Welcome to my homepage


Bert Jansch/Jack Orion/2001 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD304



1966年初頭までに、バート・ヤンシュと彼のフラットメイトで、ある時は共演者だったジョン・レンボーン、そして彼らの音楽的恩師であるデイヴィ・グレアムは、ブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルの中で突出した副産物として認知され、それは彼らの技術的才芸によるものとして見なされていた。メロディ・メーカー誌でカール・ダラスは書いた―「彼らは独自の“サード・ストリーム”(third stream:クラシックとジャズの要素を融合させた音楽)として存在できることが証明された」 「彼らは今や、自前で通用する真に注目すべき音楽を生み出すに至った」

インストゥルメンタリストとしてだけでなく、1つの世代へ向けたかのような‘Needle Of Death’といった歌によるむき出しのオリジナリティを持ったソングライターとして、前年の最初のブレイクに続き、バートの次なる重要な進化は、サード・アルバムのJack Orionで示されることになった。それはブリティッシュとアイリッシュの伝統に向けた憂うつで濃厚で、深く個人的なアプローチだった。また十分に素晴らしかったが、彼のセカンド・アルバム、It Don’t Bother Meは、ファーストBert Janschのソングライティング手法をシンプルに追従していた。それはより強固で自信をつけていたが、必然的に前作にあった驚くべき要素に欠けるきらいがあった。しかし一方で、レンボーンとのコラボレーションであるBert And John(1966年9月にJack Orionとともに同時リリースされた)は、本質的に、1〜2年後に成果を見ることになるフォーク/ジャズ融合のパイオニアであるザ・ペンタングルの基盤となったジャズベースのアイデアを探求した作品だった。

It Don’t Bother Meのためにレコーディングした‘リアル・スタジオ’でプレッシャーを経験したことで、Bert And JohnとJack Orionは、セント・エドマンズ・テラス23番地にあった2人のフラットの居間で、ビル・リーダーによってレコーディングされた。レンボーンのセカンド・ソロ・アルバム、Another Monday(66年夏の間にリーダーの家で録音された)でイメージが完結するこの3枚のアルバムは、アイデアが爆発し、音楽的実体をしきりに要求するカール・ダラスの難問に答え、その能力に喜びを感じる自分に危険なほど近づいた依然奇抜で、依然発達の見込みのあるジャンルだった。

個人的な洞察を伴った3枚は、それぞれぜい沢な時間を過ごすことのできるアルバムだった。そしてこれらのアルバムはとりわけある1日の午後にも満たない時間にレコーディングされ、それは視野、多様性、実行において不完全な側面があるにせよ、それでも彼らのもつ並はずれた発明の才とイマジネーションの断片が寄せ集められ、表現されていた。モダン・ジャズ、ヨーロッパのバロック音楽、アメリカン・ヒルビリー、ディラン風のコンテンポラリー・ソング、そしてJack Orionでもっとも驚くべき例示となったブリティッシュとアイリッシュのトラディショナル・ミュージック全てが、注目すべき熟練の技をもって織り込まれていた。

4つのトラックでレンボーンがフィーチャーされているものの、Jack Orionはバートの心の中で醸造されたアイデアの産物であり、前年あるいはそれ以前から続く彼のプレイが発酵したものだった。そしてその結果、3枚のうちでもっとも焦点の定まった緊張感張りつめる活気に満ちた作品となった。バートはついに全面的にDADGADあるいは‘ドロップD’チューニングを採用したトラディショナル・ミュージックの探求の成果を、初めてレコード上に刻んだ。このプレイは彼が友人のアン・ブリッグスとともに始めていたものだった。彼女はバートのファーストがリリースされる前に、すでに伝説のイングリッシュ・トラディショナル・シンガーとなっていた。1965年の初週に2人はロンドンで一定の期間、時間をつぶし、その日々に出入り自由なフラットを持っていた彼らの共通の友人だったジル・クックもいっしょだったように、そこには同時性的な要素が含まれていた。

「他にすることがない時に、バートはよくジルのフラットに立ち寄っていたわ」 アンはいう。「それで私たちは興味を持っていたトラディショナル・ミュージックに取り組んでいた―彼のドラマチックなギター・プレイを使ってね。私たちは自分たちが本当によく調和することを発見した。彼が私の思いついたものを練り上げ始めると、私は急いでそれについていかなきゃならなかったから、それで私もギターをプレイするようになった。彼が1つのヴァースを書いて、私も1つのヴァースを書いてって感じね。私がメロディを思いつくと、彼がそれをプレイして精巧に仕上げていった。とてもクリエイティヴな時期だったけど、本当に短い間しか続かなかったわ」 アンの回想によれば、そのプロセスはほとんど偶然の産物だったようだ―「たくさんの歌の素材が散らばっていたけど、その日の午後までにまとまらなければ忘れ去られていった」 しかし1966年から71年の間にバートとアンがそれぞれ作ったアルバムで、3曲のオリジナル・ソングが生き残ることになった―‘Go Your Way, My Love’、‘Wishing Well’、そして‘The Time Has Come’だ。最後のトラックはアン単独作だが、他は2人の共作だった。非現実性と予感とメランコリーが共存した3曲は、ポピュラー・ミュージックのジャンルには全く先例のないものだった。

しかしながら、共作ソングのクオリティよりも重要なのが、トラディショナル・ミュージックの伴奏への新しいアプローチにもたらしたさらなる発展だった。表面上は、比較的短命に終わったシャーリー・コリンズとデイヴィ・グレアムのプロジェクト(アルバムFolk Roots New Routsとして結実したが、それはヤンシュとブリッグスが共に曲を書いていた時にリリースされていた)に似ているが、もっとフリー・フォームで、ルーズで、感覚的なフィールがあり、最初の歌の内容にある斬新さが、‘一夜限りの情事’のアイリッシュ・バラッド、‘Blackwaterside’の下地となった。現実でも想像上でも、続く何年もの間に発展することになるヤンシュとグレアムのライヴァル関係があるにもかかわらず、グレアムは少なくとも‘Blackwaterside’を傑作と見なすようになった―「この手の中で傑作だ。僕はああいうルーズな(だらしない)ことばは使わないがね」

「ジミー・マクベスやジーニー・ロバートソンのような当時僕が知っていたトラディショナル・シンガーたちは・・・」 バートはいう。「みんな年上の人たちだったから、‘もう少しゆっくりそのヴァースを繰り返してくれませんか?’ってあまり聞けなかったんだ。でもアンはそういう歌を全て知っていたから、僕は喜んで彼女を座らせて‘Blackwaterside’みたいなやつをギターでうまく弾けるようになるまで練習することができたね。これは僕がウディ・ガスリー・タイプの歌以外で初めて実際に取り組んでモノにしたフォーク・ソングだった。ガスリー・タイプの歌は絶対的なメロディ・ラインがあって、自分で変えることができなかったんだ。だから意識的に成り行きに任せてバッキングを作っていた」

「彼はいつもトラディショナル・ミュージックに対して本物のフィーリングを持っていたわ」 アンはいう。「でも最初に彼を知った時、彼は自分がそういう声を持っているとは思っていなくて、自身のトラディショナル・ソングを歌うシンガーになるためのギター伴奏がうまくできなかったのよ。その時までに彼はとても洗練されたプレーヤーになっていて、私は彼が自信をつけていたと思う。あの頃までみんなはトラディショナル・ソングをまさにウディ・ガスリーのような3コードでプレイしていた。私はそれに不満を持っていた―学術的観点じゃなくて美的価値観からいってね。それがいつも私が無伴奏で歌っていた理由だった。私は14か15の時からギターを弾いていたけど、コードから自由になったバートのプレイを見て、すぐに自分には必要ないわって思った」

彼らはエキサイティングな人材だった。「私は当時妊娠していたんだけど、お店で忙しく働いていた」 専門レコード店コレッツでアシスタントとして働いていたジル・クックはいう。「彼らが電話をかけてきて、‘1曲歌を書いたよ!’っていったのを覚えているわ」 当時バートとアンは自分たちの新曲やトラディショナル・ソングをいっしょに人前でプレイすることは全くなかった。バートにとっては、自分たちがいっしょにやるのはあまりに突飛過ぎると考えていた。アンにとっては、オーディエンスが彼らを全く無関係な者同士としてとらえると考えていた。バートから教わったチューニング―‘Blackwaterside’で使うグレアムのDADGADとDADGBE―を使ったプレーヤーとしての新しい自由を発見したにもかかわらず、アンは数年間、ステージでギターを使う自信を持てなかった。バートがステージで草分け的な‘Blackwaterside’を初めて披露したのがいつなのかは知られていないが、レコード上に登場するまでに1年半を要することになった。

Jack Orionは本当に人々を混乱に落とし入れたんだ」 マーチン・カーシーはいう。「Bert And Johnはそうでもなかったんだけど、当時Jack Orionを聴いた人たちは、‘彼は何をしようとしているんだ?’って考え込んでしまったね。誰もプレイしたことがないような完全に常軌を逸したレコードだった。タイトル・トラックは9分もあったからね!20歳から25歳だった僕たちにとって、バラッドはなるべくヴァースを少なくしなきゃならないような退屈なものだった。僕たちはバラッドは長さが問題ではないっていう考えを理解していなかった。短い時間の中に多くの意味があるっていう考え方だった。それが30のヴァースに10分の長さだ。2時間半の映画みたいなものだ。もし映画に全集中できたらすごく興奮するだろう?」

収録曲の‘Jack Orion’自体には伝統的なメロディの名残りがあった。これは民俗学者のバート・L・ロイドによって復元された、魔力を持った肉欲に飢えたフィドラーの冒険に基づいた物語だ。バート・ヤンシュのヴァージョンは正確無比な演奏よりも、そのパフォーマンスの激しさにおいて、より成功していた。これは神聖な伝統に対して容赦なく暗く、果敢に挑戦したアプローチだった。他のトラックも‘Trad Arr.’のクレジットが載っていようが、バートのプレイの裏側には、散弾銃のごときイマジネーションが散りばめられていた。彼がエジンバラの友人、オーウェン・ハンドから教わった‘The Gardener’(時々‘The Gardener’s Child’と表記される)の解釈は、激しく印象主義的だ―風説部分に当たる歌のメロディを詞のないスキャットで循環させ、パチッと鳴る弦によるリフは、イワン・マッコールの‘The First Time Ever I Saw Your Face’と不朽の‘Blackwaterside’のアレンジメントにも再登場する(繊細にプレイされ、暗い音階の中に明るさがのぞく瞬間がある)。

少なくともレコード上で最も精巧に作られたその歌は、すでにクラブ中でプレイされていた。仲間のシンガーソングライターだったアル・スチュワートは、当時バートにつきまとい、この革命的な新しいプレイ・スタイルを観察し、身につけようと躍起になっていた。Jack Orionがリリースされる数週間前、アルは自身のレコード・デビューのために、セッション・プレーヤーたちとスタジオを予約していた。1人の名声あるセッション・マン、ジミー・ペイジはギターをプレイするために現れ、お茶の時間にアルは彼にバートのアレンジメントによる‘Blackwaterside’をプレイして聞かせた。あるいはそれがペイジのDADGADチューニングとの最初の出会いだったのかもしれない。その種(たね)は、のちにきわだってフォーキーで東洋の影響を受けてはいるが、70年代ロックのメインストリームでまさに英国的な要素となるべく、まかれたのかもしれない。そしてそれは広範囲にわたって世界中に反響することになった。

70年代最大のロック・グループ、レッド・ツェッペリンのメンバーとなったペイジは、その先何年もの間、ヤンシュの話題に熱中することになった。「“真の夢紡ぎ人”だ」 彼はいう。「一時期の僕は完全にバート・ヤンシュにとりつかれていた。かつてフォーク・クラブで彼のプレイを見た時は、まるで古典派クラシックのギタリストを見ているかのようだったね。彼がプレイしていた転回(inversion:音程などをオクターブ移行すること)はとても認識できないものだった。彼は当時の革新者だったんだ」

「ショックを受けた覚えはないね」 彼にとってのバートのニュー・サウンドを指摘する中で、トランスアトランティック・レーベルのボス、ナット・ジョゼフはいう。「私は本当にひどいもの以外なら、どんなものを聴いてもショックを受けたことはないよ。トラディショナル・マテリアルを取り入れるのは、私にとってずっと関心を持っていたことだったんだ。みんなディラン風なキャラクターとしてバートのことをとらえていただけだったから。彼はルーツに戻ろうとしていたんだ。もちろんのことだった」

「処理方法は伝統的なものではないかもしれないが、どれもがファンタスティックだ」 Sing誌でその評論家は認めた。「最初はぞっとするような考えに見えるが・・・」 メロディ・メーカーでカール・ダラスは指摘した。「1人のブルージーなギタリストは、今のところ、真のトラディショナリストたちの古いバラッドを歌いながら、現代的なテーマに取り組んでいる。しかし実際のところ、ヤンシュの解釈は全く新しいアングルから歌に光を当てている。彼が歌うように、古いバラッドを創り上げた残忍な世界は、彼の‘Needle Of Death’の世界からそれほど遠くないように思われるのだ」


コリン・ハーパー、2001年7月―Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British Folk and Blues Revival(2000年ブルームズベリー出版より)の著者


ホームへ