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Jackson C. Frank/Jackson C. Frank/2001 Sanctuary Record Group Ltd CMRCD366



静かなアメリカ人

僕が最初にジャクソンに会った時、彼はサンディ・デニーといっしょに出て行くところだった。また彼はアル・スチュワートの友人だったが、僕が彼のギグを見た唯一の場所は、ロンドン、ソーホーのカズンズ・フォーク・セラーだった。彼のアルバム(このアルバム)はその時リリースされたばかりだった。僕はフォーク・シーンのみんなに与えた彼の影響は絶大だったと考えている。なぜなら、それはボブ・ディラン出現以前のことだったことを覚えているから。その歌はドラマチックで、彼の全人生を反映していた。底の方に恐ろしげな暗闇が潜んではいるが、騒々しくて明るい‘Carnival’から、‘Kimbie’―“君はずっとどこにいたの?”の軽快さまで。世界中のソングライターたちは、ジャクソンと悲劇だった彼の人生に恩義がある。‘Blues Run the Game’のような歌は、めったに書けるものではないだろう!歌うことは心の状態そのものなんだ。

バート・ヤンシュ 2001年9月7日


1960年代初頭から半ばにかけて開花したブリティッシュ・フォークとルーツ・シーンは、驚くべき才能の一群を生み出した。この信じられないほど実り豊かな時期から現れた多くの重要人物の中には、バート・ヤンシュ、マーチン・カーシー、ジョン・レンボーン、サンディ・デニー、アン・ブリッグス、その他ほとんど果てしなくリストアップできるほどのアーチストたちがいた。あらゆる機会にその事実を考えてみると、シーンはまた英国に訪れていたボブ・ディランのようなアメリカの才能たちによって彩られていたことが分かる(信じようが信じまいが、ディランはBBCのドラマ、Madhouse On Castle Streetでの役を演じるために、1962年の暮れに英国にやって来ていた。現在映像は消失したままだ)。彼はフォーク・クラブの様子をうかがうべく立ち寄り、イングリッシュ・フォーク・ソング一束を携えて帰国した。それは前述のマーチン・カーシーから教わった歌だった。

また、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー、バフィー・セイント-マリー、ランブリン・ジャック・エリオット、ティム・ハーデイン、そしてビッグ・ビル・ブルーンジーといった人たちが英国へやって来たことを考えると、彼ら全てはすでにあった脈打つシーンをさらに豊かにし、融合化を図るために、みずからの歌で貢献したことが分かる。その少しあと、他の誰でもないポール・サイモンとアート・ガーファンクルがこの島国に上陸し、研究に値するこのシーンを目の当たりにした。ポール・サイモンは我々のテーマであるジャクソンCフランクという名のアメリカ人のストーリーにおいて、重要な役を演じることになる。

ジャクソン・ケアリー・フランクは1943年にニューヨーク州バッファローに生まれ、彼がまだ幼い頃、家族はオハイオ州イリリアに移り、数年後、ニューヨーク州北部の町チークトワーガ(バッファローの東)に戻ってきた。フランク自身が1995年のアメリカのルーツ誌Dirty Linen 57号によるインタビューの中で回想している。

「そこにあった新しい学校はレンガ造りだったが、木造の別館があって、そこは音楽の授業に使われていた。その建物は大きな暖房炉を備えていた。ある日そこで音楽のレッスンがあった時に暖房炉が爆発したんだ。僕はその時にほとんど殺されてしまったといえる。僕のクラスメイトはそのひどい火災でほとんどが焼け死んでしまった。僕にはその事故によるひどい傷跡がまだ残っている。僕は7ヶ月間入院した」 予想されるように、この事故がジャクソンの人生に将来起きる出来事の多くを特徴づけた。

フランクはやけどから回復する間、チャーリー・カサテリという名の音楽講師に励まされ、ギターを手に取った。その講師は表向き、フランクのレッスンを手助けするために、快方に向かう彼のところを訪ねていた。カサテリは最初に、苦しい入院生活の中でフランクを元気づける手段として1本のギターを持ってきた。そしてすぐにフランクにギターを弾く才能のあることが明らかになった。ギターが上達するにつれ、彼は米国本土でその頃人気のあったバール・アイブズ(米俳優、フォークシンガー)・スタイルのフォーク・ソングをプレイするのに十分なコードを身につけていることを自覚するようになった。前述のDirty Linenの記事にはこうある―「17歳になるまでに僕は友人たちのために歌を録音していた。僕は南北戦争の歌ばかり入ったアルバムを1枚持っていた。それで古い南北戦争の歌に興味を持って集め始めて、自分が歌える歌を録音するようになったんだ。僕はスタジオに入って7ドルでシングルの片面を録音したことを覚えている」

少しだけさかのぼれば、エルヴィス・プレスリーが50年代半ばに全国的大ヒットを放った時、フランクはグレッチ・ストリームライナーというエレクトリック・ギターを買い、世界中の無数の子供たちと同じようにロックンロール熱にとりつかれていた。事故の後遺症から立ち直らせようと、フランクの母親は彼を南部のテネシー州メンフィスに連れて行った。13歳のフランクはキング(エルヴィス)の故郷グレイスランドを訪れ、そこでプレスリー自身が車道を歩いてきた時に彼と握手を交わし、なんとエルヴィスは彼自身の両親に会わせるためにフランクを家に招待した!エルヴィスと会ったことはフランクに大きなインパクトを与え、彼はまもなくドラマーの知人といっしょにロックンロール・デュオを結成した。

アメリカン・フォーク・シーンへ足を踏み入れたフランクは、バッファロー・エリアのコーヒーハウス/クラブ、ザ・ライムライトへひんぱんに通うようになった。フランクとともに通っていたのが若き日のジョン・ケイで、彼はのちにアメリカン・ハード・ロック・グループのステッペンウルフを率いることになる。2人は親しくなり、フォーク・ミュージシャンやブルースメンたちを探求するようになった。それらミュージシャンたちの株は、アメリカのフォーク・ソング・リヴァイヴァルのおかげで急上昇していた。そして地元のパフォーマー、エリック・アンダーソンの成功は、フランクにみずからもフォークのキャリアで成功する自信を植えつけた。

それからある運命が保険金支払いとう形となって介在した。21歳のフランクには10万ドルという保険金が支払われた―当時としては破格だ。フランクは前述のDirty Linenのインタビューで回想している―「ジョン・ケイと僕はトロントに飛んで、できるだけ速く金を使ってしまおうとした。僕はショールームに展示してあったジャガーを即金で購入した。僕たちは北東部中を回って、クラブに立ち寄ったり、ミュージシャンたちに会ったりした。僕たちはその頃ブルースにどっぷりハマっていて、ジョン・リー・フッカー、マディ・ウォーターズ、サニー・テリー&ブラウニー・マギー、それから議会図書館にあったブルース・アーチストのコレクションなんかを聴いていたね」 もちろんこの時、フランクがちょうど聴いていたマテリアルが、大西洋の反対側(UK)でうわさとなっていたフォーキーたちに知られることになった。

ジャクソンはみずからの音楽的野心をもって英国へ渡ったわけではなかった。彼の英国渡航の裏にあった根本的理由は、高い評価を受けていた英国車の購入だった。彼は大型客船クイーン・エリザベス号に乗って旅に出た。それはバート・ヤンシュやニック・ドレイクらのようなぶらぶらとヒッチハイクするような旅とは大きく隔たっていた。その航海は彼の名作“Blues Run The Game”を生み出した―“ベイビー、ボートに乗ってイングランドへ、もしくはスペインへ”。どうやらそれがフランクの書いた最初の歌だったらしい―その物思いに沈んだオープニング・ヴァースは、より暗い世界の倦怠を示していた。それはまもなく彼が知り合うことになるフォーク界のライバルたちに、深い共感を与えることになった。

英国に到着したフランクはUKフォーキーたちの一団と仲良くなり、その熱狂的なシーンへたやすく入り込めることを知った。当時の英国ではフランクと同じように、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルも歓迎され、その場でフランクは、幼少期に被ったトラウマである火事のやけどと精神的後遺症以上に、彼の歌により興味を示すコミュニティがあることを知った。フランクのオープンな性格は、そのルーツ的環境にスムースになじむのに役立っていた。彼はポール・サイモンとアート・ガーファンクルに自己紹介した時のことを回想している―

「僕はジュディス・ピープという素晴らしい女性と会った。彼女は自分のフラットに滞在していた2人のシンガーを僕に紹介したいといったんだ。それがポール・サイモンとアート・ガーファンクルだった。この時までに僕は自作の歌をプレイしていた。それで僕が2人に向かって歌ったら、サイモンは僕の歌をとても気に入ってくれて、僕のレコードをプロデュースしたいと申し出た。僕はすぐに“イエス!”といったね」

フランクはまた、その時19歳の看護婦だったサンディ・デニーの友人として彼女に力を貸し、しばらくの間、彼らは恋人同士となった。「最初にサンディ・デニーと会った時、彼女はいくらか不安げでシャイだった。僕たちはバンジーズっていうロンドンのクラブにひんぱんに行っていた。ちなみにまだそのクラブはそこにあるね。サンディは看護婦として働いていて、彼女はフォーク・シーンに足を踏み入れたばかりだった。彼女はオーディエンスの前で歌うのに慣れようとしているところで、自分の歌を作っている途中だった。彼女は僕のガールフレンドになって、僕は彼女に看護婦の仕事を辞めてフルタイムで音楽に打ち込むようにうながしたんだ。僕は彼女が‘Who Knows Where the Time Goes’や‘Fotheringay’のような新曲を、僕のためにプレイしてくれたことを覚えている。僕は彼女がとてつもない才能を持っていることがすぐに分かったね」

彼らは短期間、ポール・サイモンとアート・ガーファンクル、フォーク・ミュージシャン志望のアル・スチュワートとともにフラットを共有した。またスチュワートはフランクの短いレコーディング・キャリアの中で1つの役割を演じることになった。スチュワートはフランクの印象を回想する―「僕は彼の歌は絶対的に素晴らしいと思ったよ」(たしかに1990年代初頭に放映されたBBCドキュメンタリーのAcoustic Rootsで、スチュワートがバート・ヤンシュとともに‘Blues Run The Game’をプレイする姿がとらえられている)。またスチュワートはフランクのみごとに仕立てられた衣服のことを鮮明に記憶している―「彼は完璧に風変わりなスタイルを持っていた。ある時にはスタンダードなフォーク・スタイルのブルー・ジーンズだったり、ある時はビジネス・スーツに山高帽だったり・・・彼は長くて不揃いなイエローの髪だった。その彼がピンストライプのスーツに山高帽を身につけていたんだ。僕の覚えている限り、彼は傘も持ち歩いていたかもしれない。その効果は絶大だったね」 また概して野望を抱くフォーキーのあぶなっかしい状況に比べれば、アストン・マーチンやベントリーのような車でギグに乗りつけ、パイプにタバコを詰めるフランクは、かなり人の目を引きつけたに違いない。

フランクは回想する―「1965年に僕が会ったもう1人のフォークシンガーがトム・パクストンだった。僕たちはいっしょにぶらぶらしていた。あとマイク・シーガーとデイヴ・ヴァン・ロンクと偶然会って、僕の車でロンドン中を回ったことを覚えている。それから僕はカズンズ・クラブのオーナーに、アメリカのフォーク・ミュージシャンたちを紹介してブッキングする手助けをしていた。カズンズとかかわったことで、僕は多くの有名なアーチストやパフォーマーたちに会った。もっとよく知られていたジョン・レンボーン、バート・ヤンシュ、ジョン・マーチンのような英国のフォーキーたちもブッキングしたことを覚えている。当時僕は金を持っていたからベスト尽くすことができた。放浪してカズンズにたどりついた貧しいシンガーソングライターたちに食事をさせたりね」

レコーディング・セッションに関しては、スチュワートがこのように回想している―「僕が経験した中でおそらく最も不思議なレコーディング・セッションだったね。ポール(・サイモン)が‘OK、準備できたよ’といったあと、彼(ジャクソン)は歌うのにおじけづいてしまって、2〜3分は完全な沈黙が流れるんだ。それからこの美しいギターと歌が現れるってわけ」 またその3時間セッションの中で、フランクは他の者たち―サイモン、ガーファンクル、スチュワート―が彼の歌とプレイを見ることができないように、彼の周りにサウンド・スクリーンを立てることを主張した。フランクはDirty Linenのインタビューでこのことを認めている―「僕はロンドンのニュー・ボンド・ストリートにあったCBSスタジオで3時間でアルバムをレコーディングした。僕はスクリーンのうしろに隠れて歌ってギターをプレイしたことを覚えている。なぜかっていうと、僕はちょっとナーヴァスになっていて、他の人に見られたくなかったからなんだ。‘Blues Run The Game’を録音するのにそれほど長くはかからなかったけど。‘Don’t Look Back’は南部のアラバマで起こった殺人にインスパイアされていた。その歌は白人と黒人の間の問題を扱っていた。僕の唯一のプロテスト・ソングだ」

「‘Kimbie’はトラディショナル・ソングで、僕は自分のオリジナリティを加えた。この歌はカナダに行った時によく聞いていて、自分のアルバムに入れようと決めた。ポールは自分のギグでやっていた‘パセリ、セージ’(‘スカーバラ・フェア’)みたいなトラディショナル・マテリアルをたくさん入れていたから、僕も古いメロディを使いたかったんだ。‘Yellow Walls’は僕がバッファロー近くに住んでいた古い家についての歌で、故郷を離れて大都会やにぎやかなところへ旅立つことについての歌だ。アル・スチュワートがうしろでギターを弾いているのが聞ける。彼がそのプレイについて、ちゃんとしたクレジットを受けていないのは残念だと思う。でもこれは彼だ」

「‘Here Come the Blues’は昔ながらのブルース・スタイルに挑戦した歌。素晴らしいコード・チェンジが出てくる。僕はサンディ・デニーのヴァージョンを知っているけれど、それもグレイトだ。これを聞くと、僕がとんだへまをやらかしているのが分かる。僕は‘four’seasonsと歌うべきところを‘three’と歌ってしまったんだ」

「‘My Name is Carnival’は僕が今でもとても誇りに思う1曲。グレイトなメロディだし、興味深い歌詞なのに、カヴァーされなかったのは驚きだ。この歌は旅回りのサーカス団の一員としてのほろ苦い姿が描かれている。僕が最初に取り組んだとてもシリアスな歌が‘Dialogue’で、これは今では諷刺寸劇のような感じだ。僕は重い歌詞を伴ったヨーロッパの影響を受けていた。一方で、‘Just Like Anything’は純粋なナンセンス・ソング。僕は‘Dialogue’のあとで、喜劇的息抜きをねらって書いた。アルバムの最後が‘You Never Wanted Me’で、これはほとんど失恋ソングだ」

そう、‘Carnival’に関する限り、遅まきながら彼は願いをかなえた―英国の彼の仲間、バート・ヤンシュが定期的にこの歌を自分のライヴ・セットで取り上げている(‘Blues Run The Game’とともに)。それはカッスル・ミュージックから入手可能の‘Downunder:Live In Australia’でフィーチャーされている。

1965年にリリースされたアルバム‘Jackson C Frank’は、彼の選んだブリティッシュ・フォーク・コミュニティにおいて、あたたかく迎え入れられた。フランクの厭世的なリリシズムと歌に漂う切望感は、不安と苦痛を広く訴えかけようとしているかのようだった。そういった彼の動機はまた、長年にわたって活躍していた英国のDJジョン・ピールのような者たちから支持を受けた。しかしながら、常に変化するミュージック・トレンドの中で、1966年までにギターを持ったソロ・シンガーから、より活動的なロック・バンドへと流行の主役の座はシフトし始めていた。このことは同時に彼のスランプを引き起こすことになった。この時から彼の個人的およびプロとしての運命は下り坂に向かっていった。フランクの保険金が永遠に彼の手許に残るはずもなく、金の尽きた彼は2年間アメリカに戻った。1968年に彼が英国に戻った時、彼の友人たちはすっかり変わり果てたフランクを目撃した。死ぬような目に会って以来、彼に巣食っていたうつ病が不気味に立ちはだかり、それは抑制が効かないほどになっていた。彼の自信は打ち砕かれていた。

アル・スチュワートは回想している―「彼は公然と人格がばらばらになって平静を失っていた。誰もが愛していた彼のスタイルは、もの悲しくてすごく旋律にあふれた歌だったんだけど、彼は完全に不可解なことをやり始めた。それは基本的に精神的苦悩についての歌で、完全にぶちのめされた感覚が全面に表れていた。僕は1つもうわさを聞いた覚えがないし、うまくいかなかったんだ。彼が精神科医による治療を受けているというレビューが1つあった。それからまもなくして、彼は再びウッドストックに逃げ帰っていった。彼は何も仕事が得られなくなっていたんだ」

この時期の事実を確かめるのは、もっともなことだがより難しくなる。どうやらフランクはしばらくの間、ウッドストックの地元紙の編集に携わり、英国人の元ファッション・モデルと結婚したらしい。そして息子が生まれたが、子供は嚢(のう)胞姓繊維症で死んでしまった。このことによってフランクは重度のうつ病となり、彼は施設に送られた。70年代に入ると、フランクは友人へ援助を頼むほど落ちぶれていった。1975年、カール・ダラスはメロディ・メーカー紙で、アルバム‘Jackson C Frank’に対して心を込めた称賛記事を書き、1978年にB&Cレーベルは‘Jackson Frank Again’としてアルバムをリイシューした。新たなスリーヴには、アルバムのライナーノーツとして、フランクからダラスへの手紙が載せられた。カヴァーには長髪となり、右手で顔を部分的に覆い隠したフランクの写真がフィーチャーされていた。しかしそのリリースはフランクへの関心を刺激することはほとんどなかった。とりわけ、かつての彼の行きつけ場所は、パンク・ロックとニュー・ウェイヴが頭角を現し、音楽的にも詞的にも全く異なった価値観を持ち込み、精巧に作られた内観はほとんど時代精神からは外れていた。

1984年、今や大いに成功していたポール・サイモンを見つけ出そうと、ニューヨークへの絶望的なバスの旅を試みたが、最後には路上に眠るフランクの姿があった。彼の母親は心臓切開手術でずっと入院していたが、彼女が退院して帰ってくると、引越し先も告げずにフランクは姿を消していた。彼は浮浪生活を強いられ、多くの施設に入ったり放り出されたりしていた。彼の健康状態は誤診のために良くなることはなかった。彼は偏執的精神分裂症と診断されていたが、実際には幼少期のトラウマによるうつ病だった。フランクの治療後の見通しは暗たんたるものだったが、1990年代初頭、彼はジム・アボットというウッドストックの1人のファンに発掘された。アボットは彼が通っていた地元の大学の教授に話していた―彼らは互いにフォーク・ミュージックに関心を持っていたが、だしぬけに彼は教授にジャクソンCフランクを聞いたことがあるかどうか尋ねたという。

「僕は数年間そんなことを考えてさえいなかったんだ」 アボットは認める。「すると彼はこういった―‘ああ、知ってるよ。実際私は彼から手紙をもらったばかりだ。君は落ちぶれたフォーク・シンガーを助ける気があるかい?’ってね」

ジャクソンはニューヨーク・シティを離れようと画策していた時に、その教授のことを知っていたため、ウッドストックで滞在できる場所がないかどうか手紙を書いていた。アボットはジャクソンに電話をかけ、それからウッドストックの年長者市民のための家にいた彼のために、臨時の施設を用意した。ニューヨークに着いた時、彼は自分が目にしたものにショックを受けた。

「現地に向かった時、僕は彼のアルバム・カヴァー以外の彼の写真を見たことがなかった」 アボットはいう。「そのカヴァーの彼はやせていて若かった。僕が彼に会いに行くと、そこには道をよたよたと歩く太った男がいたんだ。僕はそれが彼なんてあり得ないと思った・・・僕が立ち止まって“ジャクソンさん?”と聞くと、その通りだった。“ああ、何てことだ”と思った。ほとんどエレファント・マンのようなものだった。彼はだらしのない服装で頭はぼさぼさだった」

チークトワーガの火事がもたらしたもう1つの名残が、副甲状腺ホルモン分泌の機能不全で、それによって彼は肥満体質となった。「彼は何も持っていなかった。僕たちはランチを食べて彼の部屋に戻った。ほとんど泣きたくなるほどだった。そこにいるのは50歳の男で、所有していたのはくたびれた古いスーツケースと壊れたメガネだけだった。おそらく彼のケースワーカーは彼に10ドルのギターを与えていたんだと思うけど、ほとんどチューニングは合わなかった。あれは暑い夏の一日だった。彼は僕のために‘Blues Run The Game’をプレイしてくれたけど、彼の声はかなりつぶれていた」

アボットの助けを借りてジャクソンはウッドストックに移った―しかしやがてもう1つの悲劇的事件が起こった。ジャクソンがクイーンズの家近くの通り向こう側に腰かけていた時に、誰かが至近距離から彼を撃った。どうやらふざけ半分だったようだが、彼は左目を失明してしまった。アボットはフランクが自信を取り戻せるように素晴らしい仕事をした。フランクは新曲のデモを数曲レコーディングするまでになったが、それは私が実際に聞いたところ、残念ながらほとんど形にはなっていないとりとめのないラヴソングであり、ファースト・アルバムの効率的でメロディックな簡素さには欠けていた。

フランクが再び現れたことで、1970年代のデモを追加した‘Jackson C Frank’の初CD化がもたらされ、ここにオリジナル・スリーヴの形でリマスターされ再パッケージされることになった。それは後年になって才能が認められたことで、彼が心の平和をいくらか見つけることができたかもしれないという思いを、今なお抱かせるものだ。皮肉にもその時、ソニー・ミュージックは90年代の終わりに、サイモン&ガーファンクルのボックス・セットをリリースし、その中に入っていた未発表ボーナス・トラックのうちの1曲が、彼ら自身による‘Blues Run The Game’だった。それはサイモンに影響を与えたことを証明する遅きに失した収録だった。

悲しいことに、フランクは1999年3月3日に55歳でこの世を去った。人生の浮き沈みの中で、待望のリヴァイヴァルはやって来ることはなかったし、彼の死を悼む者はごくわずかだった。それでも彼の唯一無二のアルバムである‘Jackson C Frank’は、驚くべき作品として揺るぎない位置にいるし、永遠の影響力を保持し、繰り返すのを承知でいうが、それはたしかにバート・ヤンシュのような彼と同時代の者たちによって今も歌われている。ほとんど40年の月日を経ても、その荒涼さと簡素さは損なわれることなく、そのまま保たれている。痛みとトラウマがこれほどまでに美に昇華されることはめったにないことだろう。

アラン・ロビンソン 2001年10月


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