Welcome to my homepage


James Carr/The Complete Goldwax Singles/Ace Records Ltd(UK) CDKEND 202



JAMES CARR on GOLDWAX Records

60年代は、全てのソウルとR&Bファンにとって憧れの言葉だ。過去において彼はいろいろな意味で重要人物―例えばオーティス・レディングと並ぶほどの存在―であった。彼ほどの商業的成功には恵まれなかったが…。我々が崇拝するその頃の多くの黒人シンガーと違い、8枚のシングルそして2枚のLPがリリースされた時、イギリスのファンには残念ながらそれは届かなかったのである。このコレクションには彼のゴールドワックスでの45回転シングル全14枚、1964〜1970年の間に出されたものが収録されている。これらは全てが宝物、そして記念碑として集められたものである。マーク・プリングルが最近、英モジョ・マガジンで彼に賛辞を送っている。「間違いなく最も偉大なディープ・ソウル・シンガーだ」

ジェイムズ・カーは1942年ミシシッピで生まれた。彼の両親は彼が赤ん坊の時、メンフィスに引越し、そこが彼を形成する場となった。南部諸州で生まれた他の黒人シンガーのケースと同様、カーの出発点も教会で音楽に浸ったことであった。実際彼のゴスペルに対する献身は彼の全人生を通じて続いた。彼が個人的に気に入っていた世俗音楽シンガーでさえ、必ずゴスペルの影響を強く受けていた。

カーが最初公衆の面前に現れたのが、ゴスペル界であったのはごく自然なことであった。彼はサンセット・トラベラーズと、ハーモニー・エコーズの一員として貴重な経験を積んだ。ルーズベルト・ジャミソン(現在では有名なソングライター)も当時グループの一員で、レデンプション・ハーモナイザーズではこの2人は仲間として歌い始めた。

ジャミソンは故O.V.ライトを通じてゴールドワックス・レコード(メンフィスに本部を置いていた)とコネクションがあった(ジャミソンは名曲“That's How Strong My Love Is”の作者で、この曲はすぐにオーティス・レディングや、さらに多くのソウル・シンガーにカヴァーされた)。ゴールドワックスはメンフィス・ソウル・シーンを席巻しつつあったスタックス/ヴォルトに対抗するため新しい人材を探していた。

O.V.ライトが以前、ヒューストンのデューク/ピーコック・レコードでレコーディングしていたという事実が原因になり、すぐにゴールドワックスは契約上の争いによってライトを失い、その結果カーに白羽の矢が立てられることになった。1964年カーの最初のシングルがリリースされた。しかしシングル“You've Got My Mind Messed Up”の成功まで2年間待たねばならなかった。これはビルボードR&Bチャート7位まで上昇し、2ヶ月間チャート内にとどまり、驚くべきことに、サザン・ソウル・レーベルが放ったヒットとしては申し分のない、全米ポップチャートの63位となった。

しかしながらこの時までに、ゴールドワックスはベル・レコードの配給、流通に支配されており、その関係からEMIの米本国レーベルの傘下に入っていた(エース/ケントの現在のディレクター、トレヴァー・チャーチルがその時そこで働いていた)。イギリスのファンたちにこのダイナミックなソウル・シンガーが最初に紹介されたのが、このシングルである。この曲はたまたまO.B.マクリントンの手がけたものであった。彼はゴールドワックスのレコーディング・アーティストであり、充分に認められたシンガーでもあった。また彼もこのシングル両面をドン、エンタープライズ、エピック、マーキュリーからリリースしていた(黒人によるカントリー&ウェスタンというのは比較的珍しかった)。

チップス・モーマン/ダン・ペン作“The Dark End Of The Street”は、“You've Got My…”ほどのヒットにはならなかったが(全米77位、ビルボードR&Bチャート10位)、ソウルファンにとっては初期の古典となった曲で、後の映画「コミットメント」でフィーチャーされ、さらに多くのファンを掴んだナンバーだ。しかし文化的観点からもっと重要なことは、カーの多くの作品が‘ディープ・ソウル’というジャンルを描写し、定義することを促進したことだ。

なぜカーが他の有名なオーティス・レディング、ウィルソン・ピケット、ジェイムズ・ブラウンらと全米ツアーを行ったのにもかかわらず、彼らと同等な評価が与えられなかったのか?

理由の一つに、多くのアメリカの音楽ライターが面倒でもトライしようとしなかった事実があるのかもしれない。しかしそうであったとしても、カーの作品は質を伴った成功と同等と考えることができる(カーは僅か9曲のR&Bチャート入りと、7曲のポップチャート入りを果たしたがそれはトップ50にも入っていない)。ライターたちはチャートという物差しから離れて評価しようとせず、結果としてアーティストとその作品の純粋かつ芸術的な背景を判断することができなかったのであろう。(そういった怠慢によって我々がこのイギリスで学んだことは、UKチャートに上がったレコードで殆んど尊敬すべきものは無いということだ!)

二番目にカーが精神的、経験的なレベルに達していなかったことによって、メジャーなスターになるために必要な多大な時間と労力、そして一瞬の幸運に恵まれなかったのかもしれない。彼は若くして結婚し、7人の子を持っていた。こういった責任が、音楽に専念することを妨げ、スターに要求される過酷さを避けていたのは間違いないだろう。

幾人かのライターは、カーの度々繰り返されるうつ病の発作をほのめかし過ぎた。そのことは実際に自己破滅には至らなかったとしても、常軌を逸した行動を促したし、控えめに言っても逆効果であった。皆プライヴェイトな生活を持つ権利を持っているし、現在の進歩的な治療の考え方は、この病気は知性、思慮深さ、そして繊細な気質に必然の副産物であるという方向転換がなされている(創造性に不可欠な要素として認識されている)。それはディープ・ソウルの中で、間違いなく大きな構成要素であるし、好むと好まざるとにかかわらず高揚と感情の増加を促すものである。 いや、しかしこれは軽はずみに言うことではないだろう…。

彼はゴールドワックスを去った後も何枚かのレコードをリリースしたが、ここにあるレコーディングの数々は、この伝説的人物に正当な名声が当てられたことを示している。我々は時と場所といった他の要因も含めて、ジェームス・カーのようなシンガーたちが、自身を真に黒人音楽の黄金時代に捧げていたことを忘れてはならない。

彼は2001年1月7日に死んでしまった…


ザ・ゴールドワックス・シングルズ

1.THE DARK END OF THE STREET(1967)

この古典的ナンバーはリリース以来、絶えず賞賛されてきた。もう付け加えるべき言葉は見つからないほどだ。偉大な曲として受け継がれてきたが、最初リリースされた時は、ビルボードR&Bチャートで10位、ナショナルチャートでは僅か77位であった。イギリスでは全く泣かず飛ばずであった。2年後、私は自らのレーベル“ディープ・ソウル”から何とか出そうとしたり、様々な試みを企てた。ジェームス・カーは私に全米チャートの50位にも届かずその辺りで止まっていたという事実に、いかに失望しているかを聞かせてくれたことがある。残念ながら彼は個人的にレコードの販売に関する権利を何も持っていなかった(如何なる場所でも権利は完全に拘束されていたのである)。しかし我々は何とかジェイムズから彼が持っていた別ヴァージョンのテープを入手することができた。彼は気前良く「別ヴァージョンだけどほとんど大丈夫だよ」と言ってくれたが、それもヒットさせる事ができなかった。くどいようだが、これは真にグレイトなナンバーだということは断言できる。彼の黄金時代の宝であり、人々が永遠に聴き続けるに値するレコーディングである。エーメン!

2.THESE AIN'T RAINDROPS(1966)

サザンソウルの様式に完全にはまった雰囲気を持った、悲しげで内省的なナンバー。朗読風ヴォーカルスタイルは、盛り上がりにはバックのメンフィスのホーン隊と対峙するかのごとく、最高に情熱的な歌唱となっている。それはピアノも同様である。忘れることのできない愛の告白である。

3.A MAN NEEDS A WOMAN(1967)

そう、これは明らかにルーズヴェルト・ジャミソンの“That’s How Strong My Love Is”の遠い親戚に当たるだろう。短いが魅力的な説教部分を持ち、女性バッキングヴォーカルの活躍によってその天使のようなハーモニーは、嵐のようなクライマックスをより魅力的にしている。

4.LIFE TURNED HER THAT WAY(1968)

作者のハーラン・ハワードもまた、幅広くカントリー&ウェスタンを取り上げたシンガーであった。私はこの曲の彼自身のヴァージョンがあるのかどうかは知らないが、当時他の多くのC&Wソング同様、ソウルミュージックに与えた影響は計り知れないものがある。1962年、エスター・フィリップス(まだ’Little’が付く前)は、“Release Me”を彼女の解釈で取り上げた。そのヴァージョンは純粋で飾り気がなく、例えば黒人カントリー・シンガー(チャーリー・プライドやO.B. マクリントン)やR&B、ソウルシンガーは、幅広い土着のアメリカンミュージックの埋蔵庫から自由に違った要素を組み合わせ、彼らなりの方法で歌っていた。この曲のメロディはカントリーに違いないが、発声法はどこまでもソウルフルだ。ジェイムズ・カーの情熱的なヴォーカルは、比較的簡素なバックとは違い、古典的メンフィス・ソウルの全ての特徴を持っている。

5.FREEDOM TRAIN(1968)

アメリカ国民にとって、自由と権利の獲得の時代であった60年代は、レコード会社は政治的、あるいはプロパガンダ的だと判断できるレコードを発売することに対して神経を使っていた。アメリカは依然保守的な国であり、ある人々は北アメリカ法によって、自由な発言をすることに高いリスクを負っていた。しかしそれらの自由獲得闘争は勝利を収め、自己証明を発揮できるようになった。我々は、過去の人たちのそういった忍耐と努力がもたらしたものを忘れがちである。とりわけあなたが米南部諸州の精神性に重きを置いているのであれば、“Freedom Train”はメッセージと歓喜の祝い両方が、連綿と続く変化への弾みとなっていることが分かるだろう。ここではゴスペルとソウルの融合が、素晴しい効果を生み出している。そしてもちろん列車が意味するものは、多くの米国黒人にとって地下鉄の歴史的記憶を喚起させ、それは自由というものの輸送手段という意味なのである。

6.POURING WATER ON A DROWNING MAN(1966)

いくらか荒涼としたメロディとリズミックな曲調が、厳しい歌詞をほとんどあざけっているかのようだ。心無い恋人たちによって裏切られた全ての男たちに向かって、ジェイムズは的を得た物語を綴っている(この2,3年前、ハウリン・ウルフの愛人が彼の喉の渇きを癒すために彼にガソリンを持ってきた事を覚えてるかい?)。この時期の男性ヴォーカリストの多くに見られるように、サム・クックの多大な影響がこの曲のスタイルに見受けられる。しかしカーは発声に、より冷たい感情を持ち込んでいる。このことがこのトラックに緊張をもたらし、いっそう忘れられないものにしている。

7.EVERYBODY NEEDS SOMEBODY(1970)

ゴールドワックスでの最後のリリースの片面にあたるにもかかわらず、彼のデビューシングルと比べてここでのカーのヴォーカルに、我々はその質の低下を見破ることはできない。これまでの間、彼は苦難に耐えてきたと考えられる個人的な問題が多くあったのだ!その問題はレーベル側を困惑させ、彼をスタジオに入れることすら困難にさせていたかもしれない。しかし一旦スタジオに入ればそれは彼のヴォーカルには何ら作用することはなかった。この曲がそれを証明している。

8.THAT'S THE WAY LOVE TURNED OUT FOR ME(1969)

グローブのようにジェイムズ・カーにフィットした曲。ここでの彼は、自身のヴォーカルテクニック同様、歌詞の抑揚の付け方も、持てる力をフルに発揮し、その歌いまわしはあつかましいまでにサザンマナーである。このような曲はおそらく20年早くブルースという形で表現され、そしてブラック・アメリカン・ミュージックの進歩的な開放は、ディープ・ソウルという分野の出現を促すことになる。それは水面下で困難と不幸が、つまり深い感情と時には正しい怒りというものがグツグツと煮え立っているかのようである。

9.TO LOVE SOMEBODY(1969)

バリーとロビン・ギブはいかにキャッチーなメロディを書くかを心得ていたに違いない。このバラッドは本物のソウルの作法を必要とする。そしてカーが100%の説得力を持ってこの曲を解釈する機会が与えられたのである。堂々とした荘厳な雰囲気を生み出すことに成功したこの曲は、米R&Bチャートで最高位44位となり、4週圏内にとどまった。間違いなくギブ兄弟を大いに喜ばせたはずだ。

10.YOU'VE GOT MY MIND MESSED UP(1966)

偉大な曲があるとすれば、どうしたってジェイムズ・カーに行き着くしかないだろう。それは信じて欲しい。1966年のこの曲は、普通とは違った複雑な構成を持ち、バンドのアレンジは耳障りな部分が目立つほどで、それは当にメンフィスをより強く感じさせるものとなった。センセーションを起こすほどの音楽的感性を持っている。こっちでは(英国)ラジオでさえ流れる機会が全くなかったのであるが…。それは、うーん、言い訳としてよく使われる‘斬新’過ぎるということなのかもしれない。‘危険’という言葉も注意深く使用を避けるべきものだったのである。ありがたいことにアメリカのDJたちがちょっと酔っぱらっていたために、ジェイムズ・カーをUSチャートに送り込めることになったわけだ。私は誰も困惑させるつもりは全くないのだが、言うまでも無くこの曲はいかに当時メンフィスのミュージシャンに光を当てさせたか。聴くたびに不思議な感覚に襲われるのである。

11.I'M A FOOL FOR YOU(1967)

前述したようにこの曲は様々なスタイルがブレンドされた好例である。この曲でのカーは活力がみなぎっていて、ニューオリンズからの注目すべき女性、ベティ・ハリスがこのラヴ・デュエットにスパイスと高揚感を付け加えている。他の有名なソウル・デュエット同様(ドン・ガードナー&ディー・フォードの‘I Need Your Loving’を思い出す)、エンディングに至るまで2人の緊張感は解消されることはなく、もう一度聴くはめになるのである。共作者はシンガーとしても実績のあるジョージ・ジャクソンとダン・グリアだ。

12.A LOSING GAME(1967)

ノーザン・ソウルがソウルシティ・レコード店のカウンターと在庫のウラから一般聴衆に向けて溢れ出すよりずっと以前、このような曲は若者向けクラブのダンス・レコードであり、ディスコが出現するまで持続させるべきものであった。間違いなく当時はフロアを一杯にするような曲であり、英国が確立した、取るに足らない音楽、上っ面なブランドによって甘やかされた子供たちにとってこれは、明らかに反抗を表明している。この曲に聞くべきは唯一つ、当時のアンダーグラウンド音楽を通じて若者が新しい精神性を創り上げる志というものが反映されているということだ。そして海賊ラジオが出現しなかったら、英国の音楽事情は今日のようになっていただろうか?ホーマー・バンクスや全盛期のアレサ・フランクリンのような超最前線シンガーたちは命がけで痛切な思いでもって、当時同時多発的に現れたのは事実である。

13.STRONGER THAN LOVE(1967)

タムラ・モータウン・チャーム・スクールから出てきた女性グループにバックアップされたこの曲は、ジェイムズの耳障りなスタイルよりもずっときちんと体裁を整えているようだ。元気いっぱいではあるが同時に皮肉たっぷりで、当時のジュークボックスに入っていたような典型的な曲である。中ほどのサックスによるもったいぶったブレイクが全体に洗練さを付け加えている。

14.LOVABLE GIRL(1967)

情にもろく同時に強い意志を伴ったダイナミックなラヴソングで、ジェイムズはセンスの良いギターと、抑え気味なホーンセクションの比較的シンプルなバックに乗って、力強く感情を込めている。存在するはずの別テイクは全く違うものを生み出していたかもしれない。しかしこれが完全版といえるだろう。

15.FORGETTING YOU(1966)

オープニングの小節は、カントリー&ウェスタンの影響を強く受けている。しかし1コーラス目が終わるまでに、しだいにソウルの枠からはみ出し、型破りな方向へと変化している。カーはエンディングでの明らかな不協和音のブラスの中で過熱状態になり、情熱と猛烈な興奮へと向かっている。

16.LOVE ATTACK(1966)

究極的に素晴しく高いオリジナル性はカーのピークを示している。ヴォーカルとバックは補い合い、かつ反発し合っている。1966年にしてこの表現はラジカルかつ発明品であった。後に出てくる多くのソウルのスタイルに手本を示したような曲だ。このクォリティは35年間という時の流れにもビクともしない圧倒的な存在感を今なお放っているかのようだ。

17.SHE'S BETTER THAN YOU(1965)

怒りと優しさを兼ね揃えたムーディで内省的な曲である。これはカーが彼女と別れる寸前のことを歌ったものか?ここでは何が示されているのか?私はカーの歌うことを全て真に受けているわけではない。あいまいさというものが、ソウルミュージックの一つの特徴的な要素だからだ。当にこの曲はそういう要素を前面に押し出している。グレイトなナンバーだ。当に人生そのものである!

18.COMING BACK TO ME BABY(1966)

ツイスト&シャウトにヒントを得た曲のように思える。ジョージ・ジャクソンのペンによるもので、もちろん彼は他にも多くの素晴しい楽曲をここで書いている。

19.THAT'S WHAT I WANT TO KNOW(1966)

モータウンの商業的成功は、アメリカのレコード産業に大きな影響を与えた。私はこの曲について初めて書いた時、間違いなくフォー・トップスの‘I Can’t Help Myself’(R&B, Popチャート両1位)を引き合いに出したことを覚えている。しかし事実は、当時同時多発的に素晴しいレコードが生まれた時代だったということだ。この曲ももちろん素晴しいのである。モータウンだけが当時全てを表しているわけでもないのである。

20.TALK TALK(1965)

アイケッツのヒット曲‘Peaches ‘n’ Cream’とマーヴィン・ゲイの初期を思わせるこの曲は、レーベルの商業的成功を狙った一面といえるだろう。しかし少なくともそれだけで終わっているわけではない。タイトなリズムはこの曲に鋭さと機敏さをもたらしている。

21.I CAN'T MAKE IT(1965)

カーのピュアなヴォーカルスタイルが聞ける。女性バックコーラスと対峙しながらヴァイブがいい効果をかもし出している。真に壮大なナンバーだ。

22.ONLY FOOLS RUN AWAY(1964)

ラテンリズムのミドルテンポのこの繊細な曲は、カーのピュアなヴォーカルと非常に素晴しい対照を見せている。最小限の女性コーラスと共にシンプルな展開ではあるが、それだけにアピールする力はストレートに伝わってくる。

23.YOU DON'T WANT ME(1964)

最もカーが純粋なR&Bに近づいたナンバーであろう(当時ボビー・ブランドの‘Doin’ Too Bad At All’もまだ生まれてなかったのである)。この曲は伝統的なスタイルを持ち、そのいかがわしいギターは、怒り、嘆きのフレーズを繰り出し、詞においては、男女の付き合い始めの様々な光景が映し出されている。

24.LOVER'S COMPETITION(1965)

前曲と好対照の鋭さを持った曲。チャチャチャのリズムを持ち、才覚を伴った女性コーラスが入る。メロディの美しいヴォーカルラインは、ディープさとはかけ離れているが、オープニングの、上手く適応させたヴォーカルと商業的成功を狙った雰囲気はふてぶてしくもある。あまたの曲同様、コマーシャリズムを狙ってはいるが、そういった匂いは希薄である。

25.ROW, ROW YOUR BOAT(1970)

一風変わったスタイルのこの曲は、古い伝統音楽に見られる短いリフレインの繰り返しを持っている(ジェイネッツの‘Sally Go ‘Round The Roses’のような)。しかし純粋に世俗音楽である。女性コーラスがほとんどデュエットの形をとって添えられている。

26.GONNA SEND YOU BACK TO GEORGIA(1967)

共作者のジョニー・メイ・マシューズはかなり豊富な経験を持つレコーディング・アーティストであり、この曲に関しては、私は少なくとも18枚のシングルを知っている。それは9つを超える違ったレーベルから出されている。おそらく彼女(メイ)がSpokane傘下のセプター/ワンドにいた頃ではないか。彼女はタミー・ショウでこの曲を歌っており、1964年にワンドからヒットを飛ばしている。ジェイムズ・カー・ヴァージョンはアレンジにおいて大きく違うところはないが、かなり演説口調になっていて、彼お得意の領域となっている。それは甘酸っぱい皮肉といった感触だ。

27.LET IT HAPPEN(1967)

チャート的に成功した曲である。R&Bチャートで最高位30位4週間圏内にとどまり、ポップチャートでは106位であった。‘The Dark End Of The Street’に続いて発表されが、それは全く自然な流れであった。前曲同様よくできた曲で、ダン・ペンのファンは絶対に失望はしないだろう。静かな雰囲気で淡々としたテンポに乗って、カーは再び彼の力量を目一杯発揮している。完璧な女性コーラスと卓越したピアノ伴奏は、カーのスタイルにぴったりに作られた一級品である。

28.A MESSAGE TO YOUNG LOVERS(1968)

私はこの曲が違ったタイトルであったら、世間の評価も違っていただろうといつも思う。このタイトルは現代の人々の知っている問題を反映してはいない(ジョニー・エイスの‘Pledging My Love’のセールスを傷つけるものではないと言われているが…)。いずれにせよこれは素晴しいレコードであり、最後を飾るに相応しい選択であろう。これほど音楽的にも説得力においてもカーの持つ力量が100%発揮されているのにもかかわらず、チャート入りが果たせなかった事は大変残念である。

ジェイムズ・カーの作品は他のソウルシンガー(ジーン・チャンドラー、アル・グリーン、ジャッキー・ウィルソン、ジェイムズ・ブラウンなど)に比べて乏しいものではあるが、彼がソウルファンにとって心と精神に深く作用する作品を永遠に残したことは紛れも無い事実ある。これら作品は彼のアーティストとして、カリスマとしての驚くべき才能をはっきり示したものであり、非常に価値あるものだ。ソウルシーンは数々の伝説的人物を生み出してきた。しかしジェイムズ・カーほど尊敬と称賛を受けるに至ったシンガーは稀であろう。ここには、今までCDになっていたものを含めて、奇跡のシングル群が収められている。彼のアーティスト性、名声は我々、そして彼のファン全ての人生を実り多いものにしてくれた。我々はジェイムズに対し多大な感謝の気持ちを持ち続けるであろう。

デイヴ・ゴーディン 2001年8月


ホームへ