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Irma Thomas/Something Good:The Muscle Shoals Sessions/1990 MCA Records, Inc., WMC5-248



チェスは、ブルースのレーベルとして圧倒的な存在であった。しかしシカゴ拠点のレーベルとして絶対的であった一方で、ヒットを出すことにもやっきになっていた。レーベルが経済的危機に陥った時、ジャンル、地域を越えてヒットを出すことを最優先にしていたことも事実だ。60年代半ばまでにチェスを有名にしたデルタ・ブルースと、その周辺の音楽は、黒人音楽購買層からは大部分見放されていた。ソウル・ミュージックは、レーベルと一緒になった独立系のスタジオの新しい勃興によって盛上がりを見せていた。モータウン、スタックスそしてフェイム/マッスル・ショールズは、チェスが過去10年間に築き上げたような功績を60年代において達成していた。

この時代チェスは、ウィンディ・シティ(シカゴ)のスタジオで、ソウルのヒットをレコーディングしていたが、レーベルは方針として南部フェイムの名プロデューサー、リック・ホールに白羽の矢を立てることにした。彼はアラバマ、マッスル・ショールズのお尋ね者であったリズムセクションの総元締めであった。フェイム/マッスル・ショールズは、ソウルの女王アレサ・フランクリンによって大きな名声を勝ち取っていた。それはチェスの女性ヴォーカリストにとってはそれほど驚くべきことではなかった。レーベルの大黒柱エタ・ジェイムスしかり、新人のローラ・リー、そしてアーマ・トーマスは、1967〜68年にかけてマッスル・ショールズを訪れ、フェイムのソウルサウンドを獲得していたのである。

そしてリーとジェイムスは、チェスのマッスル・ショールズ録音ではチャート上成功した掘出し物だったかもしれないが、トーマスがフェイムで行った2回のセッションでの13曲は、当時ほとんど世に出なかったのである。このCDに収められたナンバーがその全てであり、他のフェイム録音は全くないのである。1回目のセッション、今回この1967年の非常に熱いパフォーマンスは、アメリカでアルバムとしてリリースされた。チェスはアーマ・トーマスを確立されたヒットメイカーとして契約していたし、ニューオリンズの男性版である‘ゴールデン・ヴォイス・オブ・ニューオリンズ・ソウル’のアーロン・ネヴィルと並ぶ、‘ニューオリンズ・ソウルの女王’であった。

トーマスの音楽界へのデビューは、究極のロックドリームの手本であった。アーマ・リーは1941年2月18日、ルイジアナのPonchatoulaで生まれた。彼女は1959年、トミー・リッジリーのバンドで歌うまでに、2回の結婚と3回の母親という経験をし、ウェイトレスを仕事としていた。上司は彼女をクビにしたが、リッジリーは彼女を気に入り、バンドのシンガーとして雇い入れた。その後、1960年、ニューオリンズのロン・レコードへ彼女を連れて行き、デビューシングル‘(You Can Have My Husband But Please)Don’t Mess With My Man’を吹き込み、これはすぐにR&Bチャートのトップに上がるヒットになった。この成功はアラン・トゥーサンの目を引くことになった。彼はわずか15歳にしてキャリアをスタートさせ、ニューオリンズR&Bのヒットメイカー、ソングライター、プロデューサーとして既に大物であった。トーマスは60年代初頭ミニット・レコードに、多くのトゥーサン・ナンバーを吹き込んだ(しばしばペンネームのナオミ・ネヴィルとクレジットされていた)。‘It’s Raining’、‘Ruler Of My Heart(オーティス・レディングのファーストヒットPain In My Heartの原曲)’は、彼女を世界中のカルトR&Bヒーローへ押し上げ、ニューオリンズでは真のヒロインへと仕立て上げた。

商業的成功は、1964年トーマスを再び激しく揺さぶった。インペリアルからリリースされた非の打ち所のないソウルむき出しの‘With Someone Would Care’は、ナショナルポップチャートで17位まで上がった。その年はいくつかのマイナーヒットも放ったが、B面の曲であった‘Time Is On My Side’はリリース直後、マディ・ウォーターズの曲名から付けられた英国の5人組にカヴァーされ、彼らの最初のアメリカでのヒットになった。

しかしチェスが1966年暮れ、彼女にコンタクトを取った時、彼女はレーベル契約がなく、熱狂的な3週間の英国ツアーによって、彼女の声は潰れ、治療のため4ヶ月の休養をとっていたのであった。

しかしこのCDには、そういった彼女の喉の不調は全く見当たらない。トーマスのヴォーカルは、熱く、かつしなやかに震え、屈し、口答えする―彼女はレコード同様いつも女らしい女だった。まさに1曲目の挑戦的な‘Cheater Man’が充分にそれを証明している。断固たるストレートな表現と、色事に対するむき出しの傷ついた心は、トーマスの真骨頂でありまた、この当時の女性ソウルシンガーたちの永遠の古典であるテーマを特徴づけていた資質であった。このシンガーが、相応しいソウルフルな歌に出会った時―ジョー・テックス風の語り口調な‘A Woman Will Do Wrong’は大傑作であることを証明している―その感情のパワーには思わず息を呑むほどだ。

“ダン・ペンとスプーナー・オールダムは、私が歌いたかった曲を率先して選ぼうとはしてなかったわ。その時私は誰が曲を書こうがかまわなかった。いい曲をレコーディングできればよかったのよ。”“まだ25か26で新しい経験とヒットレコードに恵まれて全てが楽しかったわ。マッスル・ショールズは当時ホットなスタジオで、そこへ行けば必ずヒットが生まれるようなエキサイティングなところだったわ。” 確かにこのCDはヒットに値するに充分なパフォーマンスが詰まっている。抗しがたい堂々としたグルーヴの‘Cheater Man’からオーティス・レディングのバラッド2曲、‘Good To Me’と‘I’ve Been Loving You Too Long’までトーマスはセッションのためにセレクトした。バラッドとミディアムテンポの曲が際立っているが、マッスル・ショールズのリズム・セクションは延々と彼らの納得のいかないトラックを破棄しながら、柔軟な演奏でソウルの錬金術師のごとくマッスル・ショールズ産ソウルの定番を作り出していった。彼らの熟練した技は、スタジオにおいてトーマスの情熱的なヴォーカルをよりいっそう解放し、そのような理想的な協力体制の下、‘Somewhere Crying’‘I Gave You Everything’そして‘Here I Am, Take Me’が生み出されていった。

“ニューオリンズとマッスル・ショールズのドラマーの違いが一つあった。ニューオリンズのドラマーはシンコペーションを持っていたわ。それはコピーするのは難しくて、彼らの生まれつき持っている特徴ね。” トーマスは言う。“ファンキーなサウンドってことなら、マッスル・ショールズはそれら全ての要素を持っていたわ。全てライヴ・レコーディングで、みなお互いのフィーリングを感じ取りながらプレイしてたわ。” しかしこれら力強いパフォーマンスにもかかわらず、わずか‘Good To Me’だけがR&Bチャートに短期間顔を出しただけであった。その結果アルバムは作られず、無残な結末に終わった第2のダイアナ・ロスという企てを目論んだシカゴ・セッションの途中で、トーマスはチェスを去ることになった。

彼女は70年代初頭、アルバム‘In Between Tears’を含むレコーディングを続けた。そのアルバムは当時の女性サザンソウル・シンガーの一派によく見られた、男女間のシリアスな話を題材にしたものとして先駆けた作品であった。レコーディングの機会は、ニューオリンズ周辺と、ガルフ・コースト地域のクラブでのとっておきのライブ以外は散発的なものとなった。彼女は地元の、年1度開催されるジャズ&ヘリテイジ・フェスティバルの常連となり、2枚のスタジオアルバムを制作した。‘New Rules’と‘The Way I Feel’である。これらは80年代後半、ラウンダーのモダン・ニューオリンズ・マスターズ・シリーズの一環として発表された。‘New Rules’には、このCDに収録されている永遠のソウルの名曲、‘Good Things Don’t Come Easy’と、‘Yours Until Tomorrow(CDのボーナス曲)’の新録ヴァージョンが収められた。
ドン・スノウデン


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