Welcome to my homepage


The Incredible String Band/Live At The Fillmore 1968/2013 Hux Records Ltd. HUX137



「夜間飛行機に乗るためにどれくらいの退屈な夜を待ち続けたか
また出発するために荷物をまとめる嵐の朝をどれくらい迎えたか」

(ロビン・ウィリアムソン “Here To Burn”より)


僕はあそこにいたと彼らはいう―遠い昔のこの時―間違いなく僕はいたと思う。断片的には覚えている。僕は税関を通るときにいつも可笑しかったのを覚えている。僕はいつもロジンがヴァイオリンに使う滑り止めであることを説明しなきゃならなかった。

1968年ニューヨークの暑い夏の夜、僕とマイクはチェルシー・ホテルの屋上にすわって、街の音を聴いていた―クラクション、サイレン、叫び声の合唱、そして時には遠くの方で聞こえるピストルの音。自動販売機(Automat)の食べ物には25セント、10セント、5セント硬貨が欠かせない。長距離バスの駅の舞台裏で人声がする―「アメリカをきれいに。散髪しろ!」

僕たちをオープニング・アクトに使ったグレイトフル・デッド…うん、僕がいえるのは、彼らは僕たちよりもずっとずっと大きな音を出していたが、僕たちの方がはるかに愉快で豪華な衣装を着ていた…。僕の場合は全体に赤の刺繍が入った魔術師スタイルのローブ、あるいは道化師かな…僕はそんなのばっかり着ていた。

ニューヨーク州北部の森林にあった丸太小屋、ビーバーのダム、犬の危害から身を守るヤマアラシの針、コガネムシ。ニューメキシコ州のサンタ・フェ、サングレ・デ・クリスト山脈、カウボーイの鞍のついた馬、温泉、日干しレンガの壁、トルコ石、ナヴァホ族(インディアン)の銀細工。

ザ・ストリング・バンド―いろんな意味でとてもブリティッシュ、さらに極度にスコティッシュ―は、2つのフィルモアに象徴されるイースト・コーストとウェスト・コーストにとてもよく似合っていた。このライヴ・コンサートは当時のマジカルな日々、春のような新鮮さをとらえている。“Bell Ringing”なんかでは、名前はついていなかったが、僕はそれぞれが違った1つの音程を出すおもちゃの笛にテープを巻きつけるってアイデアをもっていた。ベルやなんかがついたそれをオーディエンスに配って、僕はそのアンサンブルを指揮した。時にはすばらしいことになった。

それから僕たちは危険な時代をのんびりと進んでいった―搾取者たち、おべっか使い、詐欺師たち―それでも最後に思い出すのは、いわば僕たちの行く手に花を投げ入れてくれた本当に多くのさまざまな人たちだけだ。今、僕の心に残っているもの―夢の継ぎはぎ、古臭いもの、誰かの過去、ペンからすらすら出てくるそれら全ては自分のものだったと思う。
ロビン・ウィリアムソン 2012年6月


アルバム『The Hangman's Beautiful Daughter』の成功によってあと押しされた1968年3月のUKツアーの成功のあと、初めて大きなコンサート・ホールでISBがヘッドライナーを務めたのを見たジョー・ボイドは、USツアーのチャンスが来たと判断した。その時点でのマイクとロビンは、前年にかの地で唯一大きなギグを経験していた―ニューポート・フォーク・フェスティヴァルだ。「ISBはグレイトフル・デッドとはそれほどそりが合うとはいえなかった」 マイクはいう。「異文化みたいだったね。彼らは僕らが物々交換経済のようなコンセプトに打ち込んでいる間に、アメリカン・フットボールをしながら走り回っていた」 ジョン・セバスチャンと他のラヴィン・スプーンフルのメンバーたちは、数日間、グリニッジ・ヴィレッジにあるさまざまなクラブでマイクとロビンにエンターテイナーぶりを見せつけ、張り合っていた。それから次のギグが決まるまでの間、ジョーは彼らを友人のクラシック・ピアニストが住むヴァーモントへ連れて行った。そのジョーの友人は山の中腹にある丸太小屋に住んでいた。「そこへたどり着くのにすごく時間がかかったんだ」 マイクは回想する。「とても素朴な環境だったんだけど、丸太小屋の真ん中には完璧なコンサート用のグランド・ピアノが置いてあった!」 数匹の子犬の親だった友人の犬ニーナに刺激され、マイクはその犬が登場する新曲を書いた。

ウェスト・コーストのギグは常にうけていたわけではなかった。「ずっとロック寄りのオーディエンスだったんだ」 マイクはいう。「あるクラブでは、僕らのことをコメディアンだと思った人たちがいた!」 そういう人々が好んでいたのは、もっと波長の合うカントリー・ジョー&ザ・フィッシュや、その頃ジャズ/フォーク期だったティム・バックリーだった―『Happy/Sad』からの曲をプレイしていた。「僕たちが彼の音楽にハマったのはもっと後になってからだった」 マイクはいう。「ヴァイブやなんかを使ったジャジーなやつは、僕たちが知っていたカルチャーよりも先を行っていたんだ」

フィルモア・ウェストでのギグのあと、ジョーと彼の兄弟は2人をニュー・メキシコの自然保護区ポルヴェニール・キャニオンに連れて行き、そこで彼らは森の中に丸太小屋を借り、ハイキングを楽しんだ。ジョー・ボイド:「しばらくすると私たちは飽きてしまって、一番近くの映画館に行くことにしたんだ。そこはラス・ヴェガスにあって、車を駐車するところまで片道2時間歩かなきゃならなかった。すごい大仕事だったから、私たちはどんな映画をやっていようと観に行こうっていう約束をした」 その映画はオットー・プレミンジャーの一風変わった『Skidoo』で、全員が気に入ってしまった。クライマックスはマフィアから命を狙われた主役のジャッキー・グリーソンが、サンフランシスコ湾で彼の命を救ったヒッピー一団のボートに囲まれるというものだった。LAに戻ったジョーは、当時ニュー・メキシコのヒッピー・コミューンの一員だった友人のトム・ロウを、カレイドスコープ(サイケデリック・バンド)のギグに招待していた。彼はギグのあと、友人一団を引き連れて楽屋にやってきた。ジョーはいう:「それが驚いたことに、彼らは私たちが映画で観たヒッピー族たち自身だったんだ。もちろん大パーティーになったね!」

サンセット大通りにあったウェスタン・レコーダーズでの短期間レコーディング・セッション(“Maya”、“Mountain of God”、そして当時は“His Own Bone”と呼ばれていた“Puppies”)のあと、ニューヨークへ戻る時間となり、おそらく2人組としてのISBによるベスト・ギグの実現となった。

エイドリアン・ウィッタカー マイク・ヘロンとジョー・ボイドに感謝する


フィルモア・コンサート


フィルモア・イーストは基本的に週末のみの会場で、金曜日と土曜日に一晩2か3つのショーを2つか3つのヘッドライナーによって開催されていた。ISBのショーの数週間前にはジェファーソン・エアプレインとクレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンが出演し、ISBの数日後にはジミ・ヘンドリクスとステッペンウルフがステージに立った。静かなウィークデイにビル・グレアムはラジカルなグループたちと、ロワー・イースト・サイドのコミュニティ組織に、ベネフィット・ギグのために、その元映画館で2,400の席をもつホールを使用させることにした。

ISBのコンサートの晩、グレアムのスタッフはいつものイースト・ヴィレッジのヘルス・エンジェルス‘マザーファッカーズ’や気のふれたロック・ファンよりもかなり礼儀正しく、内省的でくつろいだヒッピーたちに唖然としていた。アルバム『5,000 Spirits』はすでにニューヨークでかなり大きな熱狂的支持を打ち立て、リスナー出資によるラジオ局WBAIはその時ビルボード・トップ100に入っていた次のアルバム『The Hangman's Beautiful Daughter』をへヴィ・ローテーションで流していた。そのことと、2週間前のWBAIによるボブ・ファスのレイト・ショーにスタジオ・ライヴ出演したことと、アンダーグラウンド・プレスに載った2, 3の控え目な広告によって、その晩はおそらくソールド・アウトとなることが予想された。

ボブ・ファスはWBAIと、‘インクレディブル・ストリング・バンドの芸術と美’に恩恵を受けたオーディエンス両方のためであることを説明して番組をスタートさせた。それから間の悪い長い沈黙が流れた(ストイックなオーディエンスは耐えていた)。それはマイクとロビンがよたよたと足を引きずって現れるまで続いた―1人の評論家のことばを借りると、‘パジャマを着た2人のボサボサ頭の男たち’だった。

もちろん彼らはすばらしかった。ジョー・ボイドはこのコンサートがISBの決定的頂点を示していると感じているし、私もほぼ同意する。“The Yellow Snake”の初期ヴァージョンで始まる“Waltz of the New Moon”は、最初から濃厚だったし、ロビンは達人らしく、みずからのギター・パートにドリー・コリンズのハープシコード・ラインを混ぜこませていた。ロビンがオルガンを担当したマイクの“You Get Brighter”は、“Cellular Song”のすばらしいヴァージョンに先行した。マイクの声は最高の状態、ロビンはえんえんと創意に富んだハーモニーをつけている。やたらと長い“October Song”は、1966年暮れ以来、ずっと制作途中にあった“Half-Remarkable Question”のパートと混ざり合っている。テープが途中で尽きてしまうその長さは、明らかにサウンド・エンジニアの不意をついていた―数秒間の切れ目を残してしまうことになった。これと“Maya”でのマイクのシタールは、注目すべきプレイだ。「僕は当時シタール・プレーヤーとしてピークに達していた」 マイクはいう。「そのあとすぐにあきらめてしまったんだけど!」 “Bell Ringing”はオーディエンス参加の有名なセクションで、ロビンに指揮された参加者たちはテープでくくられた独特な音のするベルとホイッスルをプレイしている。彼らが誰だったのかは分からないが、同年初めのUKギグでは、参加者の1人が若き日のサルマン・ラシュディ(インド生まれの英国の作家)だった。ところでこのコンサートはCDでは全くトントン拍子に進む印象を与えるが、我々は少なくともチューニングの時間である20分間をカットした―ISBの悪名高い部分だ。

切れ目のない長いやつが続く。“The Pig Went Walking Over The Hill”(ロビンはどこからこの詞がついたのか覚えていない)は、マイクの“See All The People”(次にくる‘禅’考察の小品)と同じ流れにある、基本的に2本のギターで進むジャムだ。かなり気味の悪い嘆き声が“Swift As The Wind”を告げる。ロビンによるハーモニーが、おそろしく不気味で暗い領域へといざなう歌だ。震えたつぶやき声はまるでとりつかれた男のようだ(‘彼はわけの分からないことばを話している!’とマイクはいう)。これはあるいは終わりが早すぎるかもしれない―切れ目なく次の洗練された“Mercy I Cry City”へと続く。ここでいったん休憩に入ったのかもしれない。このCDから意図的に外された唯一のトラックが、マイクとロビンがマルコム・ル・メーストル、ラキス(のちのダンス・グループ、‘ストーン・モンキー’のメンバーとなる)とともに即興で作った“Krishna Story”だ。ロビンとマイクはチェルシー・ホテルのロビーで彼らと偶然出会っていた(このストーリーは補足記事参照)。続いて“Ducks on a Pond”の初期ヴァージョンだ―大部分がロビンのソロだが、マイクが終わりに向けてハーモニカで入ってくると、パフォーマンスはさらに一段と高まっている。

ISBは‘現在のアルバムからプレイする’ことを信条としていなかったため、もう1つの未発表『Wee Tam』ソングが続く。オーディエンスはこの全くのニュー・マテリアルにちっとも当惑していないようだが。これはおそらく“Puppies”の初披露だ―ヴァーモントで2週間前に書かれていた。“Chinese White”のあと、オーディエンスが理解すると同時に巨大な歓声を上げるのが、おそらく“Maya”のコンサートでの初めてのパフォーマンスとなるところだろう。奇妙なことに、最後のところで数ヴァースが抜け落ちているが、もしかすると3日前のハリウッドのスタジオでのレコーディングの結果、ツアー初めのWBAI放送以来、ロビンは歌詞を仕上げていたのかもしれない。あるいは彼らは夜間外出禁止令に直面していたのか?WBAIでのレコーディング(『Tricks Of The Senses』でリリース済み)同様、終わりに向けてのマイクによる強力なヴォーカル・ハーモニーを伴った、ここでのパフォーマンスはとても濃厚だ。ショー最後のオーディエンスの反応は印象的だ:あるオブザーバーによれば、この時点までに観客は立ち上がり踊っていた。喝采は耳をつんざくほどだ。「僕たちはアンコールをやらなかったんだ」 マイクはいう。「僕たちはそれがコンサートの終わりだと考えていた」 しかしロビン(そしておそらくマイクも)はステージに戻り、「きょうは来てくれて本当にありがとう」といった。


‘入りなよ!ここは最高の雰囲気だよ’

マイクとロビンはふとしたことから、悪名高いニューヨークのホテル、チェルシーで未来のISBのメンバーであるマルコム・ル・メーストルに出会った。マルコムの母フローレンスは、彼女の著書『At The Chelsea』の中で、彼と元エクスプローディング・ギャラクシーの仲間ラキスのことを詳しく述べている―いかに彼らが‘警察の完全な敵’としてケネディ空港に降り立ち、チェルシーに居を定め、彼らがそこで水の音を録音するためにどれほど時間を費やしたか、そのために彼らは水道から容器を水でいっぱいにし、バチャバチャとメロディックに飛び散らせたか、などだ。当時はそうやっていた。MGMレコードと契約を交わそうと試みたものの、失敗した彼らはホテルに1つのメモを置いた。

Trans-Media Activators, Creators, Sound/Dance are
Needed to EXPLODE…
Exploiters of Mantric Sound structures, Chinese Ballet,
Quaki-Quali Akashic Records, Tantric Flesh-poems, Chakra
Actuations And more and All Point Cosmic 0
Now Contact
Come See Stone Monkey Room 604
TranscendTime/Space/Inertia/
Inhibitions/Masterbation/New York hang-ups

(訳注:よく分からない。大文字で始まる単語が多いので何かのタイトルか社名のことか?)

マルコムは話を続ける:「午前3時に僕たちはいかしたWBAI局のラジオを聴いていたら、マイクとロビンが“Maya”をやっていたんだ。その時ラキスが『んん!?もしかしたら彼らはこのホテルに滞在してんじゃない?』といったと思う。僕は彼にそんなばかなといった。彼は朝食をとるために下へ降りて行って、ロビーの外へ出た。そしてスタジオから戻ってきたマイクとロビンに会ったんだ。彼は2人に、今ラジオで演奏を聴いていたところだったとか話して、彼らを朝食に誘った。僕はその時まで眠っていて、ドアをノックする音で目が覚めた。それは朝食を探していたマイク・ヘロンだった!僕がもっていたのは、サラ・リー(米食品メーカー)のオレンジ・ケーキだけだった!そのあとすぐにロビンがドアをノックして、マイクはあの古典的なセリフ『入りなよ!ここは最高のフィーリングだぜ!』といった。うれしかったね、だって僕のヒーローたちだったから。でも僕は彼らに何もいえなかった―僕はとにかくラキスが何か食べ物をもって戻ってくることだけを願っていた!僕たちはとても仲良く話をして、彼らは『僕たちは今からウェスト・コーストに行くんだけど、こっちのフィルモアで1つギグをやらなきゃならないんだ。僕たちが戻ってきたら、いっしょにダンスとかやらない?』といった。それが僕たちのしたことだ。僕たちはあまりリハーサルをやらなかった。彼らはこのナンバーで入ってきてとかいったと思う。それで僕たちはクリシュナとアルジュナ(インド神話の英雄)についてのあいまいな話をした。もちろん僕たちは何度もフィルモアに行っていたけど、あそこで僕たちはステージに立ったんだ!ものすごいことだったね」


フィルモア・イーストのギグの晩、のちのISBのベース・プレーヤー、スタン・シュニーアはハウス・マネージャーだった…

1968年4月のある金曜の晩、ビル・グレアム(フィルモアの主催者)は午後7時開場の1時間前、入り口に僕たちを座らせ、来たるべきスケジュールを見返した。‘サマー・オブ・ラヴ’の出発点に位置するフィルモア・イーストは、他の何よりもロックンロール、リズム&ブルース、そして度合いは劣るが、コンテンポラリー・フォーク(大部分のフォーク・アーチストは、会場の2,400席を埋める聴衆を十分に魅了することはできなかった)の中心だった。すでにフィルモアにとっては大きすぎる存在となっていた数少ないアーチストたち―ストーンズ、ビートルズ、そしてエルヴィスを除いては、みなビルの契約交渉人とエージェントにとっては格好の的だった―ウエスト・コーストからはジャニス・ジョプリン、ドアーズ、デッド、エアプレイン、そしてカントリー・ジョー、UKからはヘンドリクス、ザ・フー、ジェフ・ベック・グループ、トラフィック、そしてレッド・ゼップなどだ。当時の黒人アーチストの多くは、まだフィルモアの主な白人オーディエンスには広く未知の存在だった。そこでビルはそれら大物黒人アクトたちの出演契約をスタートさせていた―BBキング、マディ・ウォーターズ、ジェイムス・ブラウン、アイク&ティナ・ターナーなど、そしてマイルス・デイヴィスさえもだ。あの時のスタッフ・ミーティングで、ビルは来たるべきショーの1つが、‘An Evening With The Incredible String Band’であることを話に出した。僕はこの時、初めてビルがオープニング・アクトなしでショーを開催したと確信している。その後、彼はラヴィ・シャンカールで同様のことをした。

僕がISBについて知っていたのは、彼らがUKからやって来たサイケデリック・フォーキーだということだけだった―玄米、ヴェルヴェットの修道服、そしてフィンガー・シンバルをプレイする少女たち、こういうヴィジョンだった。ひょっとすると、僕はローカル・ラジオ局で1度か2度、耳にしていたかもしれない。僕は大物のヘンドリクスやフーを主に聴いていたようなガキだった。

ハウス・マネージャー(劇場支配人)は僕を含めて3人だった。大学生と他のパート・タイマーたちが劇場案内係として仕事にやってくると、僕たちは彼らを劇場の所定の位置に配置していた。そうやって僕たちの毎晩の会場警備の仕事が始まった。よくある晩の光景として、僕たちは座席でたばこを吸ったり、酔いつぶれたりする子供たちや、浴室でドラッグの取引をする者、非常口から忍び込む者たちを発見した。僕たちの仕事は一晩中、巡回、監視をして動き続け、用心棒として働くことだった。僕たちはいつもステージ近くに一番大きい男たちを配置させ、もう2人の大男を劇場前に立たせていた。しかし午後7時にドアがオープンしたあの晩、僕たちの口はぽかんと開くことになった。静けさがとどまることなく流れ、笑みを浮かべたうれしそうな人々が劇場に入っていった。たばこを吸う者はなく、叫び声を上げる者はなく、床にゴミはなく、大体において彼らは極度に礼儀正しかった。

これがいっそう印象深かったのは、ヘルス・エンジルスが正面入り口にやってきて、チケットなど不要だと主張したほんの数週間前だったからだ。そのあとには乱闘が起こり、ビルは最後には何本かのあばら骨にひびが入ってしまうことになった。入り口のドアはでこぼこだったかもしれない。ISBの聴衆は思いがけなくほっとするものだった。

いったんショーが始まっても、誰も立ち上がらない、もしくは一切のノイズも発生しなかった。ステージに‘突進’する者など誰もいなかった。ショーが終わりに近づくと、オーディエンス全員が立ち上がり踊り始めた―修道者のようにぐるぐる回りながら。そしてショーは終わり、オーディエンスは歩いて出て行った。再び僕たちは、床にゴミ1つなく、バルコニー席で酔いつぶれる者もなく、浴室さえ全くきれいなままだったことに唖然としてしまった!僕は自分たちのやってきた仕事に欠けていたものに、ほとんど罪の意識を感じてしまった。僕の足や背中に痛みを感じることはなかった。僕は1度すら懐中電灯を使う必要などなかった。

その年の終わりにバンドが再びプレイした時も、同様のことが起こった。オーディエンスが席につき、バンドがステージに現れると何もすることがなかったので、僕はビルのオフィスに向かった。20分間、フィルモアの全スタッフがそこに集まっていた。僕たちはインクレディブル・ストリング・バンドのオーディエンスがとても静かで感じがよくて、おとなしかったことが信じられなかった。フィルモアがオープンしていた続く数年間、僕たち従業員にとってのインクレディブル・ストリング・バンドの晩は、つまり非番だった!

ISBが2度目にフィルモアにやって来た時のおもしろい、あるいはおもしろくない少し皮肉な話―僕が仕事に出る用意をしていた時、ドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けると、そこには今にも先を争って押し入ろうとするニューヨークの5人の麻薬捜査官たちがいた。僕は大人が何人も同時には入れない、小さな一部屋のアパートに住んでいたから、彼らは交代で僕の部屋をかき回していた。3人の男が玄関に立ち、僕を浴室に拘束し、常にやり方を変えながら捜索していた。

人違いだったにもかかわらず、僕は翌朝の罪状認否手続きを待つために、マンハッタン南部のニューヨーク市刑事裁判所(Tombs)でその晩をすごした。そのことがあったあと、僕はインクレディブル・ストリング・バンドは縁起が悪いと思った。数年後に僕はマイクとロビンの親友になって、グレン・ロウで彼らのとなりに引っ越し、ついにはいっしょにステージで彼らのすばらしい音楽を生み出すことになろうとは、どうして知ることができただろう?

スタン‘リー’シュニーア 2012年7月


ホームへ