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James Brown/The Singles Volume 7 : 1970-1972/2009 Universal Records/Hip-O Select.com B0012728-02



ジェイムズ・ブラウンにとって、1970年はどうみても荒れ狂った年だった。興行収入はわずかに減少していたが、それは年中ツアー漬けによる過剰露出によるものだったようだ。シンガーと名バック・バンドとの間の緊張感によって、彼はバンドの不満に取り組むことを嫌がり、その不満は極限にまでエスカレートしていた。ジェイムズは彼らの手の内を迫り、衝動的に代わりのバンドを集めた。そのシンシナティ出身の若いグループには、目を引くメンバーとして、10代のベーシストであるウィリアム“ブーツィー”コリンズと彼の兄弟であるギタリストのフェルプス、別名“キャットフィッシュ”がいた。3月9日、通常のロードでのある月曜の晩、新しいバンドはジョージア州コロンバスでぼろぼろのステージを務めた。

「僕たちはメイシオとジェイムズがどういう風にギグを進めていくのかを分かっていなかったんだ」 ブーツィーはいう。「僕たちが彼らのギグをやることさえ知らなかった」

ありがたいことに、インディアナ州フォート・ウェインでの次のショーの前に、新バンドはリハーサルのための3日間を確保することができた。ジェイムズはバンド統率のためにボビー・バードをツアーに呼び戻した。ジェイムズ・ブラウンの価値基準によってニュー・ブリード・バンドと名付けられたグループは小規模だった―オルガンにバード、1人のギター、ベース、2人のドラマー、そしてトランペットとサキソフォンの2人だった。ジョン“ジャボ”スタークスは、新バンドの中で唯一の残留者だった。クライド・スタブルフィールド流ファンク・リズムの申し子だったブーツィーとキャットフィッシュは、最初のうち、スタークスの軽いタッチのリズムと苦闘していた。しかしそのベテラン・ドラマーが彼らに合わせた。

「ちょっと時間はかかったけど、僕は彼らのやることを聞いていた―君たちのいう“up the country thumpin’”(訳注:“Sex Machine”のようなリズムのことか?)のことだ。「彼らがプレイし始めると全てがノリ出すんだ」

ブラウンが4月16日のマイク・ダグラス・ショーで自分のグループを紹介した時に、その“country thumpin’”は、“Give It Up Or Turnit A Loose”のパフォーマンスの中で彼らの証となっていた。新しいギターとベースのラインは、その1年前の歌をほとんど新しくモデルチェンジしていた。数日後、彼らはラテン・カジノでの一週間公演を締めくくり、ナッシュヴィル含む連続一夜興行にとりかかった。ショーに続く深夜のレコーディング・セッションが準備された。ブラウン初のスターデイ・スタジオでの録音だった。バンドは知らなかったが、ジェイムズはとびきり素晴らしいアイデアを持っていた。

DISC 1

1. GET UP I Feel Like Being Like A SEX MACHINE(Part 1&Part 2)(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
1970年6月リリース(King 6318 プロモーション用)
2. GET UP I Feel Like Being Like A SEX MACHINE(Part 1)(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
3. GET UP I Feel Like Being Like A SEX MACHINE(Part 2)(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
1970年6月リリース(King 6318)/R&Bチャート2位、ポップ・チャート15位


ナッシュヴィルまでの道のりは、うんざりするほどの長旅だった。JBのツアー・バスはヴァージニア州のピーターズバーグで故障してしまい、翌朝、近くのリッチモンド空港が開いた時に確保したナッシュヴィル行きの飛行機は、機材と衣装を積みこむことができなかった。急いでチャーターされた小型のプロペラ機は、荷物を詰めるだけ詰めこまれ、録音スタッフのジェリー・シリアンとプロモーターのボブ・パットンは文字通り山積みになった荷物のてっぺんによじ登ったが、何とか飛行機はナッシュヴィルまで持ちこたえた。

幸運は彼らに味方した。ナッシュヴィルのショーはとどこおりなく行なわれ、真夜中過ぎにバンドはスターデイ・スタジオに到着した。ブラウンとボビー・バードはショーのポスターに詞を走り書きしていた。バンドは“Give It Up Or Turnit A Loose”をリハーサルするよう告げられた。

全員が驚いたことに、“Give It Up”のファンキーなリックに気持ちよく新しい詞を組み込むための数分間以外に、ジェイムズは参加しなかった。出だしの失敗後、2つのテイクが録音されニュー・ヒットとなった。リリース・ヴァージョンは最初のフル・テイクだ。相棒のボビー・バードによる共同ヴォーカルとブラウンによる短いピアノの間奏は、昔のバンドの慣例的なアプローチの中で小休止役を果たした。ブーツィー・コリンズのベースは前面に現れ、“キャットフィッシュ”コリンズに敬意を表する。コリンズのギターはどういうわけか同時に2つのギター・パートが鳴っているように聞こえる部分があるが、セッションにセカンド・ギタリストはいなかったし、オーヴァーダブもなしだ。

セッションが終わった時、スタジオにいた目撃者の中から称賛の拍手がわき起こった。興奮は高みに達していたが、JBはまだ完全に満足していなかった。彼はエンジニアのロン・レンホフにエコーに加えさせ、テンポをスピードアップさせた。それは“Get Up I Feel Like Being Like A Sex Machine”としてマスタリングされた。きわどいタイトルにもかかわらず、その先進的で伝説的なトラックは、ポップ・ミュージック史の中に単に“Sex Machine”として記憶されることになった。皮肉なことに、同タイトルのアルバムはそのヒット・シングルを含んでいなかった。LP、Sex Machineに収録のヴァージョンは、歓声がダビングされたライヴ仕立ての再録だった。

その頃のブラウンのシングルと同じように、King 6318のリリース盤はステレオでプレスされた。しかし依然R&Bミュージックの支配的な地位を占めていたAMラジオ向けのプロモーショナル・コピー盤はモノでプレスされた。ブラウンは片面に完全ヴァージョンの5分22秒を収録し、もう片面には無音の溝によって分けられたパート1と2をフィーチャーした。

“Sex Machine”は興行ですぐに衝撃を与えた。7月のミルウォーキー・サマーフェストのショーは、5万人以上のファンに向けて行なわれた。1ヵ月後、JBはフィラデルフィアズ・スペクトラムで動員記録を破った。その時までにビルボードのソウル・シングル・チャートでスティーヴィー・ワンダーの“Signed, Sealed, Delivered I’m Yours”によって1位を阻まれていたレコードは、キャッシュボックスとレコード・ワールドのソウル・チャートでトップに立っていた。

4. SUPER BAD(Part 1&Part 2)(James Brown)
1970年10月リリース(King 6329 プロモーション用)
5. SUPER BAD(Part 1&Part 2)(James Brown)
6. SUPER BAD(Part 3)(James Brown)
1970年10月リリース(King 6329)/R&Bチャート1位(2週)、ポップ・チャート13位


ジェイムズはすばやく次のシングルに焦点を合わせた。バラッドの“I’m Not Demanding”(Volume 6参照)が一瞬King 6322として復活したが、そのリリースは見合わされた。ブラウンは“Sex Machine”のファンがさらなるファンク・ジャムを望んでいると確信した。迷信深いジェイムズは、“Super Bad”を録音するためにナッシュヴィルに戻ることを選んだ。ロードでの数ヶ月間でバンドはかなりまとまり、今やグループはThe J.B.’sとして知られていた。コンガ・プレーヤーのジョニー・グリッグスは新しい風味を加え、けた外れのブーツィー・コリンズはブラウンの音楽の中で伝統的に固定した役割からベースを解放していた。コリンズの大胆なアクセントとアドリブは油断のないグルーヴの犠牲とはならず、“ジャボ”スタークスのスネア及びキック・パターンとぶつからないよう巧みにプレイされていた。「時々僕たちはすごくハードにグルーヴしていた」 数年後にスタークスはいっている。「よく死ぬほどおびえたね」

“Super Bad”は簡単には生まれなかった。ジェイムズは3つの未完に終わったテイクで、自分のフレージングと格闘した。バンドは焦点を失っていた。自分の若く新しいバンドの中で、多くを要求するというより元気づける立場となっていたブラウンは、きっぱりといった―「流れを失っているぞ」 彼はきびしくいった―「ダウンビート(一拍目)はどうしたんだ。それを忘れるな」 しかし数分後、JBは望みどおりのものを手に入れた。「好きなだけハードにプレイするんだ」 彼はセッション半ばでメンバーたちに叫んだ。「かまわない。ちゃんとリズムに乗ってるからどんどんやるんだ」

フェルプス・コリンズはシングル・ノートとコードを交互に弾き、リード・ギターとリズム・ギターの境界をあいまいにした。ロバート“チョッパー”マコーロフは驚くべき無調のサックス・ソロを吹いた。リハーサルの間、それなりのスキルを身につけていたマコーロフは、ソウルフルなソロを吹くことができなかった。それはメイシオ・パーカーと、JBもそうだが、彼らが伝説的なサキソフォニスト、ジョン・コルトレーンに触れ、ついには彼に「前衛的な‘トレーン・ソロ’をやってくれ」と指示したことを思い出させる。セッション中のブラウンの合図はシングル盤でとらえられている―“吹いてくれ、ロバート!トレーンだ!ブラザー!”

“Super Bad”はもともと9分間あったが、シングル・リリースのためにトラックは2つに分けられ、それぞれは4分5秒だった―フル・テイクから約1分削られた。会社の新しくデザインされた黒いラベルがこれ見よがしに貼りつけられたKing 6329は、奇妙にも片面に“Part 1 & Part 2”と表示され、もう片面には“Part 3”と表示されていた。白ラベルのプロモ盤は違っていた―“Part 3”はリリース盤と同一だったが、最初と2番目のパートは無音の溝で分けられ、それぞれは2分51秒だった。リリース盤の最初のプレスの中には、古いオレンジのキング・ラベルが使われたものもあり、それには“Call Me Super Bad”というタイトルがついていた。全てのプレスはモノだった。

本質的には“Part 2”であるのに“Part 3”と呼んだことについては、彼のニュー・シングルが3パーツもあること―あるいは誰よりも1つ上であることをブラウンが自慢したかったことによる。

“Super Bad”はロードでのブラウンが依然センセーショナルであることを示していた。これがナンバー1ヒットとなった時、彼はニュー・オリンズのトゥレーン・スタジアムで終日行なわれたフェスティヴァル、‘ソウル・ボウル’で7万人のファンを集めた。ポスターには次のような共演者が告知されていた―アイザック・ヘイズ、アイク&ティナ・ターナー、レア・アース、そしてジュニア・ウォーカー&ジ・オールスターズ。

7. FIGHT AGAINST DRUG ABUSE
公共告知
1970年11月リリース(King PSA-1)


“Super Bad”のインストゥルメンタルにあてがわれたこのプロモ・シングルは、ラジオ局のみに配布された。それには2種類の同じような公共告知が入っていた。1つはこのジェイムズ・ブラウンによるもので、もう1つはボビー・バードによるものだった。それぞれのディスクは両面にその告知を含んでいた。

8. HEY AMERICAVocal(Nat Jones-Addie Williams Jones)
9. HEY AMERICASing Along(Nat Jones-Addie Williams Jones)
1970年11月リリース(King 6339)


“Super Bad”がチャートを上がった時、ジェイムズは3度目のクリスマス・アルバムのレコーディングのために、シンシナティで数日間を過ごすことを決めた。彼は舵取り役に、前のバンドの音楽監督だったナット・ジョーンズを置いた。ジョーンズはその頃、楽曲の入ったカバンを持ち、キング・スタジオ周辺をうろついていた。ジョーンズは2日間でバッキング・トラックを録り終えた。ブラウンはジョーンズの歌詞に大急ぎで目を通し、録り直すことを面倒くさがりながら、くつろいで12曲にヴォーカルをオーヴァーダブした。

Hey Americaのタイトル・チューンは、季節物シングルと同時リリースとなった。ひょっとすると、“Hava Nagilah”を引用した唯一のクリスマス・ソングかもしれない。的を得た飾り気のない演奏だ。B面用にブラウンはストリングスを加えたインストゥルメンタル・トラックを使用した。おそらくデヴィッド・マシューズによるアレンジメントだろう。

10. SANTA CLAUS IS DEFINITELY HERE TO STAYVocal(Nat Jones)
11. SANTA CLAUS IS DEFINITELY HERE TO STAYSing Along(Nat Jones)
1970年11月リリース(King 6340)


Hey Americaからのセカンド・シングルは、ホリデイ・シーズンの穏やかな側面を切り取ったソウル・バラッドだった―ある者は彼の生意気なファンのガキたちに優しく言及したジェイムズの感受性を主張するかもしれない。ブラウンはこのシングルに熱意を持ってプロモーション活動を行なった。彼はアルバムに先がけて急いでマスタリングを済ませ、12月の2つのテレビ・トーク番組で披露さえした。続くアルバムのマスタリング作業の間に、このヴォーカル・トラックは事故によって消去されてしまい、ジェイムズは再度ヴォーカルを入れるために、ジョージア州メイコンのスタジオに急行しなければならなかった。

“Hey America”同様、アルバム・ヴァージョンとシングルB面のインストゥルメンタル・ヴァージョンのストリングスは、シングルのA面からミックスされた。両クリスマス・シングルともモノでプレスされた。どちらも1964年の“Out Of Sight”以来のブラウンを使ったピクチャー・スリーヴとなり、以降慣習となった。

12. GET UP, GET INTO IT, GET INVOLVED Pt. 1(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
13. GET UP, GET INTO IT, GET INVOLVED Pt. 2(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
14. GET UP, GET INTO IT, GET INVOLVED Pt. 1(Reverb Version)(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
15. GET UP, GET INTO IT, GET INVOLVED Pt. 2(Reverb Version)(James Brown-Bobby Byrd-Ron Lenhoff)
1970年12月リリース(King 6347)/R&Bチャート4位、ポップ・チャート34位


ブラウンはホリデイ・シングルをノヴェルティ物以外でリリースすることはなかった。“Super Bad”に続くシングルとして彼が最初に考えていたアイデアは、“Talking Loud And Saying Nothing”をついにリリースすることだった。彼はオリジナルの“ロック”ヴァージョンをKing P-6359P(Volume 6参照)としてリリースし、同時にJ.B.’sとの新しいファンキー・ヴァージョンをKing S-6359Sとしてリリースする計画を立てていた―“P”はPop、“S”はSoulのことだ。ポップ・ヴァージョンのプロモ盤とリリース盤両方がプレスされたが、ブラウンは突然ニュー・ヴァージョンを破棄することを決め、まもなく計画全体を取りやめた。(ディスク2解説参照)

11月3日までにブラウンとバンドの若い中心メンバーがキング・スタジオに集まった時、ベテランのセント・クレア・ピックニーとクライド・スタブルフィールドが再び姿を現していた。またバンドに加わったのが、セカンド・ギタリストのハーロン“チーズ”マーチンだった。そのソリッドなリズム・プレイは、60年代にバンドにいたアルフォンゾ・キーランを思わせるものだった。彼の存在によって、キャットフィッシュ・コリンズはリード・ギターに専念する自由を与えられ、“Get Up, Get Into It, Get Involved”が録音された時、コリンズはその中で卓越した存在となった。

“Get Involved”は意識の流れを反映したジャムだった。親しみやすいフレーズを超える詞はあまり出てこないが、ブラウンの熱意あるメッセージは、社会的な行動主義が衰えかけて見えた時代に本物の響きがあった。音楽的には“Sex Machine”、“Super Bad”とは違い、真のブリッジ部を欠いていた。頭から3分のところで初めてグルーヴが変化し、コリンズによる長いソロ・ブレイクに光が当てられる。ボビー・バードはうしろでボスの分身を演じていた。“Get Involved”はまた、ブラウンのニュー・バンドでクライド・スタブルフィールドがフィーチャーされた初のシングルだった。

全てがリズムに支配された“Get Involved”は騒々しくミックスされていた―あるいは騒々しすぎたかもしれない。ジェイムズはリリース後すぐにトラックをリミックスしたが、それはわずかにトラックのガレージ風な魅力を犠牲にしていた。プロモ盤の中には、それぞれの面が2分44秒と2分46秒のショート・ヴァージョンを含むものもあった。“Sex Machine”以降のJBのシングル同様、“Get Involved”はモノのみでプレスされた。

“Get Involved”によってシングルは5年連続してソウル/R&Bチャートで上位に食い込むことになり、キャッシュボックス誌はジェイムズ・ブラウンをその年の最優秀男性R&Bアーチストに選出した。

16. I CRIED(James Brown-Bobby Byrd)
1971年1月リリース(King 6363)/R&Bチャート15位、ポップ・チャート50位


常にスロー・テンポのヒットを求めてうろついていたブラウンは、デヴィッド・マシューズによる繊細なアレンジメントが施された“I Cried”で1971年をスタートさせた。それはジェイムズとボビー・バードが1963年にトミー・モンゴメリー―のちのタミー・テレル―のために書いた美しい歌だった。ヒットを連発していた後押しによって“I Cried”はチャート入りしたが、すぐに忘れられてしまった。B面は“World Part 2”だったが、最初のリリースは1969年だった(Volume 6 参照)。

一方でブラウンは、若いJ.B.’sの中に永続的な忠誠心があるとは思っていなかった。彼は公的には決して認めなかったが、以前のバンドのスタイルと献身を失っていた。以前のオーケストラ・メンバーのほとんどが、挑戦的に自分たち自身をメイシオ・アンド・オール・ザ・キングス・メンとしてプロモートしていたが、まさにジェイムズからくるりと向きを変えようとしているわけではなかった。ジェイムズはアルフレッド“ピー・ウィー”エリスを再びバンドに誘い込もうとした―彼がトランペッターのウェイモン・リードを連れてくるのを願いながら・・・。しかし彼の申し入れは無視された。結局彼はフレッド・ウェズリーに手を伸ばし、彼に再結成バンドの一員になるよう説得した。12月16日、ウェズリーはニューヨークでバンドの面々に会った。

「僕はピーウィー、メイシオ、ウェイモンに会えることを期待して戻ったんだ」 フレッドはかつてそういった。「僕はブーツィーやキャットフィッシュやその他の未熟なホーン・プレーヤーたちと会うために戻ってきたわけじゃなかった」

1週間後にはクライド・スタブルフィールドさえまた去って行ったが、ウェズリーはバンド・リーダーとなって重い足取りでメンバーを導きながら形を整えていった。彼はメンバーたちの限界を見極めながら、若いプレーヤーたちの強みを生かすようにアレンジメントを加えていった。

17. SOUL POWER Pt. 1(James Brown)
18. SOUL POWER Pt. 2 & Pt. 3(James Brown)
1971年2月リリース(King 6368 プロモーション用)


“Soul Power”はフレッド・ウェズリーが実権を握って初めて放ったJBヒットだった。それはジェイムズがワシントンD.C.のロウズ・パレス・シアターに滞在している間のオールナイト・セッションで生まれた。

しかしながら、最初に判明したのは、ジェイムズがほしがっていたのが1つのチャレンジだったことだ。彼が過去、ピー・ウィーとナット・ジョーンズとともに築いていたような関係で、ボスは人目につかないようにフレッドとアイデアを共有していた。ピー・ウィーからのアドヴァイスのおかげで、フレッドは求めるべきものを理解した。

「僕はミスター・ブラウンが何をいっているのか理解するために、自分の音楽的知識を心の中で自由に解放しなきゃならなかった」 フレッドはいう。「僕の役割は単に彼のいっていることを音楽用語に置きかえることだった」

“Get Up, Get Into It, Get Involved”のライヴ・アレンジメントから抜き出されたリフを使ったトラックは、最初のダウンビートから火がついている。

“Soul Power”は“Get Involved”の続編だったのかもしれないが、歌詞的にはある者が呼ぶところの、彼による“ムーヴメント”ソングの中で次のステップを示していた。参加する(get involved)ための誇り(“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”)から自信(“I Don’t Want Nobody To Give Me Nothing”)を持ち、1971年に断言した“Soul Power”は、1つの縄張り主張のアンセムだった―あるいはそれまでの中でJBによる最も攻撃的な人種声明だったかもしれない。

白ラベルのプロモ盤はB面に無音の溝で分けられたPart 2 & 3が入っていた。リヴァーブが加えられたのは、ブラウンが明らかにラジオ向けだと感じていたからだ。

DISC 2

1. SOUL POWER Pt. 1(James Brown)
2. SOUL POWER Pt. 2 & Pt. 3(James Brown)
1971年2月リリース(King 6368)/R&Bチャート3位、ポップ・チャート29位


黒ラベルのリリース盤はプロモ盤と同じように作られたが、リヴァーブなしでマスタリングされた。全てのプレスはモノで行なわれた。業界の標準が急速にステレオに切り替わっていた時期に、モノ・シングルはますます奇妙なJBのトレードマークとなっていた。

3. SPINNING WHEEL Pt. 1(David Clayton Thomas)
4. SPINNING WHEEL Pt. 2(David Clayton Thomas)
1971年3月リリース(King 6366)


“Spinning Wheel”は1969年10月にブラウンの古いバンドとともに空のベル・オーディトリアムでレコーディングされた。以前の晩に録音されたライヴ・コンサート・ヴァージョンにはいくつかのミスが含まれていたため、ジェイムズはショーのあと再度レコーディングし、オーディエンスの歓声を加えた。有名なブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのヒットのアレンジメント―おそらくピーウィーによるものだろう。彼は覚えていないが―は、音楽的には素晴らしいが見落とされたリリースだった。

偶然にもこのブラウンの以前のバンドとの最後のシングルがリリースされた時に、JBと若いメンバーたちとの蜜月時代は終わりを告げた。ファンカデリックやオハイオ・プレイヤーズのようなプログレッシヴなバンドにインスパイアされた若いメンバーたちは、自身の音楽的アイデアを追及できるようなクリエイティヴな環境を望むようになっていた。ヨーロッパでの目を見張るような1ヶ月間と、ニューヨークのコパカバーナでの短縮された公演に続いて、コリンズ兄弟と他のいく人かのメンバーたちは立ち去った。

「僕はいつ去るべきか分かっていた」 ブーツィーはいう。「次に進む時だったんだ」

バンドがソウルのキングにふさわしい行動をとってきたように、フレッド・ウェズリーは不意にアポロ・シアターの地下で交代メンバーとのリハーサルをするために8日間のオフを返上しなければならなくなった。「バンドに残った少数だけで始めたんだ」 彼は回想する。「僕の人生で最もトラウマ的な時期のひとつだった。僕は傷ついたバンドを一から立ち直らせてショーをまとめなきゃならなかった。でも僕たちは成し遂げたし、うまくいったね」

新しいラインナップはサキソフォニストのジミー・パーカー(メイシオとメルヴィンとの血縁関係はなし)とベーシストのフレッド・トーマスを含んでいた。ブラウンは1年前にハーレムのスモールズ・パラダイスで“チーズ”マーチンとともにプレイするトーマスを見つけ出していた。トーマスはブーツィー・コリンズとそれほど異なってはいなかったかもしれないが、彼はブーツィーの穴を完全に埋めるよう期待された。大胆不敵なコリンズとは正反対に保守的だったトーマスは、1つの重要な領域においてブーツィーの後釜に座った―グルーヴだ。トーマスはそれまでのベーシスト同様、恐るべきグルーヴの持ち主だった。彼はギャラについても全く満足していたし、望みもしないことだった―「思いもよらなかったね」 彼はかつてそういった。

5. ESCAPE-ISM(Part 1)(James Brown)
6. ESCAPE-ISM(Part 2 & 3)(James Brown)
1971年5月リリース(People 2500)
7. ESCAPE-ISM(Part 1)(second mix)(James Brown)
8. ESCAPE-ISM(Part 2 & 3)(second mix)(James Brown)
1971年6月リリース(People 2500)/R&Bチャート6位、ポップ・チャート35位


ブラウンとの最初のライヴ・パフォーマンスのちょうど1週間後、新生J.B.’sはボビー・バードのセッションのためにキング・スタジオに入った。バードの“I Know You Got Soul”のウォーミングアップ中に、ブラウンはひとつのひらめきを感じ、アドリブを始めた。彼はボビーにほとんど弁解めいた話を大声でし始めた。その歌は知らぬ者同士が思いつきで会話するところからヒントを得ていた。才能と呼ぼうが幸運と呼ぼうが、スタジオをうろつきまわり、ファンキーなグルーヴをプレイする新しいミュージシャンたちと親しくなり、くだけた会話を価値あるトラックに変えることができたのはジェイムズ・ブラウンだけだった。味のあるオルガン・ソロと“Super Bad”で持ち込まれたセント・クレア・ピックニーによる無調のアプローチによって、そのジャムは19分間にも達した。

ジャムが終わると、すぐにブラウンはエンジニア・ルームに駆け込んだ。

「やれやれ、ロン、長かったな!だろ?ええ?」 彼はエンジニアのロン・レンホフにまくし立てた。「どうだった?9分くらいか?」 おどけ者のレンホフはジェイムズの方に振り向いてニヤッと笑った。「19分だ。ミスター・ジェイムズ」 彼はいった。「君にとってさえ十分長いな」

ジェイムズは喜びを押し殺した表情で答えた―「よし、十分な長さだ。パート1、2、3、4、5、6、そして7だ」

ジェイムズは“Escape-ism”をシングル候補として優先的には考えていなかった。彼は“Soul Power”のようなメジャー・リリースと競合しないようにプロモートするつもりだった。そしてさらに差別化を図るため、彼は“Escape-ism”を新しいピープル・レーベルからリリースすることにした。それはレーベルの共同オーナーとして、リン・ブロードキャスティングがスターデイ-キングを立ち上げたことを知ったあとに、ブラウンが長年の友人だったハル・ニーリーとともに設立したレーベルだった。ニーリーはまたスターデイ-キングの社長だったが、彼とブラウンは将来の見返りとしての資産の蓄積になると見ていた。

結局のところ、“Escape-ism”は無意味なリリースとはならなかった。ブラック系ラジオでの反応は、ブラウンがすぐにリミックスに動き出すほど実のあるものだった。彼はリズム・ギターのレベルをわずかに落とし、低音を強調した。ニュー・ミックスはJB自身による説明のついた手紙が添えられてラジオ局に配布された。そしてその後に正規盤としてシングル・リリースされた。

9. HOT PANTS Pt. 1(She Got To Use What She Got To Get What She Want)(James Brown)
10. HOT PANTS Pt. 2 & 3(She Got To Use What She Got To Get What She Want)(James Brown)
1971年6月リリース(People 2501)/R&Bチャート1位、ポップ・チャート15位


1967年の“Cold Sweat”、1969年の“Mother Popcorn”同様、ジェイムズ・ブラウンは1971年の夏にパーティー・アンセムを送り出した。“Hot Pants”は当時流行した衣服にささげた喜びの賛歌だった。音楽的な傾向としては、フレッド・ウェズリーによるむき出しのアレンジメントが、“Escape-ism”や“Get Up, Get Into It, Get Involved”のようなシンコペーションの激しいナンバーに比べて驚くほど一直線だった。きっちり音のそろったホーン、たった2本のサキソフォン、そしてウェズリーのトロンボーンは珍しく繊細だ。そして揺るぎない拍を刻むドラムス、ベース、タンバリンは、ファンクを生み出す“チーズ”マーチンの頑強なリズム・ギターにほとんど任せている。しかしいかなるダンス・フロアにも空きスペースを残さないジャム・プレイへ、縫いこまれたパーツがかみ合っていく。

“Escape-ism”に続いて、すぐにリリースされた“Hot Pants”は大ヒットとなり、1位に輝いた―それはブラウンとニーリーがピープル・レーベルのために切望していたナンバー・ワン・レコードだった。ブラウンの以前の3パート・シングルと違い、“Hot Pants”のプロモ盤とリリース盤は同じ形で作られ、“Escape-ism”のようにB面にパート2と3が続けて入っていた。リリース1ヵ月後、ブラウンはポリドール・レコーズのUS支社と契約した。スターデイ-キングとの契約無効期間によって、ポリドールはシングルとして売り出すことを条件に、“Hot Pants”のオリジナル・マスターを手に入れることができた。JBは同名アルバム用に“Hot Pants”を再録することを余儀なくされた。

11. MY BROTHER Pt. 1(James Brown)
12. MY BROTHER Pt. 2(James Brown)
1971年6月リリース(People 2502)/名義:THE J.B.s


フィラデルフィアのベテランDJでコミュニティ活動家のジョージー・ウッズに捧げられた“My Brother”は、“Hot Pants”セッションで生まれた9分間ものインストゥルメンタルだった。(レアなアセテート盤でしか存在しない“My Brother”のセカンド・テイクは謝恩会でプレイされ、ブラウンによる感謝のことばが入っていた。)

ジェイムズはエンジニアのロン・レンホフにトラックを2つのパートに編集するよう依頼した。The J.B.’s名義でのサード・シングルとしてリリースするためだった。(ブラウンは先にリリースされたJ.B.’sの“The Grunt”と“These Are The J.B.’s”を演奏することはなかった。)

ジェイムズはピアノとオルガンのソロをとっている。トロンボーンはフレッド・ウェズリーだ。ドラマーはクライド・スタブルフィールドのいない椅子を目指していた弟子のアルフレッド・トーマスだった。のちにB.B.キングとともにツアーすることになるトーマスは、3ヶ月以内の在籍だった。これが唯一彼がブラウンのために行なった録音だ。

“My Brother”は不満の声さえ聞かれずに消え去ってしまったが、6月の終わりまでには、“Escape-ism”と“Hot Pants”のおかげでジェイムズ・ブラウンはそれまでの彼同様、ホットな存在となっていた。ジェイムズ・ブラウン・プロダクションズは独力でスターデイ-キングの門戸開放を維持し続けていた。ハル・ニーリーと数人のスターデイ-キング重役たちが、リン・ブロードキャスティングから会社を買い戻そうとたくらんだ時、リンの打算的な方針が最も需要ある財産であるジェイムズ・ブラウンを破産に向かわせていることが明白となった。

そこにとげとげしさなどなく、全ては公明正大だった。ジェイムズと彼の弁護士たちはポリドールとのミーティングに着手した。そのドイツの会社はアメリカでの成功に関心を持っていた。ジェイムズ・ブラウンのようなスターと契約しない手などあるだろうか?アメリカ市場での取るに足らないシェアにもかかわらず、ポリドール・インターナショナルはブラウンの一貫性に心の底から共鳴していた。彼らは数年間にわたり、US外でのブラウンのレコードを配給していた。リン・ブロードキャスティング及びハル・ニーリーとの交渉の7週間後、7月7日にポリドール・レコーズはジェイムズ・ブラウンと5年契約を結んだ。契約金は7桁の数字(100万ドル)にも上ると噂される。ポリドールはまた、利益の出るブラウンの出版権保有を獲得し、ジェイムズ・ブラウン及びキングに保管されたジェイムズ・ブラウン・プロダクションズのバック・カタログの所有権を手に入れた。

9月までに、ブラウンのプロダクション活動はポリドールから提供されたニューヨークのオフィスが拠点となった。同時にジェイムズは自身のツアー・ビジネスをマンズ・ワールド・エンタープライズと改名し、ジョージア州オーガスタに移転させ、15年に及んだシンシナティ・コネクションの幕を下ろした。

13. MAKE IT FUNKY(Part 1)(James Brown-Charles Bobbit)
14. MAKE IT FUNKY(Part 2)(James Brown-Charles Bobbit)
1971年8月リリース(Polydor 14088/R&Bチャート1位、ポップ・チャート22位


ブラウンはポリドールとの関係を”Make It Funky”でスタートさせた―オルガン主導のインストゥルメンタルで始まる14分間のジャムだった。考えてみればほとんどヴォーカルは即興のように聞こえる。

フレッド・ウェズリーによるホーン・アレンジメントは、ピー・ウィー・エリス時代のJBホーンズ典型の対位法的手法へと立ち戻っている。ウェズリーはブラスをリード楽器に対抗させる手法を多用することはめったになかった。しかしここでのブリッジ部分で、彼はみずからのトロンボーンとセント・クレア・ピックニーのテナー・サキソフォンのヴォイシングによって、同様の効果を得ることに成功した。また彼はトランペットと、アルト・サキソフォンのジミー・パーカーのためにカウンターパート(対応部)を書いた。それでも基本的に“Make It Funky”を本当にファンキーにしていたのは、“チーズ”マーチンのギターだった。セカンド・ギタリストのロバート・コールマンは、控えめな3つのノートをひたすら刻むことで陶酔状態を作り出し、他のじゃまにならないようキープしている。

1971年のバンドでは、プレーヤーたちの才能のレベルが一様でなかったことによって非難を招くことになった。伝説のジャズマン、マイルス・デイヴィスがブルックリンのショーでのバンドのリハーサルを見たあとに、フレッド・ウェズリーは楽屋に彼を訪ねた。ウェズリーはデイヴィスが虚空を見つめ、社交辞令抜きに「ドラマーのリズムが重い」とつぶやいたことを覚えている。

ブラウンは主要なギグで地元のホーン・プレーヤーによってJ.B.’sを増強するために、ロードでのアレンジャーとしてデヴィッド・マシューズを同行させ始めていた。ウェズリーはバンドの弱点を隠すボスの手腕に信頼を置いている。「ジェイムズ・ブラウンはとんでもなく偉大なエンターテイナーだからね。彼の前に誰を差し出そうが、グレイト・バンドになるんだ」 フレッドはいう。「コールマンは僕たちがいっしょにプレイしてきた中で、間違いなく最低レベルのギター・プレーヤーだったけど、結局は彼の中で最高のプレイをした。僕たちは彼がプレイできるようなパートを与えたんだ。彼がどんなにシンプルなパートをプレイしようと、ジェイムズ・ブラウンのエネルギーが生み出されるんだ」

15. MY PART/MAKE IT FUNKY(Part 3)(James Brown-Charles Bobbit)
16. MY PART/MAKE IT FUNKY(Part 4)(James Brown-Charles Bobbit)
1971年10月リリース(Polydor 14098)


ちょうど1ヵ月後、ポリドールは“Make It Funky”の続編をリリースした。どういうわけか、パート3と4はレコーディングの順とは正反対だった。フレッド・ウェズリーは違うソロをとり、ロバート・コールマンはBBキング・スタイルでスポットライトを当てられている。しかしこの奇妙なリリースは失敗に終わった―ここ数年でのブラウン初のミスだった。

17. I’M A GREEDY MAN-PART(James Brown)
18. I’M A GREEDY MAN-PART(James Brown)
1971年11月リリース(Polydor 14100)/R&Bチャート7位、ポップ・チャート35位


“My Part/Make It Funky”が失敗に終わった時、ブラウンはすぐに次のシングルのためにストック・テープを漁った―それがナッシュヴィルの“Hot Pants”セッションでもともとレコーディングされた1曲だった。がっしりしたアレンジメントと真実味ある歌詞を伴った“I’m A Greedy Man”(オレは貪欲な男だ)は、“Make It Funky”のような自発性の高いジャムに欠けていた詳細にわたる調整と配慮が誇示されていた。ひょっとすると“I’m A Greedy Man”の方がポリドールからのファースト・シングルにふさわしかったかもしれない。

初期のポリドール・リリースは、モノ・シングルへのブラウンの好みを不朽化した。ブラウンのA&Rを管理していたポリドールのボブ・ボースは、AMラジオがモノ・プレスを望んでいたことを覚えているが、ジェイムズが時々セッションの最後に大急ぎでまとめられたラフ・ミックスに愛着を持ち、それに手を加えないよう望んでいたことを指摘している。「ブラウンはサウンドがよければモノでもステレオでも気にしなかったんだ」 彼はいう。

19. JUST WON’T DO RIGHT(James Brown)
King 6373として予定されたがキャンセルされた
1971年12月リリース(Polydor 14107)/名義:リン・コリンズ


“Just Won’t Do Right”はリン・コリンズのデビュー曲となった。彼女はジェイムズ・ブラウンのロード・ショーでの最新の歌姫だった。この歌を気に入っていたブラウンは、様々なスタイルで何度もこれをレコーディングしていた。

以前フェイマス・フレイムスの一員だったジョニー・テリーが、テキサス州アビリーンでのJBのコンサートでコリンズを発見した。1971年初めに、テリーはジェイムズに“Wheels Of Life”を彼女にレコーディングさせようと説得した。そのB面用に、ブラウンはこのトラックを復活させ、チャーミングなデュエットにしようと考えた。レコードは最初、People 2503として予定され、それからKing 6373としてプロモ盤がプレスされた。しかし正式にリリースされる前に、ブラウンはポリドールに移籍してしまった。ジェイムズはロード・ショーでコリンズがヴィッキ・アンダーソンに取って代わるまでテープを放っておいた。それからレコードは短期間、People 605としてピープル・レーベルに移管されたが、ついにポリドールからのリリースが実現した。

キングのラベルはデイヴ・マシューズとクレジットし、ポリドールのラベルはニューヨーカーのサミー・ロウとクレジットしているが、実際この穏やかなアレンジメントは1968年のマーヴァ・ホイットニー・セッションのために、アルフレッド“ピー・ウィー”エリスが書いたものだ。またピーウィーはアルト・サックス・ソロもとっている。1970年にホイットニーのヴァージョンがKing 6327として予定されたがリリースには至らなかった。

20. TALKING LOUD AND SAY NOTHING-Part(James Brown-Bobby Byrd)
21. TALKING LOUD AND SAY NOTHING-Part(James Brown-Bobby Byrd)
1972年1月リリース(Polydor 14109)/R&Bチャート1位、ポップ・チャート27位


ブーツィー/キャットフィッシュ時代にレコーディングされたこのヴィンテージ・トラックは、1年前にJBがキングからリリースしようと考えていた“Talking Loud”の“ソウル”ヴァージョンだ。そのセッションは大忙しの連続一夜公演期間中の1日の休日に押し込まれていた。その結果、ブラウンがスタジオに持ち込んだフラストレーションによって歌詞が増すことになった。彼はメイコンにあるフィル・ウォルデンの最先端設備を誇るカプリコーン・スタジオを予約していたが、オールマン・ブラザーズのレコーディングが延長されてしまった。時間のなかったジェイムズは、渋々そこそこの設備だったボビー・スミス・スタジオへ向かった。

表面上はほとばしり出るベース・ラインと魅惑的でレイジーな瞬間以外に、このトラックに聞くべきところはそれほどない。しかしちょっと聴いただけでは単純だがよく聴くと複雑な他の多くのJBジャム同様、そのひらめきは突然輝き出す。“Part機表わり近くの最初のブリッジまでに、ジョン・スタークスとブーツィー・コリンズによる命知らずな一騎打ちによって、“Talking Loud”はブラウンの中でも、より魅惑的なグルーヴを見せつける1曲となっている。

1年以内で3つ目のナンバー・ワン・シングルとなった“Talking Loud”は、オリジナルJ.B.’sでの最後のヒットだった。“Talking Loud”がリリースされるまでに、そのオリジナルの編成が崩壊して以来、10ヶ月が経過していた。新しいレーベルでの最初の4枚のシングルのうち、2枚がポリドールとの契約前に行なわれたセッションからであり、“Make It Funky”と同時にレコーディングされたアルバム、Hot Pantsの中にはどれも収録されなかったのは注目すべき点だ。1970年代の音楽ビジネスがアルバム志向になっていたのは明白だが、ブラウンは依然アルバムを色あせたヒット曲と穴埋め曲を収めたものとしてとらえ、頑固にシングル志向を貫いていたかのようだった。

1971年のブラウンは圧倒的なチャート上での成功を収めていたが、J.B.’sのためにより多才で熟達したプレーヤーを探し出すことに、彼は二の足を踏んでいた。しかしフレッド・ウェズリーは分かっていた。「メイシオと続いてブーツィーを失った時点で、ジェイムズは他では手に入れることのできない1人のミュージシャンとして自信を深めていた―それまでのキャリアの中で頂点に立った男としてね」 彼はいう。「僕たちのバンド・メンバーも頂点にいた。ミスター・ブラウンは僕をうまく操縦することができたし、僕も彼にグレイトなショーを提供できることを分かっていたんだ。僕たちはあのバンドでプログラムから大きく逸脱するようなことはしなかったけど、僕たちのやったことはとてもうまくいったね」


アラン・リーズ
エリック“対位法”リーズに感謝する
2009年1月

アラン・リーズは長きにわたる音楽業界の重役であり、音楽学者である。彼はジェイムズ・ブラウンのツアー・ディレクターとして、1970年から1974年まで働いた。2008年4月にPlume Booksから出版されたThe James Brown Readerの共著者。


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