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Heron/Upon Reflection : The Dawn Anthology/2006 Sanctuary Records Group Ltd. CMDDD1432



60年代後半のヒッピーたちの合言葉 “田舎でのんびりしよう” これを実現させるためには、まず交通手段の確立が先決だったのかもしれない。しかしバークシア(イングランド南部)のフォーキー、ヘロンは田舎に住むという着想の下、さらに二つのアルバムを実際に野外でレコーディングしてしまおうという考えに至った(正確には二つのフィールドでのレコーディング)。どちらのリリースも―1970年のデビュー・アルバム、Heronと翌年スペシャル・プライスでリリースされた2枚組LP、Twice As Nice And Half The Price―英フォークロック・ムーヴメントの中において、地味で無害で底面に位置していた。それが今や特異なジャンルにおいて、レアな工芸品を求めるコレクターの中である根拠をもって法外な値段がつけられている。このUpon Reflectionは、彼らのそのうららかな日々のコンプリート・アンソロジーである。2枚のアルバムはもちろん、レアなEP音源と同時期の様々なアウトテイク―70年代初頭のオリジナル・ラインナップによる最初と最後のレコーディング含む―から構成されている。

田舎者ヘロンの起源は、1967年メイデンヘッド(バークシアの町)にあるドルフィン・フォーク・クラブにさかのぼる。そこでトニー・プーク(vocals)、ロイ・アップス(guitar, vocals)、そしてロバート・コリンズ(guitar)らが、皆ヨレヨレのセーターという気まぐれなファッションで寄り集まった。彼らの好みは、ディランと初期インクレディブル・ストリング・バンドだった。翌年までにコリンズが去り、その代わりにローカル・フォーク・クラブの常連だったジェラルド‘G.T.’ムーア(guitar, mandolin, vocals)とマーティン・ヘイワード(guitar)が加入した。彼らはHeronという名に落ち着くことになった。とりわけムーアは興味深い経歴の持ち主で、以前はブラス入りのソウル・バンド、Gerald T. Moore and The Memphis Gentsを率い、メイデンヘッドのアートスクールに通うためにその場所を引き払うまでバンドはレディング・モッズのローカル・ヒーローであった。

ソング・ライティングの才能が多く集まった彼らのラインナップにより、バンドは最初のデモテープ作りを始めた。“僕らはうちの中で輪になって座り、古いオープンリール式のテープレコーダーを使ってやり始めたんだ。”ロイ・アップスは思い起こす。“そうやってテープを持ってロンドンへ売り込みに行ったんだ。僕らは全く大胆不敵だったね。僕らは電話でレコード会社の連中を呼び出してこう言うんだ。‘テープを持ってきたよ’でヴォリュームを上げる!最終的にエセックス・ミュージックが僕らと出版契約を結んだ。”

ヘロンは当時ガス・ダッジョンの計らいによってエセックスと契約を交わした。彼は後にヘロンのスタイルについて述べている。“英国田園詩だ。陽気で夏の日の感触がある。私は長い間ラルフ・マクテルと仕事をしていた。彼は60年代後半から70年代初めにかけて、最も成功したブリティッシュ・フォーク・アーチストだった。エセックス・ミュージックもフォーク・ミュージックに関する限り当時最も成功した出版社だったと思う。だから多くのフォーク・ミュージシャンは必ず私たちのところへやって来て、取引、出版契約なんかを結ぼうとしていた。”ラルフ・マクテルに加えてダッジョンはまた、当時無名だったエルトン・ジョンやデヴィッド・ボウイとも仕事をしていた。最後の頃は付随的に短い期間、初期ヘロンに関わっていた。“彼はデヴィッド・ボウイの‘Space Oddity’で大ヒットを放った後、しばらくは大人しくしていたんだけどベカナム(イングランド南部)でフォーク・クラブの経営を始めたんだ。”ロイ・アップスはいう。ダッジョンはレディング工業大学で興行の重役も務め、マクテルらのサポート・アクトとして自分のところのバンドをブッキングできる有利な立場にあった。“彼は僕らがどこかで演奏しているのを見て突然自分のクラブに僕らをブッキングしてしまったんだ。よく覚えているのは、あのデヴィッド・ボウイが僕のPAをフォーク・クラブに運んでいる姿だった。たった一度だけだったけどね!”

マーティン・ヘイワードはヘロンがパイの新しい‘アンダーグラウンド’レーベル、ドーンと70年初めに契約する前にバンドを脱退した。彼の代わりはキーボーディストのスティーヴ・ジョーンズだった。彼はバンドがドーンと契約するに至った経緯を覚えている。“僕らはローカル・ミュージシャンでブルース・ギタリストのマイク・クーパーを知っていた。彼はやり手だったよ。彼を通じて僕らはピーター・イーデンと会った。彼はドノヴァンの育ての親で(ドーン・レーベルのマネージャーだったイーデンはミック・ソフトリィやビル・フェイなど同種のアーチストのプロデュースも手がけていた)、ヘロンを聴いてみたいと思っていたんだ。彼は本当に気に入ってくれて、僕らとアルバムを作ることを決心した。ドーンは冒険好きなレーベルだったね。マンゴ・ジェリーのような、今までにないようなバンドを探していた―彼らも僕らを気に入ってくれた。連中もドラムレスだったな。ピーターを通じて僕らは同じレーベル仲間になったんだ。”

ジョーンズは最初スタジオ・ワークのためのセッション・ミュージシャンとして参加していた。しかし彼があまりにバンドによく馴染んだため、正式なメンバーとして加入することを要請されたのだった。皮肉にもその‘スタジオ・ワーク’は、始まるやいなや終了することになってしまった。1970年7月、ヘロンは2曲をレコーディングした。River Of FortuneSome Kinda Big Thingでピーター・イーデンの援助の下パイ・スタジオで行われたが、イーデンのアドヴァイスにもかかわらずヘロンはスタジオという環境でのレコーディング体験を楽しむことができなかった。“スタジオは嫌いだったな”ロイ・アップスは認める。“僕らはオーディエンスの前で演奏するのが好きだった。何がしかの反応があってリラックスできるからね。レコーディング・スタジオにいるとプレッシャーを感じるから―まあ要するに下手くそだったんだけど。”予定されていたシングルのリリースはキャンセルされた(両トラックはこのアンソロジーで公式リリースとなる)。ヘロンは以降のリリースは全て屋外でレコーディングすることにした。

こういったわけで1970年夏、バンドとそれぞれの恋人たちはバークシアのアップルフォードへと移り住んだ(偶然にもここはトラフィックが田舎の生活へと隠遁していたアストン・チロルドから3〜4マイルと離れていなかった)。皆トニー・プークの家族が住んでいた農家に滞在した。農園の裏にある原っぱに出て、パイのモービル・ユニットによってデビュー・アルバムはレコーディングされた。思慮深く穏やかな楽曲群は、バンドのやや雑でチャーミングなサウンドに組み立てられた。Sally Goodinは適度にトラッド風味のある合唱だ。その、人の心を惹きつけるような控えめな装いは、アルバム全体のムードを見事に表している。そしてアルバムのリラックスした雰囲気に小鳥の鳴き声が加わった。ハイライトはロイ・アップスの2曲だろう。古臭い雰囲気のあるバラッドYellow Rosesとバート・ヤンシュ・スタイルのFor Youだ。一方トニー・プーク作の荘厳なLord And Masterも同様にたっぷりの哀愁を帯びている。少しバラけたハーモニーとうまく調和したアコースティック・ギターとキーボードが聴ける。そしてバンドのセンスが英国の田園風景に溶け込み、カウンター・カルチャー的な至福の感情を備えた最高峰がUpon Reflectionだ。アップス作で風景を喚起させるような詩が詰め込まれている―“sitting in your mother's garden smoking Lebanese beneath the privet hedge” 残念ながら素晴らしい出来のRosalindはアルバムには収録されなかった。これは今回初の公式リリースである。Harlequin2の完全ヴァージョンも同様で、曲の最後2分はアルバムではカットされていた。

普通、無関係なバックグラウンド・ノイズが曲中に入ってしまった場合、その曲はボツにされてしまうだろうが、スティーヴ・ジョーンズの説明によればヘロンの場合にはそれは当たらない。“僕らはバンドが演奏している場所から100ヤード離れたところにもマイクをセットして、わざと自然の音を拾うようにしたんだ。結局実際は僕らが思っていたよりバックグラウンド・ノイズがはっきり入ってしまったから、ちょっと音をいじったんだけどね。Harlequin2に関しては単に演奏がまずかっただけだよ。後半は演奏がバラバラになっちゃったからね!”1970年11月にリリースされたアルバムは真に素晴らしい出来ばえであったが、残念ながらあまり売れなかった。ドーン・レーベル所属の4つの目玉商品である同時期のアーチストのうちのひとつとして、ドーン・ペニー・コンサート・ツアーに参加したにもかかわらずだった。“ペニー・コンサート・ツアーではどこへいっても僕らは盛況だったよ。”スティーヴ・ジョーンズはいう。“バンドに対する受けとめ方は会場によって様々だった―例えばブリストルでは僕らはスタンディング・オヴェイションを受けた。一方タイタン・グローンとバーミンガムに行ったときは、僕らはあまりうけなかった。少人数相手のギグの方が僕らは心地よかったね。”

“ペニー・コンサートで一番の思い出は・・・”ロイ・アップスは付け加える。“ブリストルのコルストン・ホールでのギグで3000人の客が椅子に立って僕らを歓迎しくれたっていう信じられない出来事だった。そのときはアドレナリンが止まるのに何時間もかかったほどだよ。もうひとつは・・・僕らのギャラをもらうためにレッド・バスの事務所で果てしない時間をじっと我慢して待っていたことだ。あとは‘乱入’事件!ツアーではバンドは皆トリを務めたがっていた―つまり皆主役を演じたかったんだと思うんだけど―でも僕らはそういうことには関心がなかった。僕らは全てのバンドが単に代わるがわる出るだけだと思っていたから。で、あるマネージメントのうちのひとつが明らかにイラついていたんだ。僕は‘たまたま’彼が更衣室に入っていたところに押しかけてしまって、とっさにヒッピーの決まり文句‘Sorry man…’っていったんだ。ロンドンに戻った時にその押しかけ事件はなんと、‘ロイがバンド・マネージャーを殴りつける’になってた!”

1971年1月のBBCラジオ・ワンのセッションでジョン・ピールのSunday Concertの一部に取り上げられたにもかかわらず、Heronのセールスは伸び悩んでいた。バンドがブレイクするための条件は通常ヒット・シングルを出すことだ。4月にリリースされたマキシ・シングルは、ディランの牧歌的なOnly A Hoboのカヴァーを含む4曲がフィーチャーされていた。頭に入っていたのは、フックの効いたG.T.ムーア作のBye And Byeであった(注:5番目のトラックFriendがレコーディングされていたが、最後の最後にカットされてしまった。残念ながらパイ/ドーンのアーカイヴにこれは現存していない)。影響力のあるトニー・ブラックバーンの番組、Record of the Weekで取り上げられたBye And Byeは、ラジオ・ワンでおびただしい数のオンエアをされている。スティーヴ・ジョーンズは思い出す。“みんなかけてくれたよ―トニー・ブラックバーン、ジョン・ピール、ラジオ・ルクセンブルグのキッド・イェンセン・・・突如としてそれは起こったんだ!僕らは億万長者になれると思って静観していたな。ところがそのシングルを買うことができなくなったんだ。まず明らかなのは、レコードがたったの1000〜2000枚しかプレスされていなかったという問題があった。あとレコードを配送するヴァンのドライヴァーがストライキを起こしたんだ。僕らはハイな状態からいっきに落ち込んでしまって気力を失ってしまったね。”

こういった失望にもかかわらずヘロンは活動を続行していった。1971年6月、ラジオ・ワンでデヴィッド・ボウイからサポート・バンドとして招かれた後、彼らはセカンド・アルバムの準備に取りかかった。トニー・プーク:“ファースト・アルバムのエンジニアがデヴォン(イングランド南西部)で田舎家を借りていた人を知っていて、彼がアルバムのためにそこを用意してくれたんだ―僕らはパイ・レコードから前金として250ポンドという大金を手にして車に乗り込んだ!”バンドはウェスト・エムレットの田舎家に一週間滞在することになった。小さな森の中にあった主人の家はブラック・ドッグの村の南側にあった。再びバンドは野外でレコーディングすることになった。今回は幾人かの新しいメンバーを加え、彼らのサウンドは少し刷新されることになった。そのメンバーとは、マイク・ファインシルヴァー(bass)、テリー・ギッティングス(drums)、ビル・ボーズマン(electric guitar)、そして彼らの古い友人でドーンのアーチストだったマイク・クーパー(slide guitar)である。マイクはジャケットの写真を撮った人物でもある(つけ加えると、ヘロンは最近クーパーのアルバムTrout Steelでバッキング・ヴォーカルとして参加した)。とりわけG.T.ムーアの豊富なスタイルによって、今回のヘロンのアルバムは2枚組を埋めるに充分な曲数が用意されていた。トニー・プークのWandererとムーアの愛らしいWinter Harlequinのような、賢明で知性溢れる曲の数々がTwice As Nice And Half The Priceを価値あるアルバムにしている。2枚組で少々とっ散らかった印象はあるものの、その控えめなハーモニー、ルーツ・ミュージック的で有機的な演奏だ。例えばJohn Brown(ディラン初期の未発表曲で新たにメロディが作られた)とパンチの効いたBig Aは少しザ・バンドを彷彿とさせる。

おもしろいコンビネーションを持った、つまり取るに足らないカヴァー、This Old Heart Of MineYou Really Got A Hold On Me(これはウディ・ガスリーのThe Great Dust Storm同様、G.T.ムーアがヘロン以前にプレイしていたR&B/Soulの重要なレパートリーだった)、わざとお遊び的に作った標準以下の出来のオリジナル、Getting 'Em Down(“僕らはそうやってちょっとジョークっぽいものをレコーディングした。”スティーヴ・ジョーンズは認める。“バンドにはいつもユーモアセンスがあった。”)のようなナンバーがちらほら目につくことが、2枚組LPとしてリリースするには時代遅れであり間違いではあった。“僕らはTwice As Nice And Half The Priceを2枚組としてリリースしたけど、そうすべきじゃなかったのかもしれない。ある人にとっては多くの曲が入っていることでとてもいいアルバムかもしれないが、全く月並みなアルバムでもあると思う。でも僕らは2枚組のレコードを1枚物の値段にしたかった。そこにはお金の価値に対するヒッピーの精神があった―人々もそれは認めてくれると思う。”

Twice As Nice And Half The Priceは1971年10月にリリースされたが、いかなる木々をも引き抜くことはできなかった(これは環境保護意識といった言葉を使うヒッピーたちには最も相応しい表現方法ではないだろうが・・)。同時期のシングル、控えめなTake Me Back Home(b/w Minstrel And A King)もあまり売れなかった―振り返ってみればアルバム中最もコマーシャルでキャッチーなナンバー、My Turn To Cryがシングルに相応しかったかもしれない。結局Take Me Back HomeTwice As Nice And Half The Priceがドーン・レーベルでの最後のリリースとなってしまった。1972年8月に遅まきながらの連中の嫌いなパイ・スタジオに戻ってのレコーディングも実を結ぶことはなかった(今のところ未発のIf It's Loveがこのセッションでレコーディングされたが、これはさらにロック寄りの演奏となっている)。そしてバンド内の緊張感がG.T.ムーアの脱退を引き起こすことになった。ロイ・アップスがバンドのある側面を伝えている。“彼と一緒にやっていくのが難しくなったんだ。あるギグがあってね―とてもデカいギグだったんだ。と同時に僕らに大金が転がり込んできた―ところが彼はとても質の悪いギターを持って現れたんだ。彼は僕らのリード・ギタリストだったんだよ!普段彼はマンドリン、ギターその他何でもプレイした。でも彼は大事なギグでその質の悪いギターを使うことを考えていたようだった。僕らはフォーク・バンドだったが、彼は本当はロック・バンドがやりたかったんだ。その後彼はレゲエ・バンドをやりたくなって3人編成にしようと考えた。最後にはレコード会社も動いてくれなくなって、僕らはバラバラになったような感じだったと思う。”

1972年8月、ヘロンは3度目の、そして最後となったラジオ・ワンのセッションでプレイした後(ボブ・ハリスの務めるSound of the Seventies)、バンドは内部崩壊した。ムーアは1972年10月、ジョナサン・キングのUKレーベルからソロ・シングルを発表した後、G.T. Moore & The Reggae Guitars(彼の友人とかつてのヘロン仲間マーティン・ヘイワードがいた)としてカリズマ・レーベルと契約した。またペルシア人女性シンガー、シューシャのユナイテッド・アーチスト・レーベルから70年代半ばに出たアルバムのバッキングも担当した。その間ヘロンの名はムーアに続く数名のメンバーによって使われ続けた。ムーアは70年代終わりにテリー・クラークとともに少しの間ヘロンに再加入したが、クラークもあまり長くは在籍はせずソロ・キャリアに着手した。レア・レコード市場において高まるバンドへの興味が底流にある中、地味なレコーディングが行われていた。30年間の散発的な活動のうち、頂点に当たるのが1997年に起こった出来事だ。その時は所在不明のムーアの代わりにジェリー・パワーが参加し、ヘロンはリユニオン・アルバムのために再びブラック・ドッグに戻った。そのアルバムに続いてすぐに、バンドの極めて多面的な活動が網羅されたヴィデオ/DVDがリリースされ、チャートインすることになった。週末にはブラック・ドッグでフェアウェル・コンサートが行われた―ちょうど26年前の夏にも行われたように・・・ このUpon Reflectionは田園での真のバンドの姿を伝える傑出した作品である。

デヴィッド・ウェルズ
2006年8月

スティーヴ・ジョーンズに多大な感謝を送る
ロイ・アップスとピーター・イーデンにも同様に感謝する

Heron website : http://www.relax.co.uk
G.T. Moore website : http://gtmoore.atspace.com


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