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Bert Jansch/Rosemary Lane/2001 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD335



「もしあなたが町でバート・ヤンシュとすれ違ったら、あなたがもう一度振り返って確認するかどうかは疑わしいところだ」―1970年4月のディスク誌でバートに会ったインタビュアーのデヴィッド・ヒューズは考察した。「ヤンシュはミュージシャンとオーディエンスが一様に彼のプレイに敬意を払っていることに気づいていないかのような控えめな男だ。彼は1人の無口な男である。彼は自分がどういう人間か分かっているし、そうすることを望んでいる。彼の生活は質素だ。もし彼がソロ・キャリアを追求していたなら、次期ドノヴァンになっていたかもしれないと彼は渋々ながらいっている。しかし彼はそれを望んでいなかった。

「僕は僕のことを誰だか全く知らない人たちとどこかのパブの常連でいる方を好む」 彼はたしかに人間性を愛する男だ。彼は人々に関心を持っているし、平和を好む。しかし表面上はともかく、彼は自分自身に無頓着であるかのようだ。

「僕はあまりしっかりした人間じゃないんだ。もし結婚していなかったら、自分がどこで寝ようが気にしない人間だ。僕は妻の安全のために家を買うべきだと考えた。僕は自分のことを田舎者だと思うけど都会は大好きだね。仕事のプレッシャーを埋め合わせるのに、僕には田舎が必要なんだ」 ツアーとレコーディングと、ペンタングルの5分の1としての彼の人生を象徴するメディアの熱狂のさなか、サセックス州タイスハースト村に妻とともに居を構えたバートは、散発的ではあるが、間違いなく今日に至るまでの彼の決定的表明であるアルバムのための仕事場を確保することになった。

彼はグループが成し遂げたことに誇りを持っていたし、2つの世界で最高の機会を持てたことに喜びを感じていた―一般的成功と比較的匿名性の高いグループのメンバーとして。1970年前半のペンタングルは商業的ピークにあった。アルバム、Basket Of Lightは1969年11月にチャート5位に達していた―大部分はBBC初のカラー・ドラマ・シリーズ、Take Three Girlsのテーマ曲としてフィーチャーされた‘Light Flight’によるものであったが。バートの地元のパブにあるトイレに通う者達から変わらない声援を受けていたが、これはペンタングルをメインストリームのリスナーへと扉を開いた鍵だった。

ビジネスと音楽両面に対する不満、幻滅、そしてフラストレーションが、最終的にグループを消耗させることになったが、商業的名声の頂点において、最初に不快感を経験したのがバートだった。ダニー・トンプソンとテリー・コックスは成功の虚飾を大いに楽しんでいた。ジョン・レンボーンは中世音楽の熱心な冒険家としてスポットライトを浴び、全てが深遠だった。この段階で子供のいなかったジャッキー・マクシーは、普通の職業に就き、時々バンドのツアーに同行していた夫のジョックとともに、実生活その他から距離をおき過ぎることなく旅を快適に楽しんでいた。バートも結婚していたが、彼は様々な責任とロンドンから離れた生活に順応することに困難な状況になっていた。

タイスハーストの日々についてヘザーは回想している―「バートはプレッシャーから逃れる以外のことはほとんど考えないようになっていたわ」 折をみて彼らはトラディショナル・シンガーのアン・ブリッグスのところを訪ねていた。彼女は比較的近くに住んでいた。「バートと会った時・・・」 アンはいう。「彼はよく‘ちくしょう、僕は君になりたいよ。本当に歌いたいことを歌ってしたいことをするために旅に出るっていうさ’っていっていた」 おそらく最もクリエイティヴであったが、ペンタングルの中で最も大人しいメンバーだったバートは、自分の役割がますます疎外されているのを感じていた。グループの音楽がいっそう冒険的なプレイへ傾く中で、バートの繊細でマジカルな雰囲気は、とりわけコンサートで全体のサウンドの中に埋もれてしまうことがあった。アンが考えるように、彼は初期の日々にあった自由を取り戻したいと切望していた。そしてもし彼が現実の世界でそれを達成できないのであれば、それは音楽の中で達成することができた。その願いが最もはっきり分かるのが、彼のキャリアにおいて最高の作品として実を結んだRosemary Laneだった。

Rosemary Laneの制作は、それ自体が幸福な時代への先祖返りだった。それはバートのまさに最初のプロデューサーでありエンジニアだったビル・リーダーによって、ポータブルの機材でシンプルにレコーディングされた。リーダーはそれまで定期的にタイスハーストを訪れていた。「まる1年かかったね」 バートはいう。「ビルはコテッジにやって来て週末を過ごした。実際にレコーディングはしないにしても、僕とへザーといっしょに過ごしていたんだ。僕たちは準備を整えて、それからビールを飲みにパブへ行って話し合った。それでもし僕がレコーディングしたい気分になったらレコーディングした。全ての歌は当時僕が持っていたものや考えていたことだ。僕はあの時点でバンドに関心を失っていて、違うことをやりたいと思っていた」

過ぎ去った時代への切望感にあふれた―彼自身は過去とオールド・イングランドから隔たり過ぎることなく、歴史そのものよりもイマジネーションを多く含んだ―Rosemary Laneは、ロマンチックなオーラと穏やかで思慮深いトーンを保持し、その荒涼さと飾り気のない表現は息をのむほどだった。‘Nobody’s Bar’における今や彼が嫌っていたアメリカへの暗い考察を除き、触知でき認識できるコンテンポラリーな事象の欠乏と、びくともしないバートの演奏テクニックは、永遠のクオリティを伴う作品を生み出した。彼のアーチストとしての独自性とその大きな価値あるアートの提示によって、バート・ヤンシュについて知る必要のある全てが、このレコードで明示されている。それはまぎれもないパーソナリティを示していると同時に、核心部を暗示する超越的なクオリティを示し、作品自体は前面に現れるが、そのマジカルな構築をうながすクリエイター本人の存在はほとんど見えない。

バートの状況とその演奏ぶりにおける心の状態を背景として、Rosemary Laneはそれぞれが刺すような明快さでもって述べられていると見ることができる。しかしリスナーは1人の男と男の悩み以上のものを受け取ることになる。‘Wayward Child’は、寓話と化した観察だ。‘Nobody’s Bar’には超自然的なものへと続く暗喩としての観念が存在する。‘Bird Song’はまさにその核心へ触れることで成功している。A Dream, A Dream, A Dreamの中にジョン・ダン(John Donne:イングランドの形而上学派詩人:1572-1631)の影響を聞き取らない者がいるだろうか?遠い過去の形而上派詩人たちと同様、バートの詩は全体的に―しかしとりわけペンタングル時代の3枚のソロ・アルバムにおいて―‘霊魂’(the soul)と心から愛する人の性質を第一の任務として表現されている。

前作のBirthday Bluesにおいて、それは不器用に表され、この次のアルバムMoonshineにおいては、ほとんど才を鼻にかけている。その点でRosemary Laneは全てがバランスを保っている。Rosemary Laneを理解するにあたっては、空想が鍵となる。バートがイングリッシュ・トラディショナルのタイトル・トラックを歌う時―“私がローズマリー・レーンに仕えている時”―、それを聞く者は70年代初頭のバートが歌っている歌としては聞かない。人々はあたかも場所も時代も不詳の炉辺にいるストーリーテラーから直接聞いているかのように聞く。それはバートが1人の女性の観点、そのテーマから歌っていることとは関係がない。それは‘Reynardine’にもあてはまる。それは演奏のみをとってみれば傑作であり、バート・ヤンシュのギター・プレイにおける精髄と解釈できるものだ。

レコーディング時にヴォーカルよりもギターに重点をおいた数年間を経たのち、バートはどちらにも同等の気配りを向けるようになっていた。70年代半ばに一度、バートはインストゥルメンタリストとしての自分のステイタスを拒否し、少しの間、ヴォーカルと歌のみに向かった時期があった。しかしこのアルバムでは、新たな姿勢と明快さを示す紛れのない無骨なヴォーカルと、完璧に磨き上げられた無比なるギター・ワークによって、歌とメロディは心の働きを好きなように見渡せるような構造を持っていた。その眺めは息をのむほどだった。

「私はいつもとても若くして名声を手に入れた人が、それに困惑してしまうのを悲しいことだと感じていたわ」 へザーはいう。「彼がそうだったから。60年代のあの雰囲気は彼を目立つような存在に引き上げたけど、彼が誰で何であるかってこととは全く関係がなかった。彼は謎めいていたし、今でもそう。彼は60年代の外側に立っていた―彼は何かもっと古いものに属した人間だったから。何よりもまず、彼は昔の吟遊詩人的な要素が大きかったしね」 トラディショナル・ソングのイディオム、バロック的解釈、熟達した模倣曲、そして自身のコンテンポラリー・ソングそれら新旧全てをとりまぜたRosemary Laneには、過去を拒否するのではなく、存在すると思われている境界を拒否するところから生まれた偉大なアートが封じ込められている。

アルバムのマテリアルのうち、ペンタングルのレパートリーの中へと、その過渡期に運よく生き残ったものはほとんどなかったし、その結果、当時のステージで取り上げられたものはほとんどなかった。あるいはそれどころか、1曲か2曲はレコーディングのみでプレイされ、すぐに忘れ去られたのかもしれない。“僕は多分これをもう一度レコードから学び直さないといけないだろう”―バートは繊細なインストゥルメンタル、‘M’Lady Nancy’の短いスリーヴノーツでそう書いている。彼は実行しなかったように思われるが。

Rosemary Laneはその背景として、キャロル・キングのTapestry、ポール・マッカートニーのRam、そしてマウンテンのNantucket Sleighrideと同じ1971年5月にリリースされた。それは予定よりも1ヶ月遅いリリースだった。“このアルバムを忍耐強く待っていた人には、それだけ待った甲斐のある価値ある作品だ。”―メロディ・メーカーはこう述べた。最も洞察力あるレビューは、サウンズ誌のジェリー・ギルバートのものだろう―“ヤンシュのレコードは他の誰とも比較することができない。唯一、過去の彼と現在の彼を比べることができるだけだ。” 彼は現在でも有効な自明の理を書いていた。“今日のヤンシュを聞くことで得られる美的な喜びは、彼が自分のルーツであるトラディショナル・ソングに立ち戻っているにもかかわらず、5年前のヤンシュとは全く違う価値観に基づいている。今日の彼自身のマテリアルはいっそう穏やかにはなっているが、それは全く断固たる崇高な落ち着きを見せているのだ。”

ギルバートは確信していた―“バートはペンタングルの存在があろうとなかろうと、このレベルに達していただろう。” ペンタングルでの経験はたしかにRosemary Lane収録のオリジナル・ソングの内容に反映されていたが、全体のムードと音楽的様式はペンタングルからは全く独立していた。これはステージで披露することを念頭においたコレクションでは決してなかった。3年以上を経てバートのソロ活動が再び浮上した中で、それは不運なことだった。ペンタングルのマネージャー、ジョー・ラスティグは、1971年3月にロンドンのフェスティヴァル・ホールに出演するタインサイド(ニューカッスル)のニュー・グループ、リンディスファーンをプロモートしていた。彼は同様に6月30日に同じ会場で予定されていたベルファストのシンガーソングライター、ヴァン・モリソンとも出演契約を交わしていた。しかし5月、モリソンのマネージャーは出演をキャンセルし、ジョーはその月の大きな穴を埋めるよう脅迫礼状を突きつけられていた。

ジョン・レンボーンは2月にやや小さいクイーン・エリザベス・ホールで、彼の古楽アルバム、The Lady & The Unionのプロモートのためにすでに先例を果たしていた。今度はバートの番だった。「僕は臆病者だったから先にジョンにやってもらったんだ」 そのできごとの3週間後にバートはいっていた。「僕をいいくるめるのに1年かかったんだ。まず第一に、僕にはレパートリーがなかった。アルバムをレコーディングしてからだいぶ経っていたから、僕は歌を忘れてしまっていた。それに僕はコンサートで新曲をやる方が好きなんだ。でも僕はグループのメンバーがそれぞれ自身の音楽を作るのはいいことだと思う。グループにフレッシュなアイデアが持ち込まれるし、グループは活気を取り戻すことが必要だから」

“バート・ヤンシュは控えめな才能の持ち主だ。”―グレイトなライヴをレビューしたメロディ・メーカーの中でアンドリュー・ミーンズは書いた。“彼はステージ上で放浪する。ジーンズとゴム底の靴の内省的な世界に心を傾けながら。ちょうど普段着の彼のように。先週のフェスティヴァル・ホールのコンサートが、ペンタングル結成以来の彼による初のソロだったのは信じ難いことだ。振り返ってみれば、同様に、彼が最新アルバムのRosemary Laneのナンバーにこだわったのも驚くべきことだった。もしバートが過去の代表的ナンバーをもっと取り入れていれば、彼のパフォーマンスは申し分のない成功を収めただろう。そこにはたしかにお粗末な要素や、音の外れたヴォーカルがあった。結果的には、単に期待をふくらませるようなコンサートだった。その伝説的人物はなにか、よりポジティヴなもの―ライヴ・ミュージック―に果敢に食ってかかっていた。”

バートの主張によれば、同じビラの共演者にはCOB(Clive’s Original Band)と身重だったアン・ブリッグスも載っていたらしい。COBはバートの旧友クライヴ・パーマーが率いていた深遠なグループだった。クライヴとアンはRosemary Laneの音楽的スタイルではなくとも、少なくとも内容に大きな影響を与えていた。その年の少し前には、彼らはCBSとジョー・ラスティグの間で交わされたワン・ショット契約で、1枚のアルバムを作ることになっていた。今やフォーク・リヴァイヴァル初期の伝説的、神秘的人物としてのアンの復帰は、ほとんど評論家たちの頭の中を独占し、バートのパフォーマンスをそっちのけにしてしまった。“美しい”、“断固たる”、そして“魅惑的な”といったことばが、そのだいたいはナーヴァスなトラッドの女神に惜しみなく与えられたが、アンドリュー・ミーンズにとってはこうだった―“彼女の音楽は、バートよりもさらに単調さと魅力のバランスをとりながら、初心者たちに忍耐を課していた。”

「私があのギグをやった時は全くいつもの状態だったわ」 アンはいう。「私は妊娠していたんだけど、全くそういう衣服をもっていなかったのよ。それでジョー・ラスティグの奥さんのディーが私にピンクのとんでもないマタニティー・ドレスをくれた。ジョーは不意をつかれたんだと思うけど、私に花束を渡すように誰かを使ってよこした。彼は他にどうしていいのか分からなくて、私は花束が何のことだか分からなかったわね。それで私はすごく困惑してしまったわ」 ジョーはショーのあとに滑稽な司会を務めたことを話している―「私は困った立場におかれてしまったね。でも私が3年半前に初めてペンタングルのコンサートを主催して以来のベスト・コンサートだった」

ブリッグスとパーマーによる意外な出演のあとに行なわれたバートのセットは、短く控えめだった―およそ45分にも満たなかった。ほとんどのマテリアルはこのイヴェントのために、Rosemary Laneからバートが再度練習して披露されたが、唯一‘Oh, My Babe’がペンタングルの前の彼を思い起こさせた。

「あのコンサートは素晴らしいできごとがあったね」 1人のファンだったマイク・フォックスはいう。「ついにバートがステージに出てきた時、彼はナーヴァスで落ち着かない様子だった。それでもオーディエンスとジョークを交わしていたけど―‘僕の子供じゃない限りは・・’ってね。するとその時1人の赤ん坊が泣き出した!15歳だった私は、パフォーマーとしての彼の強烈さとその複雑な音楽的レベルに呆然としてしまった。そして彼はついにうまくいかなかった‘Veronica’の途中でステージを去ってしまった。仕方なくアンコールのために戻ってくるしかなかったんだけどね。彼は‘みんなが僕を外に出してくれない!’っていってたな」

しかしながら、例によってバートはコンサートで‘新しい’歌を披露した―イワン・マッコールの‘The First Time Ever’と、アーチー・フィッシャーが長い間レパートリーにしていたスコティッシュ・トラディショナル・ソング、‘Twa Corbies’の新しい解釈だ。バートは後者をその年の終わりに行なわれたペンタングルのツアーで数年ぶりにソロ・スポットで披露した。またこれはペンタングル時代の彼が唯一ソロでテレビ出演したBBC2のOnce More With Felixでフィーチャーされることになった。しかしながら、フェスティヴァル・ホールのコンサートが、Rosemary Laneからのマテリアルを多くプレイしたバート唯一の機会だったことは今も変わらない。それでも、そのコンサートの2週間前にレコーディングされたBBCラジオ・セッションは、アルバムから3曲を含んでいた―‘Bird Song’、‘Nobody’s Bar’そして‘Tell Me What Is True Love?’だ(その他にトラディショナル・ソングの‘Twa Corbies’と‘Omie Wise’)。

一方で‘Reynardine’は続くペンタングルのラジオ・セッションでレコーディングされ、放送から直接録音されたテープが現存している。‘Reynardine’(ついでながらこれはRosemary Laneに先立つトランスアトランティック・レーベルのサンプル・レコード、Heads & Talesに入っていた)は見たところ、ステージで長い間取り上げられた唯一のRosemary Laneトラックだ。これは1972年の最後のペンタングル・ツアーでソロ・スポットとして披露され、バートがソロ・キャリアに戻った1973年の初期のギグでもプレイされた。1990年代を通じて、バートは時折‘Rosemary Lane’と‘Tell Me What Is True Love?’を取り上げ、一方で‘Reynardine’は2000年のチャンネル4によるドキュメンタリー、Dreamweaverで復活した。それでも他の‘ペンタングル時代’のソロ・アルバム、Birthday BluesMoonshine収録曲の多くと同様、これらの歌はほとんどがレコードの中にのみ閉じ込められることになった。とりわけRosemary Laneを考える時に、当時テープに収められたパフォーマンスよりいいものを想像することは難しい。

しかしRosemary Laneのクオリティにもかかわらず、リリース当時は少数の注目しか集めなかったアルバムだった。ソロ・アーチストとしてのバート・ヤンシュは、もはや60年代半ばの彼のようなブリティッシュ・フォーク・シーンの中心にはいなかった。1971年のメロディ・メーカーによる‘Folk LP Of The Year’は、スティーライ・スパンのPlease To See The Kingだった。エレクトリック‘フォークロック’の勝利は、次にブリティッシュ・フォーク・ミュージックが取り組むべき方向性を示していた。もちろんバート・ヤンシュは自分自身以外の方向性をとることなく、その栄光の道を歩み続けることになった。


コリン・ハーパー、2001年4月―Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British Folk and Blues Revival(2000年ブルームズベリー出版より)の著者


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