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Idle Race/Back To The Story/2007 EMI Records Ltd. UK: 385 3042



“アイドル・レースはビートルズに次ぐ唯一の存在である”1968年にケニー・エヴェレットはこう述べたが、彼が孤立することはなかった。チャート入りこそ一度もしなかったがアイドル・レースは60年代においてライヴァルの中でも高位置にいたし、非常に魅力的な楽曲をいくつか生み出していた。風変わりだが人の心をひきつける、折衷的だがオリジナリティあふれるアイドル・レースは穏やかにフワフワと浮かぶようでいながら、暗く低く響き、なにか妙で恐ろしげなお祭り騒ぎのようなメロディを奏でながら、一方で人間の性質、不安、そして日々の生活の中にある曖昧なものに対する観察に取り組んできた。一聴すると彼らは親しみやすいポップ・ミュージックを作っているように聞こえるが、二度目にはなにかそこに興味深いものがあることに気づいてしまう!

アイドル・レースは同じ伝説的なバーミンガムのバンド、マイク・シェリダン・アンド・ザ・ナイトライダーズから発展した。メンバーはマイク・シェリダン、デイヴ・プリチャード、グレッグ・マスターズ、ロジャー・スペンサー、そしてロイ・ウッドだった。彼らはバーミンガム・シーンの中心であったシーダー・クラブで大きく成功したグループとなった。多くのバンドがそこで出会いジャム・セッションを繰り広げ、ミッドランド(イングランド中部地方)最初のスーパーグループが結成された。ザ・ムーヴはいくつかのバンドからのメンバーの寄せ集めであった。ザ・ナイトライダーズ(この時までにマイク・シェリダンズ・ロットと改名されていた)からの一人がロイ・ウッドだった。シェリダンは音楽活動を縮小したため、デイヴ、グレッグ、ロジャーは活動を広げるために彼のもとから去っていった。

3人はローカル・バンド、カール・ウェイン・アンド・ザ・ヴァイキングスからジョニー・マンを招き入れ、一週間のうちにポリドール・レコードのオーディションを受け合格した。正式なグループ名となったザ・ナイトライダーズは、1966年1月25日に活動をスタートした。バンドはポリドールのプロデューサー、クレア・フランシスを伴ってマーブル・アーチにあるパイのレコーディング・スタジオに向かった。このセッションの目的は多くの曲をレコーディングし、その中からシングルを選ぶというものだった。うち1曲が“Your Friend”で、リズム・ギターのデイヴ・プリチャードがヴォーカル、ジョニー・マンがリード・ギターを担当した。しかしセッションのすぐ後にマンがバンドを去ったため、バーミンガムのイヴニング・メイル紙に“求む、若いギタリスト”の募集広告を掲載した。そしてオーディションにジェフ・リンという幸運な申込者が現れた。ベーシストのグレッグ・マスターズは回想する。“ジェフは何でもとたんに自分のものにするんだ―歌もコーラスもとても良かった。凄くラッキーだったね。彼はもう一人のウッディ(ロイ・ウッド)だった!”

さらにセッションが今回はハンズワースのホーリック・アンド・テイラー・スタジオで行われた。そこで彼らはヴォーカルにドラマーのロジャー・スペンサー、ギターにジェフ・リンという布陣で“It's Only The Dog”をレコーディングした。“Your Friend”も再録され、デイヴが歌いジェフが再びギターだったが、ジョニー・マンが考え出したヴァイオリン・サウンドをさらに拡大させていた。ポリドールは1966年11月、ザ・ナイトライダーズ名義のシングル“It’s Only Dog/Your Friend”をリリースした。しかしバンドは自分たちの新しい方向性に合ったグループ名に変えようと思っていた。

“ジェフは僕らより少し下で僕らは彼をフィーチャーしてフロントマンにしようと考えていた。”デイヴ・プリチャードは説明する。“僕らは‘理想’(ideal)の意味も含めてIdyll Race(牧歌種族)というグループ名に絶対しようと決めていたが、サイケデリックな時代に入ってなぜかIdle Raceに変わってしまった!”最初のシングルが失敗に終わった後、バンドはポリドールとの契約を失ってしまった。しかしながら彼らはロンドンのアドヴィジョン・スタジオでレコーディングをしていた人気バンド、ザ・ムーヴのロイ・ウッドととても親しくしていた。ロイのアドヴァイスによってスタジオ・エンジニアのエディ・オフォードとジェラルド・チャブは、シーダー・クラブに出演していたアイドル・レースを見に行き、気に入った彼らはレコード契約を申し出た。セッションはアドヴィジョンで何週間にも渡って行われた。そこでバンドは大きなアーチスト的自由を与えられ、冒険好きなオフォードとチャブの技術的指導を受け入れた。最初のレコーディングはロイ・ウッド作、“Here We Go Round The Lemon Tree”で、そのテーマとスタイルは、アイドル・レースが向かっていた気まぐれでサイケデリックな方向とピッタリ一致していた。この時点でまだジェフ・リンはソングライティングの才能を磨いている過程にあった。オフォードとチャブは“Lemon Tree”をデビュー・シングルに推し、ザ・ムーヴでのロイ・ウッドの成功にあやかってすぐにヒットにつながるだろうという希望を抱いていた。

定期的なギグとレコーディングの間に、アイドル・レースは何とかリバティ・レコードと契約しファースト・シングル“Here We Go Round The Lemon Tree”はデイヴ・プリチャード作の“My Father's Son”とのカップリングでリリースされる手はずが整った。プロモーション用の写真が撮影され、そこにはタイトルに相応しく果実をつけた木の周りでメンバーがポーズを決めていた!

しかし不幸なことにこの曲はムーヴのファースト・アルバムでリリース済みであり、大ヒット・シングル“Flowers In The Rain”のB面であったためかなりラジオで流されていた。“カヴァー・ヴァージョン・バンド”として引き合いに出されるのを嫌ったアイドル・レースはリバティ・レコードがイギリスでのリリースを見合わせることに合意した。一方アメリカとヨーロッパではリリースされたがほとんど売れなかった。アドヴィジョン・スタジオではレコーディングが続いていたが、そこでアイドル・レースは彼らのプロデューサー、とりわけエディ・オフォードから多くのことを学んだ。デイヴ・プリチャードは覚えている。“エディは偉大なエンジニアだった。多分後にイエスのレコードに参加したんじゃなかったかな。彼はよく剃刀でテープを切り分けて後ろにつなげたり他の箇所と入れ替えたりしていた。僕らはそういったことをたくさん彼に教わった。エディとジェラルドは当時ビートルズがそうだったように、スタジオにこもって新しいサウンドを発見すべく実験を繰り返していたね。”イギリスでのアイドル・レースのファースト・シングルは、両面共ジェフ・リン作の“Imposters of Life’s Magazine”b/w“Sitting In My Tree”で、1967年10月にリリースされた。しかし業界では絶賛されたもののセールス的には控えめなものだった。

同月アイドル・レースは著名なプロデューサー、バーニー・アンドリュースに招かれた。これは彼らの多くのBBCセッションのまさに最初のレコーディングで、Top Gear用だった。この時のことはバーニーの楽しい思い出のひとつとなっている。ジェフ・リンは最初のBBCセッションのことを覚えている。“僕らは1年半の間出向いたよ。僕らはバーミンガムに住んで演奏していたから、ロンドンへ出てBBCでレコーディングすることは大きなイヴェントだったね。まだレコーディング経験が浅かったから、それをゆっくり積んでいくことで気分転換にもなったしね。凄くいい経験だったと思う。レコーディングのギャラはバーミンガムからのガソリン代になっていたんじゃないかな。バーニーはいい音で録ってくれた。その時僕は自分自身もプロデューサーになりたくて多くのことを学んでいた。バーニーと同じブルーのコーデュロイのズボンまではいてね。それがアイドル・レースのセカンド・アルバムのプロデューサーとしての僕の最初のたくらみだったんだ。それ以来コーデュロイのズボンはいつも‘プロデューサー・ズボン’と呼ばれたよ!”

デビュー・アルバム“The Birthday Party”はリバティから1968年10月にリリースされた。バンドはさらに3枚のシングルを出していた。“The Skeleton And The Roundabout”はおそらく最も有名なナンバーで、アルバムに先立ってその回転木馬サウンドと、ありそうもない気味の悪いサーカスの作り話を思わせるような内容が理想的にアルバムの出来を占っていた。B面もジェフ・リン作の“Knocking Nails Into My House”で、後にアンブローズ・スレイドが彼らのアルバム、“Ballzy”でカヴァーした。続いて“The End of The Road”/“The Morning Sunshine”、“I Like My Toys”/“The Birthday Party”が発表された。これらのトラックは“Knocking Nails”を除いてアルバム“The Birthday Party”に収録された。アルバムは見事な見開きジャケットで、パーティーへの招待をコンセプトとしていた。ジャケットを開くと招待客全員のフォトモンタージュが現れる作りになっている。そこには多くの友人と当時の有名人たちがいた―ムーヴ、ビートルズ、ブライアン・ジョーンズ、ハンク・マーヴィン、そしてラジオ・ワンのDJたちほとんどが写っていた!音楽的にはサイケデリアとクラシック・ポップの奇妙な混合と、伝承童謡の詞にミュージック・ホールのメロディをミックスしたもの、一方で世界中の奇人と彼らの奇怪な執着、悪夢のような幻想と錯乱した知覚をテーマに取り組んでいる。

実際は“Birthday Party”アルバム全体はほとんどヴォードヴィル的で軽薄なサウンドであったが、その下には社会から見捨てられた世界がぼんやりと横たわっていた。残念ながらアルバム自身がそのたそがれの中にとどまり、セールスは今ひとつだった。こうやってアルバムはレアとなりコレクター好みの一品となった。ここに収められた曲の数々は長年探し続けてきた人たちに喜ばれることだろう!しかしながら彼らは大物たちから尊敬と称賛を獲得していたのだった。大物とは彼らを発掘したDJのケニー・エヴェレット(アイドル・レース・ファン・クラブの会長になった)、ジョン・ピール、スチュアート・ヘンリー、そして多くの同時代のミュージシャンたち―ビートルズ、マーク・ボラン含む―は一様にこういった。“彼らの音楽は美しい、本当に美しい―そして全ては彼ら自身が書いたものなのだ!”“The Birthday Party”リリース後4ヶ月経ってもなおバンドは尊敬されながらも商業的に振るわない状況にあった。対照的にムーヴは多くのシングル・ヒットを飛ばし、最新シングル“Blackberry Way”は 初のUK No.1ヒットとなっていた。しかしバンド内に混乱が充満し、ムーヴはベーシストのトレヴァー・バートンを失ってしまった。1969年3月、ロイ・ウッドはムーヴにジェフ・リンを迎え入れようと彼を誘ったが、ジェフはその申し入れを断った。彼は自身のバンドが大きくなることを運命づけられていると確信していたし、アイドル・レースはあわただしいツアー・スケジュールが続いていた。

1969年春、アイドル・レースはその名を冠したセカンド・アルバムのためにレコーディングを始めた。8トラック・レコーダーの使用によって彼らの技術が高度になっていたため、今回はトライデント・スタジオが使われた。マーク・ボランはこのセッションに度々訪れている。グレッグ・マスターズ:“マークは一時期すごく親しかったよ。彼はよく夜中の3時にやって来て隅っこに座っていた―あまり喋らなかったが彼はジェフの曲が好きだったんだ。”ロジャー・スペンサーによるとセカンド・アルバムはジェフ・リン・プロデュースらしい。“プロデューサーの経験はなかった。彼は最後までハッタリをかましてた!”夏の間アルバム未収となる2曲がシングルとしてリリースされた。“Days Of The Broken Arrows”/“Worn Red Carpet”(オリジナル・ラベルでは“Warm”とミスタイプされていた)はわずかに新しい一歩となった。“Broken Arrows”はムーヴの暗い側面と、結局はジェフが参加することになったムーヴのサード・アルバム“Looking On”の薄気味悪いナンバーに似た響きを持っている。ニュー・アルバムは前作同様、革新的な曲が含まれていたが、全体的にはそれほど風変わりではなくずっと焦点が絞られていた。普通のシングル・ジャケットで、くすんだメンバーの写真が使われていた。内容は“Birthday Party”同様、想像的かつ創意に富んでいたが、よりビートルズに近いポップ・サウンドメロディと詞が綿密に組み立てられ、タイトなアレンジを伴い、ソングライティングにはるかに円熟味が出ていた。あるトラックでは熱狂と騒乱が見てとれる。とりわけ“Mr. Crow And Sir Norman”では3人のアコーディオン・プレーヤーのうちの一人であるマイク・バットがフィーチャーされた―これは全てが同時にひとつのアコーディオンでプレイされている!

1969年7月、アルバムに優先して冒頭の曲“Come With Me”がシングルとしてリリースされた。B面はデイヴ・プリチャード作の“Reminds Me Of You”だ。A面はあからさまにチャート狙いの一撃だった。しかしやはりこれも失敗した。アルバムもまた11月にリバティから発表されたが、評論家には受けたもののリスナーたちの頭上を飛び越えてしまった。デイヴ・プリチャードは自分の気持ちを述べている。“僕らは自分たちが働くだけ同じようにその分落ちていくのを見て思ったよ。‘神様、僕らは何か悪いことでもしてるのか?’ってね。僕らは多くの人たちが‘イエー、これは凄い。強力だ。’というのをずっと聞いてきた。でもヒット・レコードを飛ばすことができなかった。これがジェフが幻滅した理由だろう。彼はロイ・ウッドと過ごす時間が多くなっていった。”“・・・ジェフはスターになりたかったんだ。僕らが望むよりもっと大スターにね。”グレッグ・マスターズは付け加える。1970年1月、ジェフ・リンはアイドル・レースを去り、ロイ・ウッドからの2回目の誘いを承諾しムーヴに加入し、続いてエレクトリック・ライト・オーケストラを結成した。ジェフはロック界のビッグ・ネームの一人としてレコードを作り続け、トラヴェリング・ウィルベリーズを経て究極的な目標に達した―ビートルズとの仕事だ(残念ながらレノン亡き後だが)。

アイドル・レースは活動を続けた。バンドの中心となったデイヴ、グレッグ、そしてロジャーはバーミンガム仲間のマイク・ホプキンスをギターとヴォーカルで加え、デイヴ“リッチー”ウォーカーはヴォーカルとハーモニカで加入した。絶え間ないツアーが続き、1970年、2枚のシングルがリバティからUK以外でリリースされた。マンゴ・ジェリーの(カヴァー?)“In The Summertime”はアイドル・レース最大のヒット曲となり、アルゼンチンで1位、ドイツでも健闘した。ホットレッグスのカヴァー、“Neanderthal Man”も同地域でヒットした。1971年5月、アルバム“Time Is”がリーガル・ゾノフォンからリリースされた。サウンドとスタイルはジェフ・リン時代から大きく変わった。曲は主にデイヴ・プリチャードが書き、他のメンバーも絡んでいた。スペンサーとウォーカーは価値ある働きをしたが、プログレッシヴ/フォークロック路線はコマーシャルなものではなく、以前のくせのあるポップ・ソングとは全く異なっていた。

アイドル・レースとしての最後の日々は多くのメンバー交代が起こった。音楽的ポジションを簡単にいうと以下の通りだ。デイヴ・プリチャードはヒット不足とマネージャーとのいざこざから幻滅し、“Time Is”リリース直後脱退した。彼はウィリー・アンド・ザ・プアボーイズ含むバーミンガムのバンドで活動した。デイヴ・ウォーカーはその次に脱退し、その後ロジャー・スペンサーが続いた。マイク・ホプキンスはクォーツに移った。残るオリジナル・メンバー、グレッグ・マスターズはティー・アンド・シンフォニーのデイヴ・キャロルとボブ・ウィルソンを入れ、ロコモーティヴのボブ・ラム(ずっと後のUB40のプロデューサー)がドラムを引き継いだ。ロイ・カロムがごく短期間在籍したが、すぐにフィットしないと判断された。スティーヴ・ギボンズが彼のバンド、ボールズを去ったとき、バンドはよりパーマネントなメンバーを見つけた。スティーヴはリード・ヴォーカルを担当した。1972年2月ついにグレッグ・マスターズが抜け、ボブ・グリフィンが入りその後トレヴァー・バートンが入りここでバンドは改名した。バンドはスティーヴ・ギボンズ・バンドとして長い間愛されることになった。

アイドル・レースがヒットを全く出さなかったことはポップ・ミュージック界の大きなミステリーとして語り草となっている。彼らは去ってしまったが、際立って皮肉の効いた奇妙な、そしてウィットに富んだ曲の数々は確かに研究に値するものだ。このユニークなコレクションはアイドル・レースのリリース・カタログ全てを集めたもので、ジェフ・リン時代から彼が去ったあともカヴァーされている。オリジナルの曲順はリスナーを満足させる計らいだ。一方アルバム未収シングルのA面とB面はまとめて並べてある。そして最近になって発見された3曲の未発表曲である“別ヴァージョン”が日の目を見た!“Lucky Man”は初期の実験的なテイク、“Follow Me Follow”は正規ヴァージョンの最後のストリングス・アレンジの代わりにジェフ・リンのヴァイオリン・ギター・テクニックが聴ける。そして“Days Of The Broken Arrows”は興味深い別ヴァージョンで、オープニングに一本のギターが入り、それがブリッジとなって歌が始まる!さらに、まさに最初ナイトライダーズ名義でリリースされたレア・シングルが収録され、ここに完全なストーリーが出来上がった。

ギル、FTM, 1996
デイヴ・プリチャードとグレッグ・マスターズに多大な感謝を送る

*(法的問題によりナイトライダーズのトラックは今回収録できませんでした)


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