Welcome to my homepage


Bert Jansch/Bert Jansch/2001 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD204



もし1960年代において、ブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルの父、イワン・マッコールとその左翼思想に代表される‘フォーク・ソング’の古い秩序と、多くは個人的な政治学を展開するシンガーたちの新しい無秩序の間に境界線があるとすれば、後者の先頭に立つのはバート・ヤンシュ以外にいないだろう。そしてその線は1965年4月16日の金曜日に引かれたということだ。その日付は2つのできごとを意味していた―バートのデビュー・アルバム、Bert Janschのリリースと、ソーホー、グリーク・ストリート49番地に新しくオープンしたクラブ、Les Cousinsだ。

このアルバムのリリースに先立つおよそ半年の間に、バートはロンドンに腰を落ち着けることになった。以前にエジンバラ、ロンドンとヨーロッパ大陸の間に引きつけられていた彼は、仲間の間で口コミによって誰にも劣らない支持と、デイヴィ・グレアムのライヴァルとしての名声を打ち立てることになった。‘スウィンギン・ロンドン’がちょうど間近に迫っていた。1965年の夏が過ぎた時に‘60年代’が到来し、ブリテンの新しいアコースティック・ムーヴメントにおいて、なぞめいてはいるが最もエキサイティングなパフォーマーとしてのバートの名声は、ソーホーの地下から世界へと広がることになった。

「あれほど特徴のない奴はいないね」 すでにその時までにフォークのギターを中心とするアヴァンギャルドのパイオニアの1人だったウィズ・ジョーンズはいう。「でもステージで彼を見れば、彼が全てを備えていて驚くべきカリスマ性を持っていることが分かるんだ―全くオリジナルのね。僕が演奏を始めた頃、よく僕はロング・ジョン・ボルドリー、デイヴィ・グレアムといっしょに路上演奏(バスキング)をしたものだった。僕はデイヴィの歌を身につけようとしていた。それと同時にバートがエジンバラから現れて、同じことをし始めたんだ。バートは理解を深めていってスタイルを確立して、完全にオリジナルなプレーヤーとして前進していった。彼がロンドンにやって来た時の衝撃は信じられないほどだった。彼はダイナマイトだった。誰もあんなの聞いたことがなかったんだ。若くてハンサムで、ギターが本当にうまくて、人と違ったエキサイティングなプレイができるなら、ステージ上で別に個性を出す必要なんかなくてクールにしていればいいんだ。実際あんまりしゃべらなくてもいいし、思い切りくつろいでいられる―そういう風にできるんだ。年をとっていると間抜けだし、そういうことはできない。でもバートは若くてクールだったから、プレイするだけでステージで本物に見えたね」

若きトラディショナル・シンガーのアン・ブリッグスにうながされていたレコーディング・エンジニアのビル・リーダーは、1964年8月頃からバート・ヤンシュの奇妙で定義できない音楽を定期的に録音し始めていた。たしかに、少なくともこの時期のバートは他に行くところもなく、カムデン・タウンのノース・ヴィラス5番地にあるリーダーのフラットに入り浸っていた。そのフラットでポータブルの機材と借り物のギターを使ってセッションは録音されることになった。数年後、バートはその時録音したマテリアルについて言及した。「アルバムの半分はすでに書き上げていたんだけど、残りはセッションと同時進行で書かなきゃならなかった」 リーダーが力説するところによれば、バートの真髄は自身のマテリアルであり、その頃に彼の創造性が開花したということだ。その時期のバートのステージ・レパートリーは、次第にブルースの形態からオリジナルな作曲法へと移行していた。

ビルがバートのレコーディングを終え、満足感に浸るや否や、そのテープをどこへ持っていけばいいかという問題が浮上した。「私たちはこのテープとともに立ちすくんでしまったよ」 ビルはいう。「誰も興味を示さなかった。トピック(フォーク・レーベル)はこういう‘ドラッグまがい’のフォークには関心がなかったし、トランスアトランティックのナット・ジョゼフもマーケットが見出せないっていう理由で興味を示さなかった。バートに敏感に反応した人々は、その出典と音楽とパフォーマンス3つのトータルで結論を下していたんだ。ナットは歌詞を重要視していた。私は自分の考えを売り込もうと何度か彼にアプローチした。私がいったことばをタイプに起こせば、実際に彼にテープを聞かせるより契約を勝ち取れそうなほどだったね。彼はおそらくバートのソングライティングの才能を認めていたんだけど思うけど、行動が素早くなかったんだ」

「ある日ビルが店に入ってきたんだ」 トランスアトランティック・レコーズの店とレーベルの創設者だったナットはいう。「そして彼はこういった。‘テープを持ってきたんだ。それをあなたに聞いてもらってレコードにしてほしいんだ。’とね。私はそれを聴いていくつかの歌を本当に素晴らしいと思ったことを覚えている。最初に私が聴いたのは‘Running From Home’だった。正直他のギタリストほど感銘は受けなかった。私にとって(音楽でも)コミュニケーションの手段はいつもことばだった。私はディランがグレイトな存在になったのは、彼がグレイトなハーモニカをプレイしたからじゃないと思う。ディランは自分の世代に向けて自身のことばを発したからグレイトになったんだ。同じことがバート・ヤンシュについてもいえるのかもしれない」

時間の経過とともにビルはいらいらし始めていた。しかしナットが恐れ知らずのアン・ブリッグスに圧力をかけられ、それが町のうわさになっていることが流布されていた。彼はイチかバチか賭けてみる準備を始めた。印税は全くなしで、マスター・テープ買い取りに即金100ポンドで交わされた契約は、あるいは振り返ってみれば大いに疑問の余地があるかもしれない。最後に報告された数字でさえ、1975年までに15万枚を超える売り上げを記録していた。そして何度か買収されるレーベルの最初の1978年においても、全く値段は据え置きのままだった。

「ひょっとすると私があと半年座り込みを続ける賢明な人間だったら・・・」 ビルはいう。「私たちはもっといい契約を手に入れていたかもしれない。でも1人のアーチストにとってリリースされるべきタイミングだったんだ。もしそれを逃していたら、彼のキャリアはだめになっていただろう。そんなわけで私たちの契約はとんでもない安売りになってしまった。私が死ぬまで恨みを持ち続けるだろうとナットは考えているだろうと思うが、それはとんでもない話だ。契約は契約だからね」

「そのころレコーディングできたアーチストはとても珍しかったんだ」 バートはいう。「ビルはこれがおそらく僕にとってベストなオファーだろうといった。僕は当時、印税やなんかについては全く無知だったからイエスといったんだ」

契約締結後、ナットはレコードが少し短いと感じ、彼の依頼によってさらに3曲が追加された。レコードがリリースされた時、バートはその3曲のみに対するアーチスト印税を受け取った。ナットはパブでバートと会う手配をし、彼のトランスアトランティック出版部門であるヒースサイド・ミュージックと長期間契約が結ばれた。しかし数年後、契約内容が調査された時、そこにはバートのサインしかされていないことが判明した。今もロンドンのどこかに、バート・ヤンシュのごくわずかな出版印税に関する筋の通った主張が行なわれたバーのテーブルがある。「私が当時、レコーディング・アーチストとしての彼と契約しなかった理由は・・」 ナットはいう。「彼はビルのところのアーチストだと見なされていたのに、ビルは彼と取り決めを交わしていなかったからだ」 それで彼も交わさなかったというわけだ。

Bert Janschに収録の15曲の中に、デイヴィ・グレアムの‘Angie’があるが、これはミドルエイトとしてナット・アダリーの‘Worksong’が加えられている。他の14曲は作者としてバートの名を伝えていた。いくつかのトラックはスリーヴにその影響元が言及されていた。‘Smokey River’はジミー・ジュフリーの‘Train And The River’からヒントをもらい、‘Veronica’(これは‘Casbah’とミスクレジットされ、‘Casbah’は‘Veronica’とミスクレジットされていた)は、チャールズ・ミンガスの‘Better Get It In Your Soul’にインスパイアされていた。またミンガスは新しく書かれた美しいインストゥルメンタルの‘Alice’s Wonderland’にも影響を与えたが、もしこれがミンガスの曲名からきたのであれば、その影響はずっと前から発展してきたことになる。

しかしほとんどこれはライフスタイルと作者の世界観を反映したとても個人的な歌の数々によるレコードだった。それは最初期のオリジナルである‘Courting Blues’に始まり、闊歩するイメージを喚起させる‘Strolling Down The Highway’、最近になって書かれた痛切な思い出である‘Needle Of Death’(その頃ヘロインのオーヴァードースで死んだ友人への返答だ)、そして‘Running From Home’までに至っている。キース・デ・グルートによるスリーヴノート(このCD裏側に再掲された)と、簡素なフラットでギターを抱え、背を丸めてブライアン・シュエルのレンズを直視するムーディーで濃密なバートのカヴァー写真は、音楽だけでなく、獲得すべき生き方を伝えるメッセージをそなえていた。

「あのカヴァー写真はとても雰囲気があって、彼のキャラクターをよく表していたね」 続いて自身もトランスアトランティックからデビューすることになったラルフ・マクテルはいう。「見せかけじゃなかったんだ。彼は本当に学生みたいなむさ苦しい生活をしていて、ギターも持っていなかったし、時々酔っ払っていた。女の子たちは先を争っていたよ。彼はすごく神秘的だったから、みんなああいう風になりたいと思っていたんじゃないかな」

「彼のイメージはノー・イメージ、あるいはアンチ・イメージだった」 ナット・ジョゼフはいう。「それは多くの者にとってはうまくいかないことなんだが、彼は違ったんだ。オーディエンスは偽者を見抜くことができるからね。バートの人生には全くインチキがなかった。彼のギグは異常だった。ギグの半分はチューニングしたり、ぶつぶつもぐもぐしゃべったり、ビールをちびちび飲んだり、たばこを吸ったり、2、3のコードをプレイしたりだった。よく私は気が狂いそうになったね。彼は私が見てきた中で最もいかれたうちの1人だった。私たちはそのことについて議論したことがあった。‘いいか?君はグレイトなアーチストだが、グレイトなアーチストってのはパフォーマーにならなきゃいけない。向こうには君のオーディエンスがいるんだから!’ってね。しかし私は最初に戸惑いはしたが、こう思った―いかに多くの者がひどいライヴ・パフォーマンスでオーディエンスがどう考えているかを気にかけずに、その素晴らしいマテリアルを浪費してしまっていることか―それで私はこう悟った―‘そうだ、彼は無類の人間なんだ。彼は誰もできないようなやり方をできる人間なんだ’とね」

メロディ・メーカーは大部分満足げなレビューを伝え、バートの影響力を認め、慎重ながらさらに多くのオーディエンスを予測した。他の出版物―English Dance & Song、Folk Music、Sing、そしてFolk Sceneらは明らかに仰天していた。Sing誌はリスナーのクオリティ含む歌と演奏に驚き、こう結論づけた―‘バート・ヤンシュは新しいライターの中でとりわけ大物となるだろう’。Folk Scene誌はさらにこう続けた―‘彼の作品は現在の若きブリティッシュ・アーチストへ、その知られざる力によって影響を与えることになるだろう’。

この時点までは、デイヴィ・グレアムがブリティッシュ・フォークブルースにおける革新、巧妙性、イマジネーションの誰もが認めるキングだった。彼は実際にフォームを発明していた。しかしBert Janschのリリースは、商業的にグレアムに影を投げかけることになり、グレアムがバート・ヤンシュ世代にインスピレーションを与えたのと同じように、未来の世代をインスパイアし続けることになった。このデビュー・アルバムは、ソングライターとして、ギター・スタイリストとして何年にもわたってバートの進化と洗練が推し進められる中で、たしかにのちの作品に凌駕されることになったが、その影響力においてはこれに匹敵するものはない。

数曲はリリース1年以内に他のアーチストにレコードでカヴァーされた―ジュリー・フェリックス、マリアンヌ・フェイスフル、ドノヴァンだ。ほぼ間違いなく、これはモダンなセンスによる英国初のシンガーソングライター・アルバムだろう。今日でさえ、ここから多くがバートのコンサート・レパートリーに残っているように、それら歌の永遠のパワーがここに表明されている。また6つを下らない歌が、2000年のトリビュート・アルバム、People On The Highway:A Bert Jansch Encomium(マーケット・スクエア・レコーズ)で、仲間や支持者たちから選ばれ、カヴァーされた。

数曲は英国でのリリース1年後に、セカンド・アルバムのIt Don’t Bother Me収録曲とともに、ヴァンガードからの独自のUSデビュー・アルバム、Lucky Thirteenで再び現れることになった。そのアルバムのために使われたヴァンガードのオルタナット・マスターが最近になって復活したことで、このバートのUKデビュー作が、サウンド・クオリティの面でうまくいけば以前のCDよりもすぐれた音質で聞けるだろう。

ボーナス・トラックについて

使用されなかったバート・ヤンシュのレコーディング・トラックは存在しない―たしかに今日まで生き残った音源はないのだが、64年末にバートの友人で、その頃のフラットメイトだったピアニストでアート学生のジョン・チャリスによって、非公式に録音された一握りのトラックがある―曲作りの断片的な抜粋ではあるが。長時間にわたる演奏は最初から最後まで、バートの(全くのソロの)アルバムのレコーディング作品であり、少々アルバムから逸脱してはいるものの、バートはジョン・チャリスとキース・デ・グルートと組んだ初期のトリオの一員でもあった。グルートは以前ロックンロール・レコーディング芸人の別名ジェリー・テンプルだった。彼はボンゴ、ハーモニカ、ベースを巧みにプレイしている。またBert Janschのスリーヴノーツを書いたのも彼だ。

一握りのギグは、ピアノ付の会場が必要となり、その制約から結局プロジェクトが終わりになる前に行なわれた。これはペンタングル結成前のバート唯一のバンドだった。ここに収録されたのは、ジョンがピアノ、キースがパーカッションをプレイした‘Angie’のライヴ・ヴァージョンと、ソロ・インストゥルメンタルのメドレーだ―それらはこのアルバムに収められることになる曲の様々な断片が含まれている。ギターを持った若きバート・ヤンシュのユニークなスナップショットだ。

コリン・ハーパー、2001年6月―Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British Folk and Blues Revival(2000年ブルームズベリー出版より)の著者


ホームへ