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The Jam/All Mod Cons Deluxe Edition/2006 Polydor Ltd. 9839238



All Mod Consで僕らはどこか違うところへ行こうとしていた。新しい方向へ向かってね。僕らは自分たち自身のシーンを創り上げようと、バンドとオーディエンスの間の壁を取っ払ったんだ。”―ポール・ウェラー、2006年

28年前、パンクは停滞していた。78年1月、うんざりしたジョニー・ロットンは騙されたような気持で、サンフランシスコ、ウィンターランドでのセックス・ピストルズのステージを降りた。7月までに彼はジョン・ライドンの名の下、新しいポスト・パンク・サウンド、PILで角張った貧弱なリズムとへヴィなダブを装った音楽を実験し始めていた。

同月、ピストルズのポール・クックとスティーヴ・ジョーズはよろめきながらも、列車強盗のロニー・ビッグスを担ぎ出し、シド・ヴィシャスによるフランク・シナトラのMy Wayのカヴァーとのカップリングで、No One Is Innocent(A Punk Prayer)をトップ10ヒットに送り込んだ。ザ・クラッシュはブルー・オイスター・カルトで有名だったアメリカ人プロデューサー、サンディ・パールマンと手を組み、セカンドLP、Give ‘Em Enough Ropeを制作したが、メインストリームのロックに魂を売ったとしてプレスに叩かれようとしていた。シャム69はAngels With Dirty FacesとIf The Kids Are Unitedによってそのチンピラ・パンク芝居を演じ商売を行なっていた。一方で彼らのポリドール・レーベル仲間、ザ・ジャム―ポール・ウェラー(ギター、ヴォーカル)、ブルース・フォクストン(ベース、ヴォーカル)、リック・バックラー(ドラムス)―は、もがき苦しんでいた。前年のザ・ジャムのデビュー作、In The Cityは、彼らの所信表明のようなものであった。

デビュー作がリリースされた時たったの19歳だったウェラーは、すでにそのソングライターとしての才能と、年齢を超えた完成度を示していた。パンク同様、ザ・フーとドクター・フィールグッドに大きな影響を受けたアルバムは、彼らの猛烈なスピードのライヴの爆発的なエネルギーをとらえ、大物になる可能性を大きく示していた。しかし続くアルバム、たった半年後にリリースされた、よりメロディックなThis Is The Modern Worldは、あわただしく作られた感があり、どこか未完成な出来であった。結果的にプレスの反応は惨憺たるものであった。そしてバンドは世界の舞台へと進むべくアメリカへ飛んだ。“ブルー・オイスター・カルトとビ・バップ・デラックスと一緒だった。”ブルース・フォクストンは回想する。“全くひどい企画だったね。僕らはスタジアムで大観衆に向かってプレイしたんだけど、僕らに待ち受けていたのは1万5千〜2万人の大ブーイングだった!”

“ああ、ひどかったね。” 見栄えのいい清潔でほっそりとしたモッド・スタイルの頭髪、茶色のハリントンのジャケットにOne Small Stepと書かれたバッヂをつけ、黒のスラックスとローファーをはき、ソーホーのバー・イタリアでエスプレッソをすする今日のポール・ウェラーは認める。“僕らのエージェントのアイデアだったんだ。彼はいいアイデアだと考えていた。僕らはもっと多くの人たちにうけるはずだっていうね。それからアメリカのマネジメント契約を獲得する話があったんだ。でも完全に失敗に終わってしまった。全くの悪夢だったね。僕らは続けて3つか4つのギグをしたけどがっかりだった。僕らは自分たちの考える最新のパンク・シーンから出てきたバンドだったし、自分たちはヒップで新しいと思っていたんだけど、何か5年前の世界にいるように感じた。数人のパンクスとネオ・モッズを除いて、オーディエンスはみんなロックンロールのTシャツにジーンズだった。僕にとっちゃ彼らはみんなブルース・スプリングスティーンに見えたよ。はっきりって大嫌いだった。パンクのあとじゃ反動的な存在に感じていたんだ。僕らはThe Modern Worldが失敗して落ち込んでしまっていた。挙句の果てにこのツアーだ。僕らは落胆してしまって、尻尾を巻いてイングランドに戻ったよ。”

さらに悪いことに、ポリドールのストラトフォード・プレイスのスタジオでレコーディングされたThis Is The Modern Worldに続く最初のデモ・テープを聞いたプロデューサーのクリス・パリーは、それに何の感銘も受けなかった。ザ・ジャムと契約したポリドールのA&Rマンがパリーだった。“僕はポリドールがザ・クラッシュと契約しなかったことにいらいらしていたよ。”彼は回想する。“僕がシェイン・マッゴーワン(のちのポーグス)とばったり出くわした時、彼は‘クリス、クラッシュを逃したのはとんだドジだよ。’といった。で、続いてこういったんだ。‘マーキー・クラブに行ってザ・ジャムを見てきなよ。彼らはいいよ。’ってね。僕はシェインのいうとおり土曜の晩にマーキーに向かった。マーキーのポスターには最初に彼らの名が載っていた。僕はポールとそのエネルギーにすごく感動してしまった。彼らはステージ上ではちょっと荒々しかったが、ポールといろいろと話をしてみると、彼は本当に魅力的な人間だと思った。彼はザ・フーが在籍していたポリドールのことをよく知っていたから、僕がポリドールから来たってことで気に入ってくれたんだ。僕は2週間後にスタジオに来るようにいって、彼らとベーシック・デモを何曲かレコーディングしたんだ。それを僕は自分のボスに渡して‘私たちはこのバンドと契約交渉中だ。’っていったよ。彼らのサード・アルバムのころまで僕は彼らをよく知っていたし、ポールが曲作りでもがき苦しんでいたことも知っていたよ。”

“僕らは6〜7曲を書き下ろした。僕が1曲か2曲で、残りはブルースが書いた曲だった。”ポールは説明する。“全てが本当にひどい出来だったね。全く何も引っかかるところがなかったよ。僕の曲もただのゴミだった。でもそれが僕らの全てだった。僕らはクリスのような人間を必要としてたんだ。彼はいった。‘これはゴミだ。’ってね。全く正しい言葉だった。彼はもう一度やり直す必要があると僕らに告げた。僕は思ったね、ああ、ありがたい言葉だってね。”

ポールはガールフレンドのジル・プライスに救いを求め、二人はロンドンに自分たちの居場所を移した。“僕はこう思ったのかもしれない。ザ・ジャムの終わりだってね。もういろんなことに悩まされたくなかったんだ。”当時のプレスには、ポールは音楽に背を向け、ブティックを開くことを考えているという記事まであった!

パリーの拒絶はしかし、ポールの奮起に拍車をかけることになった。“振り返ってみれば、ケツを蹴り上げるようなもんだった。でもポールが壁にぶち当たったのは、この時が最後じゃないよ(似たようなケースは彼が自らの名を付したデビュー作とWildwoodでのHas My Fire Ready Gone OutからInto Tomorrowの頃にも見出せる)。”1週間ポールはロンドンとウォーキングの両親の間を行ったり来たりしながら、新曲群を書き下ろした。

にもかかわらず、最初の打ち切られたセッションから1曲のカヴァー・ヴァージョンが再レコーディングされ、これが1978年8月にグループをシングル・チャートのトップ30に復活させることになった。騒々しく乱暴なキンクスのカヴァー、David Wattsと(そのB面の)どなりつけるようなパンク的糾弾である‘A’Bomb In Wardour Streetは、最初ミッキー・モストのRAKスタジオでレコーディングされ、その後ヴィクトリア時代の校舎とロンドン、セント・ジョンズ・ウッドの教会のホールへと移されレコーディングされた。

ポールはアメリカにいた時に、中古レコード屋でキンクスの1967年のLP、Something Elseを手に入れた。このレコードは青年時代のホームシックを刺激するイングリッシュネスにあふれていた。“僕は最初Billy Hunt(取りやめになったセッションの中の1曲)を最初のシングルとしてリリースしたかったんだけど、ポリドールが却下したんだ。あとになって考えてみれば、彼らが正しかったね。David Wattsは僕らを正しい道に引き戻してくれたんだから。”

一方の‘A’Bomb In Wardour Street(David WattsのB面)は、パンク・シーンの中でポールが表明した辛辣な糾弾だ。「俺は渦の中に巻き込まれていた/頭を蹴られ血が噴き出した」 彼は歌っている。“僕はいわゆる当時の流行に我慢がならなかったんだ。”ポールはいう。“僕はSham69は偽物だと思った。sham(詐欺師)はまさに彼らにふさわしい名だった。彼らはとんだ偽善者だった。‘A’Bomb In Wardour Streetはパンクが堕落しきっていたことに対する僕の表明だったんだ。僕はオリジナルなもの、あるいはオリジナルなものとして知覚できるものはグレイトだと考えていたけど、それは酒と安いアンフェタミンと争いに成り果ててしまった。バイカー・ジャケットのユニフォーム一団とシドはクズに見えたね。でもどんなシーンであれ、君が好きなものを選んでそれに順応すれば君自身になれる。それが僕たちのしたことだし、そこからAll Mod Consが生まれ、ザ・ジャムの支持が生まれたんだ。僕たちにとってバンドとオーディエンスの間のコミュニケーションのとり方は、ある意味全く独特なものがあったね。”

パリーはそのシングルをプロデュースしたが、次のシングルDown In The Tube Station At Midnightまでに彼はプロデュース業務から外されていた。“僕はプロモーションとマーケティングで凄く忙しかったんだ。当時ポリドールはインディみたいなものだったから、僕は何でも自分でこなさなきゃならなかった。僕はジョン(ウェラー:ポールの父親でジャムのマネージャーだった)とも働いていて、彼はまだビジネスを学んでいる最中だった。”クリスは説明する。“エンジニアのヴィック・コパースミス・へヴンはRAKレーベルの人間だった。レコーディングの最初の週に出かけて行った時の差し迫った雰囲気は今も覚えているよ。ある日ジョンは僕を見つけて言った。‘君は離れた方がいい。彼らは君を解雇しようとしている。もう居てほしくないようだ。’ってね。僕はその言葉を理解した。それで彼らと話して仕事を降りた。ブルースとリックは断固として僕に居てほしくないみたいだった。ポールはもっと現実的だった。こんなことをいってたね。‘君は楽器を弾くわけじゃないし、サウンド・ボードをいじるわけじゃないから君の意見は必要ないんだ。’とね。” “キッチンにいる料理人が多すぎるようなものだったんだ。”ブルースはいう。

その後すぐにパリーはザ・キュアーと共に、ポリドール傘下に発足したFrictionレーベルを手がけるようになった。同時にザ・ジャムは新しいプロダクト・マネージャー、デニス・マンデイを与えられた。彼はポリドールのジャズA&R部門から移ってきていた。そこではカウント・ベイシーとエラ・フィッツジェラルドのセッションに参加していた。“ザ・ジャムと仕事をすることは僕にとって悪いタイミングじゃないはずだったんだけどね。”彼は回想する。“悪夢だったよ。初めの頃、僕たちはうまくいかなかった。なぜかっていうと、彼らがポリドールに対して抱いていた問題のためで、彼らは僕のことを会社のスパイとして見ていたからなんだ。”しかしそれにもかかわらず、リリースと同時に手際よく店頭にレコードを並べるというマンデイの仕事は、すぐに店側からの好印象を受けた。

“彼らを見た時はまるで自分自身を見ているようだったね。僕は最初のモッド世代だったし、同じワーキング・クラス出身だったから。僕は最初から彼らと誠実に付き合おうとしたし、何もたくらんじゃいなかったよ。僕は典型的な会社人間じゃなかったし、いつも会社とケンカして主張していたから。”マンデイはまた、パリーのA&Rとしての役割を引き継いだ。パリーのジャムでのプロデュース業務はしばらくの間、エンジニアのヴィック・コパースミス・へヴンの手に移ることになった(訳注:結果的にアルバムSound Affectsまで、ヴィックとジャムの共同プロデュースの形となった。最終作The Giftはピーター・ウィルソンとジャムの共同プロデュース)。

コパースミス・へヴンの経験は確かなものがあった―彼はローリング・ストーンズ、キャット・スティーヴンス、そしてジョー・コッカーのエンジニアを担当し、ザ・クラッシュとジェネレイションXのデモ・セッションに立ち合い、すでにジャムではIn The CityとThe Modern Worldでエンジニアを担当していた。“The Modern Worldのあと、みんなちょっと落ち込んでいたね。In The Cityから大きく飛躍することにはならなかったから。”ヴィックはいう。“ファースト・アルバムでは、僕たちはすでにあった曲を表現していたんだ。だからエンジニアの仕事の大半は、ベスト・パフォーマンスを選ぶことだった。All Mod Consではまず創造性が最優先された。新しいサウンドの追求と、より洗練されてはいるけどサウンドの中に完全なジャムの‘音’(snap)が保持されているようなね。”

Down In The Tube Station At Midnightがまさにそれだった。単なるプロデューサーの域を超えて、コパースミス・ヘヴンはポールの測り知れない才能を育てることができた。それは今までとは違うサウンドの響きを実験するよう、ポールを駆り立てたことだった。“ヴィックは単にジャムのサウンドに対して重要な存在だっただけじゃないよ。”ブルースは指摘する。“アイデアとアレンジメントにも関わっていたんだ。例えばそのあとのシングル、Strange Townのハーモニー・ギターは彼の提案だった。”

とはいえ、その前にヴィックはポールに対してDown In The Tube Station At Midnightに取り組む時に、彼の主張する歌を“一気に書き上げる”よう説き伏せていた。“僕がスタジオに詞を書いて持って行った時のことを覚えているよ。”ポールはいう。“ヴィックは凄く励ましてくれて、‘これはグレイトだ’といったね。僕は曲の曖昧なコード・プログレッションが気になっていたんだけど、彼ははやく終わらせてしまうように僕を駆り立てたんだ。その時僕はあまり自信を持てなかった。”歌詞的にDown In The Tube Station At Midnightは、都会の忌まわしい暴力に言及した彼の最も首尾一貫した物語が綴られている。音楽的にもまたこれは野心あふれるものであった。ブルース・フォクストンのゴロゴロというベース・ラインと、イントロとアウトロには、セント・ジョンズ・ウッド・ステーションのプラットフォームで録られた地下鉄のノイズが加えられている。“かなり古いナグラ(Nagra:商標)の7.5インチ/秒のアナログ・テープ・レコーダーにステレオのマイクを使った。RAKスタジオから借りたんだ。”ヴィックはいう。シングルは10月6日(78年)にリリースされ、トップ20にチャート・インした。

“僕はヴィックとまだ関わっていたんだ。”クリス・パリーは回想する。“僕はAll Mod Consから退いたけど、まだいろんな事で関わっていた。だからアルバムの出来をチェックしたくて、出来上がったら聞かせてほしいといったんだ。そしてある日ヴィックは僕にDown In The Tube Station At Midnightのテープを渡してくれた。僕は当時エルストリー(ロンドン北西)に住んでいた。で、うちに帰るまで車の中で聴こうと思ってテープをセットしたんだ。流れてきた音楽がそれは素晴らしかったもんだから、僕はセントオールバンズまでドライヴしてからまたエルストリーに戻ってきた。ずっとテープを止められなかったね。”

もう一つのアルバムの中での大胆な挑戦である内気で少々厄介なナンバー、English Roseを収録するよう強要したのもヴィック・コパースミス・ヘヴンだった。これはポールがアメリカにいる時に書いた曲だった。まるでスリーヴに表記せずシークレット・トラックとしたビートルズのAbbey Road収録の‘Her Majesty’を思わせるナンバーだ。“僕は実際すごくうろたえていたね。”ウェラーはいう。“すごくソフトだったから。当時はみんな攻撃的なサウンドにハマっていたから全く異質だった。It’s Too BadとFlyみたいなトラックでも僕らはすごくソフトな面を示した。”

ヴィックはEnglish Roseのレコーディングを覚えている。“ポールはバンドの真ん中で、いすに座ってライヴ録りしたんだ。ポールのEnglish Roseでのヴォーカルは、アルバムのコンセプトにうまく合致することになった。単なるギターとヴォーカルのみのアコースティック・ライヴだったんだけどね。RAKスタジオの木造の部屋がナチュラル・サウンドに大いに役立ったね。”トラックに対するサウンド効果を提案したのもヴィックだった。“アルバムの中でその歌は美しくはあるけど、少しばかり剥き出し状態だった。でも僕はいつも雰囲気のあるレコーディングに身を置いてきたんだ。僕がサウンドに付言し始めて、バンドがそれに反発するかどうかは定かじゃなかったよ。でもみんなこのアルバムに何か違う新しいものを求めていたと思うし、English Roseはそれにぴったりだったんだ!”

しかしAll Mod Consのどのトラックも輝いていた。荒々しいBilly Hunt―現代の嘘つきビリーはそのパンク・ビートをぶったたき我々を釘付けにする―そしてMr Clean・・・特権擁護に対する燃えるような告発は、ピリッとしたレイ・デイヴィス・スタイルに特徴づけられる。“レイは天才だね。彼はイングランドについて言及する数少ないライターのうちの一人だ―階級制度のようなね。Did You See His Name?みたいな曲を聞いていると思うんだけど、彼が書き上げる筋書き―小さな家に住む男が自分を嘲笑するような―がすごく好きなんだ。そこには寒々としたイメージがあるけど、それはメロディで埋め合わされていて、ただ陽気ではないすごく深みのある音楽なんだ。そういう緊張感をこのアルバムで出したかったんだよ。”

To Be Someone(Didn’t We Have A Nice Time)はウェラーの半ば自伝的な曲であり、ロック産業のポップ・スターとその偽善的な性質について思いをめぐらせたものだった―“あの曲はThe Modern Worldのアルバムのレコーディングとリリースの経験から生まれたものだった。”ポールは思い返す。“僕はいかに人が豹変するかを見たんだ。とりわけレコード会社の人間たちの僕らに対するものだね。いきなり一時期だけちやほやされて、外に出て行って売買成立ってわけ。僕はそれが何か他とは違うなんて幻想など持ったことはなかったけど、それが全ての音楽産業に対する僕のシニシズム(冷笑的態度)を確実なものにしたんだ。全ては僕にとって皮肉の対象となった。タイトル・トラックのAll Mod Cons(モッド詐欺師)は、ポリドールに向けた直接的な当てこすりだった。”対照的なFlyとThe Place I Loveは、より繊細な事情をはらんでいる。前者はジルからインスパイアされたラヴ・ソングで、のちのポールのソロ・キャリアにおいて、より追及されるようなサウンドを暗示させる。後者はポールの瞑想的な英国賛歌だ。“僕がいつでも戻っていけると考える場所であり、それはウォーキング(ポールの生まれ故郷)を取り囲む田舎を始めとする田園風景なんだ。もちろんそこは現実の場所だけど、それを超えたイメージとしての何か聖域というか理想郷のことだ。ノスタルジアっていうのはまさにイングランド的なものだね。レイ・デイヴィスの曲でも聞けるように、イングランド的なメランコリアに引きつけられるね。僕は時の経過について歌っているんだ。僕は新しいことに取り組もうとしたけど、そこには切ないメランコリアが存在していると思う。例えば元々存在してなかったとしても、何かを失ってしまったようなね。この歌はそういうことに深く結びついているんだ。”

もしかするとアルバムで際立っているのが、In The Crowdのサウンド・スタイルかもしれない。クアドロフェニア(ザ・フーの四重人格)風の青年期のあがきと仲間のグループに属することについてのナンバーだ。2006年になってもポール・ウェラーのソロ・ライヴで今なおプレイされる数少ないジャム・ナンバーのうちの1曲だ。“当時は僕らがライヴでプレイするのを避けていた多くのジャム・ナンバーがあった。何曲かは単に再現不可能な曲だったから。3人編成では完全に制限されてしまうんだ。僕らはレコード上では装飾のためにギターをオーヴァーダブしていたけど、それをステージで再現するのは難しかったから、僕らはステージではよりベーシックなプレイになっていた。今はスティーヴ・クラドック(ギタリスト)がいるから簡単にできるようになったね。彼はすごくいいハーモニー・ラインを弾くことができる。この曲の快感を経験したオーディエンスをがっかりさせることは今はないんだ。実際この曲の中間部分なんかを考えれば、これをセット・リストから外すのは難しいな。中間部から最後のヴァースに向かって徐々に高揚して行き、全てが最高潮に達して真の恍惚感に包まれるんだ。”

困難な情況下から生み出されたAll Mod Consは、78年11月にリリースされ、グループ初のトップ10入りを果たし、アルバム・チャートの6位まで達した。“僕らはみなスタジオの中でいい状態にあるのは感じていたね。”ブルースは断言する。“バンド・メンバー間の雰囲気はばっちりで、それがレコード上に刻まれたんだ。僕にとっては仕事って感じじゃなくて、僕らが愛情を傾けていることに一心に打ち込んでいるような感じだった。二人の素晴らしい仲間と共にライヴをやって、素晴らしい曲をレコーディングして、収入を得る。これ以上望むものはないよ。”

“All Mod Consのレコーディング中、ザ・ジャムは一つの家族のように僕には感じられたね。”ヴィックは回想する。“メンバー全員の支払いのためのバンドの小切手帳を持ったジョン・ウェラー含めてね。仕立て屋がステージ・スーツのサイズを測りに来る時でさえ、きっちりとセッティングされていたようだった。”

アートワークも素晴らしい試みだった。インナー・スリーヴにはポール、ブルースそしてリックのお気に入りのものを載せたポップ・アート・コラージュが施されていた。ザ・クリエイションのBiff Bang Powの7インチ・シングル、ジュニア・ウォーカー&ジ・オール・スターズのRoad Runnerの7インチ、100クラブのマッチ箱、アルバム、Sound Like Ska、そして泡の立ったコーヒーなどだ。これはのちにポールによってザ・スタイル・カウンシルのOur Favourite Shopと彼のソロ・アルバム、Stanley Roadそれぞれのジャケットで適用されることになった。“僕はいつでもあそこに戻れるんだ。”ポールはいう。“僕はああいったトーテム((人間集団や個人が、自分たち(の祖先)と特別な結びつきがあるととらえている自然物・事象))が好きなんだ。個人のパーソナリティについてなるほどなって思えるようなね。”フロント・カヴァーのバンド名とアルバム・タイトルに使われたイミディエイト・レーベルと同じレタリングは、さらにポールの出自を示す手がかりを与えてくれる。

All Mod Consはザ・ジャムの最初の才能を示すにぴったりの傑作となった。次作のLP、Setting Sonsと、同時期に出たシングル、The Eton Riflesが両方ともトップ5に入るまでに、ザ・ジャムは不動の地位を確立し、多くの支持を集め、ライヴはどこもヒステリック状態となった。ポールはいやいやながらも、‘世代の代弁者’と見なされ、モッド・リヴァイヴァルと称された中で看板役となった。

“最初に僕がAll Mod Consを聴いた時は、”デニス・マンデイはいう。“確信したね、いかにポールが才能にあふれているか、いかにファースト・アルバムから彼が成長したかってことをね。そしてこれはポリドールの多くの人間にショックを与えた。これはレコード会社が欲しがっていたようなアルバムじゃなかった。会社はIn The CityとThe Modern Worldみたいな曲で埋め尽くされたアルバムを望んでいたんだ。レコード会社は、パンクはいずれ内部崩壊して全てのバンドは船と共に沈んでいくだろうと考えていたことは明らかだった。しかしAll Mod Consはザ・ジャムがはるか彼方へ行ってしまったことを示していた。そう、彼らはどこかへ行ってしまったんだ。”

クリス・パリー:“とんでもないレコードだと思ったよ。これは彼らの自信とアイデアの輝きを示していた。そしてポールに完全に焦点が当てられていた。彼らは次に進み、成熟し、幼年期を脱し、新しい領域へ踏み出したんだ。これは彼らのZiggy Stardustであり、Revolverだった。”

“つまりギアがステップ・アップしていたんだ。”ポールはいう。“全てがより熱狂的になった。僕らに対する反応、僕らに対する人々の扱い方が変わった。あまりに忙しかったから、ザ・ジャム時代の多くのことは思い出せないな。僕らはツアーをしているかレコーディングをしているかのどっちかだったし、それがない時には僕は次のレコードのために曲を書いていたから。ゆっくり座ってそれを評価する時間なんてなかった。ただ急ぐだけだったよ。でも僕らはこのレコードでどこか違うところへ行こうとしているのは分かってた。僕にとってパンクはもう死んでいた。僕らは3人でその最良の部分を取り入れて、特別なものを創り上げたんだ。僕らはファンたちをサウンド・チェックに招いていた。一人や二人じゃなくて何百人ものファンだ。それは追加の昼公演みたいなものだった(違うステージ・ウェアでやったこともあった)。でも今その時に来ていた人々に会うと12歳か13歳の子供だった彼らにとって、それがどれほど意味のある大切なことだったかっていってくれるよ。僕らは人々がつながりを持つことができるってこと、僕やブルースみたいな公営団地出身の人間が必死こいて働く必要なんてないってことを言ってきたんだ。僕らはポーズをつけたり、何か僕らは違うなんてことをいう必要なんてなかったね。僕らは単に僕ら自身になるだけだった。”

それから28年間、今なおポール・ウェラーはソロ・アーチストとして傑出した音楽を創り続けている。彼は2006 Brit Awardsにおいて、音楽に対して優れた貢献をしたとして賞を授与された。ブルース・フォクストンは現在、カスバ・クラブでサイモン・タウンゼンドと共にバンドを組み、ベースをプレイしている。リック・バックラーは現在The Giftでドラムスを叩いている。

ロイス・ウィルソン、モジョ・マガジン ジョン・ハリントンに感謝する


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