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James Brown/Say It Live And Loud : Live In Dallas 08.26.68/1998 PolyGram Records, Inc. 31455 7668-2



1968年1月・・・私はリッチモンド・ヒルのP.S.90ホレス・マン・スクールの2年生だった。私たちはいつも校庭の端っこが氷結していないかと期待していた。そこは上の排水管から流れ込んでくる雪解け水がたまる場所だった。私たちは休憩時間のチャイムが鳴ると、スケートをするために先を競って飛び出していった。そこは夜通しスケートリンクとなった。みなで滑っていると、私たちのうちのいく人かが、いつものようにあることをし始めた―「ジェイムズ・ブラウンみたいな動きをやろう」

ジェイムズ・ブラウンをやるには、まず“I Feel Good、ドゥッ、ドゥッ、ダ、ダ、ダダ、ダ”から始めなくてはならなかった。その時の私たちのスタイルは、“There Was A Time”と、“Cold Sweat”の無意識のうちに真似したくなるような彼のダンスから始まったのかもしれない。ふり返ってみて可笑しいのは、スクールバスの中では、“Tramp”、“Jimmy Mack”、“I Heard It Through The Grapevine”といったスタックスやモータウンのナンバーを歌っていたのに、ジェイムズ・ブラウンは歌えなかったことだ。なぜなら、それは自動的に立ち上がらなければ(get UP)ならないことを意味していたからだ。バスの運転手と規則は私たち子供に向かってこういっていた―“バスの中ではその小さなケツを降ろしておけ”

学校での日々が終わりに近づいても、ジェイムズ・ブラウンは私たちを依然放さなかった。ファンキーなドラムス、ホーンの一撃、そしてそのリズム以上に、ジェイムズは若く心豊かなリスナーたちの中に何かを提示し、彼らをとらえ、そして違う次元へ連れて行った・・・

1968年4月4日、メンフィスでマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された。学校は2日間休校となり、うちにあった白黒テレビの6時のニュースは、それが全国的な問題になることを懸念していた。60年代にはそれ以前に、1人の大統領が暗殺されていた。信念を持った政治家と公民権運動のリーダーたちは投獄され、ムチ打たれ、ある者は殺された。テレビに映るベトナムはぼんやりとしていたが、現実に私の叔父は召集令状を受け取っていた。もう1人のヒーロー、モハメド・アリは宣言していた―「私は断じてベトコンと戦うつもりはない」 そして彼は喜んで牢屋に入った。黒人アスリートたちは、間近に迫ったオリンピックをボイコットすると凄んだ。

この錯綜した時代、私の家族が自分たちのことを“ニグロ”から“有色人種”(“colored”)と呼び改めたことを私は幼いながら覚えている。それが私が7歳だった1967年の答えだった。キング暗殺後、ジェイムズ・ブラウンの“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”が出た(うん、知恵あるワルだ!((uhhh! wit yo badd self)))(訳注:黒人俗語のようでよく分からない)。彼はまだ私たちが望んでいたクールネスを持っていた。

ジェイムズ・ブラウンは独力で、道に迷い困惑してしまった国の人々を救い上げ、明確なことばと音楽とアティチュードに結びつけた。ベースボール合宿、ランチとバーベキューの暑い夏のあと、“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”は1969年に3年生となった私に、そしてその後の人生に用意されたフレーズだった。今やブラックは最も重要であることを意味していた。それは私たちわんぱくなガキたちの新発見だった。
―チャックD


68年の夏。絶えずツアーを続けるジェイムズ・ブラウン・ショーは、半年ごとのテキサス・ツアーに出ている。2週間以内に行なわれるギグ予定地は、エル・パソ、サン・アントニオ、ヒューストン、オースチン、ウェーコー、ロングヴュー、コーパス・クリスティだ。そして近くのルイジアナ州ラフィエットとテネシー州メンフィスへ飛び、最後はダラスへ戻ってくる。ブラウンのバンド・リーダー、アルフレッド“ピーウィー”エリスは、バスの旅を楽しみにしている。それは新しいアレンジメントに取り組む絶好の機会だ。

間違いなくそれまでの彼のベストである1968年のジェイムズ・ブラウン・バンドは、現在ピークにある。1961年に書いたインストゥルメンタルの改作“Suds”と、“Soul Pride”のような新曲を携えたブラウンは、その燃えるようなヴァージョンを録音したがっている。しかし現在のツアー・スケジュールの中では、スタジオでのレコーディング・セッションを行なうことができない、ボスは代わりにダラス・メモリアル・オーディトリアムでの月曜のショーに来るよう、キング・レコーズのエンジニア、ロン・レンホフを呼び出す。

1957年にダウンタウン最南端地区のアカード・ストリートに建てられた10000席の多目的会場は、毎年9ヶ月ほどのジェイムズ・ブラウン・ショーを主催している。売り切れとなった8月26日のショーは、ダラス/フォートワースの2つの黒人ラジオ局、KNOKとKKDAによる共同スポンサーがついている。最も高い席は5ドルだが、子供連れであれば、子供が99セント、あなたは2,5ドルで買うことができる。また高級百貨店のニーマン・マーカスでぜいたくにチケットを買うこともできるし、もし近場で済ませたいのなら、ソウル・フード・レストランのグリーン・パロットで入手可能だ。ダラスを訪れるR&Bエンターテイナーの行きつけの場所として倍額になるが。

これは無数に行なわれるジェイムズ・ブラウンの一夜興行のうち、とりたてて特別な一夜ではない、うだるような8月の暑い日に集まった何千ものファンたちが、ブラウンのきわめて重要なヒット“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”の初のパフォーマンスを目撃することを除いては。

ブラウンのただ1つの望みは、そのジェイムズ・ブラウン・バンドの興奮をとらえることだ。しかしレンホフは2つの4トラック・テープ・デッキとたくさんのテープを持っている。そして彼はショー全体を録音することを決心する。機材のテストやレヴェルの調整を行なう貴重な時間はほとんどない。レンホフとブラウンは、ショーのコンディションが彼らの任務にとっていい兆しではないことを感じている。コンサートはテイクのやり直しのために途中で止まることはないし、ホーン・プレーヤーたちは踊りながらマイクに近づいたり遠ざかったりする。マイクロフォンは全ての音を拾うことはできない。そこでオーディエンスが会場をあとにした直後に、バンドは再びステージに集結し、もう一度インストゥルメンタル・セットをリハーサルする。よりコントロールされた雰囲気を得るために。こうしてブラウン最高のインストゥルメンタル・アルバム、The Popcornの大半ができ上がっていた。

アルフレッド・エリスは1967年1月以来、バンドの舵をとってきた。バンドの中心メンバーは、その前から同じくらいの期間、共に働いてきた。エリスが舵取りを引き継いだ数ヵ月後、サキソフォン・スターのメイシオ・パーカーが兵役から戻ってきた。トロンボーン奏者のフレッド・ウェズリーとドラマーのナット・ジョーンズが1968年2月にやって来た。“クシュ”グリフィンがその3ヶ月後に続いた。ルーキーは見習いドラマーとして契約を交わしたばかりの“スウィート”チャールズ・シェレルだ。このショーの数日前に、ベーシストのティム・ドラモンドが病気にかかり、故郷へ帰って行った。多才なシェレルは楽器のスウィッチを買ってでた。“スウィーツたち”がショーを学ぶ中で、リズム・ギタリストのアルフォンゾ・キーランはほとんどのベース・パートをプレイした。(キーランは以前まで一晩に1曲か2曲でベースを弾くだけだった)

美しくスウィングするリズム・セクション(“Kansas City”をチェックしてみよう)とエリスによる洗練されたアレンジメント以外に、このバンドをユニークにしているのが、矢のような正確さとホーン・プレーヤーたちの才能あるソロだ。エリス、パーカー、ウェズリー、そしてトランペッターのウェイモン・リードは、バンドにそのソリッドなジャズの血を流し込んだ。その間にジミー・ノーランはR&Bギター・プレイのルールを書き換え、クライド・スタブルフィールドも“Cold Sweat”と“I Got That Feeling”でドラミングのルールを書き換えた。世界中のあらゆるR&Bバンドは彼らのリックを盗み―あるいは盗もうとした。

バンドの進化は1968年のブラウンの知名度とともに深まっていった。彼の前向きな表明が、68年4月に起こったマーチン・ルーサー・キング暗殺後の市街地での暴動を鎮めるのに一役買ったのち、彼への認知とあらゆる賞が流れ込んできた。同月、ブラウンは多くのアフリカ訪問の最初にあたるアイヴォリー・コースト(コートジボワール)での公演を行なった。それはその国の大統領の要請であった。5月8日、彼は自身の国の大統領に会い、リンドン・ジョンソンの特別招待を受け、ホワイトハウスで夕食を共にした。1ヵ月後、彼はベトナムの兵士たちのために彼の地へ飛び、数週間を過ごした。彼は交戦地帯で主役を務めた初の黒人エンターテイナーとなった。7月29日に合衆国に戻ったジェイムズは、カリフォルニア、ワッツのキャンペーン集会に副大統領のヒューバート・ハンフリーとともに出席し、彼への支持を表明した。

「我々には保つべき面子がある。我々には救うべき国がある」 ブラウンはメンフィス・コマーシャル・アピール(朝刊紙)のジェイムズ・コルテスに語った。「白人たちは黒人たちに命令することはできない―私は副大統領にそう言った」 アトランタ市長のアイヴァン・アレン・ジュニアとオハイオ州知事のジェイムズA.ローズはそれぞれの町で行なわれたソールドアウトのショーを公式に記念し、“ジェイムズ・ブラウン・デイズ”と宣言した。

政治的活動に打ち込めば、ブラウンが自身のコミュニティに傾倒する前に失速したとしても驚くことではないだろう。しかし8月7日、彼はロサンゼルスのヴォックス・スタジオに入り、彼のメインストリームでの受容性に賭け、ストリート・アンセムとして最も影響力を持つ1曲、“Say It Loud-I’m Black And I’m Proud”をレコーディングした。

“Say It Loud”は2パート・シングルとして急いでリリースされ、ブラウンのツアー・バスがテキサスに到着すると同時に、ラジオの電波に乗った。レコードは急上昇した。ジェイムズはソールドアウトとなったヒューストンで13000人の聴衆に向かってプレイした。JBがミッドサウス・コロシアムで自身の動員記録を破ったように、メンフィスでは1000人のファンが入場を断わられた。ツアーがダラスにさしかかるまでに“Say It Loud”は華氏94度の天候並みのホットなナンバーとなっていた。

ブラウンはショーの初めに“Say It Loud”をもってきていた。それは普段彼がサポート・アクトにステージを引き渡す前に現われ、かなり控えめなパフォーマンスを見せる時だ。オーディエンスをあおり立てていた初期のステージでは、最初にジェイムズがオルガンかドラムスでバンドに参加した。1966年に彼はいつもの“スタータイム”パフォーマンスの熱狂にそぐわないこのヴォーカル・パフォーマンスを、分割する試みを始めた。ほとんど用心深く“Say It Loud”を紹介するブラウンは、彼が心の中で聴衆をコントロールしようと考えていたことをほのめかしている。

その歌が革命的だったのと同じように、その男の容貌も変化した。カリフォルニアにいる間、彼はトレードマークだった直毛パーマを儀式のように切り落とし、より政治的正当性にかなったアフロにした。予期できない1968年の社会状況の中で、ブラウンの熱狂的な若いファンたちは、すでにニューヨークその他でショーを混乱に陥れていた。それは彼らが“Say It Loud”のようなスローガンを手に入れる前からだった。“Say It Loud”のパフォーマンスは痛烈であったが、ブラウンは彼らしくないほどレコードのヴァージョンを忠実に再現していた。あたかも彼はショーを無傷で終わらせる手柄を得ることに喜びを感じているかのようだった。

“Cold Sweat”が明らかにブラウンの中で最大の呼び物だ。それは1年前に大ヒットし、サキソフォニストのメイシオ・パーカーをスターにしていた。アルフォンゾ・キーランがベースをプレイしていることによって、ここでのパフォーマンスは彼がもともとのレコーディングでプレイしていたリズム・ギター・パートがない。ホーン隊は珍しく不安定な出だしだが、すぐにもち直している。“Cold Sweat”のリズムを対位法的に結合させていたギターがないことで、キーランとスタブルフィールドは互いを見つけ出すのに少し時間がかかっている。それでも数ヴァースのちには全員が固定され、濃密な真のファンク・パワーが発揮されている。

改良された“There Was A Time”は、ブラウンの2人のドラマーが共にプレイする珍しい例だ(通常、彼らは交替でプレイするか、一方がリード・ドラムをプレイする間、もう一方はブラウンの振付けにアクセントを入れる)。彼らのエキサイティングなグルーヴは、ほとんどぎょっとするようなとてつもない緊張感を作り上げている。

68年におけるファンクの試みはまだ新鮮だった。ブラウンの最新ナンバーだけが新進の催眠スタイルを誇っていた。“Try Me”や“Maybe The Last Time”のような古臭いナンバーは依然、彼の古くからのファンにとっては不可欠だった。彼がやるバラッド・メドレーは、ブラウンの最初の成功が堅苦しいブルース・ソングの数々を起源にもつことを思い出させる。そのうち少なからず革新的だったのは、葬送歌のような“Lost Someone”だ。どなたかソウルはいかが?

ブラウンのファンクは、ビジネス/社会的/政治的大混乱の真っ只中で浴びていた注目と戦っていた。それは彼の人生となっていた。彼はベン・バートの突然の死によっていっそう集中力をそがれていた。愛されていたマネージャー/父親的存在のバートは、このショーのちょうど2週間前に死んだ。それでもブラウンとバンドがショーを締めくくるメドレーの中に、“I Can’t Stand Myself”、“Say It Loud”、そして“I Got That Feeling”を放り込み、テニス・ボールのように前後に振れているのは、やがてやって来ることを暗示させている。

そう、JBがショーのもっと前に聴衆に告げたように―「もしソウルが十分じゃないのなら教えてくれ。君にちょっと貸してやろう。ハ!オレは燃えるようなソウルを持ってるから!」

―アラン“テックス”リーズ



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