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The Jam/Gold/2005 Polydor Ltd. UICY-1331/2



ザ・ジャムほど愛と献身に希望を与えたグループはほとんどいない。とりわけ英国でのサクセス・ストーリーにおいて、このグループの才能と誠実さを否定する者はほとんどいないだろう。ザ・ジャムは歯切れよく、こぎれいに全てをやってのけた。彼らは5年間UKポップ・チャートに攻め込み、そして駆け抜けていった。ウォーキング出身の3人組によるその作品群は一つの世代を定義づけ、無数の者たちに影響を与え続けた。

もちろんリーダーで筆頭格のポール・ウェラーは、彼の筋金入りの支持者が信じるような天才ではなかった。しかしその傷つきやすい青年期における彼の洞察力は、全く信じられないものだった。English RoseやDown In The Tube Station At Midnightのような歌を、21歳で書く度量は注目に値するものだった。

ザ・ジャムのストーリーは1972年ウォーキングで始まる。ポール・ウェラー(ジョン・ウィリアム・ウェラー、58年5月25日生、サリー州ウォーキング)とギタリストのスティーヴ・ブルックスはシアウォーター州立中等学校で知り合った。彼らはお互いがビートルズのファンであったことから、共に曲を書き始め演奏するようになった。いくつか地元のギグをこなしたのち、ウェラーの幼なじみであったメンバー、ニール・ハリス、デイヴ・ウォーラーの代わりに、ドラマーのリック・バックラー(ポール・リチャード・バックラー、55年12月6日生、サリー州ウォーキング)とベース・プレイヤーのブルース・フォクストン(ブルース・ダグラス・フォクストン、55年9月1日生、サリー州ウォーキング)が加入した(すでにザ・ジャムあるいはポール・ウェラー・アンド・ザ・ジャムとして知られていた)。ウェラーの父親であるジョンがマネージャーを引き受け、グループは絶え間ないギグに明け暮れ、何曲かのデモ・テープを制作した。

ウェラーのプレイ・スタイルは、ザ・フー、ノーザン・ソウル、スタックス、アトランティック、そして当時一世を風靡していたドクター・フィールグッドのギタリスト、ウィルコ・ジョンソンのガリガリとしたリズム・ギターの影響を受け発展していった。1975年7月にスティーヴ・ブルックスが脱退し、グループはトリオ編成となった。“僕らはすごく孤立していたね。5年間クラブで毎晩3時間か4時間プレイしていたのを覚えてるよ。” ウェラーは2004年に回想している。“最初にギグをしたのは14の時だった。水曜の晩にウォーキング・ワーキング・メンズ・クラブで10人ほどの人たちと、黒ビールと、手巻きタバコ、ウナギのゼリー寄せと貝を相手にね。‘うるさい!音を下げろ!’これが僕の教育現場で、Michael’sっていうウォーキングのナイト・クラブの金曜の光景だった。ストリッパーたちのバック・バンド、マイク・スタンドを失敬する酔っ払い、僕らのハンブルグ時代みたいなものだったね。” この限りない繰り返しがバンドの腕を磨いていった。

セックス・ピストルズの出現はウェラーを勇気づけることになった。ピストルズの生のエネルギーとウェラーの嗜好を合体させることによって、ザ・ジャムの方向性が定まった。グループはA&Rマンのクリス・パリーの手によって、ポリドールと契約した。パリーはザ・セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュとの契約を逃したばかりだった。6,000ポンドの契約金で、グループはファースト・シングル、In The Cityをリリースした。In The City―短くシャープで、アドレナリンの固まりだった。同名の彼らのデビュー・アルバムは60sミュージックの影響を大きく反映し、そのことが他のパンク・グループと一線を画すことになった。

迷いの見えるセカンド・アルバム、This Is The Modern Worldは1977年11月にリリースされたが、評判は芳しくなかった。その評価は現在みなが考えるほどひどいものではなかったが、アルバムはUKチャートから早々と消えて行った。ザ・ジャムはすでに創造的才能に行き詰ったかのように見えた。彼らは6つを超えるツアーでカルト的なファンをつかんだが、アメリカでブレイクすることは全くなかった。しかしながら、“この3人の英国人はピーター・タウンゼンド、レイ・デイヴィス、キース・リチャード、ジョン・レノンそしてジミー・ペイジのある意味子孫である”といった好意的なレヴューも、彼らがアメリカに上陸した時には存在したのである。

1978年暮れのAll Mod Consは今でもザ・ジャムの傑作として見なされている。しかしアルバムはかなりの難産だった。ポリドールのA&Rマン、パリーはデモ・テープを聞き、それを全て却下した。“僕らは8曲ほど書いた。ブルースのと、僕が3曲か4曲だった。でも全てがゴミくずだった。” ウェラーは2004年にモジョ・マガジンに語っている。“誰かがいう必要があったんだ。‘これはひどい!やり直せ!’ってね。僕らはみんな愚痴をいった。‘彼に何が分かる!’ でも彼は正しかったんだ。”

プロデューサーのヴィック・コパースミス-ヘヴンと共に働いていたバンドは壁にぶち当たり、未だ傑作を作れないでいた。しかし明らかにバンドの運命の道しるべとなるDown In The Tube Station At Midnightがスタジオで生まれた。コパースミス-ヘヴンがウェラーに、納得しないものはどんどん捨てるよう彼を鼓舞した結果だった。これはジャムの全てのアルバムの中でも最も思い出深い作品の一つとなった。それは成熟度高いEnglish Rose、To Be Someone、そしてMr. Cleanなどが一度に出揃ったことからもうかがえる。ヴェテラン評論家のチャールズ・シャー・マレイはNMEに書いている。“これは彼らのキャリアの中で明るい兆しであるだけなく、インターナショナルなロックンロールの最前線に躍り出るだけの価値あるアルバムだ。”

さらに2枚のアルバム未収シングル、Strange TownとWhen You’re Youngがグループの地位を決定づけた。突然ウェラーの60sセンスが町中にあふれ出した。親密な関係にあった2トーン・ムーヴメントとモッド・リヴァイヴァルだ。ザ・フーの四重人格(さらば青春の光)が映画化され、そのリヴァイヴァルに先駆けていた。そしてザ・ジャムがその看板役として、60sのグループが発していた若さを現代に甦らせ命を吹き込んでいた。しかしこれがUKのロック・メディアがいつもザ・ジャムを鼻であしらっていた理由だった。十代の若者に簡単に受け入れられてしまうバンドは、ロック・プレスの相手とするところではなかった。もちろんウェラーはその顔役としての地位を嫌っていた。

The Eton Riflesがグループ初のトップ5ヒットをもたらし、それを収録するアルバム、Setting Sonsがそのピーク時にリリースされた。手早く書かれ、アルバム全体に渡っては成功していないものの、そのアルバムはThick As Thieves、Private Hell、そして直接的なセリフの入ったSaturday’s Kidsなど、ウェラー特有のベスト・ソングを含んでいた。ザ・クラッシュはアメリカと恋に落ち、ピストルズはこの世を去り、ウェラーはテスコ(英スーパーマーケット)やウルワース(雑貨店)で働き、安い香水をつける若者たちのことを歌っていた。グループが英国の青年たちとドラマチックに結びついていたことは、少しも不思議なことではない。この頃の最高点が1980年春にリリースされたGoing Underground/Dreams Of Childrenだった。これは初登場でUKシングルズ・チャートのトップに立ち、スレイド以来7年振りの快挙となった。今となっては、グループが伝説的なBBCのテレビ番組トップ・オブ・ザ・ポップスに突然現れ、この曲をプレイし、いかに熱狂の渦に巻き込んでいったかを説明するのは難しいほどだ。

彼らの5枚目のアルバム、Sound Affectsは1980年の秋にリリースされた。その前に2枚目のナンバー・ワン・シングルとなったStartは、人によってはビートルズのTaxmanにあまりに似すぎているという指摘もあった。アルバムはより暗く内省的なものになっていた。しかし憂鬱な雰囲気が支配する中、アルバムはポップソングであるBoy About Town、Pretty Green、そして多くの者が主張するであろうウェラーのグレイテスト・ソング、That’s Entertainmentを含んでいた。あたたかく喚起作用ある詞が並べられた歌だった。

1981年は2枚のシングルのみのリリースとなり、グループにとってはやや休止期間となった―挑戦的なFuneral Pyreと早々とチャートから去って行ったが基本的に愛らしい楽曲であるAbsolute Beginnersだ。これら2枚はウェラーが当時までのジャムのベスト・アルバムと信じていたSound Affectsに追従するものだった。The Giftは1982年3月に発表された。そこにはその時ウェラーが傾倒していたノーザン・ソウルとファンクが染み込んでいた。それはダブルAサイド、両面UKナンバー・ワンとなったA Town Called Malice/Preciousに大きく表れていた。またアルバムはウェラーのそれまでで最高の2曲のバラッド、CarnationとGhostsが収録されていた。

1982年7月、ウェラーはグループ解散を決定した。親しかった者たちはみな彼に考え直すよう懇願したが、ウェラーの意志は固かった。フォクストンは半年間の活動休止を提案したが無駄に終わり、彼はファイナル・ツアーの前に立ち去ることをほのめかした。1982年9月、彼らの最後から2番目のシングル、The Bitterest Pill(I Ever Had To Swallow)がリリースされた。ドラマチックな作りとなったこの曲は、ファンの間で賛否両論となったが、皮肉にも彼らのヒーローが予想だにしない状態になっていることを知らないおめでたい論争であった。

10月30日、グループ解散のニュースが明るみになり、すぐにプレス・リリースが続いた。“ザ・ジャムは公式に解散する。僕たちはグループとして共にできることは全てやり尽くしたと考えている。音楽的にも商業的にも・・・僕は自分たちが他の多くのグループのように年老いて、まごついて終わってしまうことを嫌悪する。僕は気高さを持って終わりにしたい。” ザ・ジャムの最後のシングル、Beat Surrenderは1982年11月26日にリリースされ、初登場1位となった。ピアノをベースとしたノーザン・ソウル・スタイルのこの曲は、哀愁を帯びた控え目なB面のShoppingと同様、ウェラーの次なるプロジェクト、ザ・スタイル・カウンシルを完全に暗示していた。

ザ・ジャムは1982年12月11日、イングランド南岸のブライトン・センターで最後のコンサートを行なった。その町は数年前の映画、四重人格(さらば青春の光)の舞台となったように、60年代から続くモッド及びモッド・リヴァイヴァルの聖地だった。喝采に応える有名な最後の写真がある。フォクストンとバックラーは共にステージ前方へ立っているが、ウェラーは一人離れ、後方に立ち、手は後ろで組んでいる。まるでウェラーはその場から立ち去ることを待ちわびているかのような様子がうかがえる。

ザ・ジャムのストーリーは今のところ何の追記もない。3人の元メンバーは今でも接触はない。したがって彼らの物語には新しいボーナス・トラックはない。もちろんポール・ウェラーは多くの者にとって今でもえり抜きのモッドであり、曲がりくねった多くのキャリアを積み重ね、今も堂々と健在だ。バックラーはタイムUKを結成し、フォクストンは短期間ソロになった後、スティッフ・リトル・フィンガーズに参加した。

ザ・ジャムの作品は明晰さの指針となり今も光り輝いている。いかに修正論が起きようとも、ザ・ジャムは影響力を持ち、わくわくするような活気と、喜びと、今も常に多くの意味を持っている。どんなに若くナイーヴであろうと、それは今日にも何らかの意義を投げかけているのかもしれない。多くの者にとって、たしかに時というものはショービジネスの正体を暴露するものだが、ザ・ジャムは、ザ・セックス・ピストルズが表明した“俺たちは本気だ(we mean it, man)”、とは異なる場所にいるに違いない。

Daryl Easlea, July 2005


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