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James Carr/You Got My Mind Messed Up/2002 Ace Records Ltd CDKEND 211



設定はそれほど見込みあるものではない。それは1996年6月のむし暑い金曜の遅い時間、NYCのブリーカー通りにある“ブルース”クラブだ。小さいが騒々しい「橋を通しトンネルを掘る」人だかりは、ここが大量のクアーズ・ライトを飲むためのクールな場所に違いないと判断していた。

私の計画は少し違う。初めて私がここで見る男によるかなり少なめな作品群は、通によって60年代サザン・ソウルの究極的理想として、オーティス・レディングが作り上げたヴォルト・レコーディングの数々よりも偉大であると見なされている。この男がかろうじてギグを行なった数年間は、うわさのかなたに紛れてしまった―彼は麻薬に手を出した;ホームレスになった;刑務所に入っている、あるいは彼は死んでしまった、などなど。車の中にオーティス・レディングとアレサ・フランクリンの“グレイテスト・ヒッツ”のCDを積んだ大多数の人々が知らない彼の名―それがジェイムズ・カーだ。

突然、私は1人の男がとなりに立っているのに気づく―背が低く、ほっそりとした神経質そうなその男は、飲み物を揺らしながら、前方にあるクラブの窮屈で魅力のないステージを一心に見つめている。私が暗やみの中でその横顔に目をやると、彼がジェイムズ・カー本人であることに気づく。この口元―バーボンか何かのコップに押し当てた口―から、‘Love Attack’、‘Life Turned Her That Way’、そして‘The Dark End Of The Street’といった血も凍るほどの絶望的な嘆きが出てくるのだ。私が何千回も聴いてきた泣き声とうなり声と苦痛の悲鳴は、比類のない悲しみの精髄と一体化していた。

私は手を差し出して何かをいいたいのだが、どういえばその場にふさわしいのかが分からず、麻痺状態となっている自分に気づく。やっと適切なことばを思いついた時には、すでにジェイムズ・カーはステージに向かって去って行ってしまった。

私は自分の周りで起こっている不平のどよめきを押し分けて通っていこうとする。ここにいる人々はジェイムズ・カーとロバート・クレイの違いが分からないし、カーが全くブルースを歌わず、ソウルとカントリーのミックスによる激しい教会パフォーマンスが、1960年代のメンフィス周辺の専売特許だったことさえ気にかけない。目を閉じれば、私は1966年から69年のゴールドワックス・レコードの偉大な栄光の時代と同等の底なしで熱狂的な声が、今もそこにあることを確認できる。彼が‘Pouring Water On A Drowning Man’―カーの熱狂的ファンであるエルヴィス・コステロが‘刑事コジャック’でカヴァーした歌だ―を歌う時、私は破滅していく彼を感じる。そして彼が最後のヒットであるビー・ジーズの‘To Love Somebody’―なんとオーティス・レディングのために書かれた歌―を歌う時、私は立ち上がって叫びたくなる―「でも僕はたしかに体験した!」(But I do know what it’s like『訳注:曲中の歌詞“You don’t know what it’s like”に言及したもの』)と。

「聴衆は狂喜した。なぜなら彼にはソウルがたっぷりあったからだ/彼がどこでインスピレーションを手に入れたのか、私には分からない/彼が目をくるくるさせると/アポロのフロアにひざまずいていう/みなさん、これが僕にとって最後かもしれない/いや、分からない!・・・」

これらはルーズヴェルト・ジャミソンという男がジェイムズ・カーについて書き、のちにピーター・ギュラルニックの壮大な研究論文‘スウィート・ソウル・ミュージック’の中で引用されたことばだ。ジャミソンは背が高く礼儀正しい指導者であり、彼は1964年に、駆け出しのゴスペル・シンガーだったカーの面倒を見るべく、みずからの保護下に置いた。そしてカーをゴールドワックスという新しいメンフィスのレーベルと契約させたが、その後この桁外れな才能を持つシンガーを軌道に乗せるには不釣合いな数年間を過ごした。

「この男が歌うと本当に全身に鳥肌が立ったね」 1985年に会った時にジャミソンは私にそういった。「私は彼の歌い方を本当に気に入ってしまったんだ。彼の声は質素で粗末なんだが力強さがあった、そうだろう?私は教会で彼を見たかったよ。私は無意識に彼の立場になって、彼のトーンを真似ていたと思う。それが私の音楽表現なんだ。人々が私のことを知っていようがいまいが気にしない。私がほしかったのは、彼の持っていたあのフィーリングだ。みんながソウルって呼ぶフィーリングは、私たちが神を求めるために通っていた教会で身につけたものだ。その感情は本当に存在しているかのようだった。それは彼の一部となって、彼はそれをうまくコントロールしていたよ」

身だしなみのいいゴスペル・カルテットを卒業したOVライトによって、ジャミソンはすでにその耳を証明していた。彼はまたライトのために1曲書いた―感動的なバラッド‘That’s How Strong My Love Is’だ。これはオーティス・レディングによってヒットし、ローリング・ストーンズのアルバム“Out Of Our Heads”に収録された。しかし彼にとってのカーはOVよりも偉大な存在であり、彼の洞穴から聞こえてくるようなバリトンの音色と、切り裂かれ赤くはれ上がったような叫びのコンビネーションは、ライトの血も凍るほどのテナーよりも強力な声を創り上げていた。「OVでさえ、ジェイムズの声をほしがっていたよ」 ジャミソンはギュラルニックに語っている。

1942年6月13日、デルタ・ブルースのメッカ、クラークスデイルの北、数マイルのところのミシシッピ、コーホマ郡で生まれたカーは、3歳の時に父親にとって仕事の口の多かったメンフィスに移った。そこですぐに音楽が彼の人生に浸みこんでいった。

「僕はゴスペルとともに育ったんだ」 彼は1987年にアンディ・カーショウに語った。「僕は教会に行って義務を果たしていた。聖歌隊で歌っていたんだ。僕は声を認めてくれていた牧師のためにソロを取っていた。彼は僕の母親に僕を教会で歌わせてはどうかと提案して、母親は賛成した。彼らは僕を立派なスーツに正装させた。僕は6歳くらいだった。僕は教会の中で立って、よくソロで歌っていた。僕はとても上手かったと思ってるけど・・・うん、何ていったらいいか分かんないけど。9歳の時に僕はゴスペル・グループで歌い始めた。僕たちは3年か4年いっしょに歌っていた―ハーモニー・エコーズっていうグループだった。僕は3つくらいのグループで歌っていたけど、ソロを取るようなことはなかったんだ。僕はそれぞれのグループのために歌に違うものを加えなきゃならなかった。アレンジしなきゃならなかったんだ。だから僕はいいアレンジャーになったね」

カーはすでにゴスペルの本筋から外れ、R&Bの道を進んでいた。彼はビール・ストリートとエルナンド・ストリートにあったクリフォード・ミラーのフラミンゴ・ルームで断続的に歌っていた。彼はルーズヴェルト・ジャミソンとOVライトが、ゴールドワックスのオーナー、クイントン・クランチの家へ夜の訪問をした時に付き添っていた。スタックスのジム・スチュワート同様、白人のクランチはカントリー畑出身で、サン・レーベルでのカール・パーキンスのセッションでギターをプレイしていたほどだった。1963年、彼は薬剤師のルドルフ‘ドク’ラッセルに、スタックスとフェイムをモデルとした新しいレーベルのために600ドルの投資をするよう説得し、ジム・スチュワートが見逃したソウルの才能と契約を結んでいった。

「10時頃、ドアをノックする音が聞こえたんだ。出てみるとルーズヴェルトとジェイムズとOVがそこに立っていたよ」 クランチは私にそう語った。「彼らはポータブル・レコーダーを持っていて、私たちはその場に座ってテープを聴いた。それですぐに私は契約の準備に取りかかったんだ。私はジェイムズとOVにノックアウトされてね」

ライトはゴールドワックスに長く在籍することはなかった。ゴスペル・カルテットのサンセット・トラヴェラーズの一員として、悪名高いヒューストンの有力者ドン・ロビーと交わしていた契約に縛られていたOVは、デューク・レコーズの系列レーベル、バック・ビートでひりひりするような痛みを感じさせる多くの作品を録音し続けた。それらのうちのほとんどが―クレジットはないが―ウィリー・ミッチェルによってプロデュースされた。このことによってクランチはジェイムズ・カーに専念することになり、カーの最初のゴールドワックスでのレコードは、ジャミソン作のブルージーな(まさにOVライト風な)‘You Don’t Want Me’となった。

この時に唯一、カーはカントリー色強い黒人ライター、OBマクリントンによる曲を歌い始めた。ここでカーは自分の真の表現法を身につけた。それは悲しげなホーンと動きの速いギターを伴った悩み苦しむバラッドに表れている。最初が‘She’s Better Than You’、2番目が彼の最大のヒットとなったシングルだった。「ジェイムズはこういったカントリー・スタイルのソウル・ミュージックに大賛成だったね」 クランチはそういっていた。「彼は私たちがやりたかったことは何でもトライした。そして私たちは彼に自分の個性を注入させるんだ」

ある者は、1966年4月にアメリカのR&Bチャートで7位となった‘You’ve Got My Mind Messed Up’におけるマクリントンの詞は予言的なものだったというだろう。たしかにこれは“哀れな奴”(Mr. Pitiful)としてのカーを、レディング的気質である死に物狂いとなる巨匠としてのカーを確立させた。焼けつくように荒々しい‘Love Attack’では、彼はさらに遠くへ向かった。しかしカーの奥義は、痛みとコントロールの並列である“力と謙虚さ”の中に潜んでいた。その歌唱法の感情的狂気にもかかわらず、彼の節回しは常に素晴らしく調整され、柔軟だ。これが彼のほとんどの熱狂的ファンが、ジェイムズのことをビッグ・オー(オーティス)よりも優れていると主張する根拠だ。

「ジェイムズ・カーは本当に私の心をかき立てるエモーショナルなパワーを持っていた」―ゴールドワックス・セッションでいくつかのエンジニアリングを担当したチップス・モーマンは回想する。「私は一日じゅう座って彼の歌を聴いていた。私は彼が自分の価値にふさわしいものを手に入れたとは思っていない。彼は空前のグレイト・シンガーの1人といえると思う」

カーの最も有名な作品となる‘The Dark End Of The Street’で、マッスル・ショールズのライター、ダン・ペンと共作したのがチップス・モーマンだった。‘Dark End’は間違いなく60年代カントリー・ソングの頂点であり、2人の白人カントリー・ボーイによって書かれ、ゴスペルで育ったアフリカン-アメリカンによって歌われた“裏切り行為ソング”のクラシックだ。ナッシュヴィルのDJ集会でクイントン・クランチに出会ったペンとモーマンは、歌を書くために彼のスタジオを使わせてほしいと頼みこんだ。クランチはジェイムズ・カーの歌を書くことを条件に彼らに部屋のキーを渡した。

「オレたちは30分ほどあそこにいただけだったな」 ペンはいう。「‘Dark End Of The Street’は裏切りについて2〜3年考えた末に出てきた集大成みたいなもんだっと思う」 カーのレコーディング・ヴァージョンによってペンは生涯の彼のファンとなった。「ジェイムズはチップスとオレが心の中で描いていた通りに完璧に歌ったんだ」 去年彼は私にいっていた。スプーナー・オールダムとの彼のライヴ・アルバム“Moments From This Theatre”で、ダンは序文としてその歌で話を始めている―“人々はまるでジェイムズ・カー以外のヴァージョンがあるかのように、オレにお気に入りのヴァージョンはどれかと聞いてくる。” アレサ・フランクリン含む少なくとも40ものヴァージョンがある中での力強いことばだ。

‘Dark End’が1967年2月にR&Bチャートの10位に達したあと、カーのヒットは次第に減少していった。ペン/オールダム作のバラッド、‘Let It Happen’はこっそりとトップ30へ入ったが、想像力豊かで型にはまらない‘I’m A Fool For You’(すてきに陽気なベティ・ハリスとのデュエット)は、トップ40にさえ入らなかった。さらに心配なことに、カーは最終的にキャリアを頓挫させることになる精神的不安定さの兆候を示し始めていた。

そのマネジメント的役割をオーティス・レディングのマネージャー、フィル・ウォルデンにもたらしていたルーズヴェルト・ジャミソンにとって、カーはミュージック・ビジネスに対処することのできない迷子のようなものだった。マリファナの大量使用はさらに道を迷わせることになっただけだった。「人々はジェイムズが彼にふさわしい友人を必要としていたことに気づかなかったんだ。彼の生活の面倒を見ることができる誰かをね」 ジャミソンは私にそう語っていた。「ジェイムズには指導者が必要だった。彼はとてももの静かだったが、ドラッグに手を出したあとはさらに孤独になっていった。彼は時々、私に電話をかけてくるようになって、空港やなんかで自分を尾行する人たちがいるといっていた」

「ジェイムズはとても無口な男で、彼から会話を引き出すのは難しかったよ」 クランチはいう。「彼は本当に信心深い男だったが、私はひょっとすると、それがドラッグに手を出すことにつながったんじゃないかと思う」

まもなく、スタジオの中で彼から何かを引き出すことも難しくなった。彼はいすに座り、事実上、睡眠状態に陥り、歌を歌えそうにはないように思われた。あたかも彼はトランス状態に入っているかのようだった。「こっけいなことになったね」 クランチはピーター・ギュラルニックに語っている。「前年のゴールドワックス・セッションでは、彼から歌を引き出すのはほとんど不可能だった。一度マッスル・ショールズの6時間セッションで1曲レコーディングした。私は彼を叱りつけたかったが、いつものように彼はいすに座っているだけで、何もいわずに周りの者を見つめているだけだった。それから3時間後に今度は何のためらいもなく完璧に歌ってしまうんだ。あれは驚きだったよ」

レーベルでのカー最後のレコーディングはしかし、彼の最高の仕事に入るものだった―‘To Love Somebody’;ハーラン・ハワードの‘Life Turned Her That Way’の驚くべきヴァージョン(ジョニー・ブッシュによるカントリー・ヒットだ);そして私の個人的なお気に入りである殺人的に美しく、しおれるように諦観した‘That’s The Way Love Turned Out For Me’だ。(ヴァン・モリソンの“Moondance”収録曲で、ボブ・ディラン&ザ・ホークスにバックアップされたオーティス・レディングを想像してみてほしい。あなたも近い想像を抱くかもしれない)

まるでほとんどジェイムズ・カーは歌うことだけに優れた人間だったようだ。あたかも彼はその口を開け、焼けつくようなサウンドを外に出す以外に、人生あるいは生きる動機も持っていなかったかのようだ。グレイトとはいいがたい1971年のシングルのあと、ゴールドワックスが幕を閉じ、アトランティックとの契約が立ち往生したのち、カーはただあてもなく漂流した。

「彼は結局フロリダの刑務所に入ってしまった」 クランチはいう。「あの大きな才能が水の泡になるのを見るのはとても残念だった」 アンディ・カーショウが1987年にやっと彼を見つけ出した時、そのシンガーはルーズヴェルト・ジャミソンが再び彼の面倒を見ていた71年から77年の間、全く利益を出すことができずにいたことが分かった。「思い出せないんだ・・・僕は旅をしていたと思う・・・なんていったらいいのか・・・考えられないんだ。そのことについては・・・」 カーショウのインタビュー・テープには、続いて悲しげで少し気の狂ったような笑いが入る。

「ジェイムズのレコード全ての中に何かがあったよ」 ジャミソンは1985年に語っている。「でも私は彼が本当に自分のアイデンティティを見つけていたとは思わない。それに彼は働いていた木材会社を飛び出したかと思うと、次から次へと職を変えてどれも手につかなかった。彼は安定することがなかった」

1979年に行なった短い日本ツアーの間―日本は今日まで続く信じがたいほどのディープ・ソウルにとりつかれた温床だ―、カーは常用していた抗うつ剤を飲みすぎてしまい、ステージ上で魔法にかかったように忘我状態となった。80年代はさらに失われた年月が続いた。カーショウは音楽からほとんど身を引いていた彼を見つけた。彼はサウス・メンフィスの公営住宅団地で困窮していた姉妹たちとともに暮らしていた。

「僕はもうコンサートをやりたくなかったんだ」 彼はカーショウに語っている。「僕は町にとどまって姉妹の手助けをしようと連絡をとったんだ。彼女たちはお金に困っていたから。それで僕はしばらく家から離れて、彼女たちと少しの間いっしょに過ごそうとした」

元妻であり、彼の子供たちの母親についてカーショウに質問された彼は、もう一度彼女と結婚することをずっと考えていたと答えている。「いつ会っても僕たちにはまだ愛情があるから、僕がお願いすれば彼女は戻ってきてくれると思う」 カーショウは彼に1人で寂しくないかと尋ねた。「うん、寂しいよ」 彼はそういい、なんともいえないため息をついている。

驚いたことに、90年代はより生産的となった。クイントン・クランチは2枚のかなり平板なアルバム、“Take Me To The Limit”(Ace CDCH310)と“Soul Survivor”(Ace CDCH487)を監督するためにシーンに戻ってきた。さらには1992年イタリアのポレッタでのスウィート・ソウル・ミュージック・フェスティヴァル含むライヴ出演があった。

しかし肺がんの診断に続いて状況は悪化し、1997年には肺の摘出手術を受けた。カーが抗うつ剤を止め、不思議にも活動を始めた時には、彼の姉妹はカーをウェスト・テネシー精神病院に移していた。

「彼はこの町にある精神病院に出たり入ったりしていた」 クイントン・クランチはいう。「彼は治療薬を止めては強制的に元へ戻される。彼がにやにやと笑っていれば彼には何も期待できないが、その反対もあった。何年間もずっとそんな感じだった。3年か4年の間、私は彼を医者へ連れて行って注射を打ってもらっていた。注射の効き目があるうちの彼はグレイトだったよ。だから私はショーのために彼をニューヨークに送り出したんだ。でも私はいつも彼の面倒を見る人間を用意しなけりゃならなかった。なぜなら彼がたばこを欲しがると、彼は全く正反対の方向へ陥ってしまうからだ。大丈夫だなんていってたけど、彼には対処するだけの精神的機能は備わっていなかったんだ」

21世紀に入ると、カーは精神病院を退院させられ、メンフィスの看護施設に移された。彼は2001年1月7日に死んだ。30年以上前に彼が歌っていたように―“この変わりばえのしない世界は僕がいなくてもずっと回り続ける・・・僕にとって愛はそれと同じことさ・・・”

バーニー・ホスキンズ
2000年
2002年更新


カーが58歳で死んだ時、エース・レコーズは創設者/オーナーのクイントン・クランチからまさにゴールドワックス・レコーズを買おうとしていた。私たちのリイシュー・プロジェクトは、カーのゴールドワックス・シングルの全AB面を収録したコンピレーションによって、10月にスタートしていた。2001年の残りの2ヶ月間で、それはその年のエース・レコーズがリリースした中でベスト・セラーとなるほど売れた。そしてシングルズのプロジェクトに続き、さらにジェイムズのゴールドワックスからのオリジナル作品2枚を、未リリースのボーナス・トラックを加えて復刻することを決定した。

かなりの数の未リリース・ナンバーは、25年以上前に限定プレスとして、日本で様々なカーのLPとCDの中に収録されていた。しかし私たちは、さらに多くの別ヴォーカル・テイクと、今まで見つかっていなかったマスターが発見されたことをうれしく思う。これらは新旧のジェイムズ・ファンをわくわくさせるものだ。それらの多くはここに姿を現わし、そして‘Let’s Face Facts(I’ve Gotta Go)’や‘The Lifetime Of A Man’といった不可欠なナンバーがこのCDに入っていないことに気づくだろうカー・コレクターは、それらがアルバム“A Man Needs A Woman”の拡大版でフィーチャーされることを知っておそらく喜ぶことだろう。

しかしながら、今は手元にある問題に戻ろう。

ここに届けられたのは、何の論争も許さない表明である。ジェイムズ・カーのファースト・アルバムである“You Got My Mind Messed Up”は、ブラック・アメリカン・ミュージックの80余年にわたるレコーディング史の中で最も偉大なうちの1枚に入る。万事を考慮しても、それは空前絶後のグレイテスト・ソウル・アルバムでさえあるかもしれない。もちろんオーティス・レディング、ガーネット・ミムズ、ジェイムズ・ブラウン、そして他の真のソウル・ブラザーズ(ソウル・シスターズもいうまでもなく)たちによる素晴らしいアルバムを軽蔑するわけではないが、そのリリースの時点で、これは絶対的なGSA(Greatest Soul Album)である。それから35年経ても、その1ダースの傑作群は、サザン・ソウル・ミュージックの素晴らしさ全てを表明し続けているし、当時25歳だったシンガーについても同じことがいえる。3年の間に放った控えめな9つのR&Bチャート・ヒットは、彼のそのジャンルにおける重要性、あるいは影響力をわずかにほのめかしている。

ゴールドワックスLP3001としてのオリジナル・ヴィニール盤は、1967年3月にUS R&Bアルバム・チャートに初登場し、一方、10週間を通じてシングルズ・チャートのかなり上位をキープしたLPに付随したシングルが、間違いなくジェイムズ最高のレコーディング作品である‘The Dark End Of The Street’だ。当時、我々のジェイムズが‘You’ve Got My Mind Messed Up’(Goldwax 302)で、初めてR&Bトップ10ヒット(ポップ・トップ75)を放ってから1年も経ってさえいなかった。‘Mind’はその時点までの彼最大のヒット(R&B7位、ポップ63位)であり、なるほど結局それは続く‘Dark End’の伝説的ステイタスにもかかわらず、彼の全キャリアを通じて最大のヒット・シングルとなった。少々不思議なのは、ゴールドワックスのA&Rマンのボス、クイントン・クランチがジェイムズのきわめて重要なLPにそのタイトルを選んだことだ・・・。

その時期の他の多くのアルバム同様、“You Got My Mind Messed Up”は本質的に、それまでのシングル両面あるいは片面を集めたコンピレーションであり、それに初出となるトラックが盛り込まれ、当時のほとんどのアルバムでスタンダードとなっていた12曲入りに整えられたものだった。その慣例にしたがって、アルバムには前述のシングル2曲とそのB面(それぞれOBマクリントン作の‘Lovable Girl’とジェイムズ/ルーズヴェルト・ジャミソン共作による((フォー・トップスの))‘I Can’t Help Myself’風の‘That’s What I Want To Know’だ)が入っている。さらに2枚のヒット・シングルの両面が収められた―情熱的なスタックス風の響きのある‘Love Attack’(Goldwax309:さらに活気あるサザン・ソウル・ストンパー、‘Coming Back To Me Baby’とのカップリング)および‘Pouring Water On A Drowning Man’(Goldwax311:あまり知られないが、とびきり素晴らしいマクリントンの傑作‘Forgetting You’とのカップリング)だ。それぞれは1966年7月と10月に、ソウル・チャート21位と23位になった。以上8曲の既出シングル両面に、‘She’s Better Than You’を加えれば9曲となる。これはもともとGoldwax117として、1965年暮れにリリースされたシングルだ(その時レーベルは、まだ業績の振るわないヴィー・ジェイが設立したTollieによって配給が行なわれていた)。これはチャート入りしなかった。

以上は全てがグレイトなトラックであり、全てがシングルとしてケントのコンピレーション“Complete Goldwax Singles”(CDKEND 202)ですでに日の目を見ていた。しかしながら、そこではオリジナルのモノ・シングル・マスターがフィーチャーされていたのに対し、ここでは9曲のうち7曲が全く新しいトゥルー・ステレオ・ミックスでフィーチャーされている。これはJCファンであり、スタジオの達人ロブ・キーロックが、オリジナルのゴールドワックス・マルチトラック・テープから、60年代のメンフィス・モノ・ミックスのやり方を忠実に守ってステレオ化したものだ。それらが以前どれほどグレイトなサウンドを聞かせていたにせよ、ひょっとするとここで聞けるほどではないかもしれない(残念ながら‘Coming Back’と‘She’s Better’のマルチトラックは消失状態だ)。

‘I Don’t Want To Be Hurt Anymore’のマルチトラックもまた消失していたため、私たちはオリジナル・モノ・アルバムのマスターからここに収録した。しかし残り2曲の‘アルバム・オンリー’録音は、ここにふさわしい素晴らしいステレオ・ミックスで入っている。クランチ作の‘These Ain’t Raindrops’は、最終的にシングル盤でピッチが上げられたが、これはジェイムズ最後のR&Bチャート入りとなった‘To Love Somebody’(Goldwax344)のB面だった。このシングルは4週間チャートに入り、1969年春遅くに最高位44位となった。(1963年にクランチのプロデュースによって、‘Raindrops’のオリジナル・ヴァージョンを録音したのが、ロカビリーの伝説的人物チャーリー・フェザーズだったことは、多くの人にとって驚くべき事実だろう。そのセッションはもともとゴールドワックス出版社の発足を告げるものだったが、1970年代に組まれたフェザーズのアンソロジーでついに日の目を見るまで、長い間お蔵入りとなっていた) ジェイムズはその歌を最初に録音しなかったのかもしれないが、彼のものが決定的ヴァージョンであることはいうまでもないだろう。また、エディ&アーニーのクラシック‘I’m Going For Myself’のジェイムズによるカヴァーが決定的ヴァージョンではないとしても、彼はこれを歌うために生まれてきたのであり、彼のヴァージョンはイースタンで1965年にレコーディングされた独創的でソウルフルなキャンベルとジョンソン両氏(作者両氏)に肉薄することは間違いないだろう。

ゴールドワックス・セッションのほとんどのレコーディング・データは、長い間ディスコグラフィーのブラック・ホールの中へ分類され、正確な年表を作り上げるのは事実上不可能だ。しかしもともと未リリースだったレコーディングが2枚のアルバムの間に分裂した中で、私はそれらトラックが、それぞれのアルバムの前にレコーディングされたのか後だったのかを、できるだけ正確に位置づけようと試みた。もし私が間違っているとしても、その音楽自体が私のミス以上を埋め合わせることは、みなさんに同意してもらえると確信している!

これらトラックのうち5曲は、もともとその当時でさえ、きわめてレアだった日本のレーベル、ヴィヴィッド・サウンドのアルバム、“Freedom Train”において1977年に初めて紹介された。たとえオーティス・レディングを認めるジェイムズのファンのいく人かがどちらかを決めかねるとしても、JCがビッグ・オーとともにダントツであることに疑問の余地はない。それは‘These Arms Of Mine’の彼の忠実な解釈によって自明となっている。ジェイムズはまたさらに、もともと未発表だった2曲のレディング・ナンバーを録音している。1つは未完成だが、それでも楽しめる‘I Can’t Turn You Loose’で、それは“A Man Needs A Woman”の拡大版に収録される。残念ながら、もう1つの未発表トラックは永遠にそのままだろう。私たちはゴールドワックス・テープの審査によって、‘My Lover’s Prayer’のJCヴァージョンを示す箱を発見した時に大喜びしたが、そのテープが数分間の無音状態を流しただけだったことに意気消沈してしまった。全てのテープ審査は完了し、私はこの失われたレコーディングが存在する確立は、現在ほぼゼロに等しいことをいわねばならない。

またアルバム“Freedom Train”で掘り出されたのが、ジョー・サイモンの1965年のヴィー・ジェイ・ヒットである素晴らしい‘My Adorable One’と、伝説的なナッシュヴィルの作曲家、ビル・ライスとジェリー・フォスターによって書かれ、1970年にスタン・ヒッチコックによるカントリー・チャートでのマイナー・ヒットとなった‘Dixie Belle’だった。そして明らかに未完成だが、それでも十分にパワフルな‘Sear Your Heart’―1968年にウィルソン・ピケットも素晴らしい録音を残した―は、ここ同様に、そのアルバムでもハイライトだった。しかしこれらよりもいいのが、最後に入っている“Freedom Train”セレクションだ。誰が最初に‘What Can I Call My Own’に取り組んだのかを突き止めるのは難しい―このラリー・ロジャーズのグレイト・ソングはまた、60年代終わりにマーヴィン・プレイヤーによってレコーディングされ(ケントの理想的なCD、“When A Man Cries”―CDKEND 176が入手可能)、アール・ゲインズによるヴァージョンは当時未リリースだった。

その歌がダン・ペンによって、ジェイムズのためにデモ録音されたことは分かっている。私たちはゴールドワックスから買った中の印のない壊れたテープ・リールに、ダンの素晴らしいデモがあることを発見したからだ。(ダンとの手続きをクリアすれば、私たちは“The Goldwax Story”の未来のシリーズでこのヴァージョンをリリースしたいと思っている) したがってジェイムズが完成させたマスターが‘オリジナル’(ペンのデモを除けば)と考えるのは、おそらく妥当だろう。もともとリリースされたか、されなかったにしろ、これが自分のベスト・レコーディングのひとつだと主張するこのライター(ペン)に誰が反論できようか?

残りのセレクションのほとんどは、ここで世界初作品化となる。うち2曲は、1999年のゴールドワックスのCD 47776でリリース済みかもしれないが、このCDがかつてMemphis City Limits(そのレーベル?)よりもはるかに多く収録できたことはありえないように思われる―もしそれらがレコード・プレス工場から集められるものであれば、という話だ。

そのCDのトラック・リストに私たちが告知していた‘The Word Is Out’が載っているが、それは今回ここで正しいタイトル、‘You Don’t Want Me’と改められた。カーのファンは、この曲のリリース・ヴァージョンが、カーの最初のゴールドワックスでのシングルであることを知っているだろう。このセカンド・ヴァージョンは、ファースト・アルバムに再録するためのものだったのかもしれない。荒っぽくブルージーなサウンドであるオリジナルの1964年のシングルは、他のアルバムのトラックと調和しないからだ。ジェイムズの焼けつくようなヴォーカルにはブルース・フィーリングが保持されたままだが、バッキングは1967年頃のピュアなメンフィスそのものだ。それは最初の録音が必ずしもディープであるとはいえないことの絶対的証左でもある。

経済的理由によって、ゴールドワックスのクイントン・クランチは利益を最大限に伸ばすため、しばしば同じバッキング・トラックを再利用し、彼のところのアーチストに同じ歌を録音させていた(特にゴールドワックスに版権のある曲だった!)。彼はOVライトの初期ゴールドワックス録音である‘There Goes My Use To Be’(またしてもオーティスの影響が見える)をジェイムズにファンキーにカヴァーさせたように、セッションで連続して録るために複数のシンガーを呼んでさえいたのかもしれない。これとホーマー・バンクス/アレン・ジョーンズのメローな‘A Lucky Loser’は、“ウィー”ウィリー・ウォーカーによるリリース・ヴァージョンと同じテープで発見された(それぞれゴールドワックスとチェッカー・レーベル)。ヤング・ラスカルズの‘Love Is A Beautiful Thing’の生き生きとしたフィーリングは、1968年、ゴールドワックスのブルー・アイド・ソウルシンガー、ベン・アトキンズ・アンド・ザ・ノーマッズのヴァージョンにも役立った。いうまでもなく、これら全ては、そもそもオリジナル・ヴァージョンが非の打ち所のないものだが、ジェイムズ・カーの独特なヴォーカル・スタイルの影響を大きく受けている。これらのうち、‘Used To Be’だけが、以前日の目を見、唯一、1992年のゴールドワックスからのCD、“The Complete James Carr Vol機(GWX 47772)に収録された。

おそらくスタジオでのJCの悪名高い不確実性(バーニー・ホスキンズが言及している通り)もあったのだろう、バッキング・トラックに取り組む上で、クランチは前もってジェイムズ自身のトラックを録音し、それからジェイムズがきちんと集中できる状態になった時に、それら堂々としたヴォーカルをオーヴァーダブする傾向があった。グレイトなシンガー全てと同様、ジェイムズは2度目に決して同じように歌うことはなかった―たしかにそのことによって、ゴールドワックスのセッション・テープが興味深い多くの別テイク・ヴォーカル・トラックを保存するという幸運につながった。私たちは将来の“The Goldwax Story”でリリースするつもりだが、ここではあなたを夢中にさせる‘Life Turned Her That Way’と‘A Losing Game’の一級品ヴァージョンである、わずかに長いヴァージョンを収録した。これらはよりリリース・ヴァージョンにふさわしい出来だ。

・・・そして私たちは‘Sock It To Me Baby!’に行き着く。ミッチ・ライダーの熱狂的で生意気なオリジナル・ヴァージョンを知る者は、ジェイムズ・カーにカヴァーされそうな歌だとはほとんど思わないだろう。しかしここで聞けるとおり、それは最低限、何とか完成したヴァージョンになっている。残念ながらこのヴァージョンは、ジェイムズのとちりによる笑い声とひとり言によって、最後のところでわずかに破綻している。このことは、笑い声とジェイムズ・カーが同じ部屋どころか、同じ世界に同居することなどめったにないと信じる者たちを驚かせるかもしれない。しかしリリースを保証するだけのものはここに十分備わっているし(たしかに伝説的な“Complete James Carr Vol供匹任垢任縫螢蝓璽垢気譴討い燭もしれない)、彼の非の打ち所のないディープ・ソウル度に関する限りでは、ジェイムズは高揚した時に出てくる最高のフレーズ“ガッタ、ガッタ”を発している!

そういうわけで、1人の男の作品からの24の重要なパフォーマンス―より軽い側面が含まれているにせよ―は、決して見劣りするものではない。そして私たちはあなたを待つ別の24曲も用意している。それは“A Man Needs A Woman”(Kent CDKEND 215)で。

トニー・ラウンス
2002年6月

アラスデア・ブラーザー、ルーン・ブロンクウィストそしてアディ・クロースデルとミック・スミスによるレーベルの計らいに感謝します
ブルース・アンド・ソウル・マガジンのアーカイヴからの写真提供に感謝します

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