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Bert Jansch And John Renbourn/Bert And John/2001 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD203



1966年が明けるまでに、バート・ヤンシュは“フォーク”アンダーグラウンドの議論の余地のないスターとなっていた。彼はラジオでかかったこともなければ、テレビに出たこともなく、そしてその時までにたった1つのインタビューしか受けていなかったが、彼の名声はすでに広がっていた。その名だけで忘れられなかったし、地方内外の何1000という子供たちはインスパイアされ、興味をそそられていた。

「その名前が何かを呼び起こしたんだ」 まもなくブルースロック・トリオのテイストとして頭角を現わすことになるベルファスト出身の若きドラマー、ジョン・ウィルソンはそう回想する。

「僕たちは熱心にメロディ・メーカーを読んでいた―表紙の値段から最後に載っているインフォメーションまでね。メロディ・メーカーで彼の名を発見した時、彼はとてつもない人物に違いないと思った。彼をロンドンで見かけると誰もが会釈をして、“ワオ!グレイト・バート・ヤンシュがいる!”っていっているんだと思っていた。アレクシス・コーナーの場合も同じだった。ロンドンにいればそういう気持ちになるんだ。そういう人たちに会うっていうのは、幼い子供にとっちゃ、そこに座ってぼうっとそのことばかりを考えてしまうようなことだった。バートはベルファストの多くのミュージシャンたちにとってインスピレーションだった。なぜなら彼は一匹狼で無二の素晴らしいプレーヤーだったから。まあ、本当のことをいえば、当時あの男の音楽は現実の世界で縛られずにやっていくっていう僕の成長過程を完成させてくれたんだ。彼は僕みたいな人たち全員に、ミュージック・ビジネスのいい面を教えてくれた」

バートは1965年12月に、ほとんど1年間務めていたレ・カズンズとスコッツ・フーズでのレギュラー出演を降りていたが、1966年から67年までを通じて散発的に両会場でプレイすることはあった。今や名声を確立していたバートが、まる1ヶ月の間、カズンズ、スコッツ・フーズ、あるいはロンドン内で全くプレイする気にならなければ、あっさりとそうしただろう。新しい年はバートにとって重要な変化の訪れる時となった。彼はさらに2枚のアルバムをリリースし、うち1枚はジョン・レンボーンとの完全なコラボレーションだった。しかし2枚とも彼の前年の作品から大きく隔たっていた。彼はどの会場でもめったにオールナイトのブッキング契約を交わさないようになった。その年が進むにつれ、バートは次第にクラブとは反対の、コンサート・アーチストとしての現実味が帯びてきていた。春の間に、彼は場所としてのソマリ・ロードが限界にきていると判断した。ジョン・レンボーンとともに、バートはセント・ジョンズ・ウッドのセント・エドマンズ・テラス23番地のフラットへ移り住んだ。

バート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、そしてデイヴィ・グレアムの3人は、今やフォーク・リヴァイヴァルの突出した副産物として認知され、彼らの技術的達成は当然のものとみなされていた。“彼らは自分たちがフォークとジャズに影響を受けた独自のサード・ストリーム(third stream:クラシックとジャズの要素を融合させた音楽)として存在できることを証明した。” メロディ・メーカーの中でカール・ダラスはそう書いた。バートをとりまく期待の叫びは、初期のインタビューから明らかだ―「みんなは僕にメッセージは何だと尋ねる。答えは僕が特に何もしようとはしていないってことだ」 彼は1965年8月にメロディ・メーカー紙に語っていた。

1966年初頭、彼の見解は再びオックスフォード大学の雑誌、Isisの中で活字となった―「レコーディングする時の僕は誰のためでもなく、自分自身のためにやるんだ」 彼は質問者のロビン・デンスロウに語った。「僕はお金のためにレコード・ビジネスに身をおいてはいない」 さらに興味深いのが彼の新しい方向性だった―「僕は今、ジョンといっしょに大仕事にとりかかっていて、それを探求するところなんだ」 彼はそういった。「歌詞は大事だが、それを書く理由をもたなくちゃならない。でき上がった歌詞よりも音を聞く方が多くのものを得ることになるだろう。なぜかというと、今の僕は主にインストゥルメンタルに関心があるから。何かいいたいことがある時までは、歌詞のことは忘れるべきだ」

ドリス・ヘンダーソンとジョン・レンボーンの共同クレジットによるデビューLP『There You Go』は、1966年2月にコロンビアからリリースされた。ジョンのソロ・デビュー作『John Renbourn』は、翌月にトランスアトランティックからリリースされたが、比較すると大いに劣っていた。いくつかのマテリアルは類似点があったが、仕上げに甘さが見られたし(1年前のデモ・セッション・テープだった)、ヘンダーソンの資質であるヴォーカル・スタイリストとしてのキャラクターには遠く及ばなかった。バート・ヤンシュとの2つのインストゥルメンタルである“Noah And Rabbit”と“Blue Bones”は、ある人たちの理解を全く超えていた。“それらトラックは自らを吊るす帽子掛けをもっていないように思われる。” フォーク・シーン誌の評論家、デイヴ・モーランはそう断言した。

今やバートはジョンとともに散発的にステージに上がるようになり、その間には彼のソロ・ギグ、ドリス・ヘンダーソンとのデュオとしてのジョンのギグ、あるいはジョンのソロ・ギグがあった。彼らのロンドンの拠点は常にカズンズであったし、ジョンはバートが1965年の木曜のレギュラーを務めていた最後の3ヶ月間はほぼ毎週、いっしょにステージに上がっていた。そのコラボレーションは1966年のかなりの部分まで存続したが、徐々に機会は少なくなっていった。理由のひとつは、今やそれぞれのアーチストがクラブの払える最高のギャラを要求したためだった。デュオとしての彼らは理論上では高価すぎたが、実際にはそのパートナーシップは金の問題にするにはあまりに魅力的だった。

彼らの必然的なジョイント・レコーディングであり、そのルーツとスタイルの奇妙な融合であった『Bert And John』は、フル・バンドへの構想をさらにいっそう具現化させるための道を開いたが、当時そのレコードは、このコラボレーションが技術的な荘厳さによる高潔ぶった楽器遊びにすぎないと感じていた人々を、静める役割を果たしたとはいえなかった。「事実上、僕とジョンがある日の午後に作ったアルバムの1枚だね」 バートはいう。「僕たちはいくつかアイデアを注入したけど、多くはジャム・セッションだった。アルバム自体はたったの14分だ。片面7曲のね。でもたぶん24曲入っていたと思うよ!」―バートの記憶は事実を誇張しすぎだが、アルバムは12のトラックから成るたった26分の長さだ。マテリアルとアレンジメントのいくつかは、“Lucky Thirteen”(『It Don't Bother Me』で2人がはっきりと目的意識をもってプレイしたトラック)の約束を果たしていたが、一方でアルペジオを伴った他のトラックは無為にプレイされ、何の結果も生み出してはいない。

2つのヴォーカル・トラック―アン・ブリッグスの“The Time Has Come”のぞんざいな試みと、サンディ・デニー及びニック・ドレイクがデモとしてカヴァーすることになる憂うつなヤンシュ・オリジナルである“Soho”―がなければ、アルバムはほぼ1つのスタイルで占められたインストゥルメンタル・コレクションだった。

モダン・ジャズの影響が前面に現われ、カヴァーには暗い部屋で細い煙草を吸いながら、何か不可思議な、そしておそらくきわだってファッショナブルなボード・ゲーム(“Go”((囲碁))という)をプレイする、2人のクールで若いヒップスターがフィーチャーされていた。スリーヴ・デザインが象徴するものは、当時においてとてつもなく重要だったし、全文明は、壊れた花瓶からこういったカルト名士たちの支持者の心に打ち立てられるのかもしれない。

『It Don't Bother Me』のために行なわれた“本物のスタジオ”でのセッションが、プレッシャーの多い経験となったことで、『Bert And John』はセント・エドマンズ・テラスの居間で、ビル・リーダーによって録音されていた。それは1966年夏にリーダーが録音した2人のギタリストによる3枚のアルバムの1枚だった―それらアルバムは見事な瞬間が見られるものの、単につぎはぎな印象を与えるものかもしれないが、全体として考えれば、並はずれた発明の才とイマジネーションを伴った複雑な音楽があらわとなっている。

他の2枚のうちの1枚が、リーダーのカムデンのフラットでレコーディングされたレンボーンのセカンド・アルバム、『Another Monday』だった―これは彼のデビュー作よりもずっとよかったし、『Bert And John』の場合と同様、新しいアイデアによって試験的に取り組まれた作品だった。基本的なブルースのカヴァーは依然目についたし、未来のペンタングルのヴォーカリストであるジャッキー・マクシーによる色づけはあったが、古楽へのレンボーンの興味は、美しく仕上げられたエリザベス調の模倣作、“Ladye Nothing's Toye Puff”と“One For William”におけるギターとオーボエの見事なコンビネーション、そしてとりわけジャズとバロック音楽に沿ったオリジナルな行程によって、今や前面に姿を現わしていた。

この休みのない創意に富んだ三部作の3番目に位置するアルバムが、1966年のバート作品であり、もっとも驚くべきものだった。8曲のうち、4つのトラックでレンボーンが顕著にフィーチャーされているものの、バート・ヤンシュの名がクレジットされたそれもまた、セント・エドマンズ・テラスで録音されたアルバム、『Jack Orion』だった。そのアイデアはバートの心の中で醸造され、前年あるいはそれ以前から続く彼のプレイ・スタイルが発酵したものだった。その結果、これは3枚のうちでもっとも焦点の定まった緊張感張りつめる活気に満ちた作品となった。そのインパクトは絶大だった。バートはついに全面的にDADGAD、あるいは“ドロップD”チューニングを採用したトラディショナル・ミュージックの探求の成果を、初めてレコード上に刻んだ。このプレイは、ファースト・アルバムがリリースされる前から、彼が友人のアン・ブリッグスとともに始めていたものだった。

ある意味、1966年の終わりにバートとジョンが結成した5人編成のザ・ペンタングルは、『Bert And John』と『Jack Orion』を結合させ、それにあらゆる他の典拠からしみ出てくるアイデアを加えた自然な所産だった。『Bert And John』で最初に聞かれることになったいくつかのトラックは、グループの中でさらに発展していくことになった。魅惑的な“Orlando”は、1967年のデンマークでのグループ初のTVコンサートで披露され、翌年にはグループ最初期のBBCラジオ・セッションで“Soho”が加わった。グループのセカンド作で決定的なアルバムとなった1968年の『Sweet Child』には、より明るい装いで3曲ものトラックが再登場した―“Goodbye Pork Pie Hat”、“No Exit”、そして“The Time Has Come”だ。

現在のレンボーンは、自分のライヴ・ショーの中でいかにも楽しそうに、チャールズ・ミンガスへの威厳ある音楽学に対して自分が及ぼした影響力を説明する。“Goodbye Port Pie Hat”の天才的な真髄を探求することにひたむきになっていた話の中で、彼は「イングランドの全く無名の2人のフォーク・ミュージシャン(ジョンとバートのこと)を除いて」60年代の著名人の誰一人として、カヴァーを企てようとした者はいなかったと結論づけている。いうまでもなく、レンボーンの現在のヴァージョンは、35年前にテープに収められたヴァージョンよりも1000倍洗練され、複雑になっている―それはビル・リーダーがテープ・マシンのボタンを押す数分前に、バートが彼にまず口笛で奏でた曲だった。

世の中とはそんなものであるし、これはその時、つまり66年夏のある午後に、セント・ジョンズ・ウッドで録音された永遠のサウンドなのである。


コリン・ハーパー、2001年4月―Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British Folk and Blues Revival(2000年ブルームズベリー出版より)の著者


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