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The Impressions/This Is My Country & The Young Mods’ Forgotten Story/2001 Charly Licensing ApS SNAP 281 CD



1968年4月4日、メンフィスのモーテルでマーチン・ルーサー・キングがジェイムス・アール・レイに撃たれて殺された時、それが政治的な暗殺計画だったという噂は、ある冷淡な世界の目論みの中で政治との関連性は否定され、もみ消されてしまった。しかし黒人たちは真実を見抜いていた。これは全くの殺人であり、人種的動機が働いていたことを。

深い悲しみの中で民族の団結が敬虔に語られたこと、ストリートでの抗議行動は誤りであるはずがなく、白人にとってもそれはもっともなことだと思われたのである。926 E. マクレモア通りにあったアーチスト・コミュニティは比較的協和的で統合されていたが、彼らの基盤は揺さぶられ、メンフィスのスタックス・レコーズは、キング暗殺のショックから二度と立ち上がることはできなかった。

他の場所にいるいく人かのアーチストたちは、より慎重な対応をとっていた。暴徒たちのことを冷静に十分考えた上で、シカゴの雄弁なるシンガー、Curtis Mayfieldは自らの感情を5曲の歌に注ぎ込んだ。それはThe Impressionsの2枚のアルバムに入っている。その2枚とは、1968年11月の‘This Is My Country’(Curtom 8001)と続く1969年5月の‘The Young Mods’ Forgotten Story’(Curtom 8003)だ。

まずジャケットで目を引くのは、仕立てたスーツに身を包み中央に立ち、まばゆく輝いているCurtis Mayfieldだ。彼の後ろにはFred CashSam Goadenがサウスサイド・シカゴのぼろぼろになった住宅正面に佇んでいる。どういうわけか彼らは奇妙にもその場所に似つかわしくなく、一見旅行者のように見える。それはアルバムに入っている曲でもあるこのアルバム・タイトルへの明らかな皮肉であり、このアートワークは様々なニュアンスを含んでいるのである。ジ・インプレッションズはまるでここは確かに我々の出身地であるが、我々はここに定められるものではないと言っているかのようだ。彼らは曲によって多くの黒人たちにとっての今のアメリカを糾弾し、西洋世界のトップであり申し分のない快適な国を自認するアメリカに対して権利を主張したのだ。

メイフィールドの支持者は、野心の拘束されることのない中産階級の間に急速に拡がっていった。銃による解決はほとんどあり得ないと悟った彼の選んだ武器は音楽であり、ギターよりも脅威となるものはないことの表明だった。The Impressionsはタフガイを気取るでもなく、アゴをなでて賢人ぶるでもなく、バシリスク(アフリカの砂漠に住み、ひとにらみ、またはひと息で人を殺す伝説上の爬虫動物)的な凝視でもなく、ただいつも虎視眈々と事態を注視していた。

ファイナル・トラックでメイフィールドは、リスナーに向けてマーチン・ルーサー・キングの死によって萎縮するどころか、その辛い出来事にもかかわらず彼らは生き残ったことを強調している。シンガーの妥協なき誠実さ、“僕と僕の誇りを守るために多くの命が失われ、二流へと堕ちていく”という告白の中の固い決意を考慮すれば、‘This Is My Country’が‘My Woman’s Love’(Curtom 1934)とともにリリースされ、商業的成功を収めたことは驚異的ですらある。これは1968年10月にチャート・インし、R&Bチャートで3位まで上がった。しかしさらに重要なのは、その年の12月にポピュラー・チャート圏内に入ったということだ。最終的にはナショナル・チャート25位に達し、6週間圏内をキープした。そしてカートムの姉妹レーベル、Thomas 810でDewi Cheetum & Howeのカヴァー・ヴァージョンを生むことになった。

メイフィールドの正義に対する情熱は、全ての階級と人種を超えたアメリカ人としての平等へ向かい、このテーマは遠く離れたカーティスの信望者ボブ・マーリーにとっても、国外移住や観点の違いを超えて同様の取り組むべきものとなった。

アルバムは挑戦的な‘They Don’t Know’で始まっていた。“我々は一人のリーダーを失った。”カーティスが抑揚をつけてそう歌った次の瞬間、彼は聴衆に向かって自分の考えを述べる。それは予期しない新しい意味づけであった。“もし彼らがもう我々を導くリーダーがいないのだと思っているのなら、彼らはなにもわかってはいない。全てのブラザーがリーダーであり、全てのシスターがブリーダー(生み出す者)なのだ!”

アルバムを通じてメイフィールドは自身の特別なブランドであるラディカリズムによって、癒しのパワーを見せつけていた。しかしもし‘They Don’t Know’と‘This Is My Country’が政治的で扱いにくい曲であったら、残りの曲はこのアルバムに入らなかったであろう。Curtis Mayfieldはこういった崇高で感受性鋭いラヴ・ソングに打ちこみ、インプレッションズとともに名声を獲得してきた。先述のB面であった‘My Woman’s Love’は中でも最高の出来であったし、ジョニー・ペイトのアレンジによって生み出されたあたたかいサウンドであるだけでなく、メイフィールドの詞によるところも大きかった。一般的に純然たるR&Bの世界で他の誰が、“彼女はそのしなやかな手で僕に触れるように、僕の中に白い炎に対する欲求を起こすかのように”などという詞が書けるだろうか。

なるほどこのアルバムからカットされたシングル両面は特に傑出したラヴ・ソングだ。‘Fool For You’(Curtan 1932)はしつこく罵倒の言葉を唱和し並べ立て、以前にレイ・チャールズによって録音された同名異曲と同じ領域を占めている。その曲の持つ強いビートは‘I’m Loving Nothing’と同様のものであった。神聖なサウンドに宿るバラッドの物悲しい美は、メイフィールドの名曲、‘Need To Belong’を喚起させる。ペイトのホーンとストリングスの編曲が施されたこれは1968年9月にR&Bチャートに入り、最高3位まで上がるヒットとなった。一ヵ月後、ポップ・チャートにも姿を現しトップ40に入り最高22位まで上がったのである。

同様に‘Gone Away’と‘So Unusual’のような素晴らしいレコーディングはシングルとしてリリースされることはなく、そこにあった彼らの精妙さはむだに終わってしまったのかもしれない。まず第一に喪失をテーマとする地味な歌というのは、哀しげなストリングスとホーンが覆う中、ゆったりとしたドラムビートがほとんど弔いの様相を呈するものに分類される。一言でいえば、この曲に施されたリロイ・ハドソンとダニー・ハザウェイによるアレンジメントは通好みするものであった。1970年、ロバータ・フラックは自作による‘Chapter Two’(Atlantic 1569)で同様の試みを考えていた。

あるいはさらにメイフィールド自身によるところが大きいかもしれない。‘So Unusual’での彼の洗練されたテナー・ヴォイスは大きな効果を生み出していた。The Impressionsのヴォーカル・サポートが覆い、全体に浮かぶ中、彼は愛の痛みを表現していた。この国に一生忠誠を誓うことへの不信という反抗を示しながら。再び今度はハザウェイがピアノで参加し、その結果これは大衆の嗜好に合致することになったようだ。

さらに重要な1曲、‘You Want Something Else’はシングルとしてリリースされるにふさわしいと考えられた。メイフィールドのペンによる、親しみやすくはあるがラヴ・ソングではないこの曲もあちこちでハザウェイが姿を現している。これは来たるべきアルバム、‘The Young Mods’ Forgotten Story’からの‘My Deceiving Heart’(Curtom 1937)のB面として遅きに失する寸前にとどまった。

なんと‘My Deceiving Heart’はリリースされるや、1969年3月すぐにチャート入りを果たした。自己批判に苛まれたかぐわしいソウル・クラシックとしての一級品だ。そしてハザウェイによるゴスペル調のキーボードがさらに大々的にフィーチャーされていた。最終的にブラック・ミュージック・チャートで23位に達したが、ナショナル・チャート・ホット100からはあぶれてしまった。

メイフィールドは自らの手の内を見せ、探求者として躍進し続けた。‘Seven Years’(Curtom 1940)とB面のハザウェイのアレンジが光る‘The Girl I Find’がチャート入りするのは保証付きであった。弾むようなアップテンポな曲調がさらに苦々しい思いにさせるこれは、耐えがたい悲しみをたたえている。一方哀愁漂うバラッド、‘The Girl I Find’はメイフィールドの特異性を最もよく表わしている。鳥のように高く舞い上がり、暖かな気流をとらえ、‘find’という言葉を巧みに使い分けている。シングルは1969年4月にリリースされるや、その真価を発揮しすぐにR&Bチャートの15位に達した。残りのシングルはアルバムがR&Bチャートの21位に上がった後を追う形となった。‘Choice Of Colours’(Curtom 1943)は他の曲よりもゴスペル色が強かったが、メイフィールドが唯一の答えを持つ哲学的な疑問を呈する説教師を演じることにおいて素晴らしいリリースとなった。それを本当に価値あるものにしたのは、彼自身のコミュニティーにある偏狭さを公表し、そういった厄介な問題を口にするという意欲であった。彼は次のように引き合いに出し嘲笑する。“君はどれくらいの間、白人の教師を憎んできたのか?黒人牧師を愛することを君に教えたのは誰だい?仲間の恋人、友人を尊敬しているか?親族でない黒人たちと全てを共有しているか?”

この真に鋭い詞を持つナンバーの素晴らしかった点は、6月の終わりにリリースされるやすぐにチャートのトップに立ち、多くの人々の耳に届いたことだ。なるほど確かにトップに立つほどの要素はそこにはないのかもしれないが、メイフィールドの価値観は共有財産となったのだ。1ヵ月後、The Impressionsはトップ40に割って入りナショナル・チャート21位に食い込んだのだ。

さらに驚くことにあまりに愉快なのがアルバムのラスト・トラック、‘Mighty Mighty(Spade And Whitey)’をB面に選んだことであった。メイフィールドが国家の対応ぶりのありさまをリズミカルに歌い出した瞬間、曲はそのタイトルの意味に注意を向けさせる。“我々はリーダーを殺戮している”彼はマーチン・ルーサー・キングだけでなく、次期大統領候補のロバート・ケネディについても言及し、所見を述べた。ロバート・ケネディは1968年6月5日、イスラエルに過剰な思いを持ったヨルダン人移民サーハン・サーハンに射殺された。“黒人か白人かは問題じゃない”彼は締めくくった。“我々は過ちを犯している。改めるために戦わねばならない。”

過激な闘争性を避け、彼は“時代精神に合った”スローガンを掲げ、黒人と白人の力を結集しようと支持者を呼びかけ、参加するよう力を注いだ。それは共通の大義を見つけることであり、“両人種に違いはない。どちらも切られれば赤い血が出るのだ。”と訴えかけている。

怒りを表わすような激しいギターは、どちらかと言えばこれは裏面の曲よりも熱いものがあり、アルバムの文脈の中で最終曲にふさわしい位置を占めていた。それは曲として高く評価されていた。Baby Huey & The BabysittersはCurtom 1939から最初にシングル・カットし、メイフィールドのバッキング・トラックは、ジェシ・アンダーソンがCurtomの姉妹レーベルThomasから出した‘I Got A Problem’の片面でインストゥルメンタル・ヴァージョンとして提供された。続いてメイフィールドは1971年1月、ニューヨークのビター・エンドで行なった‘Curtis/Live!’(Curtom 8002)からそれをシングル・カットすることに了承した。

彼はさらに1970年のインプレッションズのアルバム、‘Check Out Your Mind’(Curtom 8006)でCurtis Mayfieldがソロ・アーチスト、ポップの論客として形を成した‘Mighty Mighty(Spade And Whitey)’に通ずるような作品でリード・ヴォーカルをとることになった。‘This Is My Country’と‘The Young Mods’ Forgotten Story’では彼がコンセプト・アルバムに向かうであろうことが見て取れる。そこにある一連の歌は一方で政治的な考察を行い、他方で伝統的な様々な愛の形を歌い、それらは共存しているのである。

後者の例として主に挙げられるのが、‘Whenever You Leadeth Me’と‘Soulful Love’だ。前者は1969年12月の‘Amen’(Curtom 1948)でさらに力強く再レコーディングされ1970年1月にリリースされると、ソウル・チャートで31位を記録した。一方‘Soulful Love’はシカゴ・バラッドの典型を示すナンバーだが、これは‘(Baby)Turn On To Me’(Curtom 1954)のB面に甘んじた。ファンキーだがくつろいだ雰囲気であるこれは、メイフィールドがThe Impressionsとして1970年1月にリリースした最後となったアルバムを予兆させる。

他にも同様に、‘The Young Mods’ Forgotten Story’には良質なラヴ・ソングが収められているが、注目すべきは高貴な‘Love’s Miracle’とブルージーにうねる‘Jealous Man’で、これはメイフィールドの中ではむしろ特徴的な部類ではないムードが漂っている。

話変わってブラック・アメリカンの事情に関するシリアスな分析は、ウォラス・サーマンの‘The Blacker The Berry’(1929)のような小説を始め、ハーレム・ルネサンス(1920年代ニューヨーク、ハーレム中心に黒人の間に起こった文化的躍進)においてすでに始まっていた。Zora NealeとCountee Cullen, Langston Hughes, そしてClaude Mckayらの重要な詩をめぐって起こった思慮深い議論などである。

ブラック・アメリカンのシンガーたちは、ジェイムス・ブラウン、マーヴィン・ゲイその他有名な者たちよりも前に、一斉射撃を浴びせ続けていた。ビリー・ホリデイは1939年、米海軍のために‘Strange Fruit’を録音した。Nellie Lutcherは1948年Capitolに‘Fine Brown Frame’を吹き込み、ドラマーのマックス・ローチは1960年Candidにシリアスな‘Freedom Now Suite’を吹き込んだ。

ランダムに事例を取り上げる方が、第2次世界大戦後すぐに進行していた‘自覚的な呼びかけ’を示しているだろう。ローチの妻Abbe Lincolnは1957年Riversideから発表した彼女のアルバム‘That’s Him’以来、明らかに黒人を称賛しているし、60年代半ばのニーナ・シモンは‘Mississippi Goddam’とうなり、あるいはWaring Cuneyの‘Images’をアカペラで歌っていた。一方クリフォード・ジョーダンは、Atlanticで‘These Are My Roots’と完全に言明した。サム・クックはディランの‘Blowing In The Wind’を聴いた時に直感的な真実把握を体験し、1965年彼は‘A Change Is Gonna Come’を書きレコーディングした(訳注:クックは64年12月に死んだ。おそらくディラン64年1月の‘The Times They Are A-Changin’’の間違い)。あるいはこれはソウル時代最高の公民権アンセムかもしれない。不確かな中になにか明確なものが見えるのである。主流であった小規模なナイトクラブがその運動を担ってはいたものの、ナンシー・ウィルソンが1968年8月に活動の場としていたザ・サンズ、ラスヴェガスにおいて聴衆に向かって‘Black Is Beautiful’のような歌を歌うことが、どれほど勇気のいることだったかは忘れられがちだ。

しかし60年代を通じてCurtis Mayfieldは使命を帯びた人間であったし、その考えを持ったかすかな光であり、鋭い眼識を持って世界に向かって同調することを発信し、我々は今なお時々(彼のことを)思い出すのである。今あなたが手にしている2枚のアルバムのあと、彼はThe Impressionsとしての仕事を締めくくり、Curtis Mayfieldとしてソロ・パフォーマー及び一流の論争者となるべく覚悟を決めたのだ。

クライヴ・アンダーソン

感謝のしるしとして:Peter Burns, Andrew Mitchell, John O’Toole, Jenny Ferrera Quan, Joel Whitburn

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