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Bert Jansch/Nicola/2001 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD333



1967年4月にレコーディングされ、4ヵ月後にリリースされたバート・ヤンシュの4枚目のソロ・アルバムNicolaは、文化コメンテーターたちが習わしのように‘サマー・オブ・ラヴ’と呼ぶ時期の真っ只中で、その時代にうまく乗っていた。バートによる初の12弦とエレクトリック・ギター、ダブル・トラック・ヴォーカル、そして特に大胆なアレンジメントが施された15人編成のオーケストラをフィーチャーしたそれは、初期のモノクロームなサウンドを伴った荒涼な作品から急速に前進、あるいは少なくとも横道へ逸れていた。一方でそういった大胆なアイデアは楽しげではあったが、作者による初期の多くのレコーディングよりもアルバムをしっかりと時と場所へ定めているように見えるし、1967年初頭はバートの世界の大きな過渡期を示していた―音楽的にも個人的にも、そしてビジネス・レベルにおいても。

その年は、フォーク・クラブからコンサート会場へと場を移すことになったバートの注目すべき飛躍とともに始まった。しかし彼のソロとしてのステイタスが空前の高みへと達したのと同時に、バートは匿名性の快適さの中に身を置くことを求め、バンドを結成していた。ポップ・アイドルへと急速に進展する中にあったドノヴァンとともに、少しの間ぶらぶらしていたバートは、名声というものが自分のためにならないことを十分に見抜く洞察力を持っていた。にもかかわらず、Nicolaのレコーディングへとつながる半年間において、バートの転機となるコンサートは印象的であり、バートがソロ・スターダムのコンセプトに取り組むことを選択していた可能性を示している。1966年10月15日に行なわれた860人収容のセント・パンクラス・タウン・ホールと、2週間後の350人収容のジャネッタ・コクラン・シアターでプレイしたバートは、そこで完全なソロ・コンサートを行なったフォーク・リヴァイヴァル初のブリティッシュ・ソロイストとなっただけでなく、2つの会場をソールド・アウトにした。

66年11月の終わりに、彼はアベルヴァン(ウェールズ南部の炭鉱町:1966年ぼた山崩壊で学童144人が死亡)の大惨事によって企画された慈善コンサートのビラでトップ告知され、12月には‘ピース・イン・ベトナム’コンサートでヘッドライナーを務めた。1967年の3月までに、少なくともあと7つのコンサートと先例のないツアーがあった。これは実質的には彼のマネージャーだったブルース・ダンネットにより企てられ、少なくとも4つの大きな会場が含まれていた―バーミンガム・タウン・ホール、グラスゴー・コンサート・ホール、マンチェスター・フリー・トレード・ホール、そしてニューカッスル・シティ・ホールだ。ひょっとするとベルファストのアルスター・ホールも含まれていたかもしれない。

メロディ・メーカー紙で簡潔に述べられた“勝利の進化”、いくつかのチラシ、ニューカッスルの何枚かの写真、プレス・リリース(バートのことを“フォーク・ファンたちに愛される無頓着な表現の達人”と述べている)、そしてバーミンガムのセット・リスト全てが、この草分け的達成の証として今も残っている。1人のファンであるリチャード・ルイスによって忠実に記録されたそのセット・リストは、その時期のバートのレパートリーに対するユニークな洞察を与えてくれる。かつてなかったほど、彼は金を払って見に来たオーディエンスのために、多くのナンバーをかき集めなければならなかった。しかし彼らが何を期待しようと、バートは新曲を豊富に備えていた。2時間という長さのギグで、バートは32曲のパフォーマンスを披露したが、それまでの彼のレコードに収録していたのはその中の10曲のみだった。あとは名の付いていない一握りのインストゥルメンタルとエジンバラ時代にやっていたブルースのカヴァー、そして他ではあまり知られていないヤンシュのオリジナルが5曲ほど書き留められていた。

しかしバートはセカンド・セットのために、その時は未完成だった自信作を残していた。その7曲は、まもなくNicolaのためにレコーディングされることになっていた。そのうちの3曲が、‘Train Song’、‘Dissatisfied Blues’、そして‘In This Game’だったが、結局これらは外された(後者2曲は最終的に1972年のコンピレーション・アルバム及びこのCDのボーナス・トラックで日の目を見た)。他の4曲の内訳は、トラディショナル・ブルースの‘Weeping Willow’と、オーケストラ・アレンジャーのデヴィッド・パーマーによって豪華に装飾されることになる3つの美しいバートのオリジナル、‘Woe Is Love My Dear’、‘A Little Sweet Sunshine’、そして‘Life Depends On Love’だった。

ブルース・ダンネットは当然のことながら、そのツアーを今でも誇りに思っている。チケット代は5シリングから15シリングで、マンチェスターのギグだけで1,000を超える人々が集まり、バートは口コミによって国民的スターとなっていた。ソロ・コンサート・ツアーに加え、ブルースはバート・ヤンシュのロンドンでの拠点として、トテナム・コート・ロードのホースシュー・ホテルにあった豪華な400人収容の大会場の中に、日曜のナイトクラブを開いていた。おそらくNicolaをレコーディングしていた頃だと思われるが、現在詳細はおぼろげなものの、ビジネス上の意見の相違に続いて、ヤンシュとダンネットが袖を分かつ時までに、バートは名声を高め、商業的に十分に成り立つ存在として、ロンドン中心部で繁栄していたフォーク・クラブに毎週レギュラー出演していた。彼はまた、所属するレコード会社のトランスアトランティックがさらにいい評価を彼に与えようとしていたにもかかわらず、ザ・ペンタングルという5人編成のバンドを組んでいた。

このバンド・プロジェクトの中枢にいたのが、バートの長年のフラットメイトで、レコーディング・アーチスト仲間のジョン・レンボーンだった。1966年11月、ジョンは長い間付き合っていたガールフレンドのジュディ・ヒルと結婚した。彼はキングストン・アート・スクールで彼女と出会っていた。ジュディ・ヒルにはジュディ・ニコラ・クロス(その後、ニコラとして呼ばれるのは明白だ)という友人がいたが、彼女もその大学へ通っていた。「ジョンとバートは2人ともセント・エドマンズ・テラス23番地に住んでいたんだけど、それからジョンはジュディのところへ移ったのよ」 二コラはいう。「で、私は彼らを通じてバートと会った。最初にバートが私に興味をもっていることに気づいたのは、ジョンとジュディの結婚パーティーの時だった。私はそこに長い間付き合っていたボーイフレンドといっしょに出席していた。バートは全く社交的じゃなかったんだけど、彼が1人の女性の気を引こうとする時はとても巧みですごく魅力的だったのよ。私は完全に彼にまいってしまって、さっそくボーイフレンドを捨ててしまった!」

二コラとバートの関係は1967年のクリスマスまで続いた。「最初の半年間は天国だったわ」 彼女はいう。「でも次の半年はそうでもなかった。くっついたり離れたりしていたのを覚えているような気がする。私は彼を追い求めたけど、それは多分私の過ちだった」 その関係は限りあるものだったが、バートのキャリアの重要な時期において、2人の間柄は親密だった。二コラはロンドン外の2つの女子学校での教師の仕事をあきらめ、都心で仕事を見つけ、セント・エドマンズ・テラスに移ってきた。時々、彼女はバートのギグに同行した―例えばマンチェスターとグラスゴーのソロ・コンサート、そして多くの控えめなアーチストを集めてベッドワース(イングランド中部)で行なわれたブルース・ダンネットによる企画コンサートなどだ。

1967年2月に行なわれたそのショーの記録は、当時におけるバートのかなりの値打ちを示している。その時、彼は40ポンドを受け取ったが、かつて不屈の存在だったアレックス・キャンベルでさえ25ポンド、他はおよそ5ポンドから15ポンドの間だった。二コラの回想によれば、この時期のバートは絶え間なく自身の音楽に取り組んでいたそうだ。彼はみずからの領域を大きく広げ、ポップ・チャートにも目を向け、二コラを連れて最初期のピンク・フロイドのギグにも足を運んだ。バートの商売道具も広がりを見せていた。数ヶ月内にジョン・ベイリー製作のアコースティック・ギター(1960年以来初めて自身のギターを所有した)を手に入れたバートは、バンドとともに実験を試みようと、ベイリー製のエレクトリックと12弦のアコースティック・ギターも入手した。彼はまた、ジョン・レンボーンとともにシタールも所有した―その年のメロディ・メーカー紙では、シタールを持った彼の写真が掲載されていた。レコード上でその楽器を使ったのはレンボーンだけであったが。

バートは完全に勢ぞろいしたギターにかかりっきりだった。「フラットにいる間、彼はずっとギターを弾いていたわ」 ニコラはいう。「私はギグで、ある女の子から‘あなたはいつも彼のプレイを聞くことができてラッキーね’といわれたことを覚えているけど、私は‘そう、彼は一日中“Needle Of Death”を弾いているからリラックスすることがないのよ、分かる?!’っていったわ。彼はいつも素晴らしいプレイをしていたけど、それは何かBGMのようだった。彼は座ってペンと紙を使って歌を書いていたのに、‘ちょっと聞いてよ、1曲書いたんだ’っていわれたためしがなかった。時々、アン・ブリッグスが立ち寄った。2人は私にギターを教えようとしたんだけど、私ができないと彼らはすごくイライラしてたわ!」

バート、二コラ、そしてレンボーン夫妻は、レンボーンの妻ジュディが妊娠して夫妻がカムデンに引っ越すまで、4人でエドマンズ・テラス23番地で時を過ごすことがあった。バートがNicolaとなるアルバム用のレコーディングをしていた1967年4月までに、レンボーンはすでに自分の作ったインストゥルメンタルに‘Judy’というタイトルを付けていた。「とても光栄に感じたと思う」 ニコラはいう。「でも感情的な高まりは過ぎていたわ。私はちょっと飽き飽きしていた。自然な流れだったんだと思う」

トランスアトランティックの最高権力者ナット・ジョゼフをプロデューサーとして、デヴィッド・パーマーをアレンジャーとして何度かのスタジオ・セッションを経てレコーディングされたアルバムのコンセプト―フォーク・シンガー・ミーツ・オーケストラ―は、時流に乗っていた。ジュディ・コリンズとアル・スチュワートは似たような作品をリリースし、大きな称賛を受けていたところだった。「彼のアルバムとしては最低ラインだったと思う」 ナットは認める。「でもトライしなくちゃいけない。同じアルバムを作り続けることはできないんだ。当時はたくさん叩かれたけど、興味深い実験だった。私たち(レーベル)は初期の頃、比較的限られたアーチストしか所有していなくて、私はいつもアーチストたちがずっと現状を維持することはできないと感じていた。いつも私は違うことにトライするよう彼らの背中を押していたし、他の分野から新しい人材を紹介したりしていた―デヴィッド・パーマーのようなね」

70年代にジェスロ・タルのメンバーとなるデヴィッド・パーマーは、ロイヤル音楽アカデミーを卒業したばかりだった。以前学校を追い出された彼は、音楽的訓練を受けようと軍隊に入り、1967年までに町中のナイトクラブでピアノを弾いていた。Nicolaがパーマー初の任務だった―彼が最初に名をあげ、果敢に挑戦した場だった。最終的にアルバム中5曲で、バートは15人編成のオーケストラを率いることになり、その経験は少なくともまあまあの成果を上げていた。「このセッションはライヴ録りだったんだ」 バートはいう。「あとからオーケストラをかぶせたわけじゃないんだ。でも実際、僕と同時に吹き込んだやつは失敗だった。なぜなら当時の僕は何でも興味本位だけでやっていたからね」

バートのロマンチックな要素がNicolaの前面に現れている一方で、アルバムの統一感は一瞬の輝きを放つところもあるが、満足できるものではない。インストゥルメンタルのタイトル・トラックは、木管楽器、チェロ、そしてギターを結合させたスタイリッシュな擬似バロックであり、あからさまにジョン・レンボーンの影響が出ていた。「僕はジョンが熱中している音楽のことを全く理解できなかったんだ」 数年後にバートは語っている。「僕はいつも音楽的にはるかに彼から遅れをとっていたからね。でも彼は僕からたくさんの生き方について学んで、僕の方は彼からそれまで僕が知らなかったたくさんの興味深いことを学んだんだと思う」

ある段階で、バートはNicolaをブルース・アルバムにすべきだと考えていた。もともとレン・パートリッジから教わった力強いソロ・プレイが光る‘Come Back Baby’と‘Weeping Willow’はその名残であり、バートがヴィニール盤に刻んだ初の‘トラディショナル’ブルース・ソングだった。1965年にアン・ブリッグスと共作し、よみがえった憂うつな‘Go Your Way My Love’も同様に印象的だった。対極の‘Rabbit Run’は、The Wind in the Willows(児童文学)にインスパイアされた愉快な感じたままの作品だ。そのテンポと雰囲気、バートによるダブル・トラックのヴォーカルが巧みに配置されている。エレクトリックと12弦ギターの使用に加え、もうひとつバートの最初で最後の試みとなったのが、ダブル・トラック・ヴォーカルだった(2000年にアルバム、Crimson Moonで久しぶりにエレクトリック・ギターを使ったが)。

パーマー/ヤンシュのコラボレーションは、ひとつの真の勝利を生み出した―‘Woe Is Love, My Dear’だ。ペーソスと技術の傑作であり、片思いに対するバートの賛歌に添えられたパーマーのアレンジメントは、豪華ではあるが、バートの持つ優しさに満ちた感情へ全てが共振している。ビートルズの‘Penny Lane’がリリースされた1ヵ月後にレコーディングされたピッコロ・トランペットのソロは、ほとんど偶然とは思われない。1966年12月のビート・インストゥルメンタル誌によって、シングルに関する質問を受けたバートは、その方向性に賛同する心情を吐露したが、そういった領域におけるトランスアトランティックのプロモーション能力には否定的な見解を示した。

「シングルのプロモーションに関しては、私たちの能力はかなり劣っていたといわねばならないだろう」 ナット・ジョゼフはいう。「でもいつも私は、‘Woe Is Love’(苦悩は愛)が大きなヒットになる可能性を持っていると考えていた。私はみなに‘これはヒット・シングルだ’と触れ回っていたことを覚えている。一番重要な問題がタイトルだった」 ‘サマー・オブ・ラヴ’にはほとんどふさわしくも典型的でもなかったタイトルの‘Woe Is Love’は、それにもかかわらずプロコル・ハルムの‘青い影’(1967年5月にUKチャート・トップに立った)と同じような謎めいた痛切さを持っていた。そしてある音楽紙では、まもなくシングルとしてリリースされると告知された。しかしどういうわけか、結局シングルとしてリリースされたのは、‘Life Depends On Love’と‘A Little Sweet Sunshine’のカップリングだった。パーマー/ヤンシュの共同作品であるこの2曲は、ヤンシュのエッセンスが水で薄められ、一方ではその埋め合わせとなるような売れっ子ポップ・シンガーらしい堂々とした佇まいにも欠けていた。そのレコードは影響力を持ったラジオ・ルクセンブルグのDJ‘ベイビー’ボブ・スチュワートによって‘今週の1枚’となったが、大衆は群れをなして自宅待機してしまった。

「ソロのフォーク・アーチストから豪華なバッキングを伴ったポップ・スターへ飛躍したというよりも・・・」 メロディ・メーカーのレビューでカール・ダラスは結論づけている。「ザ・ペンタングルの発展の段階で、つかの間ふみとどまったといった方が賢明かもしれない」 振り返ってみれば、彼はほとんど正しかった。Nicolaは大胆な実験だったが、結局は発展性のないアルバムだった。67年の夏の中で、それがいかに儚いものであったとしても、ザ・ペンタングルは真の成功への道を歩むことになった。


コリン・ハーパー、2001年4月―Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British Folk and Blues Revival(2000年ブルームズベリー出版より)の著者


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