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The Jam/At The BBC/2002 Polydor Ltd. UICY-9217/9



ザ・ジャムは1975年、76年のロンドンのライヴ・シーンに突如として現れた。若さにあふれたエネルギーを持った彼らは、苛立ちながらアンプに飾りつけられていたスローガン‘情熱とスキル’に恥じない行動をとっていた。シンガーであるポール・ウェラーと巧みなベーシスト、ドラマーであるブルース・フォクストンリック・バックラーからなるグループは、ロンドン新興のパンク・シーンの闘争性と歩調を合わせながら、彼らの愛するアメリカの黒人R&Bと60sモッドを融合させていた。

細身の黒のモヘア・スーツに身を包み、嬉々として自らのレパートリーに古いソウルのスタンダードを加えていたグループは、時に評論家たちから不当にも復古主義者としてのレッテルを貼られていた。しかしウェラーのオリジナル・ソングの数々―彼は1976年5月に18歳になったばかりだった―は思慮深く、今日的であり、先を見据えていた。

1976年7月にロンドンのライシーアム・シアターでセックス・ピストルズを、そしてその数ヵ月後にザ・クラッシュを見て触発されたウェラーは、影響力ある多作な作曲家であった―彼はその時代で最も永続性あるソングライターへと成長した。彼はザ・ジャムに高度な頭脳を持ち込み、1982年に解散するまでにブリテン最大のバンドとなっていた。

ウェラーの故郷であるウォーキングの州立中等学校で、1972年に彼によって結成されたザ・ジャムは、音楽的才能と自信を堂々と誇示することができたし、それは彼らの若さを覆い隠していた。1973年にバックラーが、その翌年にフォクストンが加入してトリオとなった彼らは、1977年の初めにA&Rマネージャー、クリス・パリーによってポリドールと契約を交わすまでに、3年間行動を共にしていた。

レコード契約を交わし、アドレナリンあふれるデビュー・シングル、In The Cityが4月にリリースされる運びとなった。グループはロンドンの小さなパブを中心とした一連のレギュラー出演を公表した。彼らは1977年4月にザ・レッド・カウ、ホープ&アンカー、そしてナッシュヴィル・ルームにおいて極めて重要なギグを行い、ショーのたびにファンを増やしていくことになった。

ファンジン・ライター、パンク・ファンとして、私は前年の夏に初めて彼らのプレイを目にし、すぐにポールの激しいステージと彼のにじみ出る誠実さに心を打たれていた。当時のジャムのギグは騒々しくて衝動的な一つの事件だった。1976年の終わりごろ、ロニー・スコッツの有名なソーホーのジャズ・クラブ2階のフロアで彼らが演奏した時、私はウェラーの創造的で狂暴なギター・プレイに興奮させられたことを覚えている。彼は凄まじいリズム・ギターを弾きながら、その中に焼けつくようなリード・ギターのラインをミックスさせていた。私が思わずステージに上がると、彼はヴォックスのアンプをこなごなに叩き壊してしまった。それは彼のアイドルだったザ・フーのロックンロール的異常行為をほうふつさせるものだった。またある時は、グループは一晩に2回のギグを行なっていた。私はイースト・エンドの町のホールに出演した数時間後に、ロンドン大学のオールナイト・ギグのトリを務めた彼らを見たことがある。

全体的に見て、彼らが取り組んだ価値観は彼らのパンク時代の同輩たちのほとんどを、取るに足らないものと思わせてしまうことにあった。‘あの頃、僕らは1時間プレイしていた。’ ウェラーは回想する。‘でも全ての曲が速かったから、僕にとってはどのギグもあっという間だったね。全てが異常な速さでプレイされていた。僕らはステージでスローなやつをプレイするほどの上品さも巧妙さも持ち合わせていなかったからね。’

‘一晩に2回のショーはクタクタになったよ。’ ブルースはつけ加える。‘最初のアメリカン・ツアーをやっと時のことを思い出すよ。すごく楽しかったけど、僕らだけがそれぞれ黒のスーツを着ていたんだ。2週間後、彼らが全員黒のスーツを着ている状況を想像できるだろ!’

しかし一方でザ・ジャムは高速プレイをしながらも、過去自分たちが影響を受けた音楽によってレパートリーにてこ入れをしていた(ザ・フーの‘So Sad About Us’やマーサ&ザ・ヴァンデラスの‘Heatwave’などだ)。グループは汗をかくこと(perspiration)同様、インスピレーションを明確に表していた。‘大事なのは音楽そのものなんだ。’ ポールは1977年に私にそういったことがある。‘ペリー・コモであれセックス・ピストルズであれ、いい曲かどうかってことだ。’

トリオの引き締まったミュージシャンとしての技量は、ウェラーの洞察力ある詞、シャープなメロディと強く結びつき、それはザ・ジャムが1977年5月にファースト・アルバム、In The Cityをリリース時に、よりいっそう明確な形となって現われていた。そのレコードはバンドの生のエネルギーと興奮を捉えていたが、彼らが怒り狂った3コード・パンクの先を思い描いていたことを暗示させていた。それはとりわけ感動的な‘Away From The Numbers’で感じ取ることができる。いろいろな要素が混じった素晴らしくポップなトラックだ。

In The Cityは、やがてアーチストとして最高点へと達し―そして時には谷間へと落ちることになるウォーキングの驚くべき若者の大胆な処女航海を示していた。しかしザ・ジャムのキャリアは6枚のスタジオ・アルバムと断続的にリリースされるライヴ・アルバムだけに限定されなかった。1977年から1981年の間に、BBCラジオのために行なった多くのセッションと番組‘In Concert’でのレコーディングが彼らのもう一つのストーリーとして残っていた。その我々を引きつけるストーリーが今回ここに収められた。

楽曲は同じであるが、BBCレコーディングでのそのプレイは少しばかり異なっている。スタジオ・ヴァージョンに慣れたファンはその新鮮さ、俊敏さ、そして予期しない展開やアレンジに驚くだろう。1977年においてジョン・ピールのラジオ・ワンのために行なわれた初期のセッションでは、とげとげしい急迫さがギラギラと光り、1981年の‘In Concert’収録曲はより安定した成熟がはっきり見られる。

ザ・ジャム初のジョン・ピール・セッションは1977年4月に、戦前ローラースケート場だったところを改造したBBCのマイダ・ヴェイル・スタジオでレコーディングされた。少しの限られた時間の中で、セッションはIn The Cityからのプリミティヴでエネルギッシュな3曲と、新曲‘The Modern World’をフィーチャーしていた。とりわけまだ正式なレコーディングが行なわれていなかった後者のプレイは、ルーズで本能的だ。しかしセッションは成長著しいバンドの重要で画期的な事件だった。

‘僕は実際のレコーディングよりもラジオでそのセッションを聞いたことをよく覚えてるよ。’ ウェラーはいう。‘曲はライヴ演奏だったけど、それにギターをオーヴァーダブしたりちょっとフィードバックを加えたりできた。最後に歌入れだったね。僕らはうぶだった。自分たちのやっていることに対してあまり深く考えてはいなかった。いちかばちかだったね。でもさっさと片づけていたよ。当時僕らはエンジニアの言いなりになってた。でもそれでうまくいったんだ。今はレコーディング・プロセスについて知りすぎてしまった若いバンドが多いような気がする。彼らはストリングスや特別なエフェクトを入れる方法は知っているけど、自然さを捉えることができないんだ。’

‘レコーディング・スタジオにいるような感じじゃなかったね。’ リック・バックラーはつけ加える。‘時間が決まっていて、まるで椅子に座って試験を受けているようだった!そんな日がすごく長く続いたね。夜の12時ごろまでに最高の出来にしなきゃならなかった。確かなアプローチが求められた―自分に専念する余裕なんてなかった。’

一方ブルース・フォクストンはそのせかされたレコーディングでは、ジャムは100%力を発揮できなかったと考え、あまり好ましく思っていなかった。しかし当時のことは彼にとって懐かしい思い出となっている。なぜならマイダ・ヴェイル・スタジオはBBCセッションの場として、ザ・ビートルズ、ザ・キンクス、デヴィッド・ボウイそしてTレックスらによる歴史を持つからだ。‘ジョン・ピールに会って彼の何年にも渡るラジオでの話を聞くことができたのもグレイトだったよ。’ ブルースつけ加える。

それから3ヵ月後の2回目のピール・セッションは、ザ・ジャムのセカンドLP、This Is The Modern Worldの準備と並行して行なわれた。‘London Girl’はそのアルバムに含まれている。しかしバンドのセカンドLPはパンク色が弱まり、明らかに前作よりもモッド色が強まっていた。それは哀愁を帯びた内省的な‘Life From A Window’‘I Need You’のようなナンバーに現れている。とりわけ77年の終わりから78年の初めにかけては、ザ・ジャムにとって幸福な時期ではなかった。

‘The Modern Worldはかなりのできそこないだったね。’ ポールは認める。‘僕は今でもこのアルバムはそんなに有効だとは思わないよ。ファースト・アルバムを作った時、僕らはその中に入っている曲をすでに2〜3年ステージでプレイしていた。だから今度は全く何もない状態から始めなきゃならなかった。真の試練だった。特にメイン・ソングライターにとってはね。’

バンドの問題はウェラーに深くのしかかった―The Modern Worldに対する芳しくない反応に幻滅し、多くの同輩のパンク・バンドがとり始めた‘うそくさい’態度に失望した彼は、ソングライターとして味気ない期間を送っていた。スタジアム級のロック・バンド、ブルー・オイスター・カルトとの軽率なアメリカン・ツアーのあと、アーチスト的な方向性を見失うことを恐れた彼は、結局ウォーキングに戻り労働者階級の人たちの住む郊外に身を置き、ある意味それに触発されることによって、また曲を書き始めた。

3人のメンバー間の絆とポールの父親であるマネージャー、ジョン・ウェラーの不屈の責任感が、その厄介な時期を処理する助けとなった。彼らはさらに強くなって戻ってきた。のちにポールは私にこういったことがある。‘もし1年半の間、僕ら3人だけで過ごしていたら、解散していたに違いないね。’

1978年7月までにザ・ジャムがBBCのシリーズ番組‘In Concert’のため、リージェント・ストリートのパリス・シアターに出演した時には、彼らの苦悩は完全に払拭されていた。そこではリリース間近になっていたシングル、‘’A’Bomb In Wardour Street’‘David Watts’のカヴァー(ブルース・フォクストンがリード・ヴォーカルをとったキンクス・ナンバー)がフィーチャーされ、のちに何度も繰り返されることになるその年のもう1枚のシングル、‘Down In The Tube Station At Midnight’と見事なサード・アルバム、All Mod Consの雛型が示されていた。

This Is The Modern Worldとリリース間近のアルバムからの曲に焦点の当てられたパリス・シアターのギグは、ザ・ジャムが過去を振り切り前進して行く姿と、後年のウェラーのキャリアにまで続いて行く特性が現れていた。‘とにかく与えられた時間に打ち込み続けることが、僕にとって一番重要なことなんだ。’ 彼はいう。‘僕はいつも自分のグレイテスト・ヒッツを機械的にプレイすることだけは避けようと意識してきたね。’ ポールの考えは他のメンバーも同様だった。ブルースはいう。‘僕らはすぐにうんざりしてしまうから絶えずレパートリーを変えていたね。常にチャレンジしたかったんだ。’

初のトップ10アルバム、All Mod Consの商業的成功と称賛に活気づけられたザ・ジャムは、1979年に新しいピークを迎えた。2枚のシングル、‘Strange Town’‘When You’re Young’は青年期の苦悩と理想主義に重点を置いた最高の詩人としてのポールが表れていた。音楽的にもバンドは息をのむような速さで進化していた。パンクのベーシックなアレンジメントからすでに遠いところまで来た彼らは、ホーンやキーボードを加えることによってサウンドを拡張していった。スタジオでのオーヴァーダブ多用によってグループはさらに実験性を増していった。彼らの名誉は、オリジナルのスピリットを失うことなく首尾一貫して全てを成し遂げてしまった点にあった。

1979年の終わりまでに、3度目のジョン・ピール・セッションとレインボウ・シアターでの‘In Concert’の収録が行なわれた。後者はこのCDの初回プレスに‘ボーナス’ディスクとして含まれている。ザ・ジャムは国民的存在としての道を突き進んでいた。彼らの4枚目のアルバム、Setting Sonsは9月にはすでに完了していた。その2ヵ月後にはピール・セッションが続いた。Setting Sonsのレコーディングは前作よりも時間をかけていたが、のちにウェラーはLPの洗練されたプロダクションについて懐疑的な見解を表明している。この見解に基づけば、ジョン・ピール・ヴァージョンのラフな持ち前はスタジオ・ヴァージョンの滑らかさに対する意図的な反応として魅力的なものといえる。ここでは逆にポール自身はオーヴァーダブする時間がなかったことに、大いに不満を表していたが・・・

それはともかく、簡素なヴァージョンの‘Eton Rifles’(あのおなじみのオルガンによる味付けなしでレコーディングされた)とむき出しになった‘When You’re Young’(一ヶ所で全ての楽器が完全に抜け落ちている)は、あの忘れられないヒット・シングル・ヴァージョンとは対照的な純然性がくっきりと現れている。

1979年12月のレインボウ・シアターでのショーは、彼らの全盛期であった中期のバンドの姿を捉えている。エイルズベリー(イングランド、バッキンガムシアの州都)で3週間前にSetting Sonsツアーをスタートさせていたグループは、ノース・ロンドンの会場での公演までに絶好調の状態にあった。大部分をAll Mod ConsとSetting Sonsのナンバーから披露していた。エキサイティングなステージを続けるザ・ジャムは、ショーのペースをゆるめることなく、かつてないほどの野心にあふれていた。‘Saturday’s Kids’に対するののしりの言葉がウェラーによって浴びせられ、‘Tube Station’ではバックラーのタムタムによる一斉射撃を聞くことができる。David Wattsの振る舞いに対するクライマックスとして、フォクストンはその詞、“take my exams”の途中で言葉を切り、“fucking hell”と文句を言う。ステージ前で‘mosh-pit’(客同士が故意にぶつかり合って踊ること:mosh)が起こり、フォクストンのじゃまをしたことは明らかだ。

‘レインボウのギグで一番印象に残っているのは、ビリビリに引き裂かれた座席を見たことだね。’ ポールは回想する。‘あそこにはオーケストラ席(舞台のすぐ前)があったんだけど、よく壊された座席が放り投げられて高く積まれていたね。あの当時のショーで僕が一番よく思い出すのはオーディエンスの激しさだ。僕を含めてみんな真剣に受け止めていたけどね。何かをしようと思うなら、それに責任を持たなきゃいけないと思う。あそこには何か激しい熱狂の空気が渦巻いていたよ。たまにそれはヴァイオレンスなんかに発展して違う方向へ向かったりするんだけどね、でも凄くエキサイティングには違いなかったな。’

1980年、NMEの人気投票において、ザ・ジャムは全ての部門で1位を勝ちとり、賞を総なめにしてしまった。それによってNMEのライターだった私は、そのニュースを伝えるべくロンドンのタウンハウス・スタジオにいるグループの元を訪れるという恩恵に与った。そこで私はバンドが制作中だったニュー・シングル、‘Going Underground’のプレヴューをする機会に恵まれた。そのプロセスにはグループの成果が存分に反映されていた。リックとブルースはポールと同様に曲に貢献していた。数週間後、‘Going Underground’は初登場でチャートのトップに立ち、ザ・ジャムは1973年のスレイド以来の偉業を成し遂げてしまった。

‘僕はいつも自分たちの成功は草の根から始まって上向きになった結果だと感じていたね。’ ポールはいう。‘僕らは何も大げさな宣伝や売り込みなんてやっていなかった。ザ・ジャムは(ある意味)音楽産業から出てきたバンドじゃなかったんだ。僕らはハードにライヴをやって働いてきた。‘Going Underground’の前、何かに向かって大きな高まりがあるような予感はあったね。人々はギグでいっそうエキサイティングになっていって、全てがどんどんと熱狂的になっていった。本当の大きなうねりがあったんだ。’

リックによれば、当時自分たちの成功を正しく認識することは、バンドにとって難しいことだったようだ。彼らはバランスの取れた見方をするには単に渦中にいすぎたわけだ。‘僕らは自分たちがビッグだなんて思ってなかったよ。’ 彼はいう。‘ある町へ行くと、会場の外に巨大な行列があったのを覚えている。僕は時々、彼らは何のために並んでいるんだろうと不思議に思うことがあった。で突然、あ!彼らは僕らに会いに来たんだって気づくんだ!’

1980年はザ・ジャムにとってもう一つのゴールデン・イヤーだった(2枚目のナンバー・ワン・シングルとなった‘Start!’と、素晴らしくサイケデリックな5枚目のアルバム、Sound Affectsの年だ)。全体の音楽的傾向は80年代初頭に変化していった。‘ニューロマンティック’ポップの出現によって、多くのファンと評論家たちはロックの社会性を疑い始めていた。一方でウェラーはより政治色を強めていき、またクラブ・カルチャーにも没頭していた。新しい時代のためのバンドの新たな方向性を持つのは容易いことではなかったが、それこそが彼が切望していたことだった。

ラジオ・ワンのB15セッションをバンドが収録した時までに、いくらかの変化が明白となっていた。レコーディングはホーンが大々的にフィーチャーされた‘Absolute Beginners’と‘Sweet Soul Music’(アーサー・コンレーのカヴァー)によって成り立っていた。それに対し、‘Funeral Pyre’はフォクストンとバックラーの生でファンキーな弾力性あるプレイをフィーチャーしていた。B15セッションは愉快な視聴者参加番組としてオンエアされたが、それは電話をかけたファンたちの地域的な幅広さにおいて目を見張るものがあった。ホーム・カウンティーズ(ロンドンを取り巻く諸州((特にエセックス、ケント、サリー、ハートフォードシア)))のアクセントのファンから、プレストン(イングランド北西部ランカシアの州)、コービー(イングランド中部ノーザンプトンシア北部の鉄鋼業の町)の少女たち、それにニューカッスルの公衆電話からかけてきた青年などだ。ザ・ジャムはまるでザ・ビートルズ初期のような真の‘一国民’バンドだった。

グループの次なる方向性は、よりソウルフルでダンス・リズムを強調したサウンドと、ポールの詞における社会意識の拡大だった。核軍縮キャンペーンとロック・アゲンスト・レイシズムのための慈善コンサートは、ウェラーの増大する政治的関心を反映していた。スローなナンバーがバンドのセット・リストに加えられ、その変化はゴールダーズ・グリーン(ロンドン北部)のヒポドロウム・シアターで行なわれたBBCのIn Concert収録時に明確となっていた。この1981年12月のギグは、ジャムの6枚目のスタジオLP、The Giftの予告編となっていた。アルバムは翌年3月にリリースされた。

ファン・クラブの集いの日であるそのコンサートは、長年の支持者であるゲイリー・クロウリーによって紹介された。彼は‘マジック・バンドのためのマジック・ハンド’として熱心なファンたちを招待した。そのショーはロンドンでの4つのギグのすぐあとに続いたが、ステージはDJたちを伴い、昔のソウル・レヴューに似ていた。新たにブラス・セクション(サックスにスティーヴ・ニコル、トランペッターにキース・トーマス)が加えられていたが、からかい半分の‘イートン・ライフルズ・ダンス軍団’の支持はありそうにもなかった。

ミュージシャンとして、ザ・ジャムはシンコペイトしたファンキーな流動性あるプレイをし、それは‘Down In The Tube Station’や‘In The Crowd’のような古いナンバーにも適用され、新しいレヴェルへと高められていた。また新曲の数々も披露された。屈強なリアリズムである‘Town Called Malice’と猛烈なホワイト・ファンク、‘Precious’はまもなく彼らの3枚目のナンバー・ワン・ヒットとなった。一方‘The Gift’‘Circus’(この時点ではタイトル未定)は全盛期のトリオらしい説得力ある手際良さだった。

The Giftはグループ初のチャート・トップとなったアルバムだったが、水面下では緊迫状態にあった。ウェラーは3ピース・バンドの限界を超えて視野を広げることをしきりに望んでいた。彼がいうように事を進めなければならなかった。‘僕は同じ事をずっと続けることはできなかった。1982年で僕らは10年間一緒だった。僕はあとどれくらい一緒にできたかどうかは分からない。僕は何か違うことにトライしたかったんだけど、そこにリックとブルースは含まれていなかったんだ。彼らを軽視してるわけじゃなくて、僕は単に他の誰かを必要としてたんだ。ザ・ジャムは制約のあるバンドになってしまって、それからしばらくして動き出す時が来たんだよ。’

ウェラーが心配していた不満が自分の中からじわじわと現れ始め、ついに1982年10月に解散決定が伝えられた。バンドはさらに2枚のシングル、‘The Bitterest Pill(I Ever Had To Swallow)’‘Beat Surrender’(4枚目のナンバー・ワン・ヒット)をリリースし、さらにフェアウェル・ツアーの前にライヴ・アルバム、Dig The New Breedをリリースした。彼らが1982年12月2日にブライトン・カンファレンス・センターで最後のショーを完了した時点で、ザ・ジャムは英国最大のバンドになっていた。ポール・ウェラーは24歳だった。

‘ザ・ジャムは今でも多くの人々にとって意味のあるバンドだ。なぜなら僕らはふさわしい時にバンドを終わらせたからだ。’ ポールはいう。‘僕らは死にかかってなんかいなかったし、The Giftはいい内容だった。僕らはそこからさらに前進したし、最後のツアーではそれまでの僕らのベスト・ギグもできた。僕らは‘In The City’をやったし、すごく長い間やってなかった古いナンバーもやったよ。すごく楽しめたギグだったね。‘

そのツアーはブルースとリックにとっては、より困難なものだった。一方ウェラーはザ・スタイル・カウンシル結成に動き出したが、彼らの未来は不確かなものだった。しかしジャムの曲が語っているように、彼らは正しいペースでうまく切り抜けてきたし(訳注:they got by in time―1stアルバム収録‘I Got By In Time’のこと)、今でも誇らしくその豊富な遺産を思い出すことができる。‘ザ・ジャムはいつもファンと共にあったね。’ リックはいう。‘当時のファンだった人々は今でもファンなんだ。そして僕らは今でも新しいファンを増やしているよ。僕は19歳の若者と会ったりするけど、彼らは僕らが解散したあとに生まれてザ・ジャムのファンになったんだ。僕らは時代遅れの恐竜として終わらなかったし、ローリング・ストーンズに化けることもなかった。振り返ってみれば素晴らしいことだね。’

‘最初、僕は最後のツアーでプレイすることを拒否したんだ。’ ブルースは回想する。‘正直言って僕は自分の張り詰めた感情をどうコントロールしていいか分からなかった。8000人の前でプレイするのはとても辛かったんだ―僕らはウェンブリーで5日間プレイした―これが最後なんだって思いながらね。まあ、それはそれだ。今25年が過ぎて僕らはまだここにいる。僕らの作ったレコードは今でも当時と同じように新鮮なサウンドを響かせている―僕は本当にそれを誇らしく思うね。’

ポールは90年代にソロ・アーチストとして復活を遂げた。ジャムの歌は常に特別な響きを持ち続けるであろう。彼が2001年にソロ・コンサートをした時、その中には‘That’s Entertainment’‘Town Called Malice’そして‘Butterfly Collector’といった古いジャム・ナンバーが混じっていた。

何曲かのジャムのマテリアルはその後のアコースティック・アルバム、Days Of Speedに収録されることになった。そして私が2001年のアルバート・ホールでウェラーが一杯になったオーディエンスを魅了するのを見ていた時、シンガーとファンの間の驚くべき信頼関係を垣間見ることになった。それは‘Walking in a Weller Wonderland’というシュプレヒコールであり、ウェラーが一つの作品として、ついに自らの25年間のソングライティングを俯瞰することを決めたことに対する歓迎の意だった。

‘もう一度当時の曲をやるのもいいかなと思ったんだ。’ 彼はいう。‘そこには共有できるフィーリングがたくさん存在するんだ。すごく密接なものだ―僕と、僕の歌と、僕のオーディエンスの間のね。’

Adrian Thrills


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