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Jade/Fly On Strangewings/2009 Sunbeam Records SBR2CD5068



私は家族が住んでいたお店の地下で、学校の友人たちとグループを組んで歌い始めた。ドラマーの名前はダニー・カーワンだったわ。ある日、彼は私のギターを貸してくれって頼んだんだけど、あっという間にうまく弾けるようになって、その後もちろんピーター・グリーンといっしょにフリートウッド・マックに入ることになったわ。1966年に私は地下から出て、ロンドンとサリー州郊外のフォーク・クラブに移った。私は友人のマルコム・ロウズといっしょに南ロンドンのバタシーにあったパブ、ナグス・ヘッドのフォーク&ブルース・クラブでプレイした。他のクラブを経営していたデヴィッド・ジョーンズとコリン・ディーコンのすすめで、彼らは私の最初のマネージャーになって、私は曲を書き始めた。それから彼らは私をバタシー・タウン・ホール(今はバタシー・アーツ・センター)に出演させた。そこで私はスコットランド人フォーク・シンガーの故アレックス・キャンベルとプログレッシヴ・ブルース・ロック・バンドのブラック・キャット・ボーンズ(ポール・コゾフがギターでその後フリーを結成した)、チキン・シャック(クリスティン・マクヴィーがシンガーで彼女もフリートウッド・マックに入った)といっしょにプレイした。

1967年になると、私は時々テディントンのフォーク・クラブ、アングラーズでデイヴ・ウェイトと会うようになった。彼はフォーク・ハーモニー・グループ、ザ・カントリーメンの元メンバーで、1960年から66年の間にたくさんのヒット・レコードをリリースして、テレビとラジオにレギュラー出演していたわ。その時、彼は新しい音楽的方向性を模索していて、私とデュオを結成しようと提案した。私たちはいっしょにリハーサルを始めて、デイヴ・ウェイト&マリアン・シーガルとして、フォーク・サーキットのツアーに乗り出した。私は真剣に曲を書き始めていたから、タイミングはばっちりだったわね。私たちのスケジュールは、フォーク・オン・サンデー(ジム・ロイドの)のようなラジオ番組出演と、ザ・セトラーズ、ザ・フォギー・デュー・オー、ロッド・マッキン、ザ・ストロベリー・ヒル・ボーイズ(のちのザ・ストローブス)たちといっしょの地方のテレビ番組出演を含んでいた。1967年に伝説的なフォーク・エージェントのサンディ・グリノンが私たちのライヴを見て、アレックス・キャンベルとジョニー・シルヴォの代役として私たちを雇った。ついに私たちは自分たちの名声を打ちたててUK中を回ることになった。

よく知られたクラブで歌い始めた時、私は主にトラディショナル・フォークに出会ったわね、ラルフ・マクテルはよりコンテンポラリーな歌を書いて名を上げ始めたばかりで、ジョン・マーチンも興味深い音楽を発展させているところだった。サンディ・デニーはソロでまだほとんどのレパートリーはトラディショナル・ソングだった。1968年に英国でジョニ・ミッチェルのデビュー作がインパクトを与えたとたん、彼女の曲がカヴァーされて、コンテンポラリー・フォークの勢いが急速に増していった。私はずっとアメリカの音楽をむさぼるように聴いていた―ボブ・ディラン、ティム・バックリー、ジョーン・バエズ、ママス&パパス、バフィー・サントマリ、リチャード&ミミ・ファリーニャ、それからフィル・スペクター・サウンドね。あとキャット・スティーヴンス、デヴィッド・ボウイ、ローリング・ストーンズなんかの英国のアーチストにもはまっていた。これらは私の初期に影響を与えた音楽ね。

1969年までに、デイヴと私はトラディショナル・フォーク・クラブの出し物の境界線を推し進めて、完全にオリジナル・ソングを歌うようになっていた。私たちはUKのコンテンポラリー・フォーク・シーンの先駆者だったといっていいと思う。私たちは自分たちのキャリアを前進させようと躍起になっていた。それでサンディ・グリノンは私たちのマネージメントと出版のためにジョン・ミラーを紹介してくれた。ジョンはディック・ジェイムズのパートナーで、ディックはビートルズと契約していて、彼の会社DJM(Dick James Music)は音楽業界で強力な存在だった。ジョンは以前、ブッキング・エージェンシーとして働いていて、それからディックを引き寄せて出版社Jamilを立ち上げる前に、スペンサー・デイヴィス・グループのマネージメントとUKポップ・バンドのザ・ピカディリー・ラインのために働いていた。ジョンは新人のブリティッシュ・アーチストを探していたから、デイヴと私にデモテープを作るようにすすめて、その結果、私たちはレコーディングと出版両方でDJMと契約することになった。私は最初の頃、DJMのオフィスでディックとのミーティングを待つ間に、エルトン・ジョンとバーニー・トーピン(エルトン・ジョンに詞を提供していた作詞家)の2人とおしゃべりしていたのをはっきりと覚えているわ。

ジョンはデイヴと私をそれまでのアメリカン・スタイルのアコースティック・ハーモニー・フォークからもっとヘヴィなロック・ベースのサウンドにする必要があると感じていた。彼はジェイドというグループ名を提案して、私たちに彼の友人のロッド・エドワーズを紹介した。ロッドはピカディリー・ラインの元メンバーで、1967年10月にアルバムThe Huge World Of Emily Smallをリリースしていた。私たち3人は1970年3月に、ジョンをプロデューサーとして、LPを作るためにロンドンのトライデント・スタジオに入った。彼のコネクションを通じて、私たちは多くのトップ・ミュージシャンたちの手を借りた―ピート・シアーズ(レ・フルー・ド・リース、サム・ゴーパルズ・ドリーム、シルヴァー・ミーター、ジェファソン・スターシップ)、マイケル・ローゼン(エクレクション)、ピート・ヨーク(スペンサー・デイヴィス・グループ、ハーディン&ヨーク)、クレム・カッティーン(トーネイドーズ、アイヴィ・リーグ、ランプルスティルトスキン)、テリー・コックス(ペンタングル)、ミック・ウォーラー(スティームパケット、ロッド・スチュワート、シルヴァー・ミーター)そしてジェイムズ・リザランド(コロシアム、モーグル・スラッシュ)などね。他のアーチスト(ジョン・マーチンとか)たちは私たちがレコーディング中にひょっこり訪ねてきて、それ以来友人同士になった人たちもいるわね。セッションはとてもポジティヴでみんな集中していたから、インスピレーションと興奮あふれる雰囲気だった。

何年にもわたってたくさんの人々が私に詞の内容について尋ねてきたわ。Amongst AnemonesとReflections On A Harbour Wallは、私が愛する海、小川、せせらぎを反映したものよ―そしてついに私は海の近くに引っ越した。Mayflyはカゲロウが水から飛び立ってからほとんど24時間しか生きられないことを知った時の悲しみを歌ったものよ。私はその‘種’の名誉となる歌を書きたいと思った!Alan’s Songはアルバムが録音される1年前に、バイク事故で死んだ最愛の友人のために書いた。私たちは同じ通りに住んでいて、子供の頃いっしょに遊んでいた。彼はたったの16歳で死んでしまった。Five Of Usは友人たちとノーフォークの小さな小屋に泊まった時のことを歌ったもの。ドアに続く小道は古い墓石でできていて、多くの墓石は庭の裏の木々にもたれかかっていた。2度あったことなんだけど、私たちが散歩から戻ってくると、窓とドアが全部開けっぱなしになっていたのよ、私たちは全て閉めていったはずなのに。私はその場所と時の幽霊の出そうな雰囲気を出そうと思って歌を書いた。Fly On Strangewingsはまさに内容のとおり。誰かと離ればなれになっていることについての歌で、同じ体験を共有できない人生を歌っている。Fly Me To The Northは最初の頃、ある静かな日曜日に両親の家の居間で書いた。プレッシャーから逃れたい気持ちと、若い頃にバンドの一員であることの恐れについて、自分に向けた手紙ね。運よく私は逃げ出さなかった!これは以来、ロッド・マッキン、バック・アリー・コア、ジョン&メアリー(10000マニアックスの)らのようなアーチストたちにカヴァーされてきた。最後のAway From The Familyは、世の中を体験するために出て行く必要のある若者たちについて歌った‘青春ソング’ね。

1970年6月終わりに、Alan’s Song/Amongst Anemones (DJM227)がFly On Strangewingsからシングル・カットされた。続いて7月に出たアルバム(DJLPS407)は、かわいらしい見開きスリーヴで、内側にはまさにあの時代の装いをした私とデイヴとロッド・エドワーズが写っていた。メロディ・メーカー紙はフォーク・アルバム・オブ・ザ・マンスに選んでこう書いていた―‘このファースト・アルバムはジェイドの才能を示すだけの十分な不思議さと美しさがある・・・歌詞は決まり文句の多くが避けられ、心の奥底に感じられる個人的体験から生じたものであると想像できる’ 一方ディスク&ミュージック・エコー紙はこう書いた―‘喜びに満ちたアルバム。幻想的な歌詞は注目に値し、サウンドは支持を受けるに十分な魅力を放っている’ ビート・インストゥルメンタル紙は―‘マリアン・シーガルは見事な詞を通じて、他の2人のヴォーカルをリードするピュアで力強い声を持っている。そしてアルバムはほどよいカントリー風味のあるフィドルが入る。うまくプロデュースされ、ところどころにピーター・ポール&マリーを思わせるジェイドは、この1枚のオリジナルLPを創り上げるだけの十分な才能を示している’

アルバムを作ったら、私たちはライヴでプロモートするためのバンドが必要になることは分かっていた。ロッドはスタジオ・レコーディングで不可欠な役割を担っていたから―彼はピカディリー・ラインでのパートナーのロジャー・ハンドと自身のレコーディング契約を持っていたけど―ジェイドの3人目のメンバーとなることは自然な流れだと思った。とりわけ私たち3人はとても仲良くなっていたから。ロッドはロジャーといっしょにフォーク・クラブで活動していたけど、ロック寄りのマテリアルをプレイしていたし、それはジェイドでの彼の仕事の完璧な土台となっていたわ。たくさんのリハーサルをやったあと、私たちはザ・ストローブス、アトミック・ルースター、アノ・ドミニ、そしてジョニー・ウィンターとさえいっしょのビラに載ってUK中をツアーして回った。最初、私たちはロッドがキーボードとベース、デイヴがギターとベース、そして私がギターとパーカッションとして3人組として出たけど、ロッドはエドワーズ/ハンドのプロジェクトがあったために、あとからロッドの兄弟のゲイリーが彼を引き継いだ。それから短期間、私の妹のマギーがバッキング・ヴォーカルで参加した。私たちは共に60年代後半〜70年代前半の典型的なフォークロック・サウンドで、すばらしい三声ハーモニーを創り上げた。

1971年3月、私たちはBBCのテレビ番組オールド・グレイ・ホイッスル・テストの先駆だったディスコ2に出演した。その夏にはアメリカをツアーした。不運なことにアメリカにジェイドという名のバンドがすでにいたから、6月のベル・レコードからのアルバムのUSリリースでは、私たちの名は‘マリアン・シーガル・ウィズ・シルヴァー・ジェイド’に変更された。そのアルバムはシングル・スリーヴで、残念なことに音質が悪かったわ。それでもニューヨーク・タイムズは‘マリアン・シーガルは多彩で器用なソングライターだ・・・抑制されたロックのエネルギーを結合させた彼らのフォーク的な華麗さは、魅力的で穏やかな雰囲気を創り上げる。そこには注意深く練られたシンプルなアレンジメントが保持されている’と書いていた。プロモートのために私たちはトム・パクストンといっしょに1週間、ニューヨークの伝説的なビター・エンド・クラブでプレイした―私はライヴでくたくたに疲れた夜明けに、眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、トムとデイヴと一緒に座って古い友人同士のようにおしゃべりしたのを覚えているわ。ある午後のリハーサルでは、振り返るとクラブの中にフェアポート・コンヴェンションのみんなが座ってこっちを見て笑っているのが見えた。彼らはハローをいうためにちょっと立ち寄っていたのよ!キャッシュボックスのビター・エンド・クラブでの私たちのレビューは―‘心の安らぐ美しさ・・・ミス・シーガルはムードを巧みに作り出し、物語を表現することのできる素質あるソングライターだ’と書いていた。ロサンゼルスのトルバドール・クラブでは、ブライアン・ウィルソン、ジョニ・ミッチェル、そして彼女のマネージャーがコンサートをすごく楽しんでくれたことを伝えに私たちの楽屋にやって来てくれた。その時はファミリーのジョン・ウェットンが私たちのためにベースをプレイするため特別に飛行機で飛んできてくれた。幸せな時を過ごしたわ。

英国に戻ったあと、私たちはロッド・マッキンといっしょにテレビ・ショーでプレイした。それから彼とは偶然私たちといっしょにうちへ帰ることになった。1週間後、彼が連絡してきて、彼とペトゥラ・クラークといっしょにBBC2のテレビ・スペシャルに出演しないかと依頼された。それは短い宣伝予告だったから、ダンス一団(パンズ・ピープルだったと思う)は私たちのために1曲削らなければならなかった。またロッドは私たちのアルバムからFly Me To The NorthとMrs. Adamsの2曲をカヴァーして、ロイヤル・アルバート・ホールでの彼のコンサートへ私たちを招待した。そこで彼はオーディエンスに向かって私たちに謝意を表してくれて、Fly Me To The Northを歌った。それはとてもうれしいほめことばだったけど、残念なことに―全てが追い風にあったにもかかわらず―1971年の秋にジェイドは突然解散してしまった。大部分はプレッシャーと若さからくる不慣れによるものだったわ。

でもデイヴ、ウェイトと私はベースにカナダ人のロー・オリファント、ドラムスにデイヴ・モリスで、ザ・マリアン・シーガル・バンドとして続けることにした。私たちは3年間英国中の大学とフォーク・クラブでハードに働き、ラビ・シファーとともにヨーロッパをツアーした。そしてシドニー・カーター(Lord Of The Danceで有名な)といっしょにテレビの6回シリーズに出演した。また私たちは新しくロンドンにできたキャピタル・ラジオでレギュラーのライヴ・ゲストになった。でもその時代の多くのバンドと同様、高いツアーのコストと、パンクが襲来してレコーディングと出版契約の可能性を破壊したことによって、私たちは1975年にライヴを停止した。

最近になってジェイドの曲が再び聞かれるようになったのは、私にとってとてもエキサイティングなことね。私は1988年にMarianからMarianneに名前を変えて、それから15年間くらい楽しみのためにライヴを続けてきたわ(すばらしいミュージシャンたちとともに)。2004年11月、私はデイヴ・ウェイト、ロッド・エドワーズ、そしてジミー・リザランドとともに、私たちが共にプレイしてから30年以上たってロンドンのタペストリー・クラブでプレイした。とてもぞくぞくしたわ。近年、私はコレクターたちがFly On Strangewingsのオリジナル英国盤を手に入れようとしていて、ヴォーグ誌の中でジェイドが‘アシッド・フォーク’の火付け役として語られているのを知った!

私は自分たちの音楽に対する変わらない関心にとても感動しているわ。今回のリイシューのために、古いオープンリールテープをマスタリングした時、たくさんの思い出がよみがえってきた。スタジオの中で喜びのあまり泣いたり飛び跳ねたりする自分のね。ジェイドが生まれた時、私は若かったから多くのことはあっという間に過ぎていった。当時は目の回るような速さだったわ。ジェイドの曲を歌うたびに、私は自分の周りにサポートしてくれる人たちがいるのを幸運に感じる。今度は初期の頃のプレッシャーなしでプレイすることを楽しむ番ね。そして私の音楽を聴いてくれるあなたに感謝したいと思う。

Marianne Segal
August 2009

ボーナストラックについて

September Song
1969年に南ロンドン、トゥーティングの両親の家でオープンリールテープを使って録音した。とてもクリエイティブな時期だった。私はリチャード&ミミ・ファリーニャのCelebrations For A Grey Dayをいつも聴いていた。あのアコースティック・ギターといっしょになったダルシマー・サウンドが好きで、私は自分のアコースティック・ギターを使って似たようなサウンドを出そうとしていたわ。

Big Yellow Taxi
デイヴ・ウェストと私は英国でジョニ・ミッチェルのファースト・アルバムがリリースされる前にこれを聴く幸運に恵まれた。私は彼女の叙述的なことばの描写に感動して、1971年にシングルとしてカヴァーしたけどお蔵入りとなってしまった。

Carolina In My Mind
これも未発表シングル。大好きなジェイムス・テーラーの曲。録音することができてよかった。

Chicago Radio Spots
1971年に作った。ここではちょっとしたお遊び。

Moses
これもお蔵入りシングル。アルバムのあと録音された。ハイ・エナジーなレコーディング。ジェイドからすれば標準!

Swallow
1972年6月、ジェイドが終わってから録音されたDJMのデモで未発表曲。私は2005年にUKネオ・フォークロッカーのCirculusとともに再録した。彼らのアルバム、The Lick On The Tip Of An Envelope Yet To Be Sentのためで、彼らのシングルとしてリリースされた。

Middling Man
お蔵入りとなった72年のソロ・アルバムのための曲。ロンドン、アールズフィールドの屋根裏部屋で書いた。私たちは2つの小さな部屋と1匹の猫をもっていた!ストリングスをアレンジしてくれたデル・ニューマンに感謝したい―いっしょに仕事ができてうれしいわ。

Circle Round The Sun
これもソロ・アルバム用の曲。スタジオの小さな指揮台に立っていたのを覚えている。テンポを決めていた時、窓から日差しが差し込んできた。ホークウィンドがひょっこり訪ねてきたわ―いや、彼らの場合は突風のように押し入ってきた!

Sit Yourself Down
リー・オリファントはバッキング・ヴォーカルをとらないこともあったけど、この歌を歌うのは好きだったようね。彼はどんな天気でもサンダルをはいていた。彼のバレエのトウ・ダンスは楽しい思い出ね。ヴィグラス&オズボーンがこの曲をカヴァーした。ここでのヴァージョンは1974年録音。

Bullseye On Rainy Night
これも74年。ボブとアイリーン・カットンが経営していたロンドンのバタシーのパブ、ナグス・ヘッドについての歌。たくさんの有名なアーチストたちが何年もよく知られたブルースとフォーク・クラブに出ていたことを歌っている。道の反対側にはろうそくの工場があって、いつも強い香りが漂っていた。クラブはとてもくつろげる場所だったし、私が最初にギグをしたのもここだった。そのあともよく出ていたわ。結局クラブは取り壊されて、退屈なフラット群が建ってしまった。ある晩、私たちがプレイしているところに、ダニー・カーワンが突然現れて、フリートウッド・マックから加入の誘いがきたといったわ。彼はとてもうれしそうだった。ジェイドが結成された時の私たちは16歳で、その数年後にダニーはフリートウッド・マックに入っていた。誰が想像したかしらね!

Miranda
ジェフ・ウェインはこの曲のバッキング・ヴォーカルにモータウンのフォー・トップスを使えないかと考えていた―それで誰かが北方のクラブで歌っていたリアル・シングというグループのことを持ち出した。ジェフは彼らをスタジオに呼んだんだけど、彼らは最高だったわ。続いてジェフは彼ら自身のレコーディングも行なって、彼らはその後とても成功するようになった。ジェフがこのトラックをリリースする承認をくれたことに特に感謝したい。1974年録音。

Deal With The Preacher/Love Me Somebody
ジュリアン・メンデルションと私はフリーとバッド・カンパニーが大好きだった。1974年のある晩に、私たちはこの彼らの2曲をレコーディングすることを決めた。私はより‘ロック’なスタイルで歌うことに興味をもつようになっていた。私たちがジェイムズ・リザランドを呼ぶと、彼は2人の友人をスタジオに連れてきた。すばらしかったわね。私はジョン・デンティッシュのドラミングに唖然としたのを覚えている―小さなドラム・キットだったんだけど、彼はめいっぱいのサウンドを出していた。その時に3曲録ったうちの2曲がこれよ。ジェイムズ、ジョン、ビリーには感謝したい―それからジュリアンにはいつもすばらしいエンジニアリングをしてもらった。


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