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James Brown/The Singles Volume 3 : 1964-1965/2007 Universal Records/HIP-O Select.com B0008804-02



ジェイムズ・ブラウンが新しい年である1964年を祝った時、彼のマネジメントと法的組織は、彼の長期にわたるキング・レコーズとの契約の中に抜け道を発見していた。自身をフリー・エージェントと考えていたジェイムズは、キングに新しいマテリアルを提供することを拒否した。しかしそれはキングの気短なオーナーであるシド・ネイサンが、たくわえたマテリアルからシングル集を編纂する妨げとはならなかった。しばらくすると、ジェイムズは他のレーベルでレコーディングするための別個のプロダクション会社を設立し、映画出演契約をとろうと、みずからをオファーした。この2年を通じて想像を絶する混乱が生じ、そこから国際的なスーパースターが現れることになった。

DISC 1

1. PLEASE, PLEASE, PLEASE(James Brown-Johnny Terry)
2. IN THE WEE WEE HOURS(OF THE NITE)(James Brown)
1964年1月リリース(King 5853)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/ポップ・チャート95位


ジェイムズ・ブラウンのLive At The Apolloがチャート上位に達したことで、ネイサンはその人気アルバムにあやかり1枚のシングルをでっち上げた。ダイナミックな“Please, Please, Please”のメドレーが忘れられないショーの呼び物だったため、キングのエンジニアたちはライヴ・レコーディングに仕立てるため、1956年のオリジナル・シングルに聴衆の歓声をオーヴァーダブした。長年のJBファンはだまされなかったが、アルバム“Apollo”は新しいオーディエンスの前にこの8年前のレコーディング作品を持ち出し、ビルボードのポップ・チャートに2週間送り込むことに成功した。

ブラウンのアルバムTours The U.S.A.からの無名のトラック、“In The Wee Wee Hours”も同じようにオーヴァーダブされた。これはセント・クレア・ピックニーの印象的なテナー・サックスと、ボビー・バードの教会風なオルガンをフィーチャーした十分に素晴らしいブルース・バラッドだ。

3. AGAIN(Dorcas Cochran-Lionel Newman)
4. HOW LONG DARLING(James Brown)
1964年3月リリース(King 5876)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


ジェイムズが国内をツアーして回った時、彼はディスク・ジョッキーたちに、次のレコードは新しいレーベルで新しいスタイルの驚くべきものになるとほのめかしていた。しかしシド・ネイサンは別の考えを持っていた。“Again”はアルバム、Prisoner Of Loveの残り物であり、そのタイトル・チューンと似たようなストリングスとコーラス隊がついている。しかしながら、ジェイムズのヴォーカルは情熱と“Prisoner Of Love”にあった生々しさに欠け、チャート上の動きはほとんど見せなかった。

“How Long Darling”も聴衆の歓声がオーヴァーダブされたブルース・バラッド。キングが管理していたJBのマテリアルは底なしであるかのように思われたが、ネイサンにとってジェイムズ・ブラウンのレコードがどれもヒット間違いなしではないことが次第に明らかになっていった。ジェイムズ自身もそれに気づき始めていた。

5. CALDONIA(Fleecie Moore)
6. EVIL(Ted Wright a.k.a James Brown)
1964年4月リリース(Smash)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ヒズ・オーケストラ/ポップ・チャート95位、R&Bチャート39位


ジェイムズ・ブラウンの専門顧問団は、“ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス”がグループとして、キング・レコーズと契約を交わしていたため、ジェイムズ・ブラウンはソロ・アーチストとしてどこでも好きなところでレコーディングできると判断していた。JBは父親のジョー・ブラウン、マネージャーのベン・バートとともに、フェア・ディール・レコード・コーポレーションを設立した。ジェイムズはフェア・ディール及びマーキュリーの傘下レーベル、スマッシュ・レコーズにマスターをリースするためにレコーディングするようになった。

彼は過去、スマッシュのためにボビー・バードとアンナ・キングを成功裡にプロデュースしていた。ジェイムズはスマッシュによってポップフィールドでも成功を収めることができると確信していた―Live At The Apolloを好んだメインストリームのオーディエンスは、一貫して彼のキングのシングルに金を出そうとはしなかった。5月下旬、ブラウンはスマッシュからのデビュー・アルバム、Showtimeをレコーディングするために、アレンジャー、サミー・ロウのベテラン・ビッグ・バンドとともにニューヨークのベル・サウンドのスタジオに入った。ロウの名声を買っていたレーベルは名義をジェイムズ・ブラウン・アンド・ヒズ・オーケストラとした。

そのアルバムとこのシングルがリリースされた時、ディスク・ジョッキーとファンたちは閉口してしまった。ジェイムズは1940年代と50年代の伝統的なR&Bヒットのアレンジメントを採用し、最後のキング・セッションで見られたユニークなソウル・サウンドを捨ててしまっていた。ロウのスウィンギンな編曲とサム“ザ・マン”テイラーの活気あふれるサックス・ソロは、ジェイムズの表現豊かなヴォーカルを効果的に補完していたが、ルイ・ジョーダン風の古臭い“Caldonia”は、JBファンが渇望していたものではなかった。しかもブラウンはどういうわけか、前もって録音していた聴衆の声を加えていた。

インストゥルメンタルの“Evil”は、ツアーMCのダニー・レイによる紹介が最初にオーヴァーダブされ、JBのグルーヴィーなオルガン・ソロのうしろで咆哮するロウのブラスをフィーチャーしている。素晴らしいパフォーマンスと精力的な販促キャンペーンにもかかわらず、ジェイムズ・ブラウンのメジャー・レーベルからのデビューはセールス的に失望するものだった。それは単純に時流に合わないレコードだったからだ。

レコーディング・アーチストとしてのブラウンのステイタスはより混迷していったが、それでもコンサート街道のJBについては何の迷いもなかった。4月上旬、彼はフォー・シーズンズ、レズリー・ゴアとともに、WMCAラジオのイースター番組のためにパラマウント・シアターに出演し、“町の中心”であるマンハッタン・デビューを飾った。JBが古くからのオーディエンスを見捨てるのではないかという心配をファンに抱かせないように、数日後、彼はソロモン・バーク、ディオンヌ・ワーウィック、そして新人だったオーティス・レディングとともにセンセーショナルな5週間のR&Bツアーに乗り出した。5月までにツアーはルーファス・トーマスとジ・インプレッションズを加え、ノース・カロライナのグリーンズボロでジェイムズはバンドに2人の若きスターを雇い入れた―ドラマーのメルヴィン・パーカーと彼の兄弟でサキソフォニストのメイシオだ。

7. THE THNGS THAT I USED TO DO(Eddie“Guitar Slim”Jones)
8. OUT OF THE BLUE(Johnny Terry-Ted Wright a.k.a James Brown)
1964年5月リリース(Smash 1908)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ヒズ・オーケストラ/ポップ・チャート99位、R&Bチャート21位


Biggest Show Of Stars-Spring Editionがスタンディング・ボールルームの聴衆向けのものだったため、スマッシュ・レコーズは急いでShowtimeから2番目のシングルをリリースした。完全なブルースのカヴァーとしてのギター・スリムの“The Things That I Used To Do”は、奇妙な選択に思われた。ツアーでジェイムズを見ていた者にとっては矛盾するようなレコードではないかもしれない。「オレはかつてブルースのシングルを出した」 彼は私にそういったことがある。「大間違いだった。オレは二度とそういうことはしないつもりだ。子供たちはそういうブルースを聞きたがらないんだ」

ブラウンが後悔したにもかかわらず、“The Things That I Used To Do”はビリー・バトラーの素晴らしいギター・オブリガートの存在感によって、違う意味で見事なレコードだ。気に入った者も多くいたに違いない。なぜなら“Caldonia”と違ってキャッシュ・ボックス誌のR&Bトップ20にほとんどチャート入りしたからだ。

“Out Of The Blue”はLPのオリジナル・ヴォーカルだけが使われている。ブラウンと以前のフェイマス・フレイムだったジョニー・テリーの共作。歌の時代遅れな構造は、皮肉にもアルバムのレトロなテーマにフィットしている。

9. SO LONG(Russ Morgan-Irving Melsher-Remus Harris)
10. DANCIN’ LITTLE THING(Hank Ballard)
1964年5月リリース(King 5899)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


間違いなくシド・ネイサンは、スマッシュでのブラウンのファースト・シングルの失敗にほくそ笑んだだろう。しかしキング最後のジェイムズ・ブラウンのリリースもうまくいかなかった。“Prisoner Of Love”セッションからの重厚なストリング・アレンジメントの最後である“So Long”は、とりわけ甘ったるいバッキング・ヴォーカルが施されている。これは“So Long”の2回目のレコーディングで、彼がジョージアの若者として取り組んだスタンダードのひとつ。

“Dancin’ Little Thing”はアルバム、The Amazing James Brownのために1961年初めにレコーディングされた。“Finger Poppin’ Time”のヒットを放ったハンク・バラードが同じタイプの歌として書いた“Dancin’ Little Thing”のバッキング・ヴォーカルを担当するフレイムスが、ハンクのミッドナイターズによく似ているのは何ら驚くに当たらない。

11. SOUL FOOD PT.1(Ted Wright a.k.a James Brown)
12. SOUL FOOD PT.2(Ted Wright a.k.a James Brown)
1964年6月リリース(Fontana 1909)/名義:アル・ブリスコ・クラーク&ヒズ・オーケストラ


マーケットへ何か新鮮なものを送り込もうと切望していたジェイムズは、彼が1年間持ち歩いていたバンドのテープのことを覚えていた。“Soul Food”はもともと、ベイビー・ロイド・コンボとクレジットされたインストゥルメンタルだった。それはブラウンの短命に終わったトライ・ミー・レーベルのためのものだった。ブラウンはサキソフォニストのブリスコ・クラークを使う代わりに、即興のヴォーカルをオーヴァーダブし、スマッシュの姉妹レーベルであるフォンタナからリリースした。皮肉なことに、“Pt.2”で聞ける騒々しいテナー・サックスはクラークではなく、おそらくクリフォード・“エース”マクミランだ。

“Soul Food”はR&Bナンバーとしてわずかにエアプレイされたが、それは狙いとしてあまり意味のあることではなかった。JBは何か機敏さを伴った“リアル”なジェイムズ・ブラウンをレコーディングする必要があることを悟った。実際、若いバンドに触発された彼は、リハーサルで新しいサウンドを試みていたが、レコード上には反映されていなかった。

13. OUT OF SIGHT(Ted Wright a.k.a James Brown)
14. MAYBE THE LAST TIME(Ted Wright a.k.a James Brown)
1964年7月リリース(Smash 1919)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ヒズ・オーケストラ/ポップ・チャート24位、R&Bチャート5位


ジェイムズは何もチャンスをつかんではいなかった。そしてもはやジャジーなアレンジメントも時代遅れなブルース・チューンも必要なかった。一方で、レコードのラベルにはジェイムズ・ブラウン・アンド・ヒズ・オーケストラと表示されていた。フェア・ディール・レコーディング・コーポレーション制作で、これはスタジオ・グループではなかった。これはJBと野心的な新しい音楽ディレクターのナット・ジョーンズに率いられた強力なロード・バンドだった。クレジットされていないフェイマス・フレイムスでさえ、ある最後の忘れられない日に再び姿を現わした。

“Out Of Sight”はラジオから流れてくる他の何にも似ていなかった。構造的にはスタンダードなブルースの3コードだ。しかし全体をドライヴさせるパーカッシヴなギター・ストロークと、見た目にはスウィングするドラム・パターンをつなぐ繰り返しのベース・グルーヴで始まるブルースなどかつて存在しなかった。活発なテンポと楽天的な歌詞は、間違いなくこれがダンス・レコードであることを示していた―ある者はそれがポップ・ラジオの基本だと理解するかもしれない。しかしそこにはアドリブがあった。

ちゃんとしたエンディングのないR&Bのレコードは時折、フェドアウトの合図として即興に転ずることがあった。しかしモータウンとスタックスのプロデューサーたちは、即興プレイをあえてさせるようなことはなかった。それは歌の重要ポイントではなく、単なるギミックだった。しかしジェイムズ・ブラウンはもっとよく分かっていた。ステージ上で何年にもわたり、彼はオーディエンスの興奮を盛り上げるコツとして、グルーヴィーでヘヴィなアドリブを磨き上げていた。それをレコード上に刻まない手はないだろう?“Out Of Sight”の催眠性あるアドリブは、先例のない35秒間に達していた―レコードの4分の1に当たる。それはジェイムズにヴォーカル・アドリブのための大きなスペースを提供し、いうまでもなく他のレベルへの即興ジャムを取り込むことになった。これはジェイムズとナット・ジョーンズが即席で作り上げていた“ニュー・サウンド”であり、やがてやってくることの先駆だった。

“Out Of Sight”録音の約1週間後、6月の初週にジェイムズ・ブラウン・ショーがシカゴで行なわれた間、JBはユニヴァーサル・スタジオでオールナイト・セッションを開いた。それはスマッシュ/マーキュリーの重役たちのために、よく知られた見本を示す機会にもなった。彼らはシカゴに本部を置き、JBによる“Maybe The Last Time”のレコーディングを目撃した。“Out Of Sight”とは対照的に、その歌は革新的なものではなかったかもしれないが、ジェイムズは単なるゴスペル・ブルースとは一線を画した“Oh Baby Don’t You Weep”(このThe Singles Volume Twoに収録)と同じような鋭い攻撃的なトーンをスリリングに取り戻していた。レコード上で重要なパートとしての最後の参加となったフェイマス・フレイムスは、彼らのリーダーとともに完璧なハーモニーを見せている。

二面性のある音楽的特徴をもったブラウンは、自身のトライ・ミー・ミュージックのレターヘッドで、R&B DJに宛てて述べている―「私たちは異例の試みを企てている―ダブル“A”サイドだ。つまり1枚で2枚分のシングルだ」 “Maybe The Last Time”はレコード上に刻まれたジェイムズ・ブラウンのヴォーカル・パフォーマンスの中で、最も激しいうちの1つであり、それは“Out Of Sight”がメドレーの中で短く切り詰められていったあとも、長くジェイムズ・ブラウンのセットリストの中に残った。しかし“Out Of Sight”が“Prisoner Of Love”以来のブラウン最大のポップ・ヒットであり、アメリカ中のコンサート・ステージで活躍していたアーチストの新しいエッセンスをとらえた最初のシングルだった。

ジェイムズ・ブラウンはブラック・アメリカの目が音楽よりももっとシリアスな方向へシフトして行った時に、チャート上に舞い戻った。ミシシッピ州、ネショバ郡で起こった3人の公民権運動家殺害事件の発覚によって、公民権運動は頂点に達していた。2週間後、ワシントンD.C.の立法府は1964年度の人種差別撤廃法案を通過させた。しかしその暑い夏の間にハーレムで勃発したひどい暴動を鎮めるには不十分だった。6月と7月にブラウン・ショーがウェスト・コーストで行なわれたが、依然、人種不安は興行での損失をもたらしていた。白人のファンたちは圧倒的な黒人のオーディエンスのいるコンサートに次第にナーヴァスになっていった。それについてさらにいえば、多くの黒人たちは油断のない警察と若者たちが危険な集団的行動を引き起こしやすくなるイヴェントには、自分の子供たちを行かせないようにしていた事情があった。まさにそれが国内不安を引き起こす原因だった。

15. TELL ME WHAT YOU’RE GONNA DO(James Brown)
16. I DON’T CARE(James Brown)
1964年8月リリース(King 5922)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


シド・ネイサンはもはやほくそ笑んではいられなくなっていた。彼はついにブラウンのスマッシュ・レコーズが、キングの契約を侵害しているとして訴状をまとめた。そうこうするうちに、かつて全盛を極めたネイサンの才能あるアーチストたちは減少していき、取るに足らない一団となっていた。さらに悪いことに、ネイサン自身の健康状態も悪化していった。長い間、キング・レコーズは商売を続けるためにバック・カタログに頼り、船長のいない船のような状態だった。彼らはシングルとはならなかったLP録音を手当たり次第にかき集めては、市場に過剰供給し続けていた。

“Tell Me What You’re Gonna Do”は、アルバムThe Amazing James Brownからの魅力的なトラックだ。1960年にレコーディングを行なった時の小編成でタイトなブラウン・バンドは、3本のみのホーンとアルフレッド・コーリーのリード・アルト・サックスによって彩られたアレンジメントをスマートに聞かせ、それだけで独特の魅力を放っている。そのセッション・テープは8テイク分が録られたことを示している。それはジェイムズとバンドが自然なテンポをキープするのにやや苦心している様子をとらえているようだ。

“I Don’t Care”は1962年にレコーディングされ、Tours The U.S.A.に収録された。この重要性は5年後の“Cold Sweat”のリズム・ギター・パートと詞となって示されることになった。“I Don’t Care”自体もジェイムズ・ブラウン印の優れたゴスペル・ブルースだ。しかしこのレコードは時代遅れのトラックをリリースし、無駄を繰り返す中で、ほとんど注目を浴びることなく消えていった。キングは次のシングルのためにLive At The Apolloに向かった。

17. THINK(Lowman Pauling)
18. TRY ME(James Brown)
1964年9月リリース(King 5952)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


“Think”の熱狂的なアポロ・ヴァージョンは、逼迫したキングが最新のJBサウンドをとらえたものだったが、どういうわけか、このトラックは大幅にテープの回転速度が落とされていた。さらにおかしなことに、B面についてもキングはアルバムPrisoner Of Loveからの“Try Me”歓声オーヴァーダブ・スタジオ・ヴァージョンのスピードを落とした。ブラウンの声は間違いなくラジオ番組責任者たちの信頼を失わせるような不自然なトーンを帯びている。ひょっとすると、これはすでに以前リリースされていたヴァージョンを隠すための幼稚な企てだったのかもしれない。レコーディング・ルームでのアクシデントであれ、現場での申し立てであれ、のちにオリジナル・スタジオ・ヴァージョンに取って代わられることになった(Volume 1-The Federal Years参照)

DISC 2

1. HAVE MERCY BABY(Billy Ward)
2. JUST WON’T DO RIGHT(I STAY IN THE CHAPEL EVERY NIGHT)(James Brown)
1964年11月リリース(King 5968)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/ポップ・チャート92位


現金収支に必死になったキングは、シングルを粗製濫造し続けた。“Have Mercy Baby”と、“Just Won’t Do Right”のリメイクはどちらも1961年のアルバム、Shout And Shimmy用にレコーディングされた。“Have Mercy Baby”はビリー・ワード・アンド・ヒズ・ドミノズの1952年の大ヒットだった。JBの威勢のいいカヴァーも数週間チャート入りした―おそらく彼のすさまじいプロモーション活動のおかげだろう。

1964年10月16日、ニューヨーク上訴裁判所は、ジェイムズ・ブラウンのスマッシュでのレコード制作を禁じる差し止めを言い渡した。裁判所は、フェイマス・フレイムスが付こうが付かまいがジェイムズ・ブラウンが依然キングの独占的アーチストであることを裁決した。それに対し、ブラウンとスマッシュは上訴したが、ブラウンは新しいレコードをリリースすることを気にかけていた。彼はR&B DJたちに“Have Mercy Baby”をエアプレイするよう電報を送り、次のレコードはスマッシュからリリースすることを約束した。

約2週間後、ジェイムズとフェイマス・フレイムスはカリフォルニア、サンタモニカでのT.A.M.I.ショーのライヴを撮影した。この彼らの歴史的なパフォーマンスは、オールスター・コンサート映画でローリング・ストーンズから主役の座を奪いとり、ブラウンが国際的認知へ飛躍するお膳立てはととのった。翌日、彼らはニューヨークへ飛び、アポロ・シアターでの1週間興行でそれまでの動員記録を破った。

3. FIND OLD FOXY SELF(James Brown)
4. MEDLEY : I FOUND SOMEONE(James Brown-Eugene Stallworth-Bobby Byrd)/WHY DO YOU DO ME(Bobby Byrd-Sylvester Keels)/I WANT YOU SO BAD(James Brown)
1965年1月リリース(King 5956)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


ジェイムズ・ブラウンのレコードがほとんど毎月リリースとなる始まりがここだった。ブラウンとの契約が漠然としたまま、キングは“Find Old Foxy Self”をリリースした。これは“Have Mercy Baby”と似たジャンプ・ブルースで、アルバムTry Meの頃に後戻りしたかのようなナンバーだった。新鮮味はほとんどないものの、JBの初期ダンス・チューンの十分立派な見本であり、ジョージア州メイコン出身のクリーヴランド・ロウによる味のあるテナー・サックス・プレイを含んでいる。B面はもう少しだけ創造力を感じさせていた。キング・レコーズは再び、アポロ・アルバムからマテリアルを掘り出した。エンジニアたちはアルバムの“Please, Please, Please”で挟まれたエキサイティングなメドレーから編集した。

5. THIS OLD HEART(James Brown)
6. IT WAS YOU)(James Brown)
1965年2月リリース(King 5995)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス


今回キング・レコーズはスタジオで小細工を施して以前のヒット曲2つを復活させた。“This Old Heart”には2つのサキソフォンと1つのリズム・セクションがオーヴァーダブされた。“It Was You”には低音のオルガンとセカンド・ベースが加えられた。オリジナル・レコーディングがモノラルだったため(Volume 1-The Federal Years参照)、単純に差し替えが利かなかったからだ。レコードでは古い録音と新しい録音が混ざって聞こえる。

これらオーヴァーダブはキングが単独で行なったように思える。このセッションはディスコグラファーの悩みの種だ。テープ・ボックスには日付がなく、ブラウンの声はどこにも聞かれない。正体不明の指揮者がそれぞれのテイクでカウントをとっている。ミュージシャンたちの出す音はブラウンのバンドとはほとんど似ていない。

JBは自身の契約が法的闘争の中にあった時、新録音テープをたくわえていた。彼はアルバム2枚分のマテリアルを持っていたが、ひとつは“Out Of Sight”を元にしたもので、他は全てインストゥルメンタルだった。スマッシュ・レコーズは楽天的に考え、両方に備えていた。

7. DEVIL’S HIDEAWAY(Nat Jones)
8. WHO’S AFRAID OF VIRGINIA)(Keith Knox-Don Kirkpatrick)
1965年3月リリース(Smash 1975)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アット・ジ・オルガン・アンド・ヒズ・オーケストラ


ブラウンのオルガンにスポットライトを当てたインストゥルメンタル・アルバム、Grits And Soulは1964年8月に完成した。スマッシュは彼らの上訴が落ち着くのを待たねばならなかった。判決はキング・レコーズがJBのヴォーカルをレコーディングする権利を持つが、ブラウンはインストゥルメンタルならどこでも自由にレコーディングできるというものだった(訳注:アメリカはバカ裁判国家です)。アルバムはこのシングルとともに急いでリリースされた。

“Devil’s Hideaway”は“Devil’s Den”とよく似ている。後者はJBがその2年前にトライ・ミー・レコーズ(Volume 2参照)から“The Poets”名義でリリースしていた。出版権を取り戻すため、ジェイムズはタイトルを変え、ライター・クレジットをナット・ジョーンズとした。バンド編成とレコーディング上の音の雰囲気を除けば、“Hideaway”と“Den”の間に違いはほとんどない。“Devil’s Hideaway”が忠実なファンに認知された一方で、ジャズ・オルガニスト、ジミー・スミスの“Who’s Afraid Of Virginia Woolf”の熱いカヴァーは、より多くの注目を集めた。ブラウンはジミー・スミスでは全くないが、彼のソロはリズミカルな効果をもたらし、そのファンキーなグルーヴはホーンのミスをほとんど埋め合わせている。野心的でけたたましいバンドは総勢18人にまで膨れ上がっていた。ブラウンとジョーンズはベストなミュージシャンを見つけ出すのに苦労していた。パーカー兄弟のような素晴らしい新人と何人かの頼れるベテラン・ミュージシャンがいたにもかかわらず、1964年から1965年を通じて、メンバーの入れ替わりは異常に多かった。

9. I GOT YOU(Ted Wright a.k.a James Brown)
10. ONLY YOU)(Buck Ram)
1965年リリース予定だったが未発表に終わる(Smash 1989)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ヒズ・オーケストラ


裁判所の判決に続き、スマッシュ・レコーズは第二案に転じた。3月27日発行のビルボード誌は、親会社のマーキュリー・レコーズがキング・レコーズとそのロイス出版社をまさに買収しようとしていることを公表した。マイアミ・ビーチで深刻な病気から回復しつつあったシド・ネイサンは、その買収計画があることを認めた。彼はビルボードに語った―「私はこれまでのようにレコード業界で活発に働くことはないだろう。私は今ゴルフと釣りの計画を立てている」

一方でジェイムズ・ブラウンはダンス・チューンの“I Got You”をレコーディングしていた。それはかつて彼が作ったようなタイトで簡潔なポップ・レコードだった。彼は“Devil’s Hideaway”からホーン・フレーズを、“I Found You”から歌詞を再利用し、全く新しいスタイルを創り上げていた。“I Found You”は、彼が1962年にイヴォンヌ・フェアのために書き、プロデュースした曲だった。(B面に収められたプラターズの1955年のヒット、“Only You”のカヴァーは、Showtimeセッションからのアウトテイクだった)

JBとフレイムスは映画‘スキー・パーティー’に出演し、派手なセーターを着て“I Got You”を披露した。スマッシュがシングル・リリースを準備する中、彼らはティーン向けのテレビ番組であるディック・クラークのWhere The Action Isにアテレコで出演した。そして少なくとも1つのヴァージニアの冒険的なラジオ・ステーションが、クラークの番組から歌を録音し、ブラウンのニュー・シングルとして繰り返しオンエアした。「流し続けろ」―ブラウンのマネージャーだった悪賢いベン・バートはラジオのDJたちにいっていた―「チケット・セールズに結びつくからな」

しかしファンたちがその曲をやかましく要求する一方で、スマッシュの法的業務部門はリリースを取りやめた。キング・レコーズの買収が思わぬ障害にぶつかっていた。シド・ネイサンは健康が回復するにつれ、自分のビジネスを手放す考えを翻し始めていた。さらにネイサンはキング・レコーズが利益を得るために、不機嫌なジェイムズ・ブラウンと和解しなければならないことを認めた。

彼のそのタイミングはよくなかったのかもしれない。ジェイムズは長引く法的手続きと何ヶ月も新しいレコードを出せない状況にへとへとになっていた。映画とテレビ出演のおかげで、ブラウンの名声は急上昇し続けていた。1年半で1曲のみのヒットにもかかわらず、彼のギャラは3倍になっていた。ブラウンとバートは、もしネイサンが意地を張り続けるなら、もう一度だけ再検討するよう、彼を説得しようと判断した。すぐに無駄に終わってしまうような新しいレコーディングを行なうのは、ジェイムズにとってはもう十分だった。

11. PAPA’S GOT A BRAND NEW BAG Part (James Brown)
12. PAPA’S GOT A BRAND NEW BAG Part (James Brown)
1965年6月リリース(King 5999)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート1位(8週)、ポップ・チャート8位


2月の連続一夜興行の間、ジェイムズは1つの歌を書いた。それは彼がそれまであれこれと取り組んできた新しい音楽のアプローチに完璧にフィットする1曲となった。スラングでいっぱいの“Papa’s Got A Brand New Bag”は、その革新的な音楽スタイルとともに、自伝的な内容といえるかもしれない。しかしジェイムズがニューヨークのスタジオに近づくまでに数週間を要することになり、そこで彼はノース・カロライナのシャーロットにあるひとつのスタジオを見つけ出した。

シャーロット・コロシアムでのショーのあと、一同が後片付けを終えるや、ブラウンのツアー・バスはモンロー・ロードを飛ばし、アーサー・スミス・スタジオに直行した。スミスのスタジオは時々、地元の苦闘するR&Bアーチストたちをレコーディングしていたが、ソウル・ミュージックを一新させようとしていたジェイムズ・ブラウンにとっては最低ラインに近い場所だった。アーサー・スミスはその地の人々にとっては、カントリー・アンド・ウェスタンの伝説的人物だった。彼の“Guitar Boogie”は1948年にモンスター・ヒットを飛ばし、彼は1951年以来、シャーロットでカントリー・ミュージック・テレビの総元締めとなっていた。(ジェイムズ・ブラウンと働いた経験はスタジオの白人エンジニアだったハル・ハリルに光を当てることになり、のちに彼はシャーロットの主要黒人ラジオ局のWGIVとともに仕事をした)

“Papa’s”の荒涼としたオリジナリティは驚くべきものだった。ジェイムズ自身でさえ、1965年7月に私がインタビューした時に説明に苦心していた―「これはちょっとオレの理解を超えているんだ・・・向こう側に行ってしまったような感じだ」 彼はそういった。「何か他のレコード・・・それがオレのレコードであったとしても、これと似たようなやつはないだろう。どういうことか分かるだろう?ベースは全く変化しない。ずっと同じだ。オレたちはこれをレコーディングするのが大変だったんだ。オレたちはもっとテンポを上げられるほど強力なバンドじゃなかったが、グルーヴを弱めたくはなかったんだ」

大変だった―そうだろう。最終的にシングルはテープ速度が上げられた。ブラウンは悩み抜いたに違いない。最終テイクが完成する前に、彼はナット・ジョーンズにいっている―「オレがスウィングできるところをキープしなきゃならない。歌詞が多いからな、だろ?」 わずかにテンポを上げたことによって、子供たちがジャークを踊るのに完璧なレコードが出来上がった。ジミー・ノーランの鳴り響くギター・リフによって曲は活気づけられ、ヒットが生まれた。

A面はわずかに2分を超えるだけの長さだった。“Part供匹魯瓮ぅ轡・パーカーによる注目すべき長いテナー・サックス・ソロがフィーチャーされていた。“Out Of Sight”がアドリブの延長によって伝統を打破したのだとすれば、“Papa Part供匹倭瓦討アドリブによるまったくの革命だった。メロディと厳密な歌のフォームは二次的な問題だった。このブラウンの新しい音楽は、個々の楽器が「縫い合わされたパッチワーク」のような魅力を持っている。そこにある全ては、グルーヴとリズムに向けられている。それらの要素は“Out Of Sight”の中にも存在したが、それよりも保守的なアレンジメントによって、その要素は閉じ込められていた。“Papa’s Got A Brand New Bag”は間違いなく最初のファンク・レコードだ。

“Papa”は会社の復活を必要としていたネイサンと、不運な1年を過ごしていたスマッシュが望んでいたようなヒットとなった。またこれはJBの才能をメインストリームのオーディエンスに知らしめることにもなった。ポップ・ラジオは“Papa”をその時までのブラウン最大のレコードとして取り上げ、まるでビートルズのごとく扱った。

13. TRY ME(James Brown)
14. PAPA’S GOT A BRAND NEW BAG(James Brown)
1965年10月リリース(Smash 2008)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アット・ジ・オルガン/R&Bチャート34位、ポップ・チャート63位


このシングルのリリースは、数年間に及ぶ1つのパターンを確立した―キングのヴォーカル・レコードとスマッシュのインストゥルメンタル・レコードだ。フェア・ディール・コープは解体され、スマッシュのレーベル・クレジットには単にジェイムズ・ブラウン・プロダクションズと表記されることになった。このシングルはスマッシュからの2枚目のインストゥルメンタル・アルバム、James Brown Plays James Brown-Today And Yesterdayからの2曲だ。

ジェイムズは急いで最も人気のあるヒット曲のビッグ・バンド・ヴァージョンを録音していたが、大胆にもその時点の最新ヒット、“Papa’s Got A Brand New Bag”が含まれていた。しかし彼のメロディックなオルガンと心地よいジミー・ノーランのギターによって、A面の“Try Me”は中ヒットとなった。ブラウンのシンコペイトするヴォーカルなしでは、“Papa”のインストゥルメンタル・ヴァージョンは驚くほどに眠気を誘う。メイシオ・パーカーが軍に召集されていたため、残されたセント・クレア・ピックニーがテナー・サックス・ソロを吹いている。

15. I GOT YOU(I FEEL GOOD)(James Brown)
16. I CAN’T HELP IT(I JUST DO-DO-DO)(James Brown)
1965年10月リリース(King 6015)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート1位(6週)、ポップ・チャート3位


ブラウンはピンとくればいつでもどこでもレコーディングを続けた。そして彼は続けざまにキングに対し、1枚のシングルとしての新しいトラックを少しずつ分け与えた。キングは新しい契約なしにアルバム1枚分のマテリアルを手に入れることはできなかった。

‘スキー・パーティー’はその夏のヒット映画ではあったが、スマッシュは“I Got You”のオリジナル・ヴァージョンをリリースすることを差し止められた。ジェイムズはポップ・ラジオ向けに、さらなる新しいアレンジメントを施して再録音した―「ジャズ色を薄めてもっとバックビートを強調したんだ」―ブラウンはいう。“I Feel Good”としてより知られる“I Got You”は、チャートのトップへ駆け上がった。

これはキング史上、最大のシングル売り上げとなるモンスター・ヒットになった。“I Got You(I Feel Good)”はブラウン新機軸をうながした“Papa’s Got A Brand New Bag”から続く創造的過程の一部ではなかった。しかしこれはすぐにJBのトレードマークとなり、続く彼の浮き沈みある人生において、その位置が揺らぐことはなかった。

“I Can’t Help It”はアレンジャーだったサミー・ロウの個人日誌によれば、ツアーの最後に当たるワシントンD.C.のハワード・シアターの時期に録音された。ニューヨーク外でのセッションは通常そうではなかったが、演奏は怪しいところだがスタジオ・ミュージシャンのように聞こえる。卓越したピアノ・パートは、ロウが好んでいた一番のキーボーディスト、アーニー・ヘイズのスタイルに似ている。

17. LOST SOMEONE(James Brown-Eugene Stallworth-Bobby Byrd)
18. I’LL GO CRAZY(James Brown)
1965年12月リリース(King 6020)/名義:ジェイムズ・ブラウン・アンド・ザ・フェイマス・フレイムス/R&Bチャート38位、ポップ・チャート73位(B面のみ)


キングのアーチストとしてジェイムズ・ブラウンが復帰したことは、どんどんと焼き直し盤を市場にあふれさせる会社を抑制することにはつながらなかった。アルバムI Got Youは、アーカイヴ・トラックから無造作に寄せ集められた。このシングルは、その時点で2年半以上前のアルバムとなっていたLive At The Apolloから引用された。アルバムの中で最も人気の高い“Lost Someone”は、もしもっと早くリリースされていれば、おそらくかなりのヒットとなっていただろう。しかしラジオでひんぱんにエアプレイされたのは、B面の“I’ll Go Crazy”だった。

このアポロ・アルバムからの最後の引用が、彼の驚くべきキャリアの中での最初の出世に一区切りをつけることになった。ジェイムズはキング・オブ・ソウルとしての名声を手に入れ、2枚のゴールド・ディスクを獲得した。彼は日々のテレビでなじみの顔となり、2つの映画に出演し、ヨーロッパが手招きしていた。しかしそれでもブラウンは、自分の頂点がまだ先にあることを確信していた。

ブラウンのキング・レコーズとの契約期限は1966年だった。シド・ネイサンは満期前の再交渉の意向を示さずにいた。ジェイムズは増大したファンへ向け、さらなる新曲をリリースしたがっていたが、ひけをとらないスマッシュのインストゥルメンタル・アルバムによって、まれにしかリリースされないヴォーカル・トラックが損害を被ることはあまりないようだった。この時点で、ネイサンとブラウンは彼らの契約期限が切れるのを待つ余裕があることを確信した。そして彼らはキング(JBのこと)が本当に新しいバッグを手にするのを見ることになる。


アラン・リーズ
アラン・リーズは長きにわたる音楽業界の重役であり、音楽学者である。彼はジェイムズ・ブラウンのツアー・ディレクターとして、1970年から1974年まで働いた。彼は余すところなくリサーチしたブラウンのディスコグラフィーを完成させ、出版する日が来ることを約束している。


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