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Hunter Muskett/Every Time You Move/2009 Cherry Tree Records CRTREE001



“君が動くと色が帯びる たわいない一日が彩られる”

1960年代の終わりに向け、伝統的な英国のフォーク・クラブ・サーキットの一派たちは、時代精神に満ちた自己を発見し始めた。インクレディブル・ストリング・バンドやティラノサウルス・レックスといった芸術的、商業的に成功したアーチストたちを輩出したあと、芽吹きつつあったヒッピー・アンダーグラウンド・シーンに影響を受けたいくつかのフォーク・クラブは、アーツ・ラボ(実験芸術)として自らのイメージ・チェンジをはかり、さらに大きな傘下のもとで様々なマルチメディアに取り組もうとしていた。例えば、デヴィッド・ボウイは拠点のパブ、スリー・タンズをベカナム・アーツ・ラボラトリーに変え、ホワイト・ベア・フォーク・クラブはストローブスの指揮のもと、ハウンズロー・アーツ・ラブに変身し、リンディスファーン結成以前のアラン・ハルはホイットリー・ベイ北のフォーク・アーツ・クラブを運営した。

そういった発展と並行して、メジャー・レコード・レーベルもまた、カウンター・カルチャーとの密接なかかわり合いを受け入れるようになった―音楽業界の伝統的な尺度であったシングル・チャートでの成功が、利益の上がるアルバム・マーケットの増大によって重要視されなくなるにつれ、EMI、デッカ、RCA、フィリップスそしてパイのようなレコード会社は、急激に増えていた音楽通の高校/大学生たちにアピールする新しいあまたの独立レーベルと張り合おうと、互いに競い合っていた。EMIはハーヴェストを、フィリップスはヴァーティゴを、パイはドーンを立ち上げ、威厳ある名門デッカでさえ、新しいブランドを作り出そうと企てた。それは特色を欠いていたが、彼らはそのレーベルをデッカ・ノヴァと命名した。

ハンター・マスケットは間違いなく、あのうららかな時代の産物だった。1969年にロンドン南東のエルタムにあるエイヴリー・ヒル・カレッジ(現在のグリニッジ大学)で結成されたグループは、学生ユニオン、フォーク・クラブ、アート・ラボでプレイし、1970年にデッカ・ノヴァと短期間契約を結んだ。多くの彼らの同期のアーチストたちと同じように、アルバムは当時、好意的なレビューを受けるに至らなかったが、20年後になって過去の遺産を発掘し始めた次世代のアンダーグラウンド・フォーク・ファンたちによって、遅きに失した名声を得ることになった。2009年にはEvery Time You Moveは最もレアな作品のひとつとなり、プログレッシヴ・フォーク時代の垂涎の1枚となっていた。その人懐っこい控えめな魅力は、幸運にも聴くことができた人々を魅了し続けてきた。何度もブートレグが作られたのち、今回初の正規リイシューはマスター・テープ音源を用い、初めてハンター・マスケットのストーリーが姿を現すことになった・・・

先述したとおり、元々グループは1969年に結成された(1968年にワイト島のフェスティヴァルで彼らがプレイしたというインターネットの情報は根拠のないものだ)。エイヴリー・ヒルでギターをプレイしていた3人の学生たち―クリス・ジョージ、テリー・ヒズコック、ダグ・モーター―は、オリジナルを書き、アコースティック・フォーク・トリオを結成することにした。彼らの風変わりな名前についてテリー・ヒズコックは回想する。「僕たちがバンドの名前を考えようとバーに座っていた時、デイヴ・ラックというコーンウォール出身の1人の男が、ハンター・マスケットという名を提案したんだ。それはボドミン近くにいた変わり者の地主の別名で、彼が人と話をするのを避けたい時に使われていたらしかった。僕たちはぴったりの名前だと思ったけど、それからのちに、あるレコード会社が垂れ下がった口ひげを生やすことと(南北戦争を想像してみて!)、バックスキンの服を着ることを要請したんだ」

「そして僕らはエイヴリー・ヒルにあったフォーク・クラブに出るようになったんだけど、まもなくそこを実際に運営することになった。僕たちはほとんどハウス・バンドになって、自分たち自身のライヴに加えて、ラルフ・マクテル、スペンサー・デイヴィス、ロング・ジョン・ボルドリーなんかのバッキングも務めるようになった。また僕らはロンドン内外の様々なクラブでプレイした。その場限りの雇われミュージシャンとして出たりとかね。初めの頃、激しい雨の降る火曜日の晩に、スリー・タンズっていうクラブでフロア・ショーをやるために、ベカナムに行ったことを覚えている。そこはスリー・タンズからベカナム・アーツ・ラボに変わった。そこを預かっていたのが、若き日のデヴィッド・ボウイだった。とても痩せていたな。彼はその晩、ザ・タイガーズ・ヘッドという、もう一つの地元のパブでプレイしていた。僕らはしばらくの間、彼を見に行ったんだ。オーディエンスは5〜6人しかいなかったけど、彼は本当にいろんなことをやっていた。詩の朗読、マイム、おしゃべり、弾き語りなんかね・・・僕らは彼のことをファンタスティックだと思った。ステージが終わると、彼は僕らのところへやって来て、僕らにフロア・ショーをやってほしいといったんだ。それで僕らは1〜2週間後にまた戻ってくることになった」

「しかしその間に、彼の最新シングル、‘Space Oddity’が突然ヒットし始めた。僕らがスリー・タンズに行くまでに彼は時の人となって、オーディエンスは数人から200〜300人にふくれ上がった―ぎゅうぎゅう詰めだったね。もちろんそれは普段フォーク・クラブに通っている人たちじゃなくて、スターになったボウイを見に来たキッズたちがメインだった。それほど人気が出れば、ほとんどのミュージシャンは僕らのステージをキャンセルして、オーディエンスが自分を見に来るかどうか確かめようとするだろう。でも彼は全く反対に、僕らがプレイすることを主張した。想像しなかったわけじゃないけど、僕らはオーディエンスの耳を引きつけるのに悪戦苦闘した―結局、誰も僕らを見ようとしなかったね。でも彼らがおしゃべりを続けていると、デヴィッドが怒ってステージに出てきて、彼らに‘静かに演奏を聴け!’ってどなったんだ!もちろんその後、オーディエンスはかなりむっつりとしてしまった。僕らがプレイしている間でも、針の落ちる音が聞こえるほどだったね。僕らは曲が終わるたびに、ていねいな拍手をもらった!でも多くの人がそういった妨害をしたわけじゃなかったよ。数年後、あるギグのあと僕たちはこういうことを聞いた。ボウイがその1週間前に同じ会場でプレイした時、とても不機嫌で気難しかったって。僕らは自分たちの経験を話した―彼は全くそんな人間じゃないってね」

ハンター・マスケットはフォーク・サーキットでゆっくりと名声のようなものを獲得していった。オックスフォードシア(イングランド中南部)のある小さなクラブでのギグで、彼らはフェアポート・コンヴェンションのメンバーたちが最前列に座っていたのを発見して驚いてしまった(「そのあとサイモン・ニコルのうちへ行ったよ。リチャード・トンプソンは隅っこの床に座ってもくもくと曲を書いていた」とテリーは回想する)。1970年2月、彼らはマーキー・クラブでいくつか名声あるギグを行なった。彼らがデモテープを録音したのがこの時期だった。伝統的なやり方に沿って、彼らはデモテープを当時のレコード会社に売り込んだ。「どこにも断られたね」 テリーはいう。「僕らが聞いたその一番の理由は、そういったマーケットはサイモン&ガーファンクルがすでに独占していて、同じようなタイプのイングランドのバンドには需要がないってことだった」

「僕らのデモは目的にかなうものにはならなかったけど、僕らはなんとかレコーディング契約を結んだ。アールズ・コートのトルバドールでギグをしたあと、オーディエンスの中にいたキム・マーゴリズのアプローチを受けたんだ。キムはデッカでプロデューサーとして働いていて、僕らにレーベルのレコーディング・テストを勧めた。オーディションはうまくいったに違いなかった。なぜなら彼はアルバム制作をオファーしてくれたからね!」

レコーディングは1970年夏、デッカのウェスト・ハムステッド・スタジオでの2〜3回のセッションで終了し、ハンター・マスケットのデビュー・アルバム、Every Time You Moveは数人のセッション・ミュージシャンによって補強されることになった。テリーは回想する。「キム・マーゴリズはアコースティック・トリオとしての僕らに、少しの装飾を加える必要があると考えたんだ。そこで彼はほとんどのトラックでアコースティック・ベースをプレイしてもらうために、ダニー・トンプソンを連れてきた。僕らはみんなペンタングルの大ファンだったから、ダニーが僕らに加わってくれるなんてゾクゾクしたね。彼は熟練したプロフェッショナルなミュージシャンだった。いったん曲を聞くとすぐにどうプレイすればいいか分かってしまうんだ。彼はフェアポート・コンヴェンションやエクレクション(訳注:フォザリンゲイのメンバーが在籍していたグループ)なんかについていろんな話をしてくれた。当時彼がペンタングルのライヴァルとして考えていたグループたちだ―いわば、大物たちと張り合うってのは、僕たちにとっては素晴らしいことだったね」

「キムが連れてきたもう1人の人物が、彼の友人のリチャード・ヒューソンだった。ヒューソンはアップル・レーベルから出たジェイムズ・テイラーのアルバムでオーケストラのアレンジを担当していた。まず初めに、僕らはダニー・トンプソンといっしょにベーシック・トラックをレコーディングして、それをヒューソンに渡した。彼はあらかじめ僕らと会ってアレンジメントについて議論していたんだ。彼はいい人だったんだけど、正直いうと僕らはアルバムにストリングスを加えることにあまり気が進まなかった―僕らはフォーク・クラブでトリオとして確立されていたし、フォークのLPにオーケストラを加えることは邪道だと感じていたんだ。ふり返ってみれば、彼の仕事がいかに素晴らしかったかは理解できるけどね」

Every Time You Moveセッションでのテリーのもうひとつの大きな思い出は、となりのスタジオでムーディー・ブルースがアルバム、A Question Of Balanceをレコーディングしていたことだ。「僕らがレコーディングしていると、彼らのうちの1人が入ってきて、ギターのピックを貸してくれないかと尋ねたんだ。もちろん僕らは彼らの大ファンだったから、突然ムーディー・ブルースにピックを貸した人間になったことに、ほとんど気絶するほどだったね!結局僕らの貸したピックは、次の‘Nights In White Satin’で登場することになった!」

12のトラックからなるEvery Time You Moveは、彼らの巧みなギター・ワークと優れたヴォーカル・ハーモニーが全体に効果的にブレンドされ、グループのサウンドは60年代の終わりと70年代の幕開けを見事に示していた。しかしおそらく彼らの最も強力な武器は、ソングライティングの才能だろう。ダグ・モーターは幽玄なアルバムの象徴的なラスト・トラック、‘Snow’を書き下ろし、一方クリス・ジョージはカントリー・ロック風な‘Cardboard Man’と、訴えかけるような抗しがたいポップ・フォークの‘Hey Little Girl’を書いた。この2曲のほとんど幻覚的なイメージは、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのようなウェスト・コーストの牧歌的なハーモニーと、サイケデリック時代の抽象性が入り混じっている。

またアルバムではアザラシ狩りについてのニュージーランドのトラディショナル・フォーク・バラッド、‘Davy Lowston’の素晴らしい解釈を聞くことができる。しかし収録曲の大部分は、テリー・ヒズコックの手によるものだ(クリス・ジョージが‘The Wait’と‘Press Gang’で共作しているが)。‘I Have A House’と謎めいた‘Inside Mine’は思慮深く、控えめなアコースティック・ナンバーだが、テリーの牧歌的で詩的な楽曲群のほとんど―とりわけアルバムのタイトル・トラック、‘The Wait’、美しくくすんだ‘Storm On The Sea’、ドノヴァンのようなヴィブラートとフルートが出てくる‘Castle’、そして味わい深くメランコリックな‘Midsummer Night’s Dream’―は、リチャード・ヒューソンによる見事なバロック・アレンジメントで装飾されている。当時のバンドが持っていた疑念にもかかわらず、それは彼らの素材を完璧に演出している。結果的にアルバムの完成度は高くなり、そのもろくて秋を思わせるムード、静かなるイングランドの美の真髄が、当時の仲間のアーチストたちと同じように保持されることになった。

1970年10月にリリースされたEvery Time You Moveはわずかな反応しか得られなかったが、おおむね好意的なレビューを受けた。“3人のハーモニーは素晴らしく、それはギター・プレイも同様だ。曲は音楽的にも詞的にも素晴らしい。しかしもうひとつの彼らならではの魅力に欠けている” メロディ・メーカーはこう評した。一方サウンズ紙はアルバムをこう評した。“あたたかなチェロとギター、そして悲しくノスタルジックな詞を伴った穏やかではあるが、意表はつかない楽曲。実際、歌詞は彼らの強力な魅力のうちのひとつだろう・・・。背景を埋める強力なアレンジメントを施した紳士に称賛を”

当時の慣習に沿って、デッカはLPからシングルをリリースしなかった(とても残念なことだ―ラジオでかかりやすいポップなフックと印象的なアレンジメントによって、‘Hey Little Girl’は少なくともチャート圏内に入るほどの有力な候補となっていただろう)。一般購買層に限っていえば、バンドの大部分の活動が知られていなかったため、アルバムは特によく売れたわけではなかったが、今では70年代初頭のブリティッシュ・フォーク・シーンから登場したヴィニール盤の中で、最もレアなうちの1枚として考えられている。セールスは、大学生たちであったハンター・マスケットが全神経を集中し、通常のプロモーション活動をする立場になかったことによって乏しいものになった。「ダグはその時点でバンドを抜けていたし、クリスと僕は最終学年で、試験に専念しなければならなかったんだ」 テリーは説明する。「勉学のために僕らは主にロンドン周辺でプレイしていたし、その時にも僕らは多くのギグのオファーを受けていて、大部分を断らなきゃならなかったね。アルバム・リリース後、1971年の夏になって、ウリッジ科学技術専門学校のロジャー・トレヴィットがベースで加入した―その時までに僕は教師養成学校へ通うようになっていた。でも結局、僕らはイチかバチかプロになることを決心した。プロになってから初めてやったモロッコのキャンプ場でのギグを覚えているよ―ギャラは聞かないでくれ!」

勉学を捨てたことによって、ハンター・マスケットの名は音楽誌の週間ギグ・スケジュールに載り始めた。しばらくして彼らは完全なエレクトリック・フォーク・バンドになるべくサウンドを拡張した。それはストローブスのような仲間のブリティッシュ・フォークロックと似たような様式を持ち、それにウェストコーストの雰囲気をミックスさせたものだった。なるほどバンドは実際にストローブスと共演し、リック・ウェイクマンと共にデモ・レコーディングさえ行なった。彼はその時、自身のレーベルを立ち上げることを目指していた。

ウェイクマンの関心を引きつけることはなかったが、1973年、ハンター・マスケットは地方のATVテレビ局のレーベル、ブラッドリーズと契約を交わした。彼らの名を付したセカンド・アルバムは、元ヤードバーズのシンガー、キース・レルフによってプロデュースされ、大部分のトラックでは元キング・クリムゾンのドラマー、マイク・ジャイルズがフィーチャーされた(彼はまた、ハンター・マスケットが1973年5月5日にロイヤル・フェスティヴァル・ホールに出演した際、シャドウズのゲスト・ドラマーとしての時間を割いてかけつけた)。この駆け出しの作品―ブリジット・セント・ジョンとアーチー・フィッシャーによってカヴァーされたテリー・ヒズコックの‘Silver Coin’含む―はまた、ラルフ・マクテルのツアーでサポート・アクトを務めることによってプロモートされた。しかし残念ながら、ブラッドリーズ・レーベルはレコード会社としての競争力に乏しく、アルバム、Hunter Muskettとレーベルのサンプラー盤、Bradleys Roadshow(マーキーで録音されたハンター・マスケットの3曲が含まれていた)は跡形もなく市場から消えてしまった。

しかしバンドはそれ相応の活動をした。彼らはロージー・ハードマンの1972年のアルバム、Firebirdを手伝い、解散する少し前には、フィーメイル・デュオのラガーティ(ロジャー・トレヴィットの当時の妻ジェニーが率いていた)の1975年の無名のアルバム、Borrowed Timeでバッキングを提供した。テリー・ヒズコックは音楽界から身を引き、教師の道へ進み、クリス・ジョージは著名なギター製作者として成功した(Every Time You Moveでバンドが使用したのは彼が作ったギターだ。デッカによる紛らわしいクレジット“Guitars by Chris George”は、正しくは“Guitars made by Chris George”だ)。近年、彼らは再び音楽を創るために戻ってきた―Terry with the Mighty Bosscats, Chris with the South Chingford Rocketsとして。

ロジャー・トレヴィットは続いて多くのカントリー&ウェスタン・グループと共にプレイしたが、あるいは最も目を引くのが、傑出したペダル・スチール・プレーヤーのゴードン・ハントリーとの活動かもしれない。ハントリーはまた、ダグ・モーターと共にパブ・ロック・バンドのPekoe Orangeでプレイした。ハンター・マスケットのメンバーの中で最も活発な動きをしてきたのは、間違いなくダグだ。バンド解散後、彼はマディ・プライア・バンドのメンバーとしてレコーディングとツアーに参加する前に、How The West Was Lostの時期のリチャード・ディガンスの片腕として活動した。マイケル・チャップマン、アルビオン・バンドと共にしばらく活動したのち、彼は1980年にマグナ・カルタに加入した。彼はアルビオン・バンドに再加入するまでに、マグナ・カルタと共に大きなツアーを経験し、3枚のアルバムのレコーディングに参加した。そして彼はジェリー・ドナヒューのグループに参加したあと、1985年に初のソロ・アルバムをリリースした。ドナヒューとの関係は、バックルーム・ボーイズに発展することになった。Every Time You Moveがリリースされてからほぼ40年の間、ダグは音楽活動を続けている。しかし彼と仲間たちがハンター・マスケットとして70年代初頭に響かせていたサウンドがこれだ―彼らが始まったばかりの1日に彩りを添えることに一心になっていた時に・・・

デヴィッド・ウェルズ
2009年4月


今回のリリースにあたり、テリー・ヒズコックとクリス・ジョージの協力に感謝する


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