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James Brown/The Singles Volume 4 : 1966-1967/2007 Universal Records/Hip-O Select.com B0009472-02



1966年元日、ジェイムズ・ブラウンの“I Got You(I Feel Good)”は全米ナンバー1となっていた。ブラウンは依然キング・レコーズとの論争に決着をつけず、彼の契約期限はその年終わりまでとなっていた。その合間、彼はキングにヴォーカル・シングルを少しずつ提供する一方で、スマッシュ・レコーズのためにインストゥルメンタル・アルバムをレコーディングし続けていた。成長を続ける自身のバンドを率いようが、ニューヨークのスタジオ・ミュージシャンたちとプレイしようが、JBは燃えていた。

DISC 1

1. AIN’T THAT A GROOVE Part 1(James Brown-Nat Jones)
2. AIN’T THAT A GROOVE Part 2(James Brown-Nat Jones)
1966年2月リリース(King 6025)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート6位、ポップ・チャート42位


自身のバンドで連続してNo.1レコードをものにし、活気づいたジェイムズ・ブラウンは、ニューヨークのスタジオ・ミュージシャンとともに“Ain’t That A Groove”をレコーディングした。ナット・ジョーンズの一種独特なアレンジメントによって、発展し続けるJBのグルーヴの要素が、確立されたスウィング・バンドの文脈の中へうまく溶けこんでいた。このレコードがリリースされてすぐあとに私がブラウンに尋ねた時、彼はこういった―「ビッグ・バンドに戻ってみたんだ。これはビジネス全体にとっていいことなんだ」

完成した“Ain’t That A Groove”はわずか3分33秒、約1分が“Part 2”を完成させるために反復された。レコードはブラウンの最新シングルの成功を繰り返さなかったが、それ以外は全てが完全なグルーヴの世界だった。3月、ジェイムズは初めてヨーロッパをツアーした。その直前には、ポップ・ミュージックの興行主シド・バーンスタインがニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで主催したショーに、スペシャル・ゲストのザ・(ヤング・)ラスカルズ、ルー・クリスティーとともに出演した。そのギグでブラウンは初めてメジャーな大会場をソールド・アウトにし、メインストリームのメディアから大きな注目を引きつけた。

3. NEW BREED(THE BOO-GA-LOO)(Part )(Nat Jones-James Brown)
4. NEW BREED(THE BOO-GA-LOO)(Part )(Nat Jones-James Brown)
1966年3月リリース(Smash 2028)/名義:ジェイムズ・ブラウン


マイアミのクリテリア・スタジオでの2つのマラソン・セッションは、スマッシュからの3枚目のインストゥルメンタル・アルバム、James Brown Plays The New Breedを生み出した。そのタイトル・ソングの構造は、わずかに“Ain’t That A Groove”と似ている。しかしながら今回は、ナット・ジョーンズのアルト・サキソフォン、バーナード・オーダムのウォーキング・ベースを加えたブラウン自身のバンドが前面に出ている。新たに加わったのは次のとおりだ―ジャズを身につけたトランペッターのウェイモン・リード、ジェイムズがボビー“ブルー”ブランドのグレイトなロード・バンドから誘い込んだ達人ドラマーのジョン“ジャボ”スタークス。(このセッションの数週間後、ブラウンは極めて若いサキソフォニストで、ウェイモン・リードがマイアミでいっしょに働いていたソニー・ロリンズの弟子だったアルフレッド“ピー・ウィー”エリスを加えた)

“Ain’t That A Groove”同様、“New Breed”もトラックを2つのパートに拡張するためにループを必要とした。どちらの曲も“Papa’s Got A Brand New Bag”によって火がついた音楽的方向性からはいくらか外れていた。ブラウンがファンク球を投げ、走り出す前にしばらく時間の経過があった。

その合間、キング・レコーズはアーカイヴ・マテリアルから不可解な選択によるシングル群リリースを再開した。“Prisoner Of Love”(Volume 2参照) b/w “I’ve Got To Change”(Volume 1参照)(King 6029)は3月にリリースされた。そのちょうど3週間後、キングは“Come Over Here”(Volume 2 参照) b/w “Tell Me What You’re Gonna Do”(Volume 3参照)(King 6032)をリリースした。

5. IT’S A MAN’S MAN’S MAN’S WORLD(James Brown-Betty Newsome)
6. IS IT YES OR IS IT NO?(James Brown)
1966年4月リリース(King 6035)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート1位、ポップ・チャート8位


フォーマット的に分かりやすいバラッドである“It’s A Man’s Man’s Man’s World”がトップ10内をかけ上がった時に、“Ain’t That A Groove”はブラウンの関心の的から少し離れることになった。

ジェイムズは時折、自身のバンドの多才でハイレベルな演奏技術を自慢していた。それでも彼はニューヨークで、いつでも雇うことができる精鋭たちとレコーディングを続けていた。ブラウンはすでに自身のバンドによって、シカゴでほぼ2年前に“It’s A Man’s Man’s Man’s World”とそれに劣る2曲を吹き込んでいたが、最初のヴァージョンは依然リリース待ちの状態だった。ブラウン依頼のアレンジャー、サミー・ロウは、このセッションに全く新しいアレンジメントを持ち込んだ。結局ブラスとバッキング・ヴォーカルが加えられた。2人ともドラマーとしてバーナード“プリティ”パーディーを信頼していた。しかしジャボ・スタークスはパーディーの交代要員としてホテルから狩り出されていたことは確実に断言できる。ジャボによればこうだ―「彼がジェイムズのほしがるフィーリングを出せなかった時に僕が必要だったんだ」

ロウの調達した一団は、ブルージーな“Is It Yes Or Is It No?”で聞くことができるが、彼とブラウンが1964年に録音したトラックにうまく調和していた。
ブラウンがキング・レーベルに戻って以来、4枚のシングルのうち3枚が楽々とヒットを飛ばしていた。彼のスターダムは、CBSテレビのゴールデンタイムの怪物番組、エド・サリヴァン・ショーから出演依頼を受けたことで証明されたかのようだった。しかしブラウンは自身のバンドといっしょの出演が認められるまで、サリヴァンの招待を拒否した。ジェイムズはサム・クックやジャッキー・ウィルソンらあまりに多くのR&Bスターたちが、番組の使う退屈なオーケストラと苦闘するところを見ていた。ジェイムズの驚きの要求は報われた。彼はカメラに写らないストリング・セクションに増強され、フェイマス・フレイムスと自身のバンドとともに、ダイナミックなメドレーを披露した。その後、喜びに輝くJBは、握手を求めるサリヴァンに呼び寄せられた。何年もあとに出たビデオでは、サリヴァンが「ジミー・・・君はスターだ」と口にしているところが見られる。

彼のファンたちが、“ジェイムズはメインストリームのアメリカに魂を売った”と心配しないよう、彼は翌週のハーレム、アポロ・シアターへの出演契約を取った。そこで彼は自身の動員記録を破った。

キング・レコーズはさらに2つのアーカイヴ・シングルを用意した―“I’ve Got Money”(Volume 2参照) b/w “Just Won’t Do Right”(Volume 3 参照)(King 6037)及び、“I Don’t Care”(Volume 3参照) b/w “It Was You”(Volume 3参照)(King 6040)だ。しかし両方ともプレス前にキャンセルされた。あるいはキングのオーナー、シド・ネイサンはそれら全ての無益さに気づいたのかもしれない。もちろんジェイムズは気づいていた。キングとの対立が長引くことに失望した彼は、スマッシュ・レコーズのためにインストゥルメンタルを録音する契約を延長した。

7. JAMES BROWN’S BOO-GA-LOO(James Brown-Nat Jones)
8. LOST IN A MOOD OF CHANGES(James Brown-Nat Jones)
1966年6月リリース(Smash 2042)/名義:ジェイムズ・ブラウン


“James Brown’s Boo-Ga-Loo”は、James Brown Plays New Breedで“Fat Bag”として収録された。人気のあったダンスを利用してタイトルが改められ、ナット・ジョーンズの攻撃的なアレンジメントが火を噴いている。バーナード・オーダム、ジミー・ノーラン、そしてアルフォンゾ・キーランは、ベースとギターのラインをクレイジーなキルトのように縫い上げている。ブラウンのオルガンは全体にわたって堂々と飛び跳ねている。“James Brown’s Boo-Ga-Loo”で、バンドはうしろを振り返らず前だけを見ている。

“Lost In A Mood Of Changes”は、ほとんどその2ヵ月前にボビー・バードが録音した歌のインストゥルメンタルでの焼き直しだ。

9. MONEY WON’T CHANGE YOU Part 1(James Brown-Nat Jones)
10. MONEY WON’T CHANGE YOU Part 2(James Brown-Nat Jones)
1966年7月リリース(King 6048)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート11位、ポップ・チャート53位


“Money Won’t Change You”は、バラッド・ヒットに続くシングルとしては驚くべき選択だった。これはポップ・ラジオにとってエアプレイするのに容易なレコードではなかった。これまでとは違うアレンジメントは、ブラウンが未知の領域に踏み込んだことを示している。これはまるでブラウンとジョーンズが、モータウンのプロデューサー(ライター)であるホランド-ドジャー-ホランドが広めた2拍子のリズムに取り組み、それをモータウンとは正反対にダークに展開したかのようだ。ベースの大げさな鼓動とトロンボーンの低音のうなりは、ブラウンがワルの流儀で料理した歌であることを暗示させる。

過去のディスコグラフィーを考慮すれば、それが風変わりなサックス・ブレイクをとるナット・ジョーンズに率いられたブラウンのバンドであることをほのめかす一方で、残りのパフォーマンスはそれらとは全く似ていない。オルガンの設定はセッション・マンのアーニー・ヘイズが好んだ一つであるが、2拍子のビートはJBのドラマーたち―ジョン・スタークスとクライド・スタブルフィールドの典型的パターンではない。残念ながら、このセッションの記録は存在が確認されていないため、我々は推測に頼るしかないのであるが。

完成したトラックは優に6分を超えているが、シングルは2つのパートに切り貼りされた。テンポは回転が上げられ、エンジニアによっていくつかのセクションは削除、再編集された。

11. THIS OLD HEART(James Brown)
1966年8月リリース(King 6044)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


キング・レコーズは最後にまたしてもアーカイヴからのシングル・リリースの誘惑に勝てなかった。今回彼らは“How Long Darling”(Volume 3参照)をカップリングした。オーヴァーダブ・ヴァージョンとなった“This Old Heart”は、もともと1965年2月に“King 5995”としてリリースされていた(Volume 3参照)。“This Old Heart”のリミックスにあたって、キングのエンジニアは不可解にもイントロを削ったが、今回そのヴァージョンをここに収録した。

無意味なシングルと行き当たりばったりに編集されたアルバム、Soul Brother No.1(別称It’s A Man’s Man’s Man’s World)は、ブラウンとキング・レコーズ/シド・ネイサンとの関係のターニング・ポイントとなった―果てしない時代遅れのマテリアルの再パッケージを終わりにすることはさておきの話だが。

ジェイムズ・ブラウンはネイサンのかつて誇った唯一の価値あるアーチストとして依然存在していたが、彼の契約期限はまさに切れようとしていた。そしてついに、真剣で誠実な交渉がもたれるときがきた。ミーティングは驚くほどうまくいった。

1966年9月、ジェイムズは大幅に条項改定されたキング・レコーズとのレコーディング/プロダクションの新しい独占契約にサインした。彼は完全なクリエイティヴ・コントロールの権限を与えられた―本質的には数年間、彼は完全に自由にふるまっていたが、今回正式にその条項が記載されることになった。JBはまた、他のアーチストの契約とプロデュースの権限も与えられた。キングは新しいジェイムズ・ブラウン・プロダクションズを彼らの拠点であるシンシナティのビルに構えることを承認し、スタッフの数をそろえ、必要経費管理の全責任を引き受けることに同意した。その返礼として、ブラウンは1967年に切れるスマッシュ・レコーズとの契約を延長しないことを確約した。

12. DON’T BE A DROP OUT(Burt Jones)
13. TELL ME THAT YOU LOVE(James Brown-Bud Hobgood-Nat Jones)
1966年9月リリース(King 6056)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート4位、ポップ・チャート50位


ブラウンの新しい契約のもとでの最初のリリースは、1966年に彼がリリースした他のレコード同様、オーソドックスなものではなかった。“Don’t Be A Drop-out”はシリアスなメッセージを伝えている―ジェイムズは若者たちに向け、ことあるごとに学校にとどまるよう力説していた。陽気で明るいサウンドは騒がしく楽しい学校の様子を表し、ファンたちは熱心に聴き入った。

ブラウンはワシントンD.C.の全国都市同盟の集会でこのレコードを紹介し、その後、彼は自分のキャンペーンのサポートを求め、合衆国副大統領のヒューバートHハンフリーと会った。印税の一部は、全米ラジオ・アナウンサー協会が設立したジェイムズ・ブラウン奨学基金に寄付された。その協会はほとんどが黒人のディスク・ジョッキーによって組織されていた。

ポップ・ラジオのこのレコードに対する動きは鈍かった。そしてブラウンの見たところ普遍的な活動は、おかしなことに政治的な色合いを帯びていった。この歌はマイク・ダグラスの昼間のトーク番組で歓迎されたが、ゴールデンタイムの司会者エド・サリヴァンはこれを拒絶した。サリヴァンは、何の問題もない音楽的なパフォーマンスのみを望んでいたと語った。一方で、その時の政治家たちは、このシンガーの大きくなる影響力を認め始めていた。11月、ニューヨーク州知事のネルソンAロックフェラーと上院議員のヤコブ・ジャヴィッツは、アポロの楽屋にいたブラウンのところに不意の訪問を行なった。

“Tell Me That You Love Me”はジェイムズ・ブラウンの標準からいっても風変わりだ。その頃、彼はギグを受けのいいジュニア・ウォーカーの“Shotgun”(モータウンのヒット曲)のカヴァーで始めていた。ライヴ・アルバムに備え、JBがタンパのFt. Hesterly Armoryでショーを録音することを決めた時、彼はただちに“Shotgun”の歌詞を変えたが、攻撃的なアレンジメントはそのまま残しておいた。アルバムはステージ・アンプの不調により棚上げにされたが、ジェイムズの新しいプロダクション・マネージャーのバド・ホブグッドがエキサイティングなトラックを救い出すことに決めた。彼はナット・ジョーンズのイントロを加え、ベストなヴォーカル・ヴァースをループさせ、オーヴァーダブのためにシンシナティのギタリスト、ロニー・マックを呼び寄せた。テナー・サキソフォンのソロはセント・クレア・ピックニーだ。

14. LET’S GO GET STONED(Valerie Simpson-Nickolas Ashford-Jo Armstead)
15. OUR DAY WILL COME(Bob Hilliard-Mort Garson)
1966年11月リリース(Smash 2064)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アット・ジ・オルガン


ジェイムズは依然ライヴの一部でオルガンをプレイしていた。アルバムHandful Of Soulからのこれら2つの人気ナンバーは、1966年のショーでよく取り上げられていた。レコーディングのために集められたバンドは、ブラウン自身のユニットから数名の達人と、サキソフォニストのクリフォード・ジョーダン、ピアニストのアルバート・デイリー含む、副業としてのジャズ・ミュージシャンたちとの結合だった。レイ・チャールズのヒット曲“Let’s Go Get Stoned”は、彼の最新ヒット2曲のうちの新しい方だった。しかし心地よい“Our Day Will Come”の方がバンドのレパートリーに長く残った。

16. THE CHRISTMAS SONG(Version 1)(Mel Torme-Robert Wells)
17. THE CHRISTMAS SONG(Version 2)(Mel Torme-Robert Wells)
1966年11月リリース(King 6064)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


今やブラウンのレコーディング活動は、彼がアルバムの計画を好きにできた1964年以来の堅固なものとなっていた。9月下旬、彼はナット・ジョーンズに、クリスマス・アルバムのために5曲のカヴァーと5曲のオリジナルを準備することを告げた。

その結果出来上がったLP、Christmas Songsは、JBによるホリデイ・ミュージックへの初の試みとなった。それは常に人気の高い“Christmas Song”を収録することで完璧な効果を発揮した。しかし2つも?

メローな“Version 1”は、チャールズ・ブラウンのようなスムースなスタイルで歌われている。“Version 2”はキーが異なっている。ジェイムズは自身の歌い方に戻り、よりメロディを自由にあやつっている。

18. SWEET LITTLE BABY BOY(James Brown-Nat Jones)
19. SWEET LITTLE BABY BOY(James Brown-Nat Jones)
1966年11月リリース(King 6065)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


心地よい“Sweet Little Baby Boy”は、“Christmas Song”と同時リリースされた。フロイド・クレイマーのような卓越したピアノ・パフォーマンスはクレジットの記載がなかった。これは少しだけラジオでエアプレイされたが、チャート入りは逃した。

20. LET’S MAKE CHRISTMAS MEAN SOMETHING THIS YEAR(Part 1)(James Brown-Nat Jones)
21. LET’S MAKE CHRISTMAS MEAN SOMETHING THIS YEAR(Part 2)(James Brown-Nat Jones)
1966年11月リリース(King 6072)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


悲しげな“Let’s Make Christmas Mean Something This Year”は、アルバムChristmas Songsのオリジナルの中で最も個人的な1曲だった。すでにマーケットには2つのホリデイ・シングルがあったにもかかわらず、多くの都市のラジオ局はこのトラックの方を好んだ。キングは感謝祭の直後、このシングルを急いでリリースする反応を見せた。

DISC 2

1. BRING IT UP(James Brown-Nat Jones)
2. NOBODY KNOWS(James Brown-James Crawford)
1966年12月リリース(King 6071)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


ジェイムズはチャート上にレコードがないまま、その年を締めくくることを望まなかった。1966年までほとんどの年末リリースは感謝祭(11月第4木曜日)までにリリースされていたが、キングがクリスマス前の週にニュー・シングルを出した時、ジェイムズはトレンドの裏をかいていた。

“Bring It Up”はもともと“Hipster’s Avenue”としてレコーディングされた4分の斬新なグルーヴだった。その後、ジェイムズはトラックをリヴァーブ漬けにし、バッキング・ヴォーカルのほとんどを削り、サウンドをむき出し状態にした。その結果、これは煽り立てるような力強いトラックに生まれ変わった。ポスト・プロダクションの勝利だった。

少しの役割転換として、レコードのブラウンのパワフルなホーン・セクションは、サミー・ロウのスタジオ・バンドのような音を出している。しかしこのリズム・セクションが最も注目すべき点だ。ジャボ・スタークスのホットなドラムスは、ボビー“ブルー”ブランドの“Turn On Your Love Light”での彼の名パフォーマンスを思わせ、新参のロン・セリコはボンゴでJBの兵器倉庫へと導いている。

一方で“Nobody Knows”は無害なブルース・バラッドだ―60年代初頭のキングのアルバムによく見られる類のものだ。

3. KANSAS CITY(Jerry Leiber-Mike Stoller)
4. STONE FOX(James Brown-Bud Hobgood)
1967年2月リリース(King 6086)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


ブラウンの最新シングル群は、音楽的に必ずしも最先端を行くものではなかったが、ロードでの彼のショーはたしかに最先端だった。彼は新しい年のギグをオール・スタンディングの会場ラテン・カジノでスタートさせた。そこはフィラデルフィア外側にあったナイトクラブだ。オープニングの晩、変わり者で知られる音楽ディレクターのナット・ジョーンズはそのエゴを爆発させ、彼は出て行ってしまった。彼の代わりにピー・ウィー・エリスが抜擢された時、バンドの意気が上がった。ジョーンズと違い、ピー・ウィーはその一団の中でチーム・プレーヤーだった。

ラテン・カジノでの10日間のギグの間、ジェイムズはライヴ・アルバムを企て、また、クラブが閉店したある晩に“Let Yourself Go”をレコーディングした。しかしその時までに新曲のリリースが準備され、ジェイムズは再びニューヨークでレコーディングにとりかかっていた。セッションの翌朝、彼は急いでキングにプレスを中止するよう命じ、“Let Yourself Go”の代わりにサミー・ロウのアレンジメントによってレコーディングされたばかりの古典的なR&Bブルース、“Kansas City”を使うよう指示した。

“Kansas City”はシングルとしては戸惑ってしまうような選択だった。ほとんどの若者たちがもはや古いブルースに興味を失っていた中で、これはJBがラテン・カジノやラスヴェガスに来ていた古い世代のオーディエンスに向けたレコードのように思える。垂木を揺らすほどのライヴ感に満ちてはいるが、これは近年で最低のセールスとなった。“Stone Fox”は若いシンシナティのミュージシャンたちのグループによる、バド・ホブグッド・プロデュースのインストゥルメンタルだ。そのバンドはギタリストのトロイ・シールズを含んでいたが、その名前はもともとキングのマスター記録に載っていたトラックのものだ。

5. IT’S A GAS Part 1(James Brown-Bud Hobgood)
6. IT’S A GAS Part 2(James Brown-Bud Hobgood)
見発表(King 6087)/名義:ザ・ジェイムズ・ブラウン・ダンサーズとしてリリース予定されていた。


“It’s A Gas”はジェイムズ・ブラウンのショーでよくオープニング・ナンバーとして使われていた、ナット・ジョーンズの代表的インストゥルメンタルだった。レコーディングで、ジェイムズはエルディー・ウィリアムズ及び、ジュウェルズあるいは3人のジェイムズ・ブラウン・ダンサーズのコーラス・ヴォーカルを加えた。そのダンサーズはステージで“クッキー、アン、ジョー・アン”としてのみ知られていた。何らかの理由で、このシングルは最初、バド・ホブグッドが契約したシンシナティのバー・バンド、ファビュラス・ダップスのものと見なされていた。レコードがキングのリリース・スケジュールに載るまでに、アーチスト・クレジットはザ・ジェイムズ・ブラウン・ダンサーズと改められていた。しかしレコードのマーケティングに関する全ての計画は無駄に終わった―これがプレスされる前に、ナット・ジョーンズがバンドを去り、リリースはキャンセルされた。

7. THINK(Lowman Pauling)
1967年2月リリース(King 6091)/名義:ヴィッキ・アンダーソン・アンド・ジェイムズ・ブラウン/ポップ・チャート100位


サミー・ロウはブラウンがスタジオで遅れを取り戻す時の恩人の1人だった。この“Think”のリメイクは、“Kansas City”セッションからのスウィンギンな1曲だ。JBとヴィッキ・アンダーソンの間のスマートで粋な作用のおかげで、“Think”のデュエットは素晴らしい仕上がりとなっている。B面はミス・アンダーソンのソロによる“Nobody Care”だった。

8. LET YOURSELF GO(James Brown)
見発表(King 6086)/1967年4月リリース(King 6100)
9. GOOD ROCKIN’ TONIGHT(Roy Brown)
1967年4月リリース(King 6100)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート5位、ポップ・チャート46位


4月上旬までに、“Let Yourself Go”はアルバムRaw Soulの中でラジオの注目を浴び、話題となっていた。キングはついにこのシングルを出荷し、すぐにジェイムズ・ブラウンはビッグ・バンドの傾向から脱し、ファンク街道に戻った。ジェイムズは、彼が歌う時ソウル時代は過去のものとなると断言する―「あまりスローではないんだ。それはソウルじゃない。リズム&ブルースだ」

“Let Yourself Go”は巨大な一歩だ。セッションはもともと、のちに「“Cold Sweat”ビート」で知られることになるシンコペート・スタイルをプレイするクライド・スタブルフィールドとともに始まった。一貫性を欠いた最初のテイクのあと、ジェイムズはクライドをジャボ・スタークスと交代させた。より安定したスタークスのフィールは、曲の鼓動をとらえることに役立った。鋭敏なジェイムズ・ブラウンのバンドはグルーヴを作り上げていた―彼らとともに必ず彼らのボスがその場にいた。テイクを重ねる中で、ジェイムズはスタークスに最近のショーでやったことを思い出させていた。「なあジャボ、オレは‘ウッ’ってやつを入れようと思うんだ」 ボスはそういった。「オレがそれをやった時に、お前がスネアを一発打つといい感じになるんじゃないか?」

半ば歌詞、半ばヴォーカリーズ(vocalese:ヴォーカルを楽器に見立てて、楽器のパートをなぞって歌う歌唱スタイル)、ブラウンのマジカルなパフォーマンスはリズム・セクションに変身する。“Let Yourself Go”最後の催眠性あるマイナー・キーの即興は、のちのスタイルの先駆だ。しかしそれはVolume 5のストーリーだ。

“Good Rockin’ Tonight”は、ワイノニー・ハリスとロイ・ブラウン両者による1948年の大ヒットだった。2人ともJBが影響を受けたキングのアーチストだった。ジェイムズの歓喜に満ちた解釈は、強固なサミー・ロウの編曲とサム“ザ・マン”テイラーによる高揚するようなテナー・サキソフォン・ソロをフィーチャーしている。このトラックは1964年に行なわれたShowtimeセッションからのアウトテイクだった。最初は打ち切られたアルバム、Out Of Sightに収録された。スマッシュはテープを保存していたが、ジェイムズがアルバムのアセテート盤を所有し、そこからキングは新しくマスターを制作した。

10. I LOVES YOU PORGY(George Gershwin-Ira Gershwin-Dorothy Heyward)
11. YOURS AND MINE(James Brown-Bud Hobgood)
1967年5月リリース(Bethlehem 3089)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


人々はジェイムズ・ブラウンの音楽がどこへ向かっていたかを分かっていたつもりだったが、彼は再びカーヴボールを投げた。“Kansas City”同様、“I Loves You Porgy”はファンの年齢層を広げようとするアーチストの努力を示している。シングルはキングの系列レーベル、ベツレヘムでプレスされた―JBのキングからのレコードと競合しないようにするためか、あるいは単にニーナ・シモンのオリジナル・ヒット・ヴァージョンがそのジャズ・レーベルにあったためかもしれない。

ジェイムズは1966年に間違いなく、より優れたヴァージョンの“I Loves You Porgy”を録音していたが、彼はアルバムOut Of Sightに残っていた方をリリースに選んだ。そのレコードは論争がなかったわけではなかった。ジェイムズは明らかに“Porgy”を女性として定義しているが、リスナーたちはガーシュウィンが男性についてこの歌を書いていたことを知っていた。何の問題もないかのように思われたが、ラジオは乏しい反応しか示さなかった。

“Yours And Mine”は1年前のボビー・バードのレコード、“I Found Out”のインストゥルメンタル・トラックだ。キングのプロデューサー、ジーン・レッドはバードのヴォーカルをヴィブラフォンに置き換えた。

12. JIMMY MACK(Brian Holland-Lamont Dozier-Edward Holland Jr.)
13. WHAT DO YOU LIKE(Alfred Ellis)
1967年6月リリース(Smash 2093)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アット・ジ・オルガン


キングでのブラウンのレコーディング活動が増えると同時に、彼はスマッシュ最後のアルバム、The Real Thingをリリースした。ピー・ウィー・エリスはアルバム全体のアレンジを任される見通しに胸躍っていた。しかしJBが全くトランペットなしでスタジオ・バンドを召集し彼に挑んできた時に、彼はやる気をそがれてしまった。「3本のトロンボーンに4本のサックス・・・」 エリスはことば巧みに尋ねた。「どういうサウンドを想定してそういうホーン・セクションにするのか?」

“Jimmy Mack”は(モータウンの)マーサ&ザ・ヴァンデラスによる最新ヒットだったが、明らかにインストゥルメンタル用として候補にふさわしくなかった。しかしジェイムズのオルガンは功を奏している。エリスによるスマートな“What Do You Like”はより興味深い。彼の(カウント・)ベイシー・ライクな編曲は、“プリティ”パーディーの完璧なテンポにふさわしいスウィングをもたらしている。ピー・ウィーは独特な編成のグループで奇跡的な仕事をしていた。

こうしてジェイムズ・ブラウンが自由なレコーディング・アーチストとしての地位を手に入れるためのスマッシュ・レーベルとの4年間の任務は終わりを告げた。続く4年間、ソウルのキングはキング・レコーズに在籍した。

14. IT WON’T BE ME(James Brown-Alfred Ellis)
15. MONA LISA(Jay Livingston-Ray Evans)
1967年5月リリース予定だったが未発表に終わる(King 6111)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


“It Won’t Be Me”はサミー・ロウによるスタジオでのいかしたジャム・セッションから。ブラウンとロウがしばしばコラボレートしていた通常のものよりも個人的なパフォーマンスだ。一部その理由は、彼らがブラスよりもリズム・セクションに気を使ったからだった。“Mona Lisa”はもともとのアルバムOut Of Sightの残り物だ。これは1968年についにLPが完成し、リリースされた時になぜかアルバムから外された。

しかし新たな問題が浮上した。ジェイムズ・ブラウンはあまりに多くのレコーディングをたくわえていたため、彼は何をリリースすればよいか決められなくなってしまった。ジェイムズがニュー・シングルとしてもっとふさわしい新曲を持っていたため延期を要請したが、その前に“It Won’t Be Me”は数千枚がプレスされていた。King 6111のプレス分は、1968年8月に廃棄を命じられるまで、キングの倉庫で眠ることになった。数百枚のレコードだけが生き残り、1970年代に倉庫が整理されたあと、マーケットに流れ込んだそれらはまたたく間にコレクターズ・アイテムとなった。

16. COLD SWEAT-PART 1(James Brown-Alfred Ellis)
17. COLD SWEAT-PART 2(James Brown-Alfred Ellis)
1967年6月リリース(King 6110)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート1位、ポップ・チャート7位


“Cold Sweat”は単なる次のシングルではなかった。それはリズムの革命だった。「私の知っていたミュージシャンたちを完全にぶっとばしてしまった」 アトランティックのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーはかつてそういった。「しばらくの間、誰も手がかりをつかめなかったんだ」

ピー・ウィー・エリスはセッションの前兆を回想する。「ジェイムズは自分の楽屋に僕を呼んで、リズムとベース・ラインのことをブツクサいい始めたんだ」 彼はいう。「彼は僕に次のレコードのために何かそういうものを書くんだといっていた。でも音符がなかったから僕が翻訳しなきゃならなかった。それでその晩、バスの中で僕はホーンのラインを思いついた」

ブラウンは“I Don’t Care”からベース・ライン、ギター・パート、そしていくらかの歌詞さえ引用した。その曲は彼が1962年に録音した無名のブルース・バラッドだった(Volume 3参照)。ピー・ウィーの機敏なホーン・ラインは、マイルス・デイヴィスの“So What”を精製したものだった。しかし初めて全てのパートが、彼らのリズミックな構成要素に単純化された。ジミー・ノーランのギターとバーナード・オーダムのベースは完璧にかみ合った。アルフォンゾ・キーランのひっかくようなギター・リックは、ドラムのインパクトを思わせていた。クライド・スタブルフィールドはキャリアを決定づけるビートを叩き出した。それは彼の師であるクレイトン・フィリューアが編み出した“マッシュト・ポテト”(Volume 2の“I’ve Got Money”参照)からそれほどかけ離れたものではなかった。“Cold Sweat”は、ジェイムズが“Out Of Sight”以来、探し求めてきたものの頂点だった。全てのR&Bの中で、最も洗練されたリズムの共生関係だ。

“Cold Sweat”のグルーヴは、3分間のシングルとしてはあまりに効力があり過ぎた。ジェイムズはさらに何かを思い描き、その頃、軍から復帰していたサキソフォンの達人、メイシオ・パーカーに引き継がせた。メイシオのまばらでシンコペートしたスタイルは、JBの新しい音楽に完璧にフィットした。もっと伝統的で一直線なソロイストでは、これほどの効果をもたらさなかっただろう。メイシオはブラウンによる“ウウッ”やその他のかけ声をサックスでプレイしていた―“奴らにもやらせろ!(let’em have it!)”。7分間のジャムは忘れられないスタブルフィールドのドラム・ソロでピークに達した―“ドラマーにも何かやらせろ(give the drummer some)”―これはソウルの辞書に仲間入りした。スタジオ・ミュージシャンたちと自身のバンドの間で立ち回った数年間ののち、ブラウンは以前にはなかったバンドの結束を強固なものにした。

“Cold Sweat”がリリースされた週に、ブラウンはアポロ・シアターでいくつかのショーを録音した。そこにいた幸運なオーディエンスは、実験室から飛び出したファンクがステージ上で爆発するのを目撃した。「僕たちは毎晩こいつをぶちかましていたんだ」 エリスはいう。「その間はずっと興奮しっぱなしだったよ」

18. GET IT TOGETHER(Part 1)(James Brown-Bud Hobgood-Alfred Ellis)
19. GET IT TOGETHER(Part 2)(James Brown-Bud Hobgood-Alfred Ellis)
20. GET IT TOGETHER(Part 1)(Version 2)(James Brown-Bud Hobgood-Alfred Ellis)
21. GET IT TOGETHER(Part 2)(Version 2)(James Brown-Bud Hobgood-Alfred Ellis)
1967年10月リリース(King 6122)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


もしバンドとのライヴ・ジャムを録音することがブラウンの新しいひな型だったのなら、“Get It Together”はいつもどおりのことであっただろう。“Cold Sweat”は、レコード購買層が即席のセッションによるくつろいだ雰囲気を楽しんでいたことを示していた。それはまるでファンたちが普段のプライヴェイトでクリエイティヴなセッションの様子を立ち聞きすることを歓迎されていたかのようだった。休日のアトランタで行なわれた“Get It Together”のレコーディングでの一団は気力が充実し、開放的だった。JBのヴォーカル・パフォーマンスは、全てがバンドとの自発的な対話というわけではなかった。以前の“Let Yourself Go”で聞けたような“ウウッ”は、リズムの区切りであるまさに音楽的な語彙へと実を結び、スキャット唱法と同等なファンクのスタイルとなった。Good God!

“Get It Together”もほとんどが“Cold Sweat”の記念碑的なインパクトにインスパイアされたようだが、そのグルーヴはそれほど特異ではなかったかもしれない。ドラマーはジョン・スタークスで、彼のクラベス(ラテン音楽で用いる2本の棒を打ち合わせる打楽器)にインスパイアされた“ボ・ディドリー”ビートは、クライド・スタブルフィールドのファンキーさとは対極に位置していた。一方でメイシオ・パーカーの陰影ある即興は、単なるソロを越えていた。ジェイムズは彼にいった―「メイシオ、続けてくれ、そこにグルーヴがあるんだ」

“Get It Together”はJBがヨーロッパをツアーしている間にリリースされた。アメリカに戻ってすぐにラジオでレコードを聞いた彼は、それが十分に“ホット”ではないと判断した。キングのエンジニアは直ちにトラックのリミックス及びリマスターを行なった―JBのヴォーカルに対してバンドの演奏をもっと前面に持ってきた。リミックス(あるいは“X”ヴァージョン)の“Part 1”は、オリジナルよりも数秒間早くフェイドする。もっと顕著なのは、“Part 2”が前に削った25秒間を復活させ、より早くフェイドしている点だ。結果、2つの大きく異なるヴァージョンができ上がった。

1966年と1967年はジェイムズ・ブラウンのキャリアの中で、最も重要でクリエイティヴな年だった。あるいは最も露出度の高いそのプロセスの側面は、自身を繰り返すことを彼が嫌った部分かもしれない。型にはまった考えと商業上のプレッシャーを無視すること、60年中期の主なシングル群の1つが公然と派生したものではないということだ。

ブラウンの並はずれたリズム&ブルースのブランドは、神聖な魂(ソウル)の土壌に敬意を表し、そこにファンクと呼ばれる新しい領域の種をまいた。彼は自然と流れ出る音楽を妨げていた契約上のしがらみから自由になった。しかし1968年が近づくにつれ、ジェイムズは別の挑戦に直面した。ジョー・テックスは一連の注目すべきヒットを放ち、側面にThe New Soul Brother #1とペイントされたツアー・バスを所有していた。しかしJBはソウル・ブラザーNo.1であることは、1台のバスでは証明できないことを分かっていた。ブラウンの気を本当に散らすものは、音楽の世界の外側から不気味に現れていた。続く数年間に人種と政治が彼の遺産にどれほど影響を与えることになったかは、人々の推測に頼るしかない。


アラン・リーズ 2007年5月
エリック“相互共生関係”リーズに感謝する

アラン・リーズは長きにわたる音楽業界の重役であり、音楽学者である。彼はジェイムズ・ブラウンのツアー・ディレクターとして、1970年から1974年まで働いた。彼は余すところなくリサーチしたブラウンのディスコグラフィーを完成させ、出版する日が来ることを約束している。


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