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Humble Pie/No Regrets : Immediate Collection/2004 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD 1013



万事考慮してみれば、1969年は西洋文明にとって波乱の多い年だった。人類の達成と非人間的な狂気が隣り合わせに共存するのはいつものことであるが・・・。月面着陸(少なくともネヴァダの砂漠で撮影されたフィクションでなければ)、チャールズ・マンソン、オルタモント、ウッドストック、初の試験管ベイビー、英国軍によるベルファストでのカトリック地域の監視、コンコルドの処女飛行など。あなたは英国にやって来たカラーテレビでスナックを食べながらそれら全てを目撃していたのかもしれないが、そこにはスウィンギン60sの楽しい思い出、浮き浮きとした感情とともに、日曜版は道に迷った60年代最後の年を永遠に書き立てるかのように思われた。そして誰かがこんなことをいっていた―1人の人間の小さな一歩は、人類にとってもやっぱり小さな一歩だ。

ブリティッシュ・ポップ界が、より偏狭になっていく中で、1969年はスーパーグループの年として記憶されることになった(いや、記憶されているか?まあ我慢してくれ)―つまり世間の注目を浴びる様々なバンドからミュージシャンを引き抜き、手っ取り早く畏敬の念を集める決定的なポップの巨人を作り上げる発想だ。この胡散臭い動きの最たる事例が、ふさわしく名づけられたブラインド・フェイス(盲目的信仰)だった。彼らは5月に結成され、ばらばらになる前に1枚きりのがっかりするようなアルバムを残した。スティーヴィー・ウインウッド、エリック・クラプトン、リック・グレッチ(いいかい?ファミリーからやって来たこの男は、スーパーグループの中で高尚なる地位にいたが、全員のメンバーが同等の名声を持っていたわけではなかった)そしてジンジャー・ベイカーは自分たちの家、あるいは少なくとも地元のバーへと戻る途上にいた。

スーパーグループ結成がいたるところで行なわれる中、ハンブル・パイの6年間は安定と長寿のモデルであるかのように見える。しかし1969年4月にバンド結成がアナウンスされた時、誰も、少なくとも彼ら自身ですらその試みがうまく行く確信を持っていなかった。なにしろスティーヴ・マリオットとピーター・フランプトンは、それぞれが名声あるヒットメーカーだったスモール・フェイシズとハードのフロントマンを務めていたし、グレッグ・リドリーはスプーキー・トゥースのベーシストとして音楽シーンで認められていた。彼らがクリエイティヴな存在として活動できるかどうかを予測することは不可能だった。ハンブル・パイはドラマーのジェリー・シャーリー(4人中最も無名だった。彼はクラブ・バンドのWages Of Sinでプレイしていたが、スモール・フェイシズのイミディエイト・レーベル仲間のApostolic Interventionで活動していた時にマリオットと知り合った)が回想するように、計算づくの賭けだった。「僕たちは音を出す前からスーパーグループって呼ばれた。全く不安だったね。ハンブル・パイ(出来の悪いパイ)って名前はつまり、‘ちょっと待って。僕たちは今始めたばかりだから、バンドをまとめるのに時間がほしいんだ’ってことだったんだ」

しかしメディアの熱狂ぶりによって、グループの控えめなネーミングをいいかげんにとらえるポップ評論家たちのコメントが伝えられ、メロディ・メーカー紙はバンドの結成を‘ポップ巨人のスーパーグループ’として大見出しで伝えた。またいらだたしいことに、ハードのマネージャーがフランプトンの契約継続を主張したことにより、ハンブル・パイのもくろんだ計画は妨害されたが、7月までに彼らは法的問題から自由の身となり、デビュー・シングルの‘Natural Born Bugie’(中には‘Natural Born Woman’と印刷されたレコードもあった)をリリースした。1969年8月の2週目にリリースされたスモール・フェイシズ後、初となるマリオットの待ち望んでいたレコードは、ロック界に吹き荒れていたポスト・サイケデリックの‘バック・トゥ・ベーシックス’を反映し、ビートルズの同時期のリリース‘Get Back’のリフを借用したとして批判を受けた。しかしその張本人であるギターのスティーヴは実際、辛らつにこう指摘した。「‘Little Queenie’からだよ。結局どっちも同じチャック・ベリーから盗んだってことさ」

‘Natural Born Bugie’(B面はマリオット作のどっしりとしたオルガン・ベースの‘Wrist Job’)は、ハンブル・パイのデビューに大きな成功をもたらした。これはヨーロッパ中に反響を巻き起こし、英国シングル・チャートで4位に達し、優に10週間居座り続けた。シングルの成功によって、イミディエイトはハンブル・パイのファースト・アルバム、As Safe As Yesterday Isを発表した。

スモール・フェイシズ解散によって自信を失っていたとされていたにもかかわらず、マリオットはアルバムの大部分の曲を書き下ろした。強力な‘A Nifty Little Number Like You’、スモール・フェイシズ後期に書かれたらしいかなりコマーシャルな‘Buttermilk Boy’のようなマテリアルは、前のバンドの最後尾であるハード・ロックへの移行期を示していた‘Wham Bam Thank You Man’を彷彿させた。素晴らしいカントリー・ブルースの模倣作である‘Alabama 69’は、60年代後半のストーンズの‘Dear Doctor’と同様のおどけた雰囲気を持っている。一方で、ピーター・フランプトンは単独作の‘Stick Shift’を書いた。そして2人はプログレッシヴ・ロックの大傑作であるタイトル・トラックを共作した(‘As Safe As Yesterday Is’は、スティーヴとピーターが互いに満足することのなかった共作マテリアルの中で完全に一体となったナンバーであり、間違いなくフランプトンのメロディとマリオットの本能的なアプローチが見事に融合したパイの最高作だ)。またアメリカのハード・ロック・バンド、ステッペン・ウルフは‘Desperation’によって純度の高いアルバムのオープニング・トラックをふさわしく提供した。

不思議なことに、As Safe As Yesterday Isは‘Natural Born Bugie’と同様のチャート・アクションを収めることに失敗し、たった1週のみ、英国のアルバム・チャート32位によろよろと達しただけだった。それはアルバムの売り上げを活気づけるヒット・シングルなしで、またたく間にチャートのトップに躍り出たブラインド・フェイスのデビュー・アルバム(パイの翌週にリリースされた)とは全くの好対照を見せていた。それでもハンブル・パイはそのステージによって、ライヴ・バンドとしての名声を草の根で打ち立てていった。ヨーロッパ大陸での一連のコンサートののち、英国ツアーのために彼らは本国に戻った。そのツアーは他に‘Space Oddity’期のデヴィッド・ボウイをフィーチャーし、その後の1969年11月には6週間のアメリカ・ツアーが待っていた。両アーチストはポール・バターフィールド・ブルース・バンド、サンタナとともに同じビラでライヴ告知された。

グループが海外にいる間、約10万ポンドの負債を抱え破産寸前まで数週間の状態だったイミディエイトは、債権者のために現金をかき集めようと、ハンブル・パイのセカンド・アルバム、Town And Countryをリリースした。しかし実際、それは抜け目ないメディア操縦人アンドリュー・オールダムの起死回生の一発とはならなかった。どちらにせよ、それは明らかにコマーシャルな作品ではなかったが、イミディエイトの流通大帝国が崩れかかっていたことにより、その影響力はさらに阻害されてしまった。一方でハンブル・パイは依然アメリカ・ツアーを続けており、したがって本国でアルバムをプロモートすることができないでいた。

いくらか分裂病的な作品となったTown And Countryは、バンド不在の中、当惑混じりの評価を受けた。ファースト・アルバムよりも明らかに民主的な作品であり、10曲中4曲だけがマリオット作となっていた。しかしその中には素晴らしい‘Down Home Again’‘The Sad Bag Of Shakey Jake’が含まれていた―それはスティーヴが18歳の時に彼についてきたテキサス・レンジャー(訳注:分からない。スモール・フェイシズのようなバック・バンドのことか?)を持たない中でのかなりの賭けだったが、幸いそのタイトルが暗示させるほど戸惑うようなものでは全くなかった。その他、グレッグ・リドリー作の‘The Light Of Love’は、サイケデリック時代後期の匂いのするシタール入りの愛らしいナンバーだ。概していえば、アルバムは、よりピーター・フランプトンの音の好みが反映された内向的な傾向が強い。彼はリドリーの力を借りてタイトル・トラックを書き下ろし、リード・ヴォーカルをとった。そのハーモニーとアコースティック主体のサウンドは、60年代後半のスーパーグループ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを彷彿させる。

‘The Sad Bag Of Shakey Jake’はある地域ではシングルとしてリリースされたが、イミディエイトは本国でアルバムからのシングル・カットを一切せず、Town And Countryはそっぽを向かれてしまった。なるほどイミディエイトの振る舞いはもっともだった:1970年初めにハンブル・パイが英国に戻ってきた時、彼らはレコード会社とマネジメントが崩壊寸前であることを知った。2月にはイミディエイトが契約の宙に浮いた多くのグループを残し、完全に崩壊していたことが明らかとなった。

しかしハンブル・パイの未契約期間が長引くことはなかった。4月に彼らはA&Mと契約し、それは彼らが興行主ディー・アンソニーの有力マネジメントのもとで、アメリカに拠点を移す転機となった。アンソニーの指揮のもと、それに服従したかのように見えたバンドは、英国輸出のビッグ・セールス・バンドとして70年代前半の大物ロック・バンドへとゆっくり変容していった。皮肉にもそのプロセスで、ピーター・フランプトンはソロ・キャリアを追及すべく、1971年暮れにグループを去る決意をした。そしてついに彼は2枚組のFrampton Comes Aliveでブレイクすることになった。彼のパイからの旅立ち(彼の代わりが、よりアグレッシヴなブルース・ギター・スタイルを持った元コロシアムのデイヴ‘クレム’クレムソンだった)は、結局スティーヴ・マリオットに対し、見せかけの平等主義を完全に放棄することをうながし、彼は再びステージの中央に立ち、バンドは1975年に解散するまで、アメリカで3〜4年間スーパースターダムへと登りつめた。

マリオットとグレッグ・リドリーは短命に終わったマリオッツ・オールスターズを結成し、その後スティーヴはウェスト・エンドのミュージカル、エヴィータのチェ・ゲバラ役のオーディションを受けたが失敗に終わった(“彼はフレンドリーだったけど、彼の打ち込む分野じゃないような気はしたね。” ティム・ライスは外交辞令的に説明した)。そして70年代後半に短期間スモール・フェイシズを復活させた。しかしポール・ウェラーのような次世代のモッズたちによってもてはやされたにもかかわらず、マリオットの80年代はほとんど取るに足らないものとなった。ウェラーはまずスモール・フェイシズに夢中になり、次に初期ハンブル・パイを思わせるサウンドへ移行した。今にも実現しそうなハンブル・パイ再結成のうわさはしかし、1991年4月、マリオットの自宅での悲劇的な焼死によって打ち消されてしまった。

スティーヴの悲しい死以来、60年代後半のハンブル・パイの遺産―のちの人気爆発の前の、創造的ピークに達していた時期だ―は、ブリティッシュ・ロック史の枠組の中へと何度も再吸収されてきた。たしかに彼らの消滅後の名声は、1999年に発掘された未発表曲、イミディエイト時代のアウトテイクの数々によって傷つけられるものではなかった。実際そのうちのいくつかは、間違いなく彼らのベスト・ワークに入る。この我々のアンソロジーはその頃の4つの未発表曲で締めくくられている。ジョージー・フェイムのバンド(トランペッターのエディ・ソーントンはスモール・フェイシズの‘Eddie’s Dreaming’にも参加していた)とともにレコーディングされたレイ・チャールズのカヴァー、‘I’ll Drown In My Tears’はあるいはハンブル・パイの全レパートリーからすれば、かなり変則的かもしれない。しかし才気あふれるバッキング・トラックに加えて、マリオットのぞくぞくするようなヴォーカルを聞くことができる。ジェリー・シャーリーによれば、「この歌はスティーヴの一番のお気に入り」だったそうだ。

残る3曲は間違いなく後期スモール・フェイシズと最初のハンブル・パイのアルバムの間のミッシング・リンクが示されている。粗い部分、ぞんざいな歌詞が見られるものの、‘79th Street Blues’は、スモール・フェイシズの‘The Universal’のメロディ・ラインを当てはめたカントリー・ブルースのような響きを持っている。一方で‘Road To Ride’(振り返ってみれば言葉にならないような胸を刺す詞、“ああ、俺は老いぼれたくはない 若いうちに死にたい”が含まれる)は、スティーヴの過去をノスタルジックに綴ったものだ。ここでは、彼の音楽的好奇心へ火をつけた1956年のロニー・ドネガンのヒット曲、‘Rock Island Line’が言及されている。また、The Autumn Stoneの頃のスモール・フェイシズの方向性にわずかに類似している。さらに重要なのが、もう一つのスティーヴ作、‘Hello Grass(No Regrets)’かもしれない。これはスモール・フェイシズを去り、田舎で他のミュージシャンたちと共にグループを結成することを決意した苦悩の叫びに続く自己正当化なのかもしれない。35年経った今、この詞のテーマは2つのことを効果的に伝えている。60年代ブリティッシュ・ポップの華やかなりし日々から登場した偉大なライターたちとパフォーマーたちのキャリアを称える碑文として。そしてあの時期、競争に明け暮れる中、このフレーズによって偉大なライターたちとパフォーマーたちが完全に終止符を打つに至ったことだ。そう、たしかに悔い無しだ・・・(no regrets)

デヴィッド・ウェルズ
2004年6月


ロジャー・ドプソンとジェリー・シャーリーに感謝する



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