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James Brown/The Singles Volume 5 : 1967-1969/2007 Universal Records/Hip-O Select.com B0010411-02



1967年が終わりに近づいた頃、ジェイムズ・ブラウンの新しいファンクは広がりつつあった。ジョー・テックスやウィルソン・ピケットのようなサザン・ソウル・アーチストたちは、自分たちの語彙の一部にブラウンの音楽的革新性を採用した。ダイク・アンド・ザ・ブレーザーズのような新しいグループたちは、まさにブラウンの歌の構造とクライド・スタブルフィールドのビートを彼らの基本とした。しかしロックの世界では“サマー・オブ・ラヴ”真っ只中だった。最先端のブラック・ミュージックは音楽学者とメインストリームのメディアに軽視され、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、そしてジャニス・ジョプリンのうしろに追いやられていた。しかし関心の欠如はがっかりするものであったが、次のブラウンのレコードに表れた大胆さを阻止するほどのものではなかった。

DISC 1

1. I CAN’T STAND MYSELF(WHEN YOU TOUCH ME)(James Brown)
2. THERE WAS A TIME(James Brown-Bud Hobgood)
1967年11月リリース(King 6144)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート3位、ポップ・チャート36位


感謝祭の週、新しいジェイムズ・ブラウンのシングルがラジオに届いた―“I Can’t Stand Myself(When You Touch Me)”だ。驚くほどミニマルな演奏は、オルガン、ギター、ドラムスのみで成り立っていた。トレードマークであるジェイムズ・ブラウンのホーン隊がいないだけでなく、彼の重要なリズム・セクションは、ファンキーなR&Bを好むシンシナティの白人クラブ・バンド―ダップス(The Dapps)に取って代わられていた。

ザ・ダップスは1967初頭にジェイムズが発見した時には、騒々しいウォールナット・ストリートのリヴィング・ルーム・クラブですでに安定した人気を確立していた。彼はバンドと時折ジャム・セッションを行ない、まもなくグループと契約を交わし、自分のプロダクション会社に迎え入れた。10月下旬、ブラウンは彼らのレコーディング・セッションに押しかけ、このトラックを思いついた。シングル・リリースにあたってはテンポが落とされた。

ある意味、この歌は“Planet Rock”のような初期のヒップホップ・ヒットの先駆といえるものだ―ひたすら繰り返しの多いアレンジメントは、ループ・サンプルに近似している。ティム・ドラモンドによるベース・ソロ以外に、ブリッジもブレイクもない。このトラックはさらに3分間引き伸ばされていたが、JBはアルバムのために“Part 2”としてとっておいた。B面の“There Was A Time”は、ジェイムズ・ブラウンの天武の才全てをとらえていた―彼の天性のフレージングと人並みはずれて鋭いタイミングだ。ジミー・ノーランとアルフォンゾ・キーランは彼と一体になり、彼らのギターはこの世のものとは思えないほど固定されている。キーランはかつていった―「僕たちの間に隔たりがあるようなやり方だ。時々僕はジミーが何をプレイしたがっているのか分からなかったし、ジミーは僕が何をやろうとしているのかを分かっていなかった。でも僕たちは自分たちが決して衝突しないことを分かっていたんだ。それが僕たちのやり方だった」

“There Was A Time”は、6月にアポロ・シアターで録音された“Let Yourself Go”のヴァージョンから派生したナンバーだった。まだLP上ではリリースされていなかったブラウンによる20分間の定番ナンバーは、オーディエンスとのコール&レスポンスを含み、フェイマス・フレイムスとともにおどけ、オルガンとドラムスをプレイするJBをとらえていた。しかしピークは彼がその数年間に広めていた即興ダンスに向かった時だった。それらをうまく要約した3分半のシングルは、A面として十分の可能性を秘めていた。“I Can’t Stand Myself”はまたたく間にヒットとなったが、キングはラジオに“There Was A Time”をプッシュするよう要請された。結果、JBは2つの同等なクラシックをモノにすることになった。

3. THE SOUL OF J.B.(James Brown-Bud Hobgood-Gladys Knochelman)
4. FUNKY SOUL #1(James Brown-Bud Hobgood-James Crawford)
1967年11月リリース(King 6133)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


スマッシュ・レコーズとの契約満期に伴い、ジェイムズのインストゥルメンタル・リリースはついにヴォーカル・シングルと同じところから出ることになった。これらトラックへのダップスによる2つのオルガン・オーヴァーダブは、意外にも不運なスタートを象徴している。“The Soul Of J.B.”は、ジェイムズ・ブラウンのリズム・セクションを真似ているが、その試みはうまくいっているとはいい難い。アルフレッド・“ピー・ウィー”エリスはアルト・サキソフォンでゲストに招かれた。“Funky Soul #1”は、ボビー・バード・ナンバーのインストゥルメンタル・ヴァージョンだ。

5. YOU’VE GOT TO CHANGE YOUR MIND(James Brown-Bobby Byrd-Gene C. Redd-Ron Lenhoff)
1968年1月リリース(King 6151)/名義:ボビー・バード&ジェイムズ・ブラウン/R&Bチャート47位、ポップ・チャート102位


その年の初め、ジェイムズは相棒のボビー・バードととのレコーディング“You’ve Got To Change Your Mind”をもって、長い間取り組んできたR&Bのモデルチェンジから旅立った。故バードはジョージアでの初期の日々に、彼とブラウンが時々デュエットで歌っていたことを思い出させるような懐かしいナンバーとして言及した―「オレたちはサム&デイヴよりも前にサム&デイヴだったんだ」 彼は笑いながらそういった。B面はバードによるソロ・レコーディングの“I’ll Lose My Mind”だった。

6. BRINGING UP THE GUITAR(James Brown)
7. GITTIN’ A LITTLE HIPPER(James Brown-Bud Hobgood)
1968年1月リリース(King 6147)/名義:ザ・ダップス・フィーチャリング・アルフレッド・エリス


最初JBはダップスによるインストゥルメンタル・シングルをリリースし、そのクレジットを自身とフェイマス・フレイムスとしていた。今回彼は自身のバンドによるシングルをリリースし、そのクレジットをダップスとした。両面ともJBのヴォーカル・ヒットを採用していた。

“Bringing Up The Guitar”は“Cold Sweat”を基にした騒々しい即興だ。ジミー・ノーランの卓越したギターがタイトル所以となったが、メイシオ・パーカーのソロはわきに移動している。これは1年後に“The Popcorn”として復活した時と、1973年にメイシオ・アンド・ザ・マックスの“Parrty”として復活するまでは、ほとんど話題にはならなかった。“Popcorn”と“Parrty”は十分なヒットとなった。

“Get It Together”から引用された“Gittin’ A Little Hipper”は、ウェイモン・リードとピー・ウィー・エリスによる力強いソロを効果的に示している。途中、アレンジメントが予期しないスウィング・セクションに入ると、彼らは交代で4小節ずつソロをとっている。

8. I GOT THE FEELING(James Brown)
9. IF I RULED THE WORLD(Leslie Bricusse-Cyril Ornadel)
1968年2月リリース(King 6155)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート1位(2週)、ポップ・チャート2位


“I Can’t Stand It”はジェイムズが自身のバンド以外のミュージシャンたちに、彼の革命的なファンクを伝えたことを示していたのかもしれないが、ロードではどのバンドがチャンピオンなのかははっきりしていた。センセーショナルなジェイムズ・ブラウンのバンドは、素晴らしい演奏をくり広げながらカリフォルニアをツアーして回っていたが、その滞在地のひとつがVan Nuysにあるヴォックス・カンパニーだった。楽器メーカーのヴォックスはビートルズ(訳注:どちらかというとストーンズか?)が好んでいたギターで知られていたが、会社は1966年以来、ブラウンのバンドにも機材を提供していた。ヴォックスはその頃レコーディング・スタジオを開設していた。テープを回す機会を逃してなるものかと、ジェイムズはさっそくセッションのスケジュールを入れた。

簡潔な“I Got The Feeling”は“Cold Sweat”のあとを受け継いでいる。レーザーのようなアレンジメントはクライド・スタブルフィールドによる原型的なファンク・ビートで固定され、全ての楽器のパーカッシヴな側面を強調している。「あの頃バンドの前に立ったことは、僕にとてつもない影響を与えたね」 ピー・ウィー・エリスはバンドの指揮をとっていた時期を懐かしく思い出す。「ことばはほとんど無用になるんだ。そりゃびっくり仰天ものだったね!」

“I Got The Feeling”はメイシオ・パーカーのテナー・サックスでフェイドアウトする。ソロはもっと続くが、トラック全体は“Part 2”を作るほどの長さはなかった。

“If I Ruled The World”はもともとチャールズ・ディケンズの小説、The Pickwick Papersの舞台版で主人公のピックウィックのために書かれた。その歌は1965年にトニー・ベネットによって普及したが、さらに有名になったのはモンティ・パイソン・ショーの爆笑ものの寸劇で、ロシア革命のウラジミール・レーニンを描いたものだった。真面目な話をすれば、この歌詞は1人のソウル・シンガーに完璧にフィットしていた。彼はかつて子供の頃、靴磨きをしていた場所にあったジョージアのラジオ局をまさに購入しようとしていた。

10. YOU’VE GOT THE POWER(James Brown-Johnny Terry)
1968年3月リリース(King 6152)/名義:ヴィッキ・アンダーソン&ジェイムズ・ブラウン


ボビー・バードとのデュエットでまずまずの成功を収めたことに勇気づけられたブラウンは、彼の名と声が同様にヴィッキ・アンダーソンにも利益をもたらすことができると考えた。しかし残念ながら、これはミス・アンダーソンにとって好ましいキーではなかった。そのことと重々しいサミー・ロウのアレンジメントは、“You’ve Got The Power”からジェイムズのオリジナル・ヴァージョン(Volume 1参照)にあったスムースな魅力を奪い去ってしまった。B面はヴィッキ・アンダーソンの“What The World Needs Is Love”だった。

11. Shhhhhhhh(FOR A LITTLE WHILE)(James Brown-Bud Hobgood)
12. HERE I GO(James Brown-Bud Hobgood-D. Lewis)
1968年4月リリース(King 6164)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


“Shhhhhhhh(For A Little While)”はブラウン自身のバンドによるレコードとは、はっきり見分けのつくダップスによるインストゥルメンタルだ。今回彼はオルガンとヴォーカルのオーヴァーダブをわきに置いた。かなり陳腐なトラックにもかかわらず、ラフなエッジの効いた魅力的な仕上がりになった。

ブラウンはもともとヴォーカルを入れるつもりだった“Here I Go”のはんぱなミックスにピアノを加えた。

このように思いつきで作られたレコードは、ジェイムズがキング・レコーズによって与えられたスタジオでの限りない自由を、満喫していたことをほのめかしている。キングの創設者シド・ネイサンが3月5日に死亡したことを知った時点で、彼はそのレーベルとともに12年間の波乱に満ちた、そして時にはトラウマ的な年月を過ごしていた。残念ながら、ネイサンは彼のところの最大のアーチストがちょうど世界的な人物へと花開いた時に死んだ。

13. AMERICA IS MY HOME-PT.1(James Brown-Hayward E. Moore)
14. AMERICA IS MY HOME-PT.2(James Brown-Hayward E. Moore)
1968年5月リリース(King 6112)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート13位、ポップ・チャート52位


シド・ネイサンの葬儀の2週間後、ブラウンはメトロメディアTVのスペシャル番組―James Brown-Man To Manのために、アポロ・シアターでのギグを撮影した。その数日後、彼は初の“祖国”での公演のために、コート・ジボアールのアビジャンに飛んだ。ニューヨークに戻った4月4日の晩、ブラウンがアラン・バークのトーク・ショーでアフリカ訪問の話をしている時に、1つの速報が入った。マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がメンフィスで暗殺された。ソウル・ブラザーNo.1は続く数日間、ボストンでの演説に始まり、ワシントンD.C.の通りで国内不安に向け、冷静さを保つよう呼びかけた。彼の取り組みは広く支持された。

キング牧師の死は、すでに動的だった選挙の年で社会的、政治的状況を変えはしなかったが、音楽を含め、全てアメリカの黒人たちに焦点が当てられることになった。不満を持つアフリカン-アメリカン・コミュニティの環境は、もはやソウル・ミュージックの謙虚な切望ではなく、むしろ痛烈で攻撃的なファンクを反映するようになっていた。ブラウンのショー・ビジネスでのキャリアは、どんどんと人種の壁を乗り越え成功を引き寄せていったが、突然、メインストリームのエンターテイメント界と、彼のもともとのファン層との間で綱渡りせざるを得なくなっていた。彼は対立する二君に仕えていた。

“America Is My Home”は明らかに議会やメジャーな新聞からブラウンが受けた多くの称賛の結果としてリリースされたかのように見えるが、理想主義をかかげるタイミングは冒険的ではなかったかもしれない。ジェイムズはいつもアフリカン-アメリカンのコミュニティの中で、自分のことを“一般市民”の代表として位置づけていた。たしかに彼は何に対しても公然と愛国的であることは、同じコミュニティの多くの者に誤解を受ける可能性のあることを認めていた。しかし興味深いことに、その1年前にレコーディングされた“America Is My Home”は、当時の政治的スタンスによって動機づけられてはいなかった。なぜならそれはいったん棚上げにされ、キング牧師が憶測の対象となった1ヵ月後にリリースされたからだ。ひょっとするとJBは、そのレコードが、彼がオファーしていたベトナム軍事基地ツアーを政府高官が真剣に検討することをうながすかもしれないと考えていたのかもしれない。

ブラウンはアメリカでは他の多くの国と違い、王族の血を引くことは、機会と社会的地位のための必要条件ではないと考え、歌詞の中に黒人の誇りをうまく注入した。“オレには王の血は流れてはいないがソウルがある”―彼はそう歌う。

かなり予想されていたことだが、そのレコードはいくらかのサークル内でジェイムズ・ブラウンへの反発を引き起こしたが、ほとんどの黒人ラジオ局はそれを単に無視した。ブラウンは馬鹿ではなかった。彼は先例のない同時ダブル・リリースを予定することによって、両方に顔をつないだ。

15. LICKING STICK-LICKING STICK(PART 1)(James Brown-Alfred Ellis-Bobby Byrd)
16. LICKING STICK-LICKING STICK(PART 2)(James Brown-Alfred Ellis-Bobby Byrd)
17. LICKING STICK-LICKING STICK(PART 1)Stereo(James Brown-Alfred Ellis-Bobby Byrd)
18. LICKING STICK-LICKING STICK(PART 2)Stereo(James Brown-Alfred Ellis-Bobby Byrd)
1968年5月リリース(King 6166)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート2位、ポップ・チャート14位


政治的立場はわきに置き、“Licking Stick-Licking Stick”の伝染性ある全盛期の雰囲気は、簡単に“America Is My Home”を陰に追いやってしまった。セッション・テープでは、ジェイムズがファースト・テイクを録る時にエンジニアにいったことばが入っている―「これから始めるからテープを回してくれ。まず一番大事なのはグルーヴだ」

そのグルーヴとは、かつてライターのアラン・スラツキーが呼んだところの“ジャボ・スタークスによる十字スティック・グルーヴのクールさとエレガントさ”に、2本のサキソフォンとリズム・セクションが完全に身を委ねることだ。ジャボはスラツキーに語っている―「僕はいつも頭の中であのリズム・パターンを聞いていたんだけど、それをレコーディングするチャンスがなかったんだ」

そばに待機していたのが、フレッド・ウェズリーという名のアラバマ出身で太っちょの若いトロンボーン奏者だった。ウェズリーとブラウンのベーシスト、バーナード・オーダムは、アラバマのモビールにいた頃いっしょにプレイしていたが、フレッドがバンドに加入したその日に、ジェイムズはダップスのティム・ドラモンドを呼び寄せた。オーダムと交代したティムは、ブラウンのバンド初の白人ミュージシャンとなった。そのことについて質問されたブラウンは挑戦的にかみつくように答えた―「ティムは白人ベース・プレーヤーではない、あいつはオレのベース・プレーヤーだ」

“Licking Stick”はバンド内のもう1人のヴォーカリストとしてのボビー・バード最後の仕事となった。ブラウンの新しい音楽は、古いタイプのグループのヴォーカル・ハーモニーを必要としなくなり、ついに彼は1967年の終わりにフェイマス・フレイムスを解体した。ボビーはしばらくの間いっしょにいたが、“Licking Stick”がヒットするまでにショーを去っていた。(結局、私たちはミスター・バードの最後を聞かなかったが、そのストーリーはVolume 7を待たねばならないだろう)

ジェイムズはジョージ・テレンス・アンド・ザ・ナチュラルズのマイナー・ヒットである“Lickin’ Stick”から、タイトルと2〜3の詞を借用したのだろう。しかし誰も“Licking Stick”のジミー・ノーランの鋭いギターと催眠性あるベース・ラインを弾いたことはなかった。そのベース・ラインは、もう1人の傍観者に負うところが大きかったのかもしれない。10代の神童ベーシストだったブーツィ・コリンズは、ドラモンドがセッションにやってくるまで、バンドとともにグルーヴの下稽古に励んでいた。

ブラウンの“Licking Stick”はステレオ・シングルの概念を復活させたが、レコードのラベルには何の表記もなかった。ステレオとモノのマスターはどういうわけか、キングのプレス工場でごちゃ混ぜとなり、でたらめなKing 6166のプレスはどちらかの面がステレオになった盤を含んでいた。プロモーション盤のイエロー・ラベルは両面ともモノだった。

19. THERE WAS A TIME(James Brown-Bud Hobgood)
1968年6月リリース(King 6169)/名義:ザ・ダップス・フィーチャリング・アルフレッド・エリス/R&Bチャート3位、ポップ・チャート36位


ここで聞ける“there Was A Time”の強烈なリミックス・ヴァージョンでは、ピー・ウィー・エリスの高揚するサキソフォン・ソロがブラウンの代役を果たしている。

B面はピー・ウィーとダップスによるインストゥルメンタルの“The Rabbit Got The Gun”だった。一度だけエリスの面のレーベル・クレジットが正確だったことがあるが、ジェイムズは手を出さずにいることはなかった。1972年、このレコーディングは意外なことに、J.B.’sとクレジットされてシングルとして復活した。ブラウンはそのトラックには登場しない。

20. I GUESS I’LL HAVE TO CRY, CRY, CRY(James Brown)
21. JUST PLAIN FUNK(James Brown-Bud Hobgood-Troy Seals)
1968年6月リリース(King 6141)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート15位、ポップ・チャート55位

21. I GUESS I’LL HAVE TO CRY, CRY, CRY(Alternate Take)(James Brown)
1968年6月リリース(ドイツ、Polydor 59226)


ジェイムズは最初、1966年の“Bring It Up”セッションで自身のバンドとともに、“I Guess I’ll Have To Cry, Cry, Cry”をレコーディングしたが満足しなかった。1967年に彼は再度ニューヨークのスタジオ・ミュージシャンとともにこれを録音した。今回ブラウンは出来に喜んだが、より緊急の必要があると考えていたレコードによって、リリース・スケジュールは取りやめになっていた。このバラッドは6月になってついにリリースされ、まずまずの成績を収めたが、おそらくJBの1968年のヒットとしては最も無名だろう。

ここに収められた他では聞けない別テイクは、ドイツのポリドールが間違ってシングルとしてプレスしたものだ。

“Just Plain Funk”はブラウンとピー・ウィー・エリスによるオーヴァーダブが加えられたダップスのインストゥルメンタルだ。ギター・ソロはトロイ・シールズ。

ネイサン亡き後のキング・レコーズの未来は不確かであったし、レーベルの看板アーチストにとって明らかな関心事だった。しかしブラウンは多くの面で忙しく、レコード会社のことにあまり考えが回らなかった。春の間、彼は公民権運動とベトナム戦争について詰め寄る好奇心の強い学生たちのいるキャンパスで一連のコンサートを行なった。5月8日、彼はホワイトハウスの公式晩餐会に出席した。座席札のところで、ジェイムズはリンドン・ジョンソン大統領からの個人的書簡を見つけた。そこには“国のための君の行動に感謝する”と書かれてあった。1ヵ月後、官僚的形式主義が屈することになり、JB―及び小規模のバンド―は兵士たちのためにプレイすべく、ついにベトナムに飛んだ。

DISC 2

1. SAY IT LOUD-I’M BLACK AND I’M PROUD(Part 1)(James Brown)
2. SAY IT LOUD-I’M BLACK AND I’M PROUD(Part 2)(James Brown)
1968年8月リリース(King 6187)/名義:ジェイムズ・ブラウン/R&Bチャート1位(6週)、ポップ・チャート10位


ブラウンのベトナム訪問は幻滅するものとなった。ボブ・ホープやウェイン・ニュートンのようなパフォーマーたちに対して普段から行なっていた軍高官による不十分な待遇は、ブラウンにチトリン・サーキットで尊敬を得ようとあがいていた頃を思い出させた。それでも彼は意外にも戦争についてはタカ派だった。反戦運動家とブラック・コミュニティの好戦的な党派は、彼の訪問に眉をひそめていた。

ネイション・オブ・イスラムの新聞、ムハンマド・スピークスは、支持者に対するブラウンの忠誠に疑問を投げかけた。オークランドのバックステージを訪れたブラック・パンサーのメンバーたちは、彼にトレードマークのヘアスタイルをアフロに変えるよう強く迫った。7月、ヤンキー・スタジアムでショーを行なっていた彼は、何千ものファンたちが彼の懇願―「行儀よくおとなしくするんだ」を無視し、フィールドになだれ込んだ時に、ショーを短縮しなければならなかった。大混乱の中、ジェイムズとバンドは急いで避難した。その後、意気消沈したソウル・ブラザーNo.1は引退を考えていたことを打ち明けた。

しかしその落胆と一触即発の政治的情勢にもかかわらず、ブラウンはストリートの平和と権力機構内での黒人の地位向上を支持する立場に再び身を置いた。また彼は1人の人間として、1人のアーチストとしての自分を再び主張する必要性を感じていた。“憎まずコミュニケートするんだ”―彼のこのスローガンは顧みられなくなっていた。それはアフリカン-アメリカンの誇りに対する緊急課題には向かっていなかった。

“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”のアイデアは、ロサンゼルスの滞在地にいた真夜中に訪れた。ジェイムズは興奮しながら未来のマネージャーとなるチャールズ・ボビットを起こし、詞を聞かせた。翌日午後には彼らはスタジオにいた。

ピー・ウィー・エリスはその迅速なアレンジメントをチーム・ワークの勝利だと語った―「全てのホーンのフレーズが完成したあとに2つの考えがミスター・ブラウンの頭に浮かんだんだ。彼は時々奇妙なアイデアを思いつくんだけど、クライド(・スタブルフィールド)はそれを形にするのが本当にうまかったね。実際、ブリッジのベース・ドラムはクライドのアイデアだった。残りはだいたい僕だ」 エリスは任されていた4小節に1小節追加し、それは曲に一風変わった推進力をもたらすことになった。

鍵はジミー・ノーランのリード・ギターと故意に洗練させなかったバッキング・ヴォーカルだ。ボビットが子供たちを集めるよう依頼された時、彼はVan Nuys郊外のスタジオ近くでつかまえることができるなら誰でも手を打たねばならなかった。「僕たちはレコードで歌っているほとんどの子供たちがアジア人と白人だったことを秘密にしなきゃならなかったね」 数年後、笑いながら彼はそういった。

いくつかの保守的なラジオ番組は、この歌を扇動的過ぎると考えたが、彼らは若いリスナーたちを見誤っていた。“Say It Loud”はほぼ2ヶ月にわたってR&Bチャートで1位となった。タイトルのキャッチフレーズはJBの勢力範囲を超え、誰もが討議できるテーマとなった。

“Say It Loud”セッションの5日後、ブラウンの長期にわたるマネージャーで、父親的存在として愛されていたベン・バートが急性心臓発作で死んだ。キャリアの中で最も混乱した半年間に、ジェイムズは師とする人物を2人失ってしまった。しかし彼は今や独り立ちし、黒人であることの誇りは長い間揺らぐことはなかった。

3. MAYBE GOOD, MAYBE BAD(PART 1)(James Brown-Bud Hobgood)
4. MAYBE GOOD, MAYBE BAD(PART 2)(James Brown-Bud Hobgood)
1968年9月リリース(King 6159)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


このインストゥルメンタル・ブルースの奇妙なタイトルについては、不思議に思われるかもしれない。キーボード・アプローチは、もしJBの演奏でないとすれば、“After Hours”のエイヴリー・パリッシュを思い起こさせるものだ。“After Hours”は1940年代にアースキン・ホーキンズが放った大ヒット曲だ。しかしながら、そのミックスはあからさまなピアノと爆発寸前のバンドの間で、より伝統的な均衡を保っているところに効果を発揮していた。

これはフェイマス・フレイムスのクレジットが入った最後のレコードだった―数年間封印されていた不可解なパフォーマンスだ。

5. GOODBYE MY LOVE(James Brown)
6. SHADES OF BROWN(James Brown)
1968年10月リリース(King 6198)/名義:ジェイムズ・ブラウン/R&Bチャート9位、ポップ・チャート31位

7. SHADES OF BROWN(PT.2)(Bud Hobgood)
1969年2月リリース(King 6216)/名義:スティーヴ・ソウル


あたかもさらなる論争から逃れて安全な避難所を求めるかのように、ブラウンはスロー・ソングのためのストック・ルームへ向かった。1967年の“Get It Together”セッションでレコーディングされた“Goodbye My Love”は、最後のグレイト・ソウル・ソング、あるいは最初のファンク・バラッドかもしれない。ゴスペル・ブルース的展開は、“Lost Someone”や“Oh Baby Don’t You Weep”から直接来ていたが、この歌の原動力はファンク・ジャムのそれだった。5分間を超えるこのレコードは、多くのラジオ・フォーマットにとっては長過ぎたため、いくつかのプロモーショナル・コピー盤は2分55秒でフェイドする“ショート・ヴァージョン”でプレスされた。

“Shades Of Brown”は“Ain’t That A Groove”(Volume 4参照)からギター・ラインが引用されていた。ジェイムズと正体不明のサキソフォニスト、おそらくピー・ウィー・エリスだろうが、彼らはインスピレーションあふれるソロをとっている。このトラックはまた、アルバムThinking About Little Willie Johnで“A Note Or Two”として登場した。

“Shades Of Brown”のセカンド・パートは、アラバマ、バーミンガムのラジオ・パーソナリティだったスティーヴ“ソウル”マイヤーズのクレジットが入ったシングルのB面としてリリースされた。A面は“James Brown-A Talk With The News”だったが、これは以前のJBヒットの断片に語りを入れるマイヤーズをフィーチャーしていた。

8. SANTA CLAUS GOES STRAIGHT TO THE GHETTO(James Brown-Alfred Ellis-Hank Ballard)
9. YOU KNOW IT(Alfred Ellis-Bud Hobgood)
1968年11月リリース(King 6203)/名義:ジェイムズ・ブラウン


ブラウンは68年秋に2度目の季節アルバムをレコーディングしたが、2年前の最初のそれと同様、Soulful Christmasはほとんど計画性に欠けた寄せ集めだった。キング・レコーズは3枚のシングルとそのアルバムの間でクレジットを混同してしまった。おそらくそのプロジェクトがグループによる仕事だったからだろう。ピー・ウィー・エリスは彼の前任者だったナット・ジョーンズがどういう風に参加したのか正確には覚えていないが、次のように強調している―「僕、ナット、そしてハンク・バラードがキングのスタジオに座って、全く時間のない中でアルバム全体を書き上げたんだ。ジェイムズは感心していたよ。僕もね」 スウィンギンな“Santa Claus Goes Straight To The Ghetto”は、季節と当時の現実を巧みに組み合わせ、これはおそらくJBのクリスマス・ソングの中で最も彼らしいといえるだろう。しかし1966年の時と同様に、ブラウンの最新ヒット群によって、多くのラジオ・プレイリストから彼のホリデイ・チューンは隅に追いやられてしまった。

“You Know It”はクライド・スタブルフィールドと新しいベーシストのチャールズ・シェレルによるインストゥルメンタル。オルガンのオーヴァーダブはシングルに特定して加えられた。アルバム・ヴァージョンはヴィブラフォンが使われている。

10. TIT FOR TAT(AIN’T NO TAKING BACK)(James Brown-Nat Jones)
11. BELIEVERS SHALL ENJOY(NON BELIEVERS SHALL SUFFER)(James Brown-Nat Jones)
1968年11月リリース(King 6204)/名義:ジェイムズ・ブラウン


“Tit For Tat(Ain’t No Taking Back)”は美しいメロディに愉快な歌詞が乗っていた。歌の型にはまった時代遅れな構造は、ソウル・ブラザーNo.1にとっては例外だった。

インストゥルメンタルの“Believers Shall Enjoy(Non Believers Shall Suffer)”は、1964年のブラウンのヒット“Maybe The Last Time”からベース・ラインを借用している。これは少しも不思議なことではない―これら両面はナット・ジョーンズによるアレンジメントだからだ。

12. LET’S UNITE THE WHOLE WORLD AT CHRISTMAS(James Brown-Nat Jones)
13. IN THE MIDDLE(Part 1)(Bud Hobgood-Alfred Ellis)
1968年11月リリース(King 6205)/名義:ジェイムズ・ブラウン/“In The Middle”はKing 6214として1969年2月にもリリースされた/名義:アルフレッド‘ピー・ウィー’エリス

14. IN THE MIDDLE(Part 2)(Bud Hobgood-Alfred Ellis)
1968年12月リリース(King 6206)/名義:マーヴァ・ホイットニー・アンド・ザ・ジェイムズ・ブラウン・バンド/King 6214として1969年2月にもリリースされた/名義:アルフレッド‘ピー・ウィー’エリス


ホリデイ三部作最後のシングルが、クリスマスの季節への見事な祝歌、“Let’s Unite The Whole World At Christmas”だった。

粋な“In The Middle”は4月のマーヴァ・ホイットニー・セッションでレコーディングされ、アルバムChristmas Songsの穴埋めとして収められた。この曲はジェイムズとマーヴァがスタジオに到着する前のウォーミングアップの状態(in the middle of a warm-up)でレコーディングされ、それにふさわしく名付けられた。「僕がジミー・ノーランにイニシアチヴを与えたんだ。彼はすごくダイナミックだったから」 ピー・ウィー・エリスは最近語っている。「確実な拍を刻んでくれることは分かっていたね」

ジャジーなホーン・ラインに関して、ピー・ウィーはトランペッターのウェイモン・リードがうまくやれると確信していたが、メイシオ・パーカーはもがいていたことを認める。手遅れになる前に、エリスはパーカーにピアノに回ってもらうことを決めた。「僕はメイシオにブラウン氏がやって来て自分でやりたがる前に、さっさと片付けてしまおうといったんだ」

事はうまく運んだ。“Part 2”はホイットニーのB面に収録され、それからトラック全体はエリス名義のシングル用に2つのパートにリマスターされた。

15. LITTLE GREEN APPLES(Bobby Russel)
16. COME ON IN THE HOUSE(James Brown-Alfred Ellis)
1968年12月リリース(King 6199)/名義:アルフレッド‘ピー・ウィー’エリス・フィーチャード・ウィズ・ザ・ジェイムズ・ブラウン・バンド


O.C.スミスの“Little Green Apples”は1968年の最もキャッチーなヒット曲の1つだった。それはインストゥルメンタルのカヴァーが続出しそうなメロディをもっていた。ブラウンのロード・ショーで聴衆を喜ばせていたピー・ウィーの魅力的なアレンジメントが、彼のサックスとウェイモン・リードのミュート・トランペットにきっちりとフィーチャーされている。

“Come On In The House”は正体不明の男性シンガーの入った7分間のジャム・セッションから生まれた。シングルはヴォーカルに続くジミー・ノーランのギター・ソロの間から始まる。エリスはエネルギッシュなアルトで火がつき、ハウス・パーティーはハーモニカでフェイドする。これはおそらくツアー技術担当のウォルター・フォスターだろう。これら威勢のいいトラックはどれもアルバムに収められることはなかった。

17. GIVE IT UP OR TURNIT A LOOSE(Charles Bobbit)
18. I’LL LOSE MY MIND(James Brown-Bud Hobgood-Bobby Byrd)
1969年1月リリース(King 6213)/名義:ジェイムズ・ブラウン/R&Bチャート1位(2週)、ポップ・チャート15位


マイアミでのショーのあとの深夜セッションで生まれた“Give It Up Or Turnit A Loose”は、ブラウンが完璧さを超えたところにあることを認める見本のような1曲。最初はホーン隊が躊躇する。しかし新しいテイクのためにストップするのではなく、ジェイムズはグルーヴを維持したまま、「もう一度始めるんだ」と歌う。それからリズム・セクションはほとんど曲のブリッジ部でつまずいてしまう。「ジェイムズはコード・チェンジの準備をするように前かがみになって僕たちを見たんだ」 ベーシストのシェレルはかつてそういった。「でもそこは正しいタイミングじゃなかった。彼は僕たちに手を振って合図したね」

注意深く聞いてみると、シェレルとドラマーのネイト・ジョーンズは小さなミスをしているのが分かるが、グルーヴは勝利している。ジェイムズはそれを分かっていた―チームは試合に勝っているのに、2〜3のファンブルが何だというのだ?R&Bチャートで1位となった“Give It Up Or Turnit A Loose”は、ポップ・チャートでは15位止まりだった。両チャートの格差の増大は、“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”へのメインストリーム・ラジオの反発に端を発するといっていいかもしれない。

JBによる大胆なインストゥルメンタル・ミックスである“I’ll Lose My Mind”では、オルガンがボビー・バードのヴォーカルに取って代わっている。濃厚なオルガンは、誰がリーダーで―そして誰がミックス・エンジニアだったかについていえば何の問題もない。

OPEN END I.D.’S 1
OPEN END I.D.’S 2


キング・レコーズは1969年3月付でJAMES BROWN-MONTH OF SOULの発足と、大掛かりなマーケティング・キャンペーンとして、ラジオ向けのスペシャル商品の配布と業界内に全面広告を打つことを公表した。ラジオ出演者たちは4つのJBクラシックの入ったEP盤と、このレア・シングルを受け取った。それは局への“わいろ”ともとれる幅広い解釈のできるものだった。

19. SOUL PRIDE(PART 1)(James Brown-Alfred Ellis)
20. SOUL PRIDE(PART 2)(James Brown-Alfred Ellis)
1969年3月リリース(King 6222)/名義:ジェイムズ・ブラウン/R&Bチャート33位、ポップ・チャート117位


The Month Of Soulはアルバム、Say It Loud-I’m Black And I’m Proud及び、この熱いインストゥルメンタルを紹介した。うまく名付けられた“Soul Pride”は、無比なるジェイムズ・ブラウンのバンドによる痛烈な声明だ。

年が過ぎるとピー・ウィー・エリスは自分たちの辞書を改訂し、古い編曲を更新し、そこに新しい何かエキサイティングなものを加えていった。“Soul Pride”はビッグ・バンドへの彼の愛情が表れているが、基本的にはジミー・ノーランをフィーチャーしている。エリスは長旅のバスの中で、仲間たちに概略を話したことを覚えている。「僕はリズム・セクションのそれぞれのパートに説明しなきゃならなかった。1人ずつ続けてね」 彼はいう。「少しずつ要素を加えていくんだ」

もともとバンドは“Say It Loud”セッションで“Soul Pride”を録音したが、そのヴァージョンは棚上げになった。1968年8月26日、エンジニアのロン・レンホフはダラス・メモリアル・オーディトリアムでのエキサイティングな新しいバンドのセットをレコーディングした。それはインストゥルメンタル・アルバム、James Brown Plays And Directs The Popcornとなった。広い洞窟のようなスポーツ・アリーナのグループのサウンドは、キング・スタジオと比べればほめられたものではないが、彼らのシンシナティでのセッションよりはるかに優れていた。レンホフはメンバーたちのダイナミックなインパクトを最高の形でとらえていた。

21. YOU GOT TO HAVE A JOB(IF YOU DON’T WORK-YOU CAN’T EAT)(James Brown-Waymon Reed)
1969年3月リリース(King 6218)/名義:マーヴァ・ホイットニー・アンド・ジェイムズ・ブラウン


“You Got To Have A Job”別称“If You Don’t Work, You Can’t Eat”は、ジェイムズおはこの詞のひとつだった。彼は以前にボビー・バードとジェイムズ・クロフォードによるヴァージョンをプロデュースしていた。ジェイムズとマーヴァによる元気いっぱいのメイシオへの連呼を聞くより、メイシオの音を聞くほうがいいのは確かだろう。しかしこれはあなたをからかったのではない―十分に熱いトラックだ。B面はホイットニーの“I’m Tired, I’m Tired, I’m Tired”のリイシューだった。

1968年、ジェイムズ・ブラウンはその信頼性はそのままに、熱い時事論争の中で生き残った。彼は4大陸でコンサートを行ない、国家の首席たちと食事をともにした。彼はクリエイティヴな面でもセールス的な面でもピークに達し、定期的にリリースされる最先端のレコードのほとんどが自動的にヒットとなった。彼がキャッシュボックス誌のメイル・アーチスト・オブ・ジ・イヤーで、エルヴィス・プレスリーさえも上回ったのは、ほとんど驚くにはあたらなかった。アーサー・コンリーがそのヒット曲“Sweet Soul Music”の中で歌っていたように―「ジェイムズ・ブラウンが全てのキングだ」


アラン・リーズ 2007年10月


アラン・リーズは長きにわたる音楽業界の重役であり、音楽学者である。彼はジェイムズ・ブラウンのツアー・ディレクターとして、1970年から1974年まで働いた。彼は余すところなくリサーチしたブラウンのディスコグラフィーを完成させ、出版する日が来ることを約束している。


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