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Incredible String Band/Across The Airwaves/2007 Hux Records Ltd. HUX 087



1966年初頭、すすけたグラスゴーのフォーク・クラブで結成されたインクレディブル・ストリング・バンド(以下ISB)は、発生期のアンダーグラウンド・シーンで主役となるべく自らのスコティッシュ・ルーツを急速に発展させていた。

彼らはロンドンのUFOクラブでピンク・フロイドのようなアーチストたちと共演し、1967年にセカンドLP『5,000 Spirits Or The Layers Of The Onion』をリリースしたあと、その道の者たちによってカルト・ステイタスを獲得した。DJのジョン・ピールは彼らの大ファンとなり、すぐに彼らを“トップ・ギア”と自らが務める深夜の文化芸術総集番組“ナイトライド”に招いた。1967年暮れに“トップ・ギア”に初出演したあと、最終的に14のBBCスタジオ・セッションが行なわれ、そのうちの10回は口実を装ったピールのためのセッションだった。

まもなくISBはBBCの仕事に冒険的なアプローチを試み始め、セッションを新曲、未発表マテリアル、あるいは古いマテリアルの過激な再アレンジのために使い始めた。トラックの多くが他のところで残されなかったように、これはとりわけより多くのオーディエンスにとって価値あるセッションとなっている。最近になって再びこれらトラックを聴いたマイクとロビンは、そのクオリティに改めて驚いてしまった。

このCDの選曲にあたり、我々は未発表マテリアル、あるいは重要な焼き直し、そして1990年代初頭以来リリースされてきた他のISBのコンピレーションから、スタジオ並みのクオリティで手に入るようになったマテリアルを優先した。とりわけ初期のセッションの場合、BBCテープは紛失あるいは消去されることがしばしばだったが、放送から直接録った未発表曲はすばらしい状態で入手でき、我々はその歴史的価値を考慮し、それらをボーナス・トラックとして加えた。

最初の2つのBBCセッションは現在、かなり音の小さいコレクターズ・テープとしてのみ存在するが、1969年3月のピールの“ナイトライド”はそっくりそのままの状態で保存されてきた。ISBのテープは、ピールの手書きの原稿、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルのセッション、そして詩人エイドリアン・ミッチェルによる朗読を分析する1人の筆跡学者といっしょに聴いた。

ピールはミッチェルとのおしゃべりに熱中しすぎたため時間を使い果たし、4曲目のISBのトラック、“Fine Fingered Hands”は午前1時のニュースのあとの番組に押しやられねばならなかった。その結果、あとの番組のオリジナル・テープが失われたため、我々はここにボーナス・トラックとして収録した、放送から直接録ったすばらしい音源に関して、リチャード・バートラムに恩義がある―彼はISBのファンで、オープンリールテープの状態で保存していた。番組でISBは、のちにサウンドトラックの『Be Glad For The Song Has No Ending』上でリリースされたインストゥルメンタルの“Theta”とともに、『Changing Horses』収録の“Dust be Diamonds”を試演した。マイクの“All Writ Down”も同様だったが、そこではロビンがくねくねとしたワウワウ・ギターを加えた。

“Fine Fingered Hands”は傑出したナンバーだった。コメンテーターが「どんなアルバムも美しくしてしまう歌」と語ったこれは、ロビン・ウィリアムソンが何年もあとのソロCD、『Ring Dance』で再録するまでずっと未リリースだった。そのあとの“Darling Belle”同様、これはロビンの見た夢に基づいている―他次元の無限のサイクルで、1つの“小さなドア”が次々と他のドアへと続いていく夢だ。一方で“Nenupher”(ネニュファー)はスイレンの一種だ。

1966年のクライブ・パーマー作、“Empty Pocket Blues”の過激な焼き直しは1970年7月のピールのトップ・ギアからで、1968年初めにバンドに加入したローズ・シンプソンとリッキー・マッケクニーのヴォーカルをフィーチャーしている(クライヴはファースト・アルバム後、バンドを去った)。「2人の声を正しく利用すれば、鋼鉄だって切り落とせるだろう」―ピールはこれをかけたあと、皮肉っぽくそうコメントした。ここでのマイク・へロンの“Beautiful Stranger”は、ISBスタイルでプレイされている。彼のソロ・アルバム『Smiling Men With Bad Reputations』収録のヴァージョンは、ベース、ドラムス、そしてブラス・セクションをフィーチャーした、よりドラマチックなアプローチだった。1968年のナイトライドでアコースティック・アレンジメントによって最初に放送された、ロビンの切望を歌った“Won't You Come See Me”はここで再登場し、オルガンとエレクトリック・ベースをフィーチャーしている。1970年9月、バンドはスチュアート・ヘンリーの番組で3つ目のヴァージョンをレコーディングした。

スチュアート・ヘンリーのBBCセッション・テープは現存していないが、我々はボーナスとして放送からの直の録音3曲を収録した。バンドはファースト・アルバムのマイク作、“Everything's Fine Right Now”をかなり練り直し、4人でライヴ演奏した(オルガンにローズ、エレクトリック・ベースにマイク)。“Raga Puti”(正しくはRagupati)は、マイクの処理による伝統的なヒンディーの信仰の歌だ(彼はアナンダ・シャンカールのアルバムでこの歌に出会っていた)。ピート・シーガーもこれをレコーディングしていた。

“Ring Dance”は、長い間不明だったもう1つのウィリアムソンの至宝だ(結局彼は1998年のCD『Ring Dance』で再録音した)。歌詞に見られる反体制的なスタンス(“階級と囲いの番人たち”)は、ロビンがのちの“Cold Days Of February”のような歌でさらに発展させた。リッキーは大きなアイリッシュのランベグ(lambeg)・ドラムをプレイしている―普通は北アイルランド・プロテスタント派のマーチング・バンドでよく知られている。ロビンはトラディショナルな“イングリッシュ”風味のアレンジメントを本当に気に入っていたといっている。

1970年10月にレコーディングされた次のセッションの公式テープはなく、それはその年の終わりにバンドを抜けるローズをフィーチャーした最後のものだった。“Long Long Road”はISBのマルチ・メディア・ショー、“U”からの唯一のナンバーで、これはサウンドトラック・アルバム用にはレコーディングされず、ここに収まっている1970年のコンサートのために彼らが仕上げたものだった。放送から直に録った音源がボーナス・トラックとして収められている。マイクはここでエレクトリック・ギターを弾いている―もしかするとリチャード・トンプソンにちょっと挨拶したのかもしれない―彼とロビンとリッキーがそれぞれのヴァースを歌っている。彼によれば、この歌はショーの注文にしたがって書いたものだった。

1971年の“BBCイン・コンサート”出演は、ISBの続けざまで過激な変化をとらえている―マネージャー券プロデューサーのジョー・ボイドは彼らから去って行き、彼らはレコード会社を移籍し、ローズの代わりにマルコム・レ・メーストルを招き入れた。マルコムは“U”のショーでダンサーとして彼らと共にステージに上がっていたが、マイクとロビンは彼にずらりと並んだ楽器のプレイの仕方を教えた。マルコムはいう―「僕は5つか6つの楽器を教わって、3ヶ月間、一心不乱に練習したね。それでステージでそれをプレイする時がきたんだけど、まるで僕はマルチ奏者(訳注:ここではおそらく同時に複数の楽器を演奏する奏者の意)のように見えていた。オーディエンスは僕がそれぞれの楽器を1つずつしか弾けないことを分かっていなかった!」

マルコムはマイク作の“Worlds They Rise And Fall”でリード・ヴォーカルをとるようになり、のちに映画“Hideous Kinky”のサウンドトラック盤で使用された(その時はマイクがヴォーカル)。そのセレクションは冒険的なものだった―かつての歌は1つもなく、『Liquid Acrobat As Regards The Air』に収録されることになる聞きなれないマテリアルのほとんどは、8月までレコーディングさえされなかった。ロビンの“Willow Pattern”やマイクの“Bright Morning Stars”といったナンバーは、レコードになることもなかった。“Willow Pattern”はライヴ用として書かれていた―ロビンはいう―「でもその皿の話は本当だよ!(訳注:よく分からない。歌詞の内容のことか?)」 歌で使われている“チャイニーズ”メロディは本物の響きがあるし、まさにウラル川の東のどこからかやってきたようだ。

“Bright Morning Stars”はアメリカのシェイカー教徒(Shaker:米国の千年王国信仰者の団体。独身主義・共同生活・共有財産制)の教会ソングをマイクが書き直したもので、彼はペニーホイッスラーズのLP『Nonesuch』で初めて聞いた。これはシェイプ・ノート(shape note:音階を白と黒の円い符頭の形で表す音符)・ソングとして知られるジャンルのものだ―これは楽譜や、使われるハーモニーのタイプを示すことばのとなりに印刷された様々な幾何学的パターンの記号が読めなかった人々のためだった。1971年のセットは、ロビンのお気に入りである古いカーター・ファミリーのナンバーで幕を閉じる。(最近では、ロビンとビーナ・ウィリアムソンのデュオは、“Raga Puti”と“Ring Dance”に加え、“You've Been A Friend To Me”をよくフィーチャーしている)

未リリースのロビン・ウィリアムソン作の“Living in the Shadows”は、“イン・コンサート”のショーと同じラインナップだが、1971年のピート・ドラモンドのセッションが放送された時に、ラジオから直に録音されたものが唯一現存した。我々はピアノを弾いているのはマイクだと考えている。ロビンによれば、この時期、彼は様々なスタイルの歌を書くことを目指していたらしい。

“Secret Temple”は長く忘れられていたリッキーの歌だ。1972年秋に彼女がバンドを去る前の最後の歌で、もともとはLP『Earthspan』に収録予定だった。これはどのセッション記録にも載っていないが、最近ある1人のISBファンがBBC“トランスクリプション・ディスク”―他のラジオ局が使用するためのレコード―から掘り起こした。このことによって、さらに我々は“BBCインターナショナル”全体のアーカイヴ・テープに行き着いた(そこで我々は長い間消去されたと考えられていた数曲のISB音源を発見した)。“Secret Temple”は放送はされなかったが、1972年初頭のピール・セッションでさらにレコーディングされていたことが判明した。歌詞的にはかなり不明瞭だ―恋人に向けたのか?女神に向けたのか?あるいはその両方か?「僕たちにも分からない」―ロビンとマイクはいう。

1972年8月に行なわれた次のピール・セッションまでに、ISBはさらにがっしりしたサウンドを身につけていた。“ストリング・バンド”の流儀にしたがい、ローディーのスタン・シュニアとジャック・イングラムは、それぞれベース・プレーヤー兼ドラマー/ギタリストに昇格していた。一時期、ブリストル拠点のヴィオラ奏者、スチュアート・ゴードンがリッキーの“代理”として考えられ、彼はこのセッションにゲスト参加した。ロビンのソロ・アルバム『Myrrh』収録の“Rends-Moi Demain”は、ペダル・スチールのスタンとリード・ギターのマイクの間のちょっとしたバトルをフィーチャーしている。『Hangman's Beautiful Daughter』収録の古い歌のメドレーは、この時代の彼らのコンサートでハイライトだった。マルコムの“Oh Did I Love A Dream”は、この時期の未発表曲だ。「僕は当時、30年代についての本をたくさん読んでいた。僕はいつも不完全さや挫折やなんかに引きつけられていた。ちょっと“The Actor”(?ピカソの絵のこと?)に近いものがある」 ここでマイクはピアノ・アコーディオンをプレイしている。

リッキーの後任として、ジェラルド・ドットがピアノと様々な管楽器担当としてバンドに加わった。彼はISB結成以前のロビンとジャズを、マイクとスキッフルをプレイしていた。彼は1972年の“イン・コンサート”に参加し、最後の4曲で彼のプレイが聞ける。そのうち3曲はアルバム・トラックのライヴ・ヴァージョンだが、“I Know That Man”は“Willow Pattern”同様、ライヴ用に書かれた歌だった。

最後のジョン・ピール・セッションは、1973年10月にレコーディングされた。この時点で、グレアム・フォーブスがエレクトリック・ギター(と時折バンジョー!)で加入していた。アルバム・トラックの“Dear Old Battlefield”と“Dreams Of No Return”の強力ヴァージョンとともに、我々は一風変わった、そして他では未発表であるヘロン作の“Jane”を加えた。“変てこな歌”についてマイクはいう―「究極の純真さが感じられる。現代ではとてもありえないだろうね!」

最後の“イン・コンサート”までに、ジョン・ギルストンがジャック・イングラムの代わりにドラムを担当していた。結局これがUKでのISB最後のギグの1つとなった。我々はグレアム・フォーブスがバンジョーで参加した“Log Cabin Home In The Sky”含む2曲を収録した。ここでは拍手喝采がカットされている。1974年半ばまでに、ISBの終わりははっきりと目に見えていた。バンドは長続きしない様々な音楽的方向へと入り込み始めていた。

差し迫った変化に対する感情は、ヘロン作の美しい“1968”を生み出した―この歌は常にバンドの核だったヘロン/ウィリアムソンのパートナーシップをノスタルジックに振り返っていた。それはふさわしくアルバム『Wee Tam』での楽器編成に戻っていた―マイクがアコースティック・ギター、ロビンがギンブリ(gimbri:アフリカの低音弦楽器)だ。これはマイクの1996年のソロCD『Where The Mystics Swim』に収録されるまで未レコーディングだった。

エイドリアン・ウィッタカー
2007年2月



マイク・ヘロンは驚きつつ振り返る

スコットランド中部、ダルガイズでのボーイスカウトのキャンプは憂うつな行事だった。15歳の時、僕はなんとかしてまるまる2週間、自分の中から女の子とロックンロールを絶とうとしていた。夏の間の2週間だよ!

しかしそれは僕だけじゃなかった。アティって奴も自分のことを嘆いていた。女の子のいない日々が過ぎていくにつれて、退屈なテントの中にいる僕たちの夜は、エヴァリー・ブラザーズとバディ・ホリーの歌のハーモニーを練習するのに費やされ始めた。僕らは水っぽいココアをちびちび飲みながら、アティはウクレレを弾いた。こうやって僕たちは完全な音楽的剥奪を免れて、ほとんどパンもマーガリンもトイレ掘りも無意味なものにしてしまった。

最初にアティが僕に教えてくれたのが、彼といっしょに“You Are My Sunshine”をハモることで、彼とはすぐに友人同士になった。ヴォーカル・ハーモニーを発見する魅力は、お互いに共通する関心事が明らかになることで、1日最低50倍にふくらんでいった。

僕たちはウクレレをエレクトリック・ギターにもちかえて、エジンバラのロック・バンド・シーンに向かい、ザ・サラセンズ→ジ・アブストラクツ→ロック・ボトム・アンド・ザ・デッドビーツとしてすばらしい数年間を過ごした。僕たちは自分たちの限界を悟った時に、お互いに新しい道に進み始めた。アティは測量士になって、僕はディランに大きな影響を受けたソロ・アクトとして、のちにレギュラーになるフォーク・クラブで歌い始めた。

ある晩、僕がカーコーディ・フォーク・クラブで“See That My Grave Is Kept Clean”を歌っていたら、ハーモニカ・ホルダーの間から僕がぜひ会いたいと思っていた2人の人間を発見した―ジーニー・ロバートソンとロビン・ウィリアムソンだ。

ジーニーはジプシーの伝統に身をおいたすばらしい無伴奏バラッド・シンガーだった。彼女のスタイルは僕にとっては新しくて、僕は彼女の歌を聴くのが大好きだった。彼女はアバディーン(スコットランド北東部)の自分の家に僕を招待してくれて、僕を彼女の声でうっとりさせたあと、違う方法でもうっとりさせてくれた(訳注:どういう意味でしょうか?しかもこの時、ジーニーは60歳近いオバハンのはずです)。僕は彼女が無意識に目玉焼きの端っこをつまんで、自分の口の上にぶら下げて食べるのを見て驚いてしまった。その時、僕は自分のエジンバラ・ミドル・クラス的な規範がミシミシと音を立てて広がっていくのに気づいた。

ロビンはハーモニーを本当に完璧にやってのけた。カーコーディの楽屋で、僕たちは僕が以前やっていたカーター・ファミリーの歌を2曲歌って、2人の声をかき混ぜてみたが、ロビンのクリアで正確な声はそのサウンドを完全に別のものに変えていた。僕の声はメロディの端で少しバタバタとのたうち回っていた―ちょっとまった、あれ?なんだ?僕は2人の声が一致するように以前歌っていたのにってね(ごめん、アティ!)。

ロビンの声は中間の三度のメロディを保っていて、いいサウンドになるように締まりのない音程を調和させることができる。ロビンの声は多くの役割をもっている。それはある意味、ジーニー・ロバートソンとジョー・ヒーニーのトラディショナル・スコッツやアイリッシュの歌を適切に親しみやすい形で表現できるということだ。ブラインド・ウィリー・ジョンソンのようにうなることも、リトル・リチャードのようにプリーチすることも、そしてアンディ・カーショウ(英DJ)のレコード・コレクションよりもさらに遠くへ連れて行くこともできる。僕はすごく大きなミシミシ音を聞いた!

ロビンとリッキーはプリンセズ・ストリート・ガーデンズが見渡せるアパート最上階に住んでいた。建物は真っ白に塗られていて、壁には墨汁で写生画、窓にはニンニクが並び、パーコレーターを使ってコーヒーを入れてミルクを入れる。それからシナモンをふりかける。つまりビートニクの部屋だった。あきれた!僕はまだ両親といっしょに住んでいた。両親の家では、白コショウはかなり退廃的だと考えられていた。ミシミシ音は続いた・・・

まるで僕の生活の土台が変化した時に、それを強化するかのようにリッキーが登場した。ロビンと僕がギターをもち背をかがめ、いくぶん草の根の中で数曲のイワン・マッコールの歌(歌詞は全て切り刻んだ石炭とニシンの大群についてだ)を立証していた時に、青白い笑顔のくぼんだ目を覆い隠すチョコレート色のベレー帽が現れた。そのベレー帽はヴィクトリア風のネグリジェの上に着たツイード・ジャケットをしたがえ、ネグリジェはローマン・サンダルの皮ひものところで巻かれていた。彼女は午後の散歩の収穫である小さなカスタネット、スティック、石、そして貝を入れたバッグを持ち歩いていた。

僕たちの荒削りなハーモニーの中に最高音部が出現した。かすんだ牧草地の匂いのような声は、僕たちを完璧にしていた。3人は調和していた。それがこのアルバムの最初のトラックで聞けるサウンドだ。

マイク・ヘロン
(もともとは1992年のCD『In Concert』のライナー・ノーツとして載せられていた)


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