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Julie Driscoll, Brian Auger And The Trinity/The Road To Vauxhall 1967-1969/1989 Charly Records Ltd LIK 51



批評的にも商業的にも成功を収めたジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガー・アンド・ザ・トリニティが見落とされてきたのは奇妙な話だ。たしかに‘Wheel’s On Fire’は度々なつメロとしてラジオで流れ、多くの人々は彼らのことを覚えている(少なくとも‘Jools’として)。しかしもう何年も、彼らについての記事をほとんどお目にかかっていない。あるいは彼らがあまりに流行りすぎてしまったため、‘ダサい’と考えられているのかもしれない・・・あるいは彼らの名前があまりに長過ぎるのかもしれない。誰にも分からないが。どちらにせよ、彼らは素晴らしい音楽を作ったし、その多くがこのレコードに収録されている。

ジュリー・ドリスコールは南ロンドンのダンス・バンドのトランペット・プレイヤー、レグ・ドリスコールの娘として1947年6月に生まれた。家族はヴォクソールに住んでいたから、彼女がそこの出身であることは間違いない。一般的には、ジュリーはヤードバーズのファン・クラブの秘書としてジョージオ・ゴメルスキのところで働いたのち、1964年にショー・ビジネスの世界に入ったことになっている。そしてジョージオが彼女に歌うよう説得したというものだ。しかし事実はそうではない。彼女が公衆の面前で初めて歌ったのは、それより2年前のことだった。その時、彼女はヴォクソールのコーヒー・バーでギターをプレイし歌った。彼女はプレイを楽しみ、父親はその歌に感銘を受けた。彼は彼女に自分のバンドで歌ってみないかと提案した。そのバンドは当時、ウェスト・エンドのチャーチルのナイトクラブにレギュラー出演していた。

1963年半ば、彼女の母親の友人が、ジュリーのコロムビアとのレコーディング契約を世話した。そして彼女はシングル、‘Take Me By The Hand’/‘Stay Away From Me’をリリースした。そのシングルは売れなかったが、少なくとも彼女はそれをプロモートするために、ブリストル拠点のDiscs A Go Goというテレビ番組に出演した。

この少しあとに彼女はゴメルスキと出会い、彼はマネジメントを引き受けようと思うほど、彼女の才能に惚れ込んだ。彼女が成功するまでの間、ジョージオは彼女にオフィスで働かないかと提案した。言い伝えに反し、彼女はヤードバーズ・ファン・クラブのオーガナイザーだったことはなく、単に郵便物を受け取っていただけだったそうだ。

ジョージオはジュリーのためにパーロフォンとの契約を獲得し、パーロフォンは65年半ばから67年半ばにかけて、ざっと1年のインターヴァルをあけて計3枚のシングルをリリースした。最後の‘I Know You Love Me Not’(当時Ingoesに在籍していた義兄((弟))のブライアン・ゴディングの手による。訳注:のちにブロッサム・トウズを結成する人)は、かなり早い時期にレコーディングされたもののように思われる。3枚とも十分に聞きごたえのあるものだが(物好きのために―そのうちの数曲は‘Julie Driscoll & Brian Auger’:Charly CR 30020で聞くことができる)、最初の‘Don’t Do It No More’のみ、真のパワーを持ったナンバーだ。そこで彼女は初めてブライアン・オーガー・アンド・ザ・トリニティと組んでレコーディングを行なった。すでにこの時までにオーガーはベテランの大物だった。彼は3歳でピアノを始め、10歳になるまでにジャズをプレイしていた。彼のプロとしてのキャリアは、フラミンゴ・クラブで様々なジャズ・グループと共にプレイし始めた1962年頃にスタートした。彼の名声は急速に大きくなり、すぐにメロディ・メーカー紙のジャズ部門の人気投票で‘ニュー・スター’を獲得した。フラミンゴでのプレイがオーガーに新しいR&Bサウンドと、その改造を促したのはもっともなことだ。オーガーのR&Bは、クラブでプレイしていたほとんどのバンドのそれよりも常にジャジーな要素にあふれていた。

ピアノからハモンド・オルガンへスウィッチしたオーガーは、64年初めに最初の‘トリニティ’を結成した。メンバーはベースにリック・レアード、ドラムスにフィル・キネラ、そして時折ギターにジョン・マクラフリンとサックスにグレン・ヒューズが参加した。ドイツで長期間活動したのち、バンドは65年初めに解散し、オーガーはリック・ブラウン(ベース)、ミッキー・ウォーラー(ドラムス)、そしてヴィック・ブリッグズ(ギター)と共にグループを再編した。

バンドはその見事なテクニックと真のスウィング感覚で知られることとなったが、彼らに唯一欠けていたのが、ダイナミックなシンガーだった。彼らもまたゴメルスキのマネジメント下にあったが、トリニティのヴォーカリスト不在の解決法を思いついたのがゴメルスキだった。彼はヴォーカリストを1人ではなく3人連れてきた―ロング・ジョン・ボルドリー、ロッド・スチュワート(2人ともフーチー・クーチー・メン解散以来、鳴かず飛ばずだった)そしてジュリー・ドリスコールだ(彼女のソロ・キャリアも同様だった)。彼らは‘スティームパケット’と名乗り、それぞれのソロ・ナンバー、アンサンブル、インストゥルメンタルをフィーチャーするR&Bレヴュー形式のグループとして企てられた。ライヴは功を奏した―少なくともしばらくの間は。それはユニークなコンセプトであったし、結局は行き詰るものの、確かに価値あるものだった。数人のマネージャーの存在とグループ内部の問題から、66年3月にスチュワートが抜け、その数ヶ月後にボルドリーが脱退した。ボルドリーとスチュワートのいないグループはほとんどスティームパケットとはいえず、オーガーとドリスコールは元の長々しいそのままの名、‘ジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガー・アンド・ザ・トリニティ’に戻ることになった(注:スティームパケットは‘公式’なレコーディングを行なわなかったが、ゴメルスキの録ったデモ・テープを基に‘The Steampacket-The First Supergroup’:Decal LIK 14が出ている。そこにはさらなるバンドの音源が追加されている)。

スティームパケットの崩壊に続いて、トリニティは再びメンバー・チェンジを行なった。ミッキー・ウォーラーはウォーカー・ブラザーズのバッキング・バンドに参加し、それからジェフ・ベック・グループに加入した。ヴィック・ブリッグズはニュー・アニマルズに加入し、リック・ブラウンも抜けた(彼に関してはどこへ行ったか分からない)。彼らの代わりが、それぞれクライヴ・サッカー、ゲイリー・ボイル、ロジャー・サットンだった。

スティームパケットで、ジュリーのヴォーカリストとしての才能は信じられないほどに成熟していった―彼女は今やニーナ・シモンのような他のアーチストの作品に見られるようなグレイトでソウルフルな声を持つに至った。依然正式なレコーディング契約のなかった彼らは、UK中のクラブで支持を打ち立てるべく動き出した。彼らは全国のありふれたサーキットでプレイしたが、ほとんどを上流向けのザ・クロムウェリアンのような、‘スウィンギン・ロンドン’の縮図であった深夜のクラブで楽しんだ。彼らはオーディエンスである仲間のアーチストたち―常連だったアニマルズのメンバーたち、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ズート・マネーらの前でプレイした。彼らは夜通し酒やLSDを大量に摂取しながら、どんちゃん騒ぎをくり返していた。

1967年初頭までに、ゴメルスキはマーマレイド・レコーズを設立し、当然のごとくバンドと契約を交わした。レーベルが発足したのは、最初のトリニティのレコードが出る2ヶ月前のことだった。そのアルバム、‘Open’とシングル‘Save Me’はほとんど同時リリースされた(ちなみにその時までに彼らは再びメンバー・チェンジを行なっていた―デイヴ・アンブローズがロジャー・サットンに代わって加入した)。アルバムは彼らがクラブでやっていたことをかなり忠実に反映していた―スタジオ・ライヴの形でレコーディングされた。残念ながらバンドは急いで仕上げた雰囲気と、その結果、いくつかのトラックで少しまとまりに欠ける部分があるとして不満を示していた(話によれば4時間で片付けてしまったらしい)。ここに収録されている2つのトラック、‘A Kind Of Love-In’とドノヴァンの‘Season Of The Witch’は、その‘ライヴ’のフィールを伝えているが、急いで仕上げた感じはしない。しかしながら、ここに入っているその2曲とシングルが、21年経っても消えないバンド自身の感情を証明していそうだ。

イングランドではアルバム未収のシングル(‘Save Me’)もアルバムもあまり売れなかったが、ヨーロッパでは話が違った。彼らは彼の地でしばらくの間、支持を打ち立てていたが、レコードが出たとたん、ヨーロッパの人たちは狂ったように買い求めた。そのシングルはフランスでナンバー・ワンとなり、イタリアでも大ヒットし、ジュリーの顔が全てのファッション雑誌に登場し始めた。またヨーロッパの人々はブライアン・オーガーのプレイを‘第二のジミー・スミス’として熱っぽく語り始めた。当然のように、バンドはしばらくの間、ほとんどUKを捨て去った。もちろん彼らのイングランドでの運命は、68年5月にリリースされたセカンド・シングルでクラシックとなる‘This Wheel’s On Fire’によって変わった。当時、一般大衆はディランの伝説的な‘Basement Tapes’を聞いたことはなかったが、彼らはマンフレッド・マンら同様、明らかに様々な形でそれらを聞いていた。トリニティ・ヴァージョンは見事だ―ブライアン・ゴディングがプレイするオープニングの神秘的なメロトロン、フェイザー効果のあるオルガン、そしてジュリーの魅力的なヴォーカル全てが結合し、その年のベスト・シングルの1枚が誕生した。突然誰もが知りたがるようになった。ヨーロッパで受けた大きな称賛は、UKでもくり返されることになった。ごく自然にジュールズ(この愛称になっていた)は注目の的となった。彼女のライフスタイルは絶えず調査され、すっぱ抜かれ、彼女がノーブラであること、婚前交渉についての彼女の考えなどに関する情報に、プレスは大はしゃぎになった。彼女がそれを歓迎していたかどうかはともかく、ジュールズは‘68年の顔’となった。

バンドの昔からの拠点ではないが、彼らはアンダーグラウンドに残されたものと結びつくようになった。彼らに染みついた‘ソウル’的側面は‘ダサい’と考えられていたかもしれないが、‘Wheel’s On Fire’や‘Season Of The Witch’は、ミドル・アース・クラブとそこにたむろする様々な人たちにとっては十分に琴線に触れるものだった。また古着をまとったジュールズの‘ぶっ飛んだ’センスと、ぐるぐると旋回する彼女の魅惑的な手の動きは、ライト・ショーの中で見事に映えた。おそらくプレスリリースでは大げさに報道されただろうが、数日内にレコードはトップ10に入り、彼女は13もの‘本格的な’映画出演のオファーを受けた。そしてついにジュールズは1つだけ正式な配役を引き受けることを了承した―BBC TVで始まった「The Season Of The Witch」だ。それはバンド解散後に放映された。しかしながら、しばらくの間は、彼らが一連のステージを務めたデヴィッド・フロストのSunday Showからあなたは目が離せなかっただろう。

もちろんヨーロッパでは今やそれよりも大きな事件となっていた。バンドはモントルー・ジャズ・フェスティヴァルや、ローマ、ブラティスラヴァ(スロヴァキア南西部)での巨大なポップ・フェスティヴァルのような名高いイヴェントに参加した。

10月、彼らは続くシングル、デヴィッド・アクルズの‘Roads To Cairo’をリリースした。これは‘Wheel’s On Fire’よりもスローで、さらにドラマチックな作りだったが、好意的なレビューを受け、先のシングル同様チャートを急上昇するかのように思われた。作者のアクルズでさえこれを気に入り、こういった。「若い女の子がこれを歌うなんて本当に型破りだね」(へー!)「でも完全に歌に新しい側面が加わっていると思う・・・ファンタスティックなレコードだ」 おそらく彼らが録音した中でこれがベストだろう。しかし11月16日、メロディ・メーカー紙は見出しでこういった。「なぜ彼らはニュー・シングルをプレイしないのか?」 たしかに彼らはこれをプレイしなかった。ひょっとすると長すぎるかスローすぎるか何かだったのかもしれない。どちらにせよ、グループの名声にもかかわらず、人々は群れをなしてこれに手を出すことはしなかった。その結果、チャート入りには失敗してしまった。しかし当時は大した問題ではなかったように思われた―彼らは依然人気者だった。

ジュールズはメロディ・メーカーの女性ヴォーカリスト部門で1位を獲得し、オーガーは楽器奏者部門でトップ5に入った。

11月終わりに彼らは初めてアメリカを訪問した。目的の一部は休日、一部は宣伝のためだった。LAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーでのプレス対象のイヴェント以外はギグは行なわれなかった。メインのイヴェントが、モンキーズの特別テレビ番組、‘33 1/3 Revolution Per Monkee’にゲスト出演するものだった。番組はストーリーを音楽で区切っていく形をとっていた。オーガーは博物学者チャールズ・ダーウィンに扮し、様々な進化の過程でモンキーズ(猿)を捕らえ、彼らが宣伝工作によって世界を洗脳しようとする設定になっていた。音楽的ハイライトとしては、ジュリーがモンキーズとともにR&Bヴァージョンの‘I’m A Believer’と‘Shake A Tail Feather’を歌う場面があった。そしてバンドはロックンロール・メドレーでモンキーズをバックアップした。残念ながらこのショー(リトル・リチャードも含まれていた)はほとんど再放送されず、サウンドトラック盤もリリースされなかった。

トリニティはモンキーズに驚いてしまった。彼らのことを単なる操り人形だと思っていたのが、実は彼らが(少なくとも3人は)本当に真剣な素晴らしいミュージシャンだったことを発見したからだ。ジュリーとブライアンは一時期、ニュー・シングルとしてネスミスの‘Listen To The Band’をレコーディングしようと考えたこともあった。

バンドはヨーロッパに戻り、広がりを見せていたクラブと高校、大学サーキットでのプレイを再開した。また彼らはセカンド・アルバムのための新曲にとりかかった。

彼らが初めて正式なツアーとしてアメリカに渡ったのが、69年3月だった。それはレッド・ツェッペリン(彼らもブレイクし始めたばかりだった)のサポート・アクトとしてだったが、トリを務めたのが21日からのシカゴのキネティック・サーカスでのことだった。そこから彼らはフィラデルフィア、ボストン、デトロイトに続いて、ニューヨークのフィルモア・イーストへ移動した(ステッペンウルフをサポートした)。

デトロイトから彼らはゼップに参加すべく、まずはカリフォルニアに向けて出発した。ツアーは4月24日、サンフランシスコのフィルモアからスタートし、どの点から見ても全てが巨大な成功を収めるはずだった。しかしそれはジュリーを除く全てであった。ツアーの途中、彼女はそれ以上のツアーは自分の手に負えないと判断し、5月の終わりに彼らが英国に戻るまでに彼女は脱退していた。その発表は8月になるまでされなかった。

その理由の1つは、彼らのセカンド・アルバムで2枚組の‘Streetnoise’(Marmalade 608005/6)が6月にリリースを控えていたからだった。今回もある部分、方向性の欠如が見られるものの、そのアルバムは‘Open’よりもはるかに完成され、冒険的だった。いくつかのトラックはたしかに見事だ。‘Tropic Of Capricorn’はオーガーの大傑作であり、彼らがジュリー抜きで機能するとすれば、それをよく示している。リッチー・ヘヴンズの‘Indian Rope Man’、ローラ・ニーロの‘Save The Country’、ミュージカル、‘ヘアー’の‘Let The Sunshine In’はグレイト・ソングの優れた解釈だ。またそこにはジュリーの‘A Word About Colour’も含まれていた。荒涼なアレンジと彼女の器用なヴォーカルは、のちの彼女の姿を垣間見せている。

まだ説明されていない1曲が、このコンピレーション盤に残っている。ディランの‘I Am A Lonesome Hobo’だ。知られる限り、このトラックはヨーロッパでのみリリースされたものだ(シングルとして、そしてコンピレーション・アルバム‘The Marmalade Record Co. Show, Olympia 68’の一部として)。珍しいということだけでも収録する価値はあるし、幸運にもこの曲によって彼らの音楽的背景がフルに示されることになった。

ジュリーが抜けてまもなく、ゲイリー・ボイルがトリニティに再加入した。最初は楽観していたが、バンドはジュリー不在から立ち直ることはできなかった。しかしのちにオーガーは新バンド、Oblivion Expressによって復活し、主にUSの大学サーキットで再び成功をつかんだ。

ジュリーは脱退後、半リタイヤ状態となっていたが、69年の終わりに素晴らしいアルバム、‘69’(Polydor 2383077)をレコーディングした。そのアルバムは、のちにジュリーと結婚するキース・チペット含む、著名なブリティッシュ・ジャズ・ミュージシャンたち、そしてブロッサム・トウズをフィーチャーしていた。それ以来、彼女のリリース(主にキースとの共作)は散発的となったが、彼女はシンガー、コンポーザーとして成長し続けた。今日、彼女の作品はアヴァンギャルドで実験的なものとして分類されている。それはある意味真実であるが、彼女の音楽を限定してしまうことにつながるものだ。これは残念なことだ。彼女の音楽に貼られたレッテルがなければ、もっと多くの人々の耳に届くだろう。もちろん彼女は今でもヨーロッパで人気がある。少なくともそれはファッションではなく、彼女のクォリティとオリジナリティを伴った音楽に対してだ。例えばドイツでは、彼女とキースは最近1時間以内でテレビ放送されたコンサートをやった。ここ(英国)でもやるかって?もちろんそれはない。

ジョン・プラット、1988年



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