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Bert Jansch/L.A. Turnaround/2009 Virgin Records Ltd. CASCDX 1090



L.A. Turnaround by ミック・ホートン

バート・ヤンシュは1970年代にザ・フェイマス・カリズマ・レーベル(The Famous Charisma Label)に3枚のアルバム―L.A. Turnaround、Santa Barbara Honeymoon、A Rare Conundrum―を残した。これらのアルバムは25年以上にわたって入手困難な状態が続き、バート・ヤンシュの作品中、最も需要の高い3枚として知られてきた。今回全てのタイトルがバートの監督のもとリマスターされ、新たに発見された未発表ボーナス・トラックが加えられ、CDとして歓迎すべき3枚同時リリースとなった。


1973年が明けた時は、どの点から見てもバート・ヤンシュはまだペンタングルのメンバーだった―その年最初に発行されたメロディ・メーカー紙が彼らの解散を伝えるまでは。「あれは有名な見出しだったね」 今日バートは回想する。「‘ペンタングルはすすり泣きながら去って行く’ってやつだ。僕たちは誰もメディアのことを気にかけていなかったから、わざわざ認めたり、疑いを晴らしたりはしなかった。僕たちは単にばらばらになっただけだった」 2月になると、ヤンシュの新しいソロ・アルバム、Moonshineがほとんど、あるいは全く宣伝もされずにリリースされた。それは約1年前にダニー・トンプソンによってプロデュースされた、まさにイングリッシュ・フォークの響きのあるレコードだった。当時バート(とペンタングル)のレーベルだったリプリーズは再建中(リストラ中)だったが、バートは次のようにいう―「フランク・シナトラより下にいる連中はみな解雇寸前だったんだ」 素晴らしい出来だったMoonshineは不意に跡形もなく消え去ってしまった。しかし数ヶ月内に、バートはトニー・ストラットン・スミスの“フェイマス・カリズマ・レーベル”と新たに契約を結んでいた。

知られるように、ストラットは元スポーツ・ジャーナリスト、ライターとして華々しい人生を送り、ブライアン・エプスタインからポップの世界でマネジメントを学んでいた。彼は1968年にカリズマを興すまでに、ザ・クリエイション、ザ・ナイス、そしてザ・ボンゾズの面倒を見ていた。1973年にバートが契約を交わした当時のカリズマは、ジェネシス、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイター、モンティ・パイソン、そしてリンディスファーンによってその名声を築きつつあった。バートをレーベルに連れてきたのはトニー・ストラットン・スミス本人だった。彼は堂々と主張していた―「もし‘スーパースター’たちの中に入るべき男がいるとすれば、それはバート・ヤンシュだ」

「他のレーベルは僕を理解していなかったと思う。彼らにとって僕は完全に謎の人物だったから。でもトニーは本当に僕を援護してくれた。彼はたしかにキャラクターの立った男だったね。もしトニーといっしょにランチをとるとすると、君はたしかにランチ・タイムのはずだったと思うことだろう―それは午後遅くまで続くんだ」 ストラットンによるバートのヴィジョンは、イングリッシュ・フォーク・ギター・ヒーローとしての彼ではなく、もっと大きな成功を収めていた当時のアメリカン・シンガーソングライターの世界へ彼を近づけることにあった。それを念頭において、彼はレーベルからのバートのデビュー・アルバムをプロデュースしてもらうため、元モンキーズのメンバー、マイク・ネスミスをイングランドに招いた。ネスミスを通じて、ペダル・スチール・ギタリストのO.J.‘レッド’ローズも参加することになった。彼はカントリー・ロック界最高のミュージシャンの1人であり、全てのネスミスのソロ・アルバムとザ・バーズ、ジェイムズ・テイラー、キャロル・キングからザ・カーペンターズ、そしてなるほどザ・モンキーズに至るまで全てのレコードでプレイしていた。L.A. Turnaroundとなるレコーディングを始めるためにバートがネスミスと出会ったいきさつは有名になっていた。

高く評価されていたジグザグ誌のピート・フレイムは、時折カリズマのA&Rマンとして働いていた(ストラットン・スミスはジグザグ誌を買収し、カリズマのオールド・コンプトン・ストリートのオフィスに拠点を置いていた)。フレイムはのちにペンタングルの‘ファンジン’ローズマリー・レーンの中でその話を明かしている。バートはその夏のある日、ストラットン・スミスの田舎の別荘に招待されていたが、途中でジョン・マーチンに酒を飲まないかと呼び止められてしまった。もっともなことだが、酒に酔ったバートはパブからトニー・ストラットン・スミスの別荘(サセックス州クロウブリッジのラクスフォード・ハウス)までの35マイルを、タクシーに乗ってたどり着いた。文無しの状態で現地に着いたバートは、ドアに書かれたメッセージ―“パブへ行った。中に入って好きな物をつまんでくれ”―を見つけた。タクシー代を持っていなかったバートは、運転手を招きいれ、ストラットがマイク・ネスミスとレッド・ローズを引き連れて戻ってくるまで、2人でブランデーをたらふく飲んだ(タクシー運転手はバートのローディーだと思われていた)。

バートはネスミスを紹介されたが、彼が誰なのかを知らず、その逆も同じだった。さらなる酒盛りののち、全員はベッドへよろよろと向かっていった。フレイムはこの時のことを話している―「翌朝バートはストラットがいつも食べていた6つのコースの朝食に参加するために、よろけながら歩いていったんだ。するとその時、窓の外に突然レコーディング移動車が現れた。彼がそこいら中にマイクロフォンとケーブルが転がっているのを知る前にね。でもそれだけでなく、フィルム撮影隊まで到着してセッティングを始めた。バートはコーヒーを手に持ってトーストをもぐもぐ食べながら、何が始まるんだろうと不思議に思っていた。そして突然、何もかもが彼のために用意されたことに気づいたんだ!」

そのずいぶんなやり方が出し抜けにバートに起こったことだったかどうかはともかく、ピート・フレイムは(出来事の成り行きは)推測の域を出ないという。しかしすぐにアルバムの最初の数曲を録音するために、バート、ネスミス、そしてレッド・ローズは庭へ出て座った。2009年にバートにこのことを詳しく話すと、彼は愛想よく困惑した表情を浮かべながら、皮肉っぽくコメントした―「ちょっと極端な話だね」 そして控えめに付け足した―「話の一部は真実かもしれないけれど、ある程度誇張がある。僕は自分の記憶がはっきりしているとはいわないけれど、真実を見つけるのはそう難しいことじゃないように思う。僕はマイク・ネスミスが誰だか知っていた。彼がモンキーズにいたからってことじゃなくてね。でも彼が僕のことを聞いていたかは分からないけど」

記憶の断片がいかにぼやけていようと、30年間目に触れたことのなかった13分のドキュメンタリー・フィルムがエンハンストCDとして今回ここに収められた。そこではバートがネスミス、レッド・ローズとともに楽しげに‘Fresh As A Sweet Sunday Morning’とその他3曲をプレイし、レコーディングする姿がとらえられている。それはラクスフォード・ハウス(のちにA Fish Called Wandaでジョン・クリーズ((モンティ・パイソンの一員))の家としてフィーチャーされた)での素晴らしくくだけた牧歌的な雰囲気を証明している。

とんでもない1枚のアルバムをレコーディングしたミュージシャンたちに疑わしいところは全くない。半ダースのトラックはイングランドの田舎に根を下ろし、バートによるアコースティック・フォーク・スタイルは、レッド・ローズの忘れられないペダル・スチールに不思議なほど混ざり合っている。「レッド・ローズはとても愉快だった。彼と、リズム・ギターを弾いたマイクは2人とも並はずれたミュージシャンだった。マイクとレッドはレコーディングする時まで僕の曲を知らなかったし、デモ・テープも何もなかったんだ。僕たちはリハーサルして、僕は彼らに歌を教えたんだけど、特にレッドは歌に合わせてジャムをしながら覚えていたね」 バートはデビュー作から名作‘Needle Of Death’さえ再度取り上げた。「トニーのリクエストでやったんだ。オリジナルどおりにはしなかったけど。僕はあの曲をちょっと感傷的過ぎると思ってたんだけど、トニーが僕に頼んだ時、僕はそれに応えた方がいいと考えた。彼は社長だからね。その歌は僕の中で何年も支持されているけれど、レッドとのこのヴァージョンはもうちょっとアーシーだ」

必然的にアルバムの多くのトラックはアメリカン・フィールを保持することになった。例えば‘Travelling Man’はバートによって巧妙に作り上げられた旅行談で、サセックスでレコーディングされた。「それぞれのラインは他のフォーク・ソングのタイトルとか、32ものイングリッシュとアメリカン・フォーク・ソングのよく知られたラインから成り立っているんだ」 もう1つのハイライトが‘Open up the Watergate’で、これはのちにネスミスの故郷であるセパルヴェダ(ロサンゼルス)の牧場スタジオでレコーディングされた5〜6曲のうちの1つだった。スライド・ギターにはジェシ・エド・デイヴィスがフィーチャーされている。「彼は突然セッションに現れた。彼はそこにいたんだ。誰がアルバムでプレイするのかっていう情報が全くなくなって、長い間活動していなかった。みんながスライド・ギターを僕だと思ってくれるのは光栄だけど、僕はスライドが弾けないんだ」 アメリカに渡ってレコーディングされたもう1つの傑作が、‘The Blacksmith’だ(このCDのボーナス・トラックに収録の別ヴァージョンはひょっとするとさらにエッジが効いているかもしれない)。これはバートが古いドク・ワトソンの‘St James’ Infirmary’の曲から当てはめたことによって、伝統的なイングリッシュのヴァースが新しい音楽へと昇華している。‘Stone Monkey’もLAセッションからだ―“Monkey”は古代中国の文献(のちに子供向けテレビ・シリーズのカルト的人気番組となった西遊記)からのキャラクターだった。

1974年9月にリリースされたL.A. Turnaroundは2つの見事なインストゥルメンタルを含んでいた。それは1972年にバートがダニー・トンプソンとともにパリで録音していた。1つがジョン・レンボーンの‘Lady Nothing’、もう1つが全く申し分のない‘Chambertin’だった。このセッションはバートがカリズマと契約する前に行なわれた。「パリにCBEっていう会社があって、その社長のジョージ・シャトレインがギターを習いたがっていた。彼は僕とダニーとラルフ(・マクテル)をつかまえた。それで彼は僕を撮影してフィルムを見ながら身につけようとした。ダニーがけしかけて、彼が非公式のセッションをプロデュースした。僕はそこで‘Fresh As A Sweet Sunday Morning’を書いたんだけど、残りのテープは紛失してしまった」

今回の新装L.A. Turnaroundには、‘The Blacksmith’の別ヴァージョンとジェシ・エド・デイヴィスのスライド・ギターの代わりにレッド・ローズのペダル・スチールの入った‘Open up the Watergate’の別ヴァージョン(‘One for Jo’も同様の別ヴァージョン)が入っているだけでなく、1974年の終わりにレコーディングされたありそうもないクリスマス・シングルが追加された。ラルフ・マクテルによってプロデュースされたバートのアレンジメントによる‘In The Bleak Midwinter’がそれで、ベースはリンディスファーンのロッド・クレメンツが担当している(彼はバートのカリズマからの3枚目のアルバム、A Rare Conundrumで全面的に参加する)。またハーモニー・グループのプレリュードも参加している。皮肉なことに、セッションの残り時間に同じメンツでマクテルが再録したのが、自身の‘Streets Of London’だった。‘In The Bleak Midwinter’はクリスマス・マーケットでチャート入りに失敗したが、ラルフ・マクテルの方は12月のUKシングル・チャートで2位にまで達した。

L.A. Turnaroundはバート・ヤンシュのカリズマ作品の中で最も需要の高いレコードとなり、バート本人が最近eBayを通じてオリジナル盤を買わねばならないほどのレア盤となった。当時、このレコードは彼のカムバックとして歓迎された。それはデビューから約10年で、事実上バートをペンタングルから引き離す役割を果たした。メロディ・メーカーは‘完璧なアルバムといってほぼ間違いないだろう’と評した。半年後、バートはLAへ戻り、全く違ったサウンドのSanta Barbara Honeymoonを制作したが、残念ながらマイク・ネスミスとレッド・ローズはいなかった。彼らのサウンド、スタイルとバートのリラックス、レイドバックしたアプローチが結合したことが、バートの最も豊穣で価値あるアルバムの1枚を生み出していた。なぜなら故トニー・ストラットン・スミスはシンプルにこういっている―「レーベルがリリースしたアルバムのベスト5に入る1枚だ」


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