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The Incredible String Band/‘U’/2002 Warner Strategic Marketing 7559 62761-2



インクレディブル・ストリング・バンドでの僕の作品全てには、ある基本的な目的が横たわっていた。まずは僕に関するかぎり、バンドの目的はパフォーマーとオーディエンスの間の障壁を取っ払うこと、人間のつながりを示す音楽を作るために技能の序列を取っ払うこと、それはテクニック至上主義でない社会的な音楽を作るためだった。つまり無邪気な絵の音楽版だ―サイケデリックでフォーキーで神秘的なね。僕はケース・バイ・ケースでつまずいたり飛んだりしながら進んでいく作品になるような領域とやり方に、自分の関心をもっていこうと考えた。

そう、僕とニコニコ・マイクが1968年にニューヨーク・シティのチェルシー・ホテルのエレベーターでマルコム・ルメーストルとばったり出くわした時に、本質的な大きな意義が収まるところに収まった。なぜならマルコムはデヴィッド・メダラ(Medalla)という男を介して、ダンスの世界に入っていたからだ。フィリピン人のメダラは、キネティック・アート(kinetic art:電気仕掛けなどで動く造形作品の一様式)における天才であり、代表的人物だった。彼はたったの13歳でコロンビア大学で勉学を始めるほどだった。

彼は50年代後半のニューヨークのピート・ボヘミアン界から登場し、60年代初頭のロンドンでエクスプローディング・ギャラクシーというグループを立ち上げた。エクスプローディング・ギャラクシーが行なっていたのは、アナーキックな運動、自発彫刻(spontaneous sculpture)、シアター・ハプニングのようなもので、排他的ではなく、包括的なものとして企てられていた。誰もが能力、熟練、志向あるなしに関係なく宇宙(galaxy)で爆発できた。

マルコム・ルメーストルはこういった背景から現われて、自身のグループ、“ストーン・モンキー”を結成した。ストーン・モンキーはインドの街頭芸と極東の仮面人形を、彼自身の奇妙なイングリッシュ/一風変わったヴィジョンと合体させたものだった。

これら全ては60年代のロンドン周辺からあふれ出して、ロック・ポップの流行の中で主に発展していった―ブティックの“グラニー・テイクス・ア・トリップ”、ポスター・カンパニーの“カラード・コート・オブ・ハプシャッシュ”、UFOクラブ、アングラ・マガジンの“インターナショナル・タイムズ”、玄米、左寄りの“ジグザグ”誌、レノンと出会う前のオノ・ヨーコ、デレク・ジャーマン&ザ・リッソン・ギャラリー・シーンなどだ。

先述したように、ニューヨークでマルコムと会った時は、即座に仲間の旅人同士だと認め合った。そうしてストーン・モンキーとインクレディブル・ストリング・バンドは合体することになった。“U”と名付けられたショーがその成果だった。

“歌とダンスのシュールな寓話”(a surreal parable in song & dance)と説明された(僕によって?OK、認めよう)それは、分かりやすいことばでいえば、自由なパントマイムみたいなもので、当時僕が知っていた友人たちが含まれていた。それは僕がウェールズの中心地と西方やスコットランドとイングランドの境界にあった様々なコテッジや、じめじめとした忍耐を要するひんやりした安宿を共有していた人たちだ。境界地方では高い丘に住んでいた―湖近くを車で走るには、冬の寒さはとんでもなかった。滑り降りるには、滝や山の小川は十分固く凍っていた。そういう氷のきらきら輝く魔法のような冬の中で、“U”のアイデアが僕に向かって自ら語りかけてきたんだ。

“U”の文字の形は、神秘的な王国の代々受け継がれてきた魂の出自を示しているように見えた―下界での物理的な存在として。そして喜びの帰還を果たしたところから、大フィナーレの真ん中へと入っていく。

とても寛大なプロット(筋)をもったショーは、ドタバタ喜劇のための十分なゆとりを保証していた―ヒンドゥー、カバラ(密教)、P.G.ウッドハウス(英生まれの米小説家・ユーモア作家)スタイルの20年代の時代がかったSF、カタック(北インドの古典舞踏)・タロットなど。それプラス、中心にいた多くの純粋なヒッピーたち。好きだろうが忘れようが、それが普通のポップコーンの商標が“Screaming Yellow Zonkers”と呼ばれていた向こう見ずな時代の主流だった。金を使って目もくらむほどの火花を発するために、いつも赤字になっていた時代だった。ストロボ、ライト・ショー、イースト・ヴィレッジ(ニューヨークのマンハッタン、芸術家が多い)、ポートベロー・ロードなど。セールス的に不振だった頃の録音がここにある。

たしかほとんどの評論家はショーを容赦なく酷評した―彼らのいつもの精神を発揮して。彼らはオフィシャル・シアターでやるオフィシャル・ダンス、シーンと同じように評価しようとした。1人の評論家はこう皮肉った―「半円のUベンド(排水管などのU字形曲管部)だ」

そういう人たちは要点が分かっていなかった。実際、ショーは僕たちがやったとおりのことを想定していたし、彼らが考えるようなやり方に失敗したわけじゃなかった。あれは縄跳びの縄のロジックを使ったアヴァンギャルドを維持する、寄せ集めの旅回り仲間がコンセプトだった(訳注:よく分からないので原文を―It was, as meant to be, a raggle taggle caravanserai keeping avant into garde with skipping rope logic.) そのショーは全てが新曲のレコードの4面をフィーチャーしていた(僕がウッドストックの泥んこの群集に向けてまずプレイした“Invocation”を除いて)。実際には音楽評論家たちは歌を気に入っていたと思う。今いわせてもらえば、オーディエンスはロンドンのチョーク・ファーム・ラウンドハウスの10のショーと、ニューヨークのフィルモア・イーストの5晩で、何1000といたと思うけど、盛りだくさんの内容で狂喜していたし、よく僕たちみんなに、今まで見た中で最高にすばらしいショーだったといってくれた。

もちろんショーは財政的には全滅だった。諸経費ははるか頭上だった(The overheads were overhead.)。このなじみの財政的状況下で、2枚組LPがサンフランシスコで昼と晩に48時間ぶっ通しでレコーディングされた。“Astral Plane Theme”、“Cutting the Strings”、“Rainbow”、“Glad to See You”・・・30年後に振り返ってみると全く明らかだ―実に独特だ。

気に入ってもらえればいいけど

ロビン・ウィリアムソン



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