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Bert Jansch/A Rare Conundrum/2009 Virgin Records Ltd. CASCDX 1127



A Rare Conundrum by ミック・ホートン

バート・ヤンシュは1970年代に“ザ・フェイマス・カリズマ・レーベル”に3枚のアルバム―L.A. Turnaround、Santa Barbara Honeymoon、A Rare Conundrum―を録音した。それらのアルバムは25年以上にわたって入手困難な状態が続き、とりわけバート・ヤンシュ作品の中で最も需要の高いアルバム群である。3枚ともCD化されずにいたが、このたびバートの監督のもとリマスターされ、新たに発見された未発表マテリアルをボーナス・トラックとして加え、一斉にCDリリースされる運びとなった。


バート・ヤンシュは1973年にカリズマと契約を交わしていた。そのレーベルのA&Rポリシーは、アーチストとして明確な特質をもっていれば‘何でもあり’であったのかもしれない。カリズマはジェネシス、モンティ・パイソン、ピーター・ハミル、ジョン・ベチェマン(英桂冠詩人)、そしてホークウィンドなど多種多様なアーチストを抱えていた。1977年5月にバートのレーベルでの3枚目のアルバム、A Rare Conundrumがリリースされた時までに、ピーター・ゲイブリエルはソロに転向し、フィル・コリンズがドラム・スツールに座り、ジェネシスをさらなる成功へと導いていた。しかしバート・ヤンシュにとって、Santa Barbara Honeymoonはすでに終わっていた。カリズマからの彼の向上心あふれたセカンド・アルバムは、大きな称賛を受け素晴らしい出来だった前作のマイク・ネスミス・プロデュースによるL.A. Turnaroundに続く作品としては失敗に終わっていた。

バートはレーベルのボス、トニー・ストラットン・スミス自身の意向によってカリズマに迎え入れられていた。彼はバートのことをレーベルの誇りであり、大きな刺激となる存在として見なしていた。「トニーはいつも僕のことをサポートしてくれたけど、あとの人たちにとって僕は完全に謎の人物だったんだ。A Rare Conundrumのレコーディングに近づいたころ、カリズマはジェネシスに力を注いでいて、それが僕に考える機会を与えてくれた。レーベルは全然僕を困らせたりプレッシャーを与えたりはしなかったよ。ただ僕がふさわしいミュージシャンを見つけてバンドを組む機会を提供してくれたんだ」

1975年の春にLAで3ヶ月間を過ごしたバートは、近い将来に備えてパトニー(ロンドン)の慣れ親しんだ地区に戻ってきた。彼は1974年暮れのクリスマス・シングル、‘In The Bleak Midwinter’のレコーディング・セッションで、元リンディスファーンのベース・プレーヤー、ロッド・クレメンツと会っていた(このシングルは今回の新装L.A. Turnaroundのボーナス・トラックとして聞ける)。クレメンツはその時の話をしている―「ラルフ・マクテルとバートには共通のマネージャーのブルース・メイがいて、彼のオフィスはパトニーのハーフムーン(ライヴ会場)の裏側を入った緑の多い場所の大きな家にあったんだ。その家はリハーサル・ルームとして使える十分な広さがあって、疲れたミュージシャンたちが休憩を取るのにも好都合なところだったんだけど、バートはずっとそこに住みついているように見えたね」

ハーフムーンはミュージシャンたちの活動範囲にあり、バートはロッドに手を借り、その界隈で活動する様々なプレーヤーたちとリハーサルを始めた。その結果、彼はレギュラーのラインナップをそろえた―ヴァイオリニストのマイク・ピゴットとロッドが知っていたドラマーのピック・ウィザーズだった。最終的にA Rare Conundrumのほとんどは、1976年夏にエア・スタジオでレコーディングされたが、マテリアルに及ぼしたアコースティックなトラディショナルへの回帰は、パトニーのリハーサル・スペースの中で磨き上げられたものだった。

バートはいう―「LAでのSanta Barbara Honeymoonの過剰なレコーディングのあとで、もっとシンプルなレコーディング方法とシンプルな歌のアプローチ方法になったんだ」 デンマークTVのドキュメンタリーは、そのうちとけたリハーサルの様子をとらえ、それは1976年4月にA Man And His Songsとして放映された。リラックスし、無欲で満足げだったバートは、いかに1日中ギターを弾きながらぶらぶらと過ごし、それから友人たちに会いに出かけたりしたかを話している。「パトニーはロンドンの真ん中にある小さな村みたいなものだった。橋を渡って反対側に出ていくなんてことはめったにないんだ・・・」

この屈託のない姿勢が、たしかにアルバムの思慮深さと自由で解放されたスピリットとともに、彼の幼少時代やミュージシャンとしての初期の日々、そしてアイリッシュ文学と文化への彼の関心を説明している。‘Poor Mouth’はずっとバートのお気に入りだったフラン・オブライエン(アイルランド作家:幻想文学)の物語からタイトルが付けられている。「ノスタルジックなアルバムだ」 バートは認める。

「‘One To A Hundred’は幼少期の記憶だ。僕が10歳か11歳だった時に、いっしょに遊んでいた地元の友達の1人が水のたまった石切り場に落ちて溺死してしまったんだ。歌とスタイルがうまくミックスされていて、いくらかトラディショナル・フォークがインストゥルメンタル部分に影響を与えた。それから少しスロー・ブルースも入っている。‘Curragh Of Kildare’は僕がずっと知っていた有名なアイリッシュ・ソング。アイリッシュ・ミュージシャンのレパートリーには必ず入っているようなね。ルーク・ケリーはよくこれを歌っていて、僕は彼から教わったんだけど、僕たちのレコーディングしたヴァージョンはフィンバー・アンド・エディ・フューリーにより近い。‘Instrumentally Irish’はロッドとのギター・デュオで、彼が知っていた他のトラディショナル・チューンに基づいている」

ホームレスをテーマとしたような2つの痛切な歌がある。‘Looking For A Home’と‘Cat And Mouse’はひょっとすると、バートがツアーに出ていない時にフィンチリーのブルース・メイの家とロッド・クレメンツの家を往復していた時の状況に言及したのかもしれない。

ソーホーのレス・カズンズ・フォーク・クラブでのオールナイト・セッションで朝を迎えた時のことを歌った哀愁漂う‘Daybreak’に加え、さらに2つがバートが商売を学んだエジンバラ・フォーク・シーンについての歌だ。バートは説明する。「‘Three Chord Trick’は僕が最初にギターの練習を始めて、ハウフ(パブ)でプレイした時のことについての歌。歌の中に出てくるジルはデイヴィ・グレアムの妹(姉)のことだ。‘Three Dreamers’は僕とロビンとクライヴについての歌。まだ僕たちが音楽でやって行こうと決心する前のね」 ロビンとクライヴの姓は、それぞれウィリアムソンとパーマーだ。彼らは60年代半ばまでにマイク・ヘロンとともに、インクレディブル・ストリング・バンドを結成していた。

‘Three Dreamers’はこのCDのボーナス・トラックとして収められた。COB(Clive’s Original Band)のジョン・ビドウェルの手による神秘的な‘Dragonfly’も同様だ。ゲイリー・デイヴィスの古いブルース、‘Candyman’とともに、これらは最初にデンマーク盤のA Rare Conundrumでリリースされた。それは英国に先立つピーター・アブラムソンのレーベル、Ex-Librisからのリリースで、タイトルはPoor Mouthとなっていた。実際のところ、A Rare Conundrumは、カリズマがついに1977年5月にリリースするまで、ほとんど1年間棚上げにされていた。それはある時代の兆しのせいだった―パンク・ロックが音楽シーンを席巻し始めていた。そんな時に誰がアコースティック・アルバムなどに関心を持つだろうか?A Rare Conundrumは称賛を受けたが、その時ですら未来を見据えた野心家たちの中へ広がることはなかった。最近バートがカリズマで制作したアルバムを自分で手に入れようとした時(簡単な仕事ではない)、ジョニー・マーはバートに宝物にしていた自分のA Rare ConundrumのオリジナルLPをプレゼントした。

飾りのないバック・トゥ・ベーシックなA Rare Conundrumのアプローチはある意味、その素晴らしく繊細なプレイと信頼できる感動的な歌唱をおおい隠している。その自伝的なトーンは未来を見据えると同時に、過去にも目を向けた1人のアーチストを映している。残念ながら、思い描いていたバンドは不運が重なって水泡に帰してしまった。アルバムが出る前に、ロッド・クレメンツは再編リンディスファーンに戻り、ピック・ウィザーズはダイア・ストレイツという新しいパブ・ロック・バンドに加入した。あまりツアーを好まなかったマイク・ピゴットは、すでにギタリストのマーチン・ジェンキンスと交代していた。ジェンキンスは以前、ダンドゥ・シャフトでプレイしていた。彼とバートはデュオとして1982年まで活動を続けた。珍奇者バンド(The Rare Conundrum band)はアルバムのサポートを受けずに一握りのショーを行なっただけだった。実際のところ、そのアルバムはほとんどプロモートされなかった。

それでもバートの卓越した長く波乱に富んだカリズマでのキャリアの一章が、完全に閉じたわけではなかった。マーチン・ジェンキンスとデュオとしてスカンジナビアをツアーした時に、Ex-Librisのピーター・アブラムソンは1枚のアルバム契約を申し出た。彼はスウェーデンTVで、トラディショナル・ソングの‘The Cuckoo’をプレイした彼らを見て感銘を受けていた。彼は2週間のスタジオ提供と少しばかりの前金をオファーし、その結果出来上がったのが、バートの最高の1枚であるAvocetだった。それはインストゥルメンタル組曲だった―それぞれは海鳥、ツル、サギなどからタイトルが付けられていた。ベースをプレイしたのはダニー・トンプソンだった。Avocetは1978年の終わりに向けてデンマークでリリースされ、最終的には1979年2月にカリズマにライセンス貸与された。

「僕は今でもこのレコードを誇りに思っているし、機会を与えてくれたピーター・アブラムソンには感謝している。小さなデンマークのレーベルにとってはとても成功したアルバムだったんだ。僕は最終的にカリズマがリリースしたことを忘れていた。なぜなら彼らは最初却下したからね。彼らとの関係はとてもあたたかい雰囲気で始まったけど、時がたつにつれてその雰囲気は変わってしまった。僕は実際にカリズマから契約を切られたことを覚えていないんだけど、突然僕は契約がなくなって宙ぶらりんの状態になってしまった」

カリズマ・レコーズ自体は、トニー・ストラットンがリチャード・ブランソンに売り払う1985年まで続いた。バート・ヤンシュにとっては忘れられない6年間となり、どうにかこうにか彼のレコーディングした3枚のアルバムは初めてCDでリリースされることになった。それはバートへの関心がかつてないほど高まった時に現実化した。伝説ということばは近頃あまりに安売りされるようになったが、バートの場合は、いかにその賛美が彼を当惑させようと、彼にふさわしいことばだ。


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