、キースに多大な困惑を伴うポップ・チャートとサイケデリックなライフスタイル両面をもたらし、栄光を手にした年であった。しかしレコーディングの現場においてそれは当てはまらなかった。そこには互いに遠くかけ離れた二つの領域が存在していた―ひとつは‘Grocer jack, Grocer Jack’という学童たちによる合唱に囲まれたアイドル・ピンナップ雑誌上の顔であり、もうひとつはロンドンのアンダーグラウンドで評論家筋から称賛を受けていたバンド、Tomorrowのフロントマンとしての顔であった。

結局のところ、“Excerpt From A Teenage Opera”はイカしていたし思いがけないヒットとなったが、本質的にはバンドの輝ける未来と巨大な才能をつぶすことになってしまった(トゥモロウは未来のイエスのギター・ヒーロー、スティーヴ・ハウを擁していた)。では誰が不満であったのか?キース・ウェストの認めるところによれば、彼は素晴らしいキャリアと多くの異なる音楽スタイルに取り組むことを楽しんでいた。このコンピレーションは彼の1960年代通じての進化と1970年代初めの数年間をドキュメントしている。彼の物語は次のように始まる・・・

ロックンロールに感銘を受けたキース・ウェスト(本名キース・ホプキンス)は、エセックス州(イングランド南東部)、ダゲナムの自宅のベッドルームで歌を歌い始めた。彼はオープンリールテープ・レコーダーを使ってヴォーカル・テクニックを磨いていった。15歳で学校を出た彼はロンドンのオルドゲイトにあったコーヒー輸入商の店員として働き始めたが、彼の経営者としてのキャリアは短命に終わる。“僕は毎朝ボスの机をきれいにしなきゃならなかったね。” 彼は回想する。“でも半年後にクビになったんだ。髪の毛が長すぎるって理由でね!” キースの初のプロ・ミュージシャンとしての契約は、彼がTony Colton and the Teenbeatsにベーシストとして加入した時に訪れた。しかし彼はColtonが1964年にデッカからファースト・シングル、“Lose My Mind”をリリースするまでに、自身のバンドを結成すべく動き出していた。

‘Melody Maker’のページをパラパラとめくっていた17歳のキース・ウェストは、自分のハーモニカ・テクニックを磨くことを第一に考え、地元のローリング・ストーンズ・タイプのR&Bグループ、Four + Oneのヴォーカリスト/ハーピストの座を勝ちとった。キースはバンドの中に素晴らしいプレイヤーが一人もいなかったことを覚えている。“彼らはイメージ先行型に思えたね。” 彼はいう。“ミュージシャンとはあまりいえなかった。” ‘Four’のうちの3人はレス・ジョーンズ(リード・ギター)、ジョン‘ジュニア’ウッド(リズム・ギター)、そしてサイモン‘ブーツ’アルコット(ベース)だった。‘One’に当たるもう一人がドラマーのケン・ローレンスだった。“彼はチズウィック出身だった。” キースはいう。“完全に中流階級で、残りの僕らは全員荒くれ者だった。”

ビート・ブーム進行中の間、Four + Oneは仕事に事欠かなかった。“若者向けのクラブを経営していた男が僕らのためにR&B/ブルースのギグをいくつか企画してくれたんだ。” キースはいう。“僕らは数人の熱狂的な女の子のファンを獲得して、そのあと彼は僕らと50:50の10年間のマネージメント契約を結んでくれた。” バンドは最初は有頂天になっていた。“僕らはある日から突然プロになった―実際自分たちがどうやってなったのか分からないけどね!” しかし彼らがそれが詐欺だったことに気づくのにそれほど時間はかからなかった。“実際は・・・” キースは回想する。“ブーツ(ベーシスト)が‘World In Action’に売り込むために僕らを撮影していたことを知っていた映画制作会社によるひどい契約だったんだ。でもそのフィルムは確かに僕らの注意を引いた。” 彼は続ける。“宣伝係のトニー・ブレインズビィが僕らに目を留めて、トッテナムのブルース・クラブに僕らを売り込んだ。そこで僕らはレギュラー出演契約を結んで、チャック・ベリー、ジェリー・リー・ルイス、ハウリン・ウルフ、メンフィス・スリムその他大物なら誰でもサポート・アクトを務めさせてくれた。僕らはそこで多くの支持を獲得したよ。僕らの分け前は一人25ポンドとプラス経費、1台のヴァン、1人のローディーだった。僕はその時親父と同じくらい稼いでいたね。僕らはみんなうまくいく!って考えていた。”

1964年を通じてFour + Oneはロンドンへ手を広げ始めていた。“僕らは北方のジミー・サヴィルのクラブでプレイした。” キースは回想する。“彼はリーズでは有名だった。全てのDJはブロンド・ヘアーでタバコを吸ってた!ジミーは本当にバンドを気に入ってくれた。彼は僕らにレコード契約をしているか尋ねてきて、僕らはノーと答えたんだ。すると彼は僕らの手助けになるようなことがあるといった。彼は数日内にアメリカに行くことになっていて、僕らにカヴァーできるようなレコードを持ち帰ってきてくれると申し出てくれた。彼は本当に僕らに1枚のレコードを持って帰ってきてくれて、それがアーマ・トーマスの‘Time Is On My Side’だったんだ。彼はこれをカヴァーすればヒット間違いなしだといったね。” サヴィルと彼のパートナー、リチャード・リース-エドワーズはバンドとEMIとの契約を取りつけ、それは結果的にグループ唯一のシングルとなり1965年1月にリリースされた。リース-エドワーズがプロデュースを手がけ、そのまばらで空間を生かしたサウンドは、アンドリュー・オールダムが手がけたローリング・ストーンズの同曲を彷彿とさせるものであった。レス・ジョーンズはキース・リチャード風のルーズでガリガリというギターを奏で、ウェストもジャガーのように米国南部風の母音を延ばしたような歌唱だ。しかしレコードはサヴィルの予想に反してチャート入りを逃してしまった。B面はチャック・ベリーの“Don’t Lie To Me”で、高揚するような活気あるリズムと最小限の程よい喧騒が漂い、タイトでオリジナルを洗練させた解釈が施されていた。

1965年初頭、Four + Oneはサヴィルとリース-エドワーズの手からEMIのプロデューサー、ロイ・ピットに引き継がれた。“ロイは僕らのキャリアを引き継いでくれたんだけど、バンドにとって大きな影響をもたらすことになったね。” キースは回想する。“彼は偉大な男だった―世界一のマネージャーだね。” ピットはまたグループ名をIn Crowdに変えた(ドビー・グレイの1965年のシングルと同じタイトルだ)。そしてバンドのイメージをスマート化させようと、モッド・スタイルに特化させた戦略をとった。オーティス・レディングを好むソウル愛好バンドとなったIn Crowdは、一躍クラブのコア・バンドとなった。“僕らは週5つか6つのギグをこなしていた。” キースは続ける。“Tilesやなんかのクラブで演奏してお金には困らなかったね。”

In Crowdとしてのデビュー・シングルとして彼らはロイ・ピットのプロデュースでオーティス・レディングの“That’s How Strong My Love Is”をレコーディングした。再びバンドはよく知られた曲の優れたカヴァーをものにした。もし彼らがレディングのメンフィス・サウンドの精度に見合わなかったとしても、彼らは確かにこの曲に本来備わっているメランコリーを大部分表現できているし、ピットによる女性コーラスによってそれはさらに引き立てられている。最高位48位であったが、このシングルは‘Thank Your Lucky Star’でのオンエアと少しの不正な詐欺的売り込みによってチャートインした。ソウルが彼らの最も重要な路線であったが、そのB面でIn Crowdは印象的な“Things She Says”を残している。これは彼らのブリティッシュ・ビート・バンドとしての申し分のない才能を示していた―あるいはもっと正確にいうなら、今日フリークビートと呼ばれる類のものだ。キースによって書かれたこの曲では、ぞんざいなディストーション・サウンドの中にジュニアの唸るようなファットなベース、とりわけ悪意に満ちたレス・ジョーンズによるファズ・ギターがフィーチャーされていた。そしてキースは叫ぶようなブルージーなハーモニカを吹いている。それと同様にキースの野蛮なヴォーカルによって頂点に達しガリガリとこすりつけてくるこの曲は、あまりに短い1分45秒で終わってしまう。ああ、もっと彼らがこんな曲を残していさえすれば!

1965年8月までに、つまりIn Crowdのセカンド・シングル、ビート感あふれる“Stop! Wait A Minute”までにギタリストのレス・ジョーンズは地元の伝説的人物スティーヴ・ハウと交代していた。その時までハウはSyndicatsでプレイしていた。“スティーヴは凄く評判のギタリストだったんだ。” キースは回想する。“僕はよくトッテナムコートロードやチャリングクロスロードの楽器屋やレコード店をぶらついていた。で、そこで誰かに彼を紹介された。僕らは話をしてすぐに仲良くなったよ。彼はもっといい仕事を求めてSyndicatsを抜けて、その晩には僕らのバンドに入ってた!彼のプレイは驚異的だった。グレイトだったね。彼は僕らをライヴ・バンドとして変容させてしまったんだ。”

“Stop!”のB面のキース作“You’re On Your Own”は、ハウのシャープなファズ・ギターをフィーチャーしていたが、前作よりも控え目なものとなっていた。In Crowdはその曲で時機を待つことにし成り行きにまかせていたが、彼らの才能が花開くにつれて、バンドはシーンから消えていくという残酷な運命を被るだけであった。

In Crowdは1965年の終わりに最後のシングルをリリースした。その“Why Must They Criticize”はジェイムス・ブラウンのソウルフルなバラッド、“I Don’t Mind”をB面に収録していたが全く売れなかった。しかしキースは以下のように指摘する。“僕らはライヴ・バンドとしてうまくやっていたんだ。別にレコードは必要なかったよ。今みたいに生き残るためにはヒットが絶対必要ってわけじゃなかった。” さらにライヴ・シーンにおいてIn Crowdはますます腕を磨き、1966年の大半を彼らはザ・フー、ホリーズ、ヤードバーズそしてドノヴァンのようなビッグネームと共に活動した。

しかし1966年は大変動の年でもあった。ジョン‘ジュニア’ウッドが引き続きIn Crowdのベーシストとして残ったが、サイモン‘ブーツ’アルコットがバンドを去っていった。そしてよりエネルギッシュなジョン‘トゥインク’アルダー(以前はR&B実力バンドのthe Fairiesに在籍)が気に入られ、ドラマーのケン・ローレンスも去っていった。このラインナップがトゥモロウとして完結することになる。バンドはすぐにオーティス・レディング-ウィルソン・ピケット-ジェイムス・ブラウンのレパートリーから脱皮し、当時ロンドンで騒がれ始めていたユース・カルチャー、変化の兆しに興味を持ち始めた。ソウルからサイケデリアへの音楽的な触媒となったのが、ザ・バーズの“Why”(“Eight Miles High”のB面)だった。最初バンドはこの曲のソウル的側面に魅了されたが、そこには明らかにぞくぞくするようなニュー・サウンド・アプローチが示されていた。

In CrowdのTomorrowへの移行は、バンドがミケランジェロ・アントニオーニのカルト60sスリラー映画、Blow Upのための曲をレコーディングした時にはっきりとフォーカスされている。その契約は出版業者のイアン・ラルフィニと新しく設立されたロビンズ・ミュージックによって結ばれた。映画に出演したのはヤードバーズだったが、元々はトゥモロウが英国側の選択だった(実際の初のオファーはヴェルヴェット・アンダーグラウンドだった。彼らは英国での労働許可が下りなかったため手を引いた)。キースは映画のために2曲を書き下ろした。最初の1曲、“Am I Glad To See You”はバンド最後のソウル色強いナンバーであり、彼らの転換点を捉えていた。絶え間ないリフと甘いインプレッションズ・スタイルのフレーズとハーモニーが施されていた。曲はテンポが固まり、ジャム演奏へと頂点に達するまでに4分を超える展開となっていた。それに続いてさらに象徴的なのが“Blow Up”だ。簡潔でシャープで的を得た1曲だった。これは2分以内に収められ、要請によって書かれた曲の詞は映画に基づいていた。このパワフルなリズムのパンチ力は明らかにアルバム、Tomorrowに収録されることになる“Real Life Permanent Dream”の先がけとなるものだった。“Am I Glad”“Blow Up”もラフなデモテープ状態までしか進展せず、約30年近く未発表として残されていた。今回初めてここに日の目を見ることになったが、それは唯一現存するアセテート盤から起こされたものである。

トゥモロウのターニング・ポイントは海外遠征中にやってきた。“僕らがオランダのギグをしていた時だった。” キースは回想する。“国へ帰る途中、僕がヴァンの中で‘My White Bicycle’を書いた。僕はオランダの過激派青年provo(プロボ)たちが乗り回していた自転車にインスパイアされたんだ。そのアイデアが好きだった。乗りたい時に乗って、他の誰かのためにどこに置いていってもいいようなそのアイデアがね。すごくクールだと思ったね。歌にするしかないと思ったよ。” キースによればその曲は簡単な構成によって成り立っていた。“僕は当時あまりうまくギターが弾けなかったんだ。” 彼は認める。“だからほとんどワン・コードだった。僕は気に入ってくれないだろうなと思いながらスティーヴに披露したんだ。でも彼は気に入ってくれた。英国に戻って僕らはスピークイージー・クラブでその曲をリハーサルして、その晩には演奏したよ。すごくうまくいって僕はワオ!これだこれだ!って思ったね。それは僕にとってもっと多くの曲を書くための自信になったよ。大部分はダゲナムの学校の旧友だったケン・バージェスとの共作だ。”“何曲かは自分の成長過程の経験に基づいていた。” キースは続ける。“‘Colonel Brown’のキャラクターは僕がコーヒー輸入商社に勤めていた時の僕のボスにインスパイアされているんだ。社会が老人をどう扱うかについての考察だ。‘Shy Boy’は当時オフィスにいたある人物のことだった―彼はそこにいたかわいい秘書の気を引きたかったんだけど自信がなかったんだ。”

新しいムーヴメントによる刺激は彼らに創造的な実験を促すことになった。“何曲かはすごくサイケデリックだったね。” キースは認める。“僕はそれほどLSDはやらなかったけどね。人に錯覚を起こさせるようなことをよくしていたけど、ちょっとやり過ぎだと思ったよ。アシッド・ソング(のちにアルバムTomorrowに収録される)といえるのは、‘Claremont Lake’、‘Hallucinations’はもちろん、あと‘Three Jolly Little Dwarfs’だ―これはある晩、僕がトゥインクの部屋から外に出た時に見た道を歩いていた3人のこびとのことだ。‘Revolution’はトゥインクのアイデアだった。彼はあるギグの晩そう叫び始めたんだ。ストーンズがドラッグ容疑で逮捕されて大騒ぎになったあとのことだね。”

1966年10月、トゥモロウは新しいサイケデリック・ミュージックを開始した。チョークファームのラウンドハウスでスティーヴ・ハウが長いフリーフォームのギター・ソロをプレイした時、それは最高点に達した。そのコンサートはロンドンのアンダーグラウンド新聞、‘インターナショナル・タイムズ’の打ち上げパーティーの一環であった。広告にはその他にソフト・マシンとピンク・フロイドが載っていた。これら2つの草分け的バンドとクレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン、そしてトゥモロウの4つは、ブリティッシュ・サイケデリアの第一歩としてロック史に刻まれることになった。

のちにアンダーグラウンド・シーンで最も重要となったひとつのショーが、ジョン・ピールが司会を務めるラジオ・ワンのトップ・ギアだった。1967年9月と1968年1月にトゥモロウはショーのために2つのセッション計8曲をレコーディングした。そのうちの2曲のみ、“Revolution”“Three Jolly Little Dwarfs”のスタジオ・ライヴ・ヴァージョンがBBCアーカイヴに現存していた。それらの曲はWorld Service(BBC放送の海外向け短波放送BBC World Serviceの略称)用に録音放送を収録したディスクとして保存されていた。このコンピレーションで25年以上を経て今回初めて日の目を見た。

1967年7月、トゥモロウが(唯一のアルバムである)デビュー作を完了する前に、キース・ウェストは“Excerpt From A Teenage Opera”でソロ・キャリアに着手した。これはほとんど偶然の大ヒットとなった。“スティーヴ・ハウはEMIのマーク・ワーツのためにセッション・ギタリストとして働いていたんだ。” キースは回想する。“それがマークが‘My White Bicycle’をプロデュースするきっかけになった。2ヵ月後、彼はこういった。‘君はスティーヴが弾いたこの曲(‘Theme From A Teenage Opera’)を聞いたと思うけど、僕はこれのバッキング・トラックをもう1つ持っているんだ。’ってね。で、それを僕に少し聞かせた。全然おもしろくなかったんだけど、イントロはちょっと気に入ったね。それで僕はこれに詞をつけることに同意したんだ。マークは‘Shy Boy’や‘Colonel Brown’なんかの僕の性格類型の歌を気に入っていて、彼は‘Grocer Jack’って名前を考えついたんだ。”

キースは初めにこの歌のデモ・ヴァージョンをレコーディングした。ベースがハービー・フラワーズ、ドラムスがクレム・カティーニ、バッキング・ヴォーカルがハマースミスのコロナ演劇学校の子供たちとフラワーポット・メンだった。彼はすでにこれをシングルとしてリリースすることに同意していた。そして数週間以内にトップ10に入るヒットとなった。“バンドのファンだった人々は思ったより受け入れてくれたよ。” 彼はコメントする。“現状打破するようなヒットじゃ全くなかったんだよ!今は聴けるけど僕は実際しばらくの間この曲を嫌っていたね。歌詞は僕の特徴であるブラック・ユーモアで成り立っていた。墓地の周りで子供たちが群れているのは少し皮肉っぽい場面だったね(訳注:プロモーション・ビデオのことか?)。僕のアイデアはオーヴァープロデュースになるように曲をふくらませることだった。4トラック・マシンに詰め込めるだけ詰め込んでね!”

“Excerpt From A Teenage Opera”は1967年で最も素晴らしいポップ・レコードの1枚となった。それを取り囲むメディアの熱狂とその巨大なバック資本の期待は2枚組アルバムと映画の制作を含み、トゥモロウとトゥモロウ自身のシングルに影を落とすことになったが、キースがスターになることへとふくらんでいった。しかし続く“Sam”の商業的失敗によって、“Opera”とキースの大評判はささやきへとしぼんでいった。“‘Sam’のあと僕は興味を失くしてしまったね。” キースはいう。“僕は自分の心と魂を注ぎ込んでうまくいくと思ったそのシングルが、たったの38位までしか上がらなかったことに本当に落胆したんだ。” かくして“Teenage Opera”は消えていき、トゥモロウもそれに続くことになってしまった。プロモーターとオーディエンスはグループに“Excerpt From A Teenage Opera”をプレイすることを期待したが、それはバンドの音楽スタイルと能力において明らかに合致しない曲であった(子供たちのコーラスとオーケストラの二つはどうする?!)。バンドのプロデューサーとしてのマーク・ワーツの配慮とシンガーとしてのキースは1967年の後半には混乱していくことになった。

そんな中、トゥモロウのアルバムは1968年初頭にリリースされた。グループが王として君臨していたサイケデリック・シーンは終わりを告げ、瀕死の状態にあった。1968年の冷たい現実によって、トゥモロウはばらばらになり始めていた。その年の中頃には全てが終わった。“Teenage Opera”のシングルの成功によって、キースは依然EMIのお気に入りであり、彼はEMIのために“On A Saturday”“The Kid Was A Killer”をリリースした。商業的成功は収められなかったが、とりわけB面はトゥモロウの名残を表すようなナンバーとして高く評価されている。自由なリズム・セクションと高音の強調されたギター・ワークは、グループのトレードマークといえるものであった。しかしトゥモロウの消滅はキースの自信を丸裸にすることになった。“僕はその2曲が売れるのか、あるいは本当にいい曲なのかさえ判断できなかったね。” 彼は認める。“スティーヴ・ハウは音楽面で手を貸してくれた―僕がコードをつけたんだけど彼は違うコードに変えたよ。‘On A Saturday’は少しだけラジオでオンエアされたけど、あまり十分なサウンドとはいえなかったな。乏しいレコーディング予算だったんだ。マーク・ワーツがセッションを取り仕切ったんだけど、彼は本当に興味を失っていた。僕らは2時間スタジオで過ごしただけだった。B面は僕1人でリミックスして、これが僕のプロデュース作業への関心のきっかけになったんだ。”

キースのソングライティングの次なるステップは、1968年11月にスティーヴ・ハウ、ニッキー・ホプキンス、ロニー・ウッド、そしてアインズレィ・ダンバーと共にレコーディングした2曲を通じて示されたが、それは今のところお蔵入り状態にある。“The Visit”はトゥモロウのサウンドに新たにアメリカンな感覚と、まばらで落ち着きのない、しかし魅力的なギターがブレンドされ、メローなプロダクションとカントリー風味なハーモニーが施されていた。一方で“She”は洗練された60年代後半のブリティッシュ・ポップであった。オーケストラが大幅に導入され、渦を巻くようなあわただしいパラノイアが見て取れる―バッド・トリップ版ビートルズ‘Eleanor Rigby’のようだ!“僕らは‘She’でストリング・カルテットを使った。” キースは回想する。“僕自身がアレンジメントを書いて曲をプロデュースした。でもEMIはそれを却下してしまったから僕らはその後やめることにしたよ。” 最後のEMIセッションが地下貯蔵庫へと棚上げにされた時、キースの次のレコーディングはほとんどうまくいかなかった。“1969年だ” 彼はいう。“僕は再び古い友人のソングライター、ケン・バージェスと組んだ。僕らの名前は思いつかなくて、単にWest and Burgesになった。僕らは西部地方(英国サザンプトンとセヴァーン河口を結んだ線の西)で2週間過ごして曲を書いた。アンドリュー・オールダムがそれを気に入って、僕らはイミディエイトと契約したんだ。でもそのレーベルは倒産しかかっていた。僕が覚えているのは、リッチモンドの彼の家近くで彼らが家具と車を買っていたことだ。”

残りのセッションは全てロンドン南西部のバーンズにあったオリンピック・スタジオで行なわれ、3枚のアセテート盤が作られた。“A Little Understanding”はきちんと整理され、サウンドは洗練されていたが、キースのメロディ・メーカーとしての才能はとらえられていた。一方幾重にも重ねられたホーンとハーモニーを持つ“The Power And The Glory”は、フィル・スペクターの口に十分合うようなプロデュースがなされていた。それに対し、“West Country”は田園詩といえる瞑想的な賛歌であり、CSN風のハーモニー、そしてその3人の未来のパートナー、ニール・ヤングさえ暗示させるものだった。“The Power And The Glory”は偶然にも実際フォーチューンズによってカヴァーされたのち、エルヴィス・プレスリーのプロデューサーに好感をもって受け入れられた。トゥモロウでのキースの曲はいくつか他のアーチストによってカヴァーされたが、最も注目すべきは1975年にナザレスが“My White Bicycle”をトップ20に送り込んだことだ。

イミディエイト倒産後キースはデッカと契約し、その傘下のデラム・レーベルから2枚のシングルをリリースした。繊細なエレクトリック・ピアノが入った“Riding For A Fall”(今回このCDに未発表デモ・ヴァージョンが収録された)と内省的なオーケストラが入った“Havin’ Someone”は、これまでのようにキースのソフトで憂いに沈んだ70年代初頭の洗練されたシンガーソングライター的な雰囲気をたたえている。

キースは今日に至るまで音楽活動を続けている。彼はさらにケン・バージェスと共に1974年に1枚のアルバム、“Wherever My Love Goes”をレコーディングした。その頃彼はブルース・トーマス(のちのエルヴィス・コステロ・アンド・ジ・アトラクションズ)、ジョン・ウェイダー(元ファミリー、エリック・バードン・アンド・ジ・アニマルズ)と共にMoonriderを結成し、アルバム“Moonrider”をレコーディングした―以来それは“英国版スティーリー・ダン”と呼ばれている。そこには“Riding For A Fall”と“Havin’ Someone”の新録ヴァージョンが収録されていた。

70年代後半、キースはパンクとニュー・ウェイヴに触発された。“エキサイティングな時代だったね。” 彼は考察する。“フラワー・ムーヴメントとは正反対のようだった―暴力的で攻撃的で―たしかに大きな変化だったけどビジネスの匂いはしたね。” 彼はジミー・エドワーズのバンド、Masterswitchと共に働いたが、結局CBSと契約を結び、彼らのマネージャー兼エンジニアになった。キースとエドワーズの関係は80年代を通して続き、エドワーズの次のプロジェクト、Time UKはドラムスにザ・ジャムのリック・バックラーをフィーチャーしていた。“僕らはある意味一つのバンドだったね。” キースは回想する。“僕は3曲を書き下ろした―‘Puppets Don’t Bleed’、‘Sunday Mood’それから‘Peter Pan’だ。

スティーヴ・ハウの1969年のプログレッシヴ・バンド、Bodastでミキシング・ワークに手を出して以来、キース・ウェストはプロデュース・ワークに進み、シンガーソングライターのクライヴ・ウェストレイク、プログレッシヴ・バンドのRo Ro、そしてポップ・シンガーのアイリーン・シアのようなアーチストのレコーディングに携わってきた。80年代、彼は独立系のチェリー・レッド・グループに参加し、その系列のエル・レコーズで二つのアーチストをプロデュースした。ウッド・ビー・グッズのアルバム、“The Camera Loves Me”と1枚のシングル“Fair”、フィーメイル・デュオによるBad Dream and Fancy Dressだ。ごく最近ではキースは再びスティーヴ・ハウと手を組み、スティーヴのコレクションCD、“Guitar Player”でタイトル・テーマを共作し、3曲を提供、彼の1993年のアルバム“The Grand Scheme Of Things”でヴォーカルのプロデュースに手を貸している。

変化するポピュラー・ミュージックのトレンドに常に通じていたキースは、2枚のダンス・レコードさえ指揮した。“No.6”(偽名のTabooのもとリリース)と“Tin Tin To The Rescue”が2人の虚構のカルト・キャラクターを演じたものとして考えられている。TVシリーズのザ・プリズナー及び冒険ものの少年ヒーローはベルギーの漫画家エルジェ(Herge:1907-83 本名George RemiのイニシャルR.G.に基づくペンネーム、Tintinで知られる)によって創られた(“Tin Tin”はそのキャラクターの60周年を記念したものだが、契約上の問題により未発表)。

今日キース・ウェストは自身の出版社を持ち、また名声あるギター・メーカー、Burnsの海外マーケティングの代表の顔を持ち、所有のレコーディング・スタジオではTVとラジオのコマーシャル・ミュージックをプロデュースしている。ここ最近の仕事としてはDairy Crest, Vidal Sassoon, Blue Arrowの一員、Falmer’s JeansそしてAmstrad Computersなどが彼の長い間のキャリアに加えられ、様々なはなばなしい信頼を受けるに至っている。


アンディ・デイヴィス、レコード・コレクター・マガジン、1995年4月



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