Welcome to my homepage


James Brown/The Singles Volume 6 : 1969-1970/2008 Universal Records/Hip-O Select.com B0012204-02



ジェイムズ・ブラウンは彼の最初の娘、ディアナの誕生で1969年を迎えた。“Give It Up Or Turnit A Loose”の成功と興行面での成功の連続に乗り、休暇を過ごしたあと、ブラウンは多くのテレビ・トーク番組に出演した。ステージ上の彼は、死ぬまで世界中で歌うことになるフレイムスなしのソロ・シンガーとして発展し続けていた。ブラウンのところにとどまっていた引き立て役であるテナー・サキソフォニストのメイシオ・パーカーは、最新版のジェイムズ・ブラウン・バンドを構成していた一流ミュージシャンの1人だった。バンド内に不満をもっていたことをほのめかしていたにもかかわらず、その年は最高点に達した1人のアーチストとバック・バンドによるエキサイティングな音楽を保証していた。

DISC 1

1. YOU GOT TO HAVE A MOTHER FOR ME-Pt 1(James Brown-Alfred Ellis)
King 6223 未発表
2. THE LITTLE GROOVE MAKER ME(James Brown-Bud Hobgood)
King 6223/King 6235 どちらも未発表
3. YOU GOT TO HAVE A MOTHER FOR ME(Long Version)(James Brown-Alfred Ellis)
King 6223DJ 未発表


ジェイムズがカリフォルニアをツアーしている間に、彼がレコーディングした“You Got To Have A Mother For Me”は、そこから数ヵ月後に“Mother Popcorn”となる原型的ナンバーだった。この女体賛歌は、キング・レコーズのリリース・スケジュールに乗ったが、プレス前に保留となった。シンシナティのミュージシャン、ケニー・プールによってリード・ギターがオーヴァーダブされたインストゥルメンタル・トラックは、1969年暮れにアルバムAin’t It Funkyの中で“Use Your Mother”として登場した。(以前にリリースされた“You Got To Have A Mother For Me”のヴォーカル・ミックスには誤ってプールのギター・トラックが入っていた) 1970年に“I Need Help(I Can’t Do It Alone)”として再び試みられた時は、ボビー・バードの新しいヴォーカルが加えられた。

ネイト・ジョーンズはその日のために米国音楽家連盟の契約で名前のあがった唯一のドラマーだが、オリジナルのセッション・テープでは、ジェイムズがクライド・スタブルフィールドに指示を叫んでいるのが聞き取れる。

プロモーショナル・コピー盤はA面に最初のパートのみ、B面にフル・レコーディングを収録する予定だった。リリース盤には、B面にアルバムLive At The Apollo Vol. 兇猟校間ヴァージョン“There Was A Time”から抜き出された“The Little Groove Maker Me”が予定されていた。このシングルがキャンセルされた時、“Groove Maker”は再配置された。

4. I DON’T WANT NOBODY TO GIVE ME NOTHING
(OPEN UP THE DOOR, I’LL GET IT MYSELF)(PART 1)

5. I DON’T WANT NOBODY TO GIVE ME NOTHING
(OPEN UP THE DOOR, I’LL GET IT MYSELF)(PART 2)

1969年3月リリース(King 6224)/R&Bチャート3位、ポップ・チャート20位


ダイナミックで一風変わったこの歌は、ホテル滞在中の詞の走り書きとともに始まった。2月2日、ネブラスカ州のオマハで、まだリリースされていなかった“The Popcorn”のインストゥルメンタル・トラックにブラウンが詞を載せ、デモが録音された。3週間後に最終ヴァージョンがアトランタで録音された。ピー・ウィー・エリスによるきわめて冒険的なアレンジメントを兼ねそろえた注目すべきメッセージによって、レコードはすぐにキングのリリース・スケジュールの最前線に乗った。“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”のようなキャッチーなアンセムとならなかったのは、“I Don’t Want Nobody To Give Me Nothing”がブラウンの“メッセージ”レコーディングの中で、最も自伝的要素が強かったからかもしれない。

メイシオ・パーカーの素晴らしいテナー・ソロは、同様にブラウンのヴォーカル・フレーズと曲の変わったリズムの流れを反映している。クライド・スタブルフィールドのドラムスは、かつてなかったほどに“彼”そのものであるし、とびきりいかしたホーン・セクションによるイントロは、ヒップホップ世代のお気に入りのリフとなった。高く舞い上がるトランペットのフレーズは、故リチャード“クシュ”グリフィンによるものだ。

「僕は本当に大胆なことをしようって気分だったのかもしれない。あの頃はジェイムズに全幅の信頼をおかれていたからね」 エリスはいう。「彼に信頼されていると感じていたし、彼は新しい方向性に手を伸ばす用意があったように思った」

その間にキング・レコーズはナッシュヴィルにあるドン・ピアースのスターデイ・レコーズと合併していた。新会社はベテラン職員のハル・ニーリーを社長に任命した。合併によって必然的にシンシナティのプラントが廃止され、本格的にナッシュヴィルに移転するのではないかといううわさが渦巻いた。不確かな空気が流れる中、新体制は最初のスマッシュ・ヒットを放った―それはLPに収録されることはなかった。

6. I LOVE YOU(James Brown-Clyde Stubblefield-Alfonzo Kellum)
7. MAYBE I’LL UNDERSTAND(James Brown-Bud Hobgood)
1969年4月リリース(Kingナンバーなし)


4月、ジェットやエボニーのような黒人向けの雑誌は、洗濯用洗剤の“コールド・パワー”と姉妹品のつけおき洗剤“アクシオン”の広告を載せ、クーポン商品として他では入手できないこのシングルを付けると宣伝した。このレコードはシンシナティでプレスされ、リリース・ナンバーやジェイムズ・ブランのプロダクション・ロゴのない青いキング・ラベルだった。

行き当たりばったりな“I Love You”とそのB面は、すでにアルバムSay It Loudを通じてマーケットに流通していた。B面の“Maybe I’ll Understand”に至っては、1年前のアルバムI Got The Feelingに収録されていた。ジミー・ノーランによる断固としたギター・ラインは、他のつまらないブルースではハイライトとなる類のものだ。

8. ANY DAY NOW(Bob Hilliard-Burt Bacharach)
9. I’M SHOOK
King 6235 未発表


ジェイムズ・ブラウン・プロダクションズは、キング・スタジオの不確かな未来によって活気をそがれることはほとんどなかった。“サウンド・ミュージアム”という名で知られた地元のコンボのために行なわれたオーディションで、グループのリーダー、デヴィッド・マシューズが正統なアレンジャーとして教育を受けていたことが分かった。JBは興味を持った。

ケンタッキーの田舎出身のマシューズは、グルーよりも強い印象を与え、JBは編曲者として彼を雇った。あるいはこのロングヘアの若者は、JBが自身のバンド抜きを選んだレコーディングに新風を吹き込むことができたのかもしれない。いずれにしろ、メソジスト派の牧師を父に持つマシューズは、栄えあるシンシナティ・シンフォニーの中でホーンとストリング・プレーヤーのパイプ役だった。

「僕はジェイムズのような編曲を本当は書けなかったんだ」 マシューズはかつてワックス・ポエティック誌に語った。「僕は自分の創造力を使ってジェイムズ・ブラウンぽく聞こえるような形に整えていった。時々、彼は奇妙な注文をいってきた、不可能なことをね。僕はひょっとすると彼は僕に不可能な指示を与えることでいったん先入観を追い払って、僕が全く違ったものを思いつくんじゃないかと期待しているのかもしれないと理解した」

JBはチャック・ジャクソンによる60年代初頭のヒット曲の陽気なカヴァー、“Any Day Now”をマシューズにアレンジさせた。ブラウンはこの曲を気に入っていた。彼は1967年10月にこれをサミー・ロウのニューヨークのスタジオ・バンドとともに最初にレコーディングしていたが、そのヴァージョンはリリースされず、再録音もされなかった。キングはシングルとして4月2日リリースを準備していたが、不満をもったブラウンは4月21日にマシューズに“Any Day Now”をゼロから再レコーディングさせた。彼は数日後にヴォーカルを加えた。

しかし再び彼は気が変わり、突如“Any Day Now”を“I’m Shook”と取り替えた。マシューズの回想によれば、単に“Any Day Now”がジェイムズ・ブラウンのシングル・リリースとして十分に“彼”を保証するものではなかったかららしい。

B面は“The Little Groove Maker Me”で、そのレコードはキング初のステレオ・リリースとして指名された。特別にラベルがオーダーされた。35,000枚がインディアナのRCAのプレス工場でプレスされたが、ジェイムズが“Mother Popcorn”を録音した時に、キングの倉庫に送られた。翌日このシングルは延期となった。

King 6235は公式にリリースされることはなかったが、キングの倉庫が整理された1972年に、RCAプレス盤がマーケットに流通した。最終的に3曲はIt’s A Motherに収められた。

10. THE POPCORN
11. THE CHICKEN(Alfred Ellis)
1969年5月リリース(King 6240)/名義:ジェイムズ・ブラウン・プレイズ&ダイレクツ/R&Bチャート11位、ポップ・チャート30位


前年の夏にダラスのメモリアル・オーディトリアムのステージで観客なしでレコーディングされた“The Popcorn”は、“Bringing Up The Guitar”(Volume 5参照)のロードでのアレンジメントだ。“Cold Sweat”から抜き出されたグルーヴをもつ“The Popcorn”は、メイシオ・パーカーとジミー・ノーランの力量を見せつけている。ブラウンのインストゥルメンタル・シングルの中で最も成功した1枚となった。

“The Chicken”はライターのピー・ウィー・エリスとバンドから、親しみを込めて“Doink”と呼ばれていた。この非公式タイトルは曲の3度音程から来ていた。「僕たちはちょっとひねりを加えようと思ったんだ」 エリスはいう。「僕にはそのサウンドが‘doink’って聞こえたんだ」

“The Chicken”はのちにベーシストのジャコ・パストリアスによって有名になった。彼は自身のワールド・オブ・マウス・バンドでそれをレコーディングした。

12. MOTHER POPCORN(YOU GOT TO HAVE A MOTHER FOR ME)(Part 1(James Brown-Alfred Ellis)
13. MOTHER POPCORN(YOU GOT TO HAVE A MOTHER FOR ME)(Part 2(James Brown-Alfred Ellis)
1969年5月リリース(King 6245)/R&Bチャート1位、ポップ・チャート11位


わずかにスピードアップされ、“Cold Sweat”のベース・ラインがまばらに散見される。2度目となるブラウンの尻ダンスの試みは、その夏のダンス・センセーションとなり、1969年最大の彼のヒット曲となった。“Mother Popcorn”は新しい境地を突き破らなかったのかもしれないが、ピー・ウィー・エリスによる最も体力が要求されるホーン・フレーズをフィーチャーしていた。リズム・セクションはどこをとっても規律は緩んでいない。クライド・スタブルフィールドは“Mother Popcorn”で成熟をみているし、アーチストとしての手腕はもう一段レベルアップした。また歌はレコード上でのJBによる最も長いスクリームをフィーチャーしている。

「一番重要なのがベース・ドラムだけど、ベース・ギターがその次だね」 ベーシストの“スウィート・チャールズ”シェレルはいう。「それから次がホーン隊の拍のとり方だ。これがグルーヴィーでファンキーな要素両方を結合したんだ」

14. LOWDOWN POPCORN
15. TOP OF THE STACK(James Brown-Alfred Ellis
1969年7月リリース(King 6250)/R&Bチャート16位、ポップ・チャート41位


このシングルはジェイムズ・ブラウンのバンドが3人のトップ・ドラマー―クライド・スタブルフィールド、メルヴィン・パーカー、そしてジョン“ジャボ”スタークス―を誇示していた短期間を示している。

“Lowdown Popcorn”でドラマーを務めているのはスタブルフィールドだと信じられているが、これはメルヴィン・パーカーによる推測が含まれる。バンド・リーダーがピー・ウィー・エリスだという確証すらない。逆に、メルヴィンが“Top Of The Stack”の功績を認められているが、エリスはシャッフル・マスターのジョン・スタークスだと確信している。

エリスは“Stack”のイントロに出てくるマーチング・スタイルのリズムは、ベニー・ゴルソンの“Blues March”に近いと指摘する。“Blues March”はアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズによって有名になったハード・バップの定番だ。彼はまた伝説的なレイ・チャールズの八重奏をアレンジしたハンク・クロフォードの仕事を挙げている。「クロフォードは当時あのバンド編成の編曲に関して一番の影響力をもっていたね」

16. WORLD(Part 1)
17. WORLD(Part 2)
1969年8月リリース(King 6258)/R&Bチャート8位、ポップ・チャート37位


“World”は自身のバンドによるブラウンのファンキーなレコーディングの中で例外の1曲だった。以前のバンド・リーダーだったナット・ジョーンズとジェイムズ・ブラウンによって仕上げられた。フィーチャーされたスタジオ・バンドは、フリーのアレンジャーだったH.B.バーナムによって集められた。ブラウンのバンドがツアー・バスに乗ってスポーカン(ワシントン州)に向かっている間に、ロサンゼルスでレコーディングされた。そうこうするうち、レギュラーのバンドの音楽ディレクターであるピー・ウィー・エリスは、ブラウンの世界で大勢を統制する自分のポジションに疲れを感じ始めていた。そのことと“World”のようなプロジェクトへの不参加との関係はなかったと彼は断言するが、エリスはこのセッションから1週間後のショーを不意に辞退した。「もうだめだと思ったのかもしれない」 彼はいう。

“World”のパーソネルを整理するには問題が存在する。オリジナルのマルチ・トラック・テープとほとんどのセッション記録は失われてしまっている。残っている書類から判断すれば、これは2度レコーディングされ、最終ヴァージョンで聞けるよりも多くのミュージシャンが参加していた。セッション契約には、ウェスト・コーストのベテラン、アーサー・アダムズが唯一のギタリストとして載っているが、セカンド・ギター・パートはおそらくシンシナティでケニー・プールによってオーヴァーダブされたのだろう。ブラウンは“World”のプロモートに力を注いだ。彼はそれを“I Don’t Want Nobody To Give Me Nothing”と“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”のような歌の政治的スタンスになじまなかった白人のファンたちへ申し出た和解としてとらえていた。しかしそれは彼の誤解だった。ブラウンの詞はナイーヴに過ぎ、ウッドストックの夏には時代遅れなアレンジメントのように見えた。その時の若者たちは“Mother Popcorn”で踊り、ジミ・ヘンドリクスでトリップしていた。“World”はポップ・トップ40に入ったが、一般的には失敗と見なされていた。

18. LET A MAN COME IN AND DO THE POPCORN PART ONE
19. SOMETIME(James Brown-Bud Hobgood)
1969年9月リリース(King 6255)/R&Bチャート2位、ポップ・チャート21位


これは“Mother Popcorn”のメガ・ヒットに真に続くシングルだ。“Let A Man Come In And Do The Popcorn Part One”は、メルヴィン・パーカーによるユニークなリズム・アプローチに駆り立てられたもうひとつのファンク弾だった。しかしA面が“Part One”であるのに対して、B面に“Part Two”が見当たらない。B面はメローな“It Was You”の1年前のダップスとのリメイクで、“ファット・エディ”セッツァーのギターと、バッキング・ヴォーカルにシスターズ・オブ・ライチャスをフィーチャーしていた。“Part Two”が見当たらないことについては、引き続き注目しておいてほしい。

20. I’M NOT DEMANDING(PT. 1)(James Brown-Bud Hobgood)
King 6273, 6322 未発表
##. I’M NOT DEMANDING(PT. 2)(James Brown-Bud Hobgood)
King 6273 未発表


“World”がかなり失望する結果に終わったにもかかわらず、ブラウンはファンクの領域外でのクロスオーヴァー・ヒットの可能性を探ろうと決心したかのようだった。

“World”同様、“I’m Not Demanding”のオリジナル・セッション・テープは失われ、キングの大ざっぱなメモによれば、2つの全く異なったヴァージョンが存在し、1つはロサンゼルスで録音され、もう1つはシンシナティで録音されたか、あるいは1回だけのレコーディングに続いて1つの場所かその他でオーヴァーダブされたようだ。

オリジナルのレコーディングは5分を超え、King 6273として2つのパートに編集された。一握りのテスト・プレス盤がオーダーされたが、それは両面とも“Part One”だった。その後シングルは予定から外された。 セッション・マスター・テープの紛失により、“Part One”のみがこのコンピレーションに収められた。それは1970年のアルバム、It’s A New Day-Let A Man Come Inにも収録された。同年には短期間King 6322としてシングル・リリース予定に載ったが、未発表に終わった。

DISC 2

1. IT’S CHRISTMAS TIME(Part 1)(James Brown-Bud Hobgood)
2. IT’S CHRISTMAS TIME(Part 2)(James Brown-Bud Hobgood)
1969年10月リリース(King 6277)


“It’s Christmas Time”は、ブラウンがロサンゼルスで間に合わせのバンドでレコーディングすることに同意したバド・ホブグッド・ソングのひとつだった。そのバンドはギタリストのケニー・プールといく人かのスタジオ・ミュージシャンたちから成り立っていた。これは奇妙なメロディと、詞と同様の憂うつなハーモニーをもった無害なホリデイ・ソングだ。初期のジェイムズ・ブラウンによる季節物と違い、“It’s Christmas Time”はアルバム用ではなく、このシングルのみのリリースだった。

3. AIN’T IT FUNKY NOW(Part 1)
4. AIN’T IT FUNKY NOW(Part 2)
1969年10月リリース(King 6280)/R&Bチャート3位、ポップ・チャート24位


1969年夏までに、音楽はジェイムズと彼の御用達バンドとの間でファンキーな関係ではなくなっていた。彼はそれまでよりバンドとともにレコーディングする機会を減らしていた。バンドのリーダーは流動的だった。ピー・ウィー・エリスは去り、メイシオ・パーカーが彼らの非公式な代理ボスとしてバンドに認められた。しかし彼は仕事に発生する重圧を嫌っていた。トロンボーン奏者のフレッド・ウェズリーが短期間、音楽ディレクターとして任命されたが、その若者はしかるべき敬意をもって自分のボスに仕える術を身につけていなかった。最終的に、トランペッターの“クシュ”グリフィンがバンドの実権を握った。

あたかもファンクがエリスのスーツケースの中へ消えてしまったのではないことを証明するかのように、ジェイムズは“Ain’t It Funky”できっちり焦点を合わせた。“ブラザーのラップ”セッションでウォーミングアップとして始まったジャムは、それ自体が魅惑的な生命を吹き込まれていた。“Part 1”はJBのささやくようなヴォーカルをわきにおいて、全てがグルーヴだ。その他の点では機械的なブリッジ部が、ブラウンのクラシックのひとつである“good gods!”を打ちたて、ブレイク部は1969年にラジオに乗った他のナンバーと同じくらいエキサイティングだった。メイシオ・パーカーは呼吸音のまじったソロでじわじわとJBをせきたて、“ジャボ”スタークスはいくらか横から口出しを加えているが、クライド“Give The Drummer Some”スタブルフィールドがドラム・キットのうしろに座っていた。

5. POPCORN WITH A FEELING(Jimmy Nolen-Clyde Stubblefield-Alfonzo Kellum-St. Clair Pickney-James Brown)
1969年10月リリース(Federal 12551)/名義:スティーヴ・ソウル


“Popcorn With A Feeling”は、“Mother Popcorn”セッションで無秩序にレコーディングされた13分間のジャムだった。当時最新のミーターズによるトップ10R&Bヒットの“Sophisticated Cissy”をわずかに盗用し、注意深く編集され、セント・クレア・ピックニーのフルートとブラウンのオルガンをフィーチャーしていた。ライターのクレジットは珍しくブラウンによって、プレイした全員で分け合うことになった。

“Popcorn With A Feeling”は最初にブラウンの名でアルバム、It’s A Motherに収められたが、その後、アラバマのディスク・ジョッキー、スティーヴ・ソウル名義のレアなシングル、“Soul President”のB面に収録された。彼はそのトラックには参加していない。

6. PART TWO(LET A MAN COME IN AND DO THE POPCORN)
7. GITTIN’ A LITTLE HIPPER(Part 2)(James Brown-Bud Hobgood)
1969年11月リリース(King 6275)


“Let A Man Come In And Do The Popcorn”がチャート内に入っている時に、ブラウンは意外にもセパレート・シングルとしてセカンド・パートをリリースすることを決めた。さらに不思議なのが、彼が歌のブリッジ部から始めるのを選んだことだった―それはジェイムズがまさに“Part Two”のテイストをかもし出そうとするまでに、優に1分を超える長さがあった。オープニングのブリッジは、ブラウンによるぶっきらぼうな歌詞を私たちに印象づける―“給水係、バケツを持った少年、お前がその仕事をやりたくないのなら、やるべきじゃない”。レコードはフレッド・ウェズリーのソロ・トロンボーンをフィーチャーする点で注目に値する。これは70年代に入ってからのJ.B.’sのトレードマークとなるサウンドだ。

ジェイムズはB面のために2年さかのぼり、“Gittin’ A Little Hipper”のニュー・ヴァージョンを使った。これはアルフレッド・エリスをフィーチャーしたザ・ダップスによる“Get It Together”(King 6147:Volume 5参照)のインストゥルメンタル・ヴァージョンだ。

8. THE BROTHER GOT TO RAP(Part 1)
9. THE BROTHER GOT TO RAP(Part 2)
King 6285 未発表


“The Brother Got To Rap”はミシガンとオハイオでの大忙しの連続一夜興行に続いてレコーディングされた。クライド・スタブルフィールドによる、安定してはいるがシンコペートしないドラム・パターンは、“Ain’t It Funky”をそっくり再現しているが、それと同じセッションでレコーディングされた。しかし“スウィート”チャールズ・シェレルの推進力あるベース・ラインのおかげで、ファンクは十分に生きいきとしている。この猛烈なトラックは“Part 2”最後の陽気なヴォーカルはいうまでもなく、メイシオ・パーカーの代名詞的フレーズを引き出している。セッションのために、ブラウンはシンシナティのパーカッショニスト、アート・ロペスを加えた。1年後にブラウンのバンドに迎え入れられることになるコンゲーロ(コンガ奏者:キューバの呼び名)、ジョニー・グリッグスを導く実験だった。

レコードはすぐにキングのスケジュールに乗ったが、結局延期された。King 6285は1970年1月20日に公式にキャンセルされた。しかしそれは忘れられなかった―トラック17参照

10. IT’S A NEW DAY(Part 1) & (Part 2)
11. GEORGIA ON MY MIND(Hoagy Carmichael-Stuart Gorrell)
1970年1月リリース(King 6292)/R&Bチャート3位、ポップ・チャート32位


1969年最後の月までに、ブラウン一団を苦しめる、士気にかかわる問題が表面化していた。しかし喜びに満ちた“It’s A New Day”を聞く限り信じられないだろう。―ウーマン・リブ・ムーヴメントへのJBによる熱い答えだ。抑制されないヴォーカルは、マイティ・クラウズ・オブ・ジョイのようなブラウンお気に入りのグループによって広まったゴスペル・スタイルに近い。ホーン・ラインには風格がある。アドリブで頭の部分に笑いを入れるボスの真似をするホーン隊に注意してみてほしい。

ブラウンは無音の溝で分け、A面にマスタリングしたPart 1と2を収録し、再び伝統的な2パート・シングルのフォーマットを無視した。

デヴィッド・マシューズの優れたアレンジメントをフィーチャーした“Georgia On My Mind”は、まれにみる第一級のB面だ。そのオーケストラ・パートは分けてオーヴァーダブするのではなく、ライヴ・レコーディングされた。エンジニアの故ロン・レンホフはかつて、ほとんどのミュージシャンたちがキングのスタジオにいつも押し込められていたセッションのことを回想していた。このトラックでフィーチャーされたのは、ギタリストのケニー・プール、ベーシストのマイケル・ムーア、そして元ダップスのドラマー、ウィリアム“Beau Dollar”ボウマンだ。残りのパーソネルは不明だ。ブラウンによる紹介のことばは、1969年12月にマイク・ダグラス・ショーに出演した時のものだ。

12. FUNKY DRUMMER(Part 1)
13. FUNKY DRUMMER(Part 2)
19670年2月リリース(King 6290)/R&Bチャート20位、ポップ・チャート51位


“Funky Drummer”はメジャー・ヒットとはならなかった。しかしヒップホップのサンプリングを通じて伝説的なトラックとなった―そして皮肉なことに、このコレクションの他の録音よりもひんぱんにステレオ・システムで聴かれているだろう。またこれはジェイムズ・ブラウンによる60年代の彼の第一級バンドとの最後のレコーディングとなった。

“Ain’t It Funky Now”の思いがけない成功にインスパイアされ、“Funky Drummer”は本質的に同じ形式を追うことになった。ボスによるオルガンとヴォーカルをわきにおいたファンキーなインストゥルメンタルだ。メイシオ・パーカーによる最高に効果的なソロを備え、前のシングルよりもはるかに優れた音楽性を持っていたにもかかわらず、“Funky Drummer”はその時代の波に乗ることはできなかった。ひょっとすると、“It’s A New Day”のエアプレイに割かれた時間の犠牲になったのかもしれない。

“Funky Drummer”は、ブラウンのLPに収録されることはなかった。しかしヒップホップ世代の刑務所コレクター(ストリート・ギャング)たちが、“Part 2”のクライド・スタブルフィールドによる8小節10秒間のドラム・ソロに、新しい全宇宙を発見した。よく知られるように、パブリック・エナミー、ビースティー・ボーイズ、Dr. Dre、ア・トライブ・コールド・クエスト、シニード・オコーナー、ジョージ・マイケル、そしてサブライムら含む多くのアーチストたちにサンプリングされた“Funky Drummer”によって、スタブルフィールドはレコードのもともとの姿から20年経った1990年に、ローリング・ストーン誌の“ドラマー・オブ・ジ・イヤー”に輝いた。

「彼らはクライドのソロをコピーすることはできる」 パフォーマーで作家のアラン・スラツキーはそう書いた。「しかし彼らはクライドのパフォーマンスにあるフィールとスピリットを再現することはできないんだ」

14. LET IT BE ME(Gilbert Becaud-Manny Kurtz-Pierre Delano)
1970年4月リリース(King 6293)/名義:ヴィッキ・アンダーソン-ジェイムズ・ブラウン


ジェイムズ・ブラウン・ショーは60年代の終わりにターニング・ポイントへ向かっていた。しだいにセント・クレア・ピックニー、フレッド・ウェズリー、チャールズ・シェレル、クライド・スタブルフィールド、そしてヴォーカリストのマーヴァ・ホイットニーのようなベテランたちは去って行った。ショーでホイットニーはすぐに前任のヴィッキ“Mommy-o”アンダーソンと交代した。アンダーソンはその後すぐにキングのスタジオに入り、ボスとのデュエットでレコーディングを行なった。

デヴィッド・マシューズの騒々しいアレンジメントがうまくアップデイトされた50年代のフレンチ・バラッドは、以前主にエヴァリー・ブラザーズ、ジェリー・バトラー、ベティ・エヴァレットによって英語化されヒットしていた。“It’s A New Day”が現在のヒットだったが、“Let It Be Me”のこのヴァージョンは、1970年のテレビ・トーク番組でたびたびブラウンとアンダーソンによって披露されていた。

B面はミセス・アンダーソンのソロによるリイシュー、“Baby Don’t You Know”だった。

15. TALKIN’ LOUD AND SAYING NOTHIN’ Pt. 1 & Pt. 2(James Brown-Bobby Byrd)
King 6300, King P6359 未発表
16. BEWILDERED(Leonard Whitcap-Teddy Powell)
King 6300 未発表/1970年4月リリース(King 66310)/名義:ジェイムズ・ブラウン


ブラウン一団の不和は69年の終わりに最悪の状態となっていた。問題のひとつは、リハーサルとレコーディングの気まぐれなスケジュールの立て方だった。いじめられることのないジェイムズは、次のレコーディングに向け、彼のもともとのパートナーであるボビー・バードとアレンジャーのデヴィッド・マシューズをあてにした。

その結果、企画されたアルバムが、芽吹きつつあった“アンダーグラウンド”FMラジオのリスナーにJBを売り込もうとしたSho Is Funky Down Hereだった。アルバムは不満さえも聞かれずに消えていったが、セッションはこのシングルを生み出した―LP、“You Mother You”の1曲から持ってきたギター・リフを基に組み立てられていた。あるいはケンカ腰の詞は、遠慮のないブラウンのバンド・メンバーたちに向けられていたのかもしれない。

ジェイムズはこの“ニュー・サウンド”の可能性に乗り気だった。セッションの3日後、King 6300がリリース・スケジュールに乗った―“Talkin’ Loud…”のフル・ヴァージョンのB面は、マシューズによる新しいアレンジメントの“Bewildered”だった。JBが自分の60年代のバンドをシンシナティの若いミュージシャンたち一団と交代させた時―Volume 7でさらなるストーリーがある―、彼は次のシングルで古いミュージシャンたちをフィーチャーさせない方がいいとさえ思っていた。

それでもこのトラックに対する彼の熱意が失せ、その理由がもっともであったとしても、ボビー・バードによって仕上げられた“New Breed Band”は、進化するロードでのショーとほとんど近似性のなかったニュー・シングルの欠点を改善していた。テスト・プレス盤は3月23日にオーダーされたが、月末までにKing 6300はキャンセルされた。そのトラックは1971年にKing P6359として復活した。白ラベルのプロモーション盤と黒ラベルのリリース盤がプレスされたが、P6359は公式にはリリースされなかった。1972年にキングの倉庫が整理された時に在庫分が流通した。若いモハンダス・デウェス別名クール・モー・ディーが、ブラウンによるオープニング・フレーズ“オレをどう思うか?”を実際に聞いたことはいかにもありそうな話だ。

17. BROTHER RAPP(Part 1) & (Part 2)
1970年4月リリース(King 6310)/R&Bチャート2位(レコード・ワールド誌1位)、ポップ・チャート32位


1970年初旬、ジェイムズは“Funky Drummer”も“Let It Be Me”も注目を引かなかったと見なしていた。Sho Is Funky Down Hereとビッグ・バンドによるジャズ・アルバム、“Soul On Top”にもほぼ同様だった。ブラウンはデヴィッド・マシューズのスタジオ・バンドとともにレコーディングを続けていたが、“It’s A New Day”がチャートから消えた時、方向性に対する不確かさによって、彼は依然トレードマークだったファンク・ジャムのストック・ルームへ向かった。

ジェイムズは手拍子と新しいヴォーカルをオーヴァーダブし、“The Brother Go To Rap”を復活させた。それから彼はワウワウ・ギターの入ったトラック、メイシオ・パーカーのサックス・ソロ、そして古いバンドに関する詞を消し、歌をリミックスした。(ブラウンによる最善の努力にもかかわらず、注意深いリスナーはトラックのリミックス漏れによるパーカーのパフォーマンスを聞き取っていた) 彼はまた、流行していたファンキー・ロボットやチキンのようなダンスに合わせテンポを上げ、タイトルを短縮し、急いでニュー・シングルをリリースした。

“It’s A New Day”同様、“Brother Rapp”は2つのパートに分けられてA面に収められ、同じように無音の溝で分けられていた。B面は“Bewildered”のニュー・ヴァージョンで、ジェイムズはツアーのセット・リストに戻すほどこれを気に入っていた。

18. A MAN HAS TO GO BACK TO THE CROSSROADS
19. THE DRUNK(David Matthews)
1970年6月リリース(Bethlehem 3098)


このリリースの時までに、ジェイムズ・ブラウンの世界は重要な変化を遂げていた。彼のバンドはニュー・ブリード(新種)・バンドに取って代わられ、そのバンドはファンクの型に新しい活力を与えつつあった。彼らとの最初のシングル、“Get Up (I Feel Like A) Sex Machine”はその頃にリリースされた。一貫した関心のもと、その独創的なレコーディングはこのシリーズのVolume 7でスタートする。

その代わり、私たちはこのCDをブラウンの付随的なレコードのひとつ、デヴィッド・マシューズ及びシンシナティのスタジオ・オーケストラによる印象的なバラッドで締めくくる。

ジェイムズがスタッフに自慢していた“A Man Has To Go Back To The Crossroads”は、彼の次の“Man’s World”になるはずだった。しかしその成功は繰り返されず、フォールスタッフ・ビールがキャンペーン・ソングとして使った“The Drunk”も成功しなかった。それはマシューズが飲料会社のために特別に書き下ろした1曲だった。ブラウンのフォールスタッフとの関係は、コマーシャルが作られる前に終わっていたらしい。

ブラウンは派生パターンに落ち込む危険にさらされていたかのように見えた。しかし彼は若いバンドの新鮮さが注入されたモダン・ソウルとファンクの最前線で、まもなくチャートのトップに戻ってくることになる。残りのストーリーはVolume 7を読んでほしい。


アラン・リーズ 2008年8月

アラン・リーズは長きにわたる音楽業界の重役であり、音楽学者である。彼はジェイムズ・ブラウンのツアー・ディレクターとして、1970年から1974年まで働いた。2008年4月にPlume Booksから出版されたThe James Brown Readerの共著者。

記述のないものは全てライター、名義とも“ジェイムズ・ブラウン”


ホームへ