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Man, Brinsley Schwarz, Hawkwind…/Greasy Truckers Party/2007 EMI Records Ltd. 0999 503235 2 4



LIVE AT THE ROUNDHOUSE

“もし君が1972年のThe Greasy Trucker’s Partyのことを思い出せるなら、君はあそこにはいなかったということだ。真面目な話、私があの晩で唯一覚えていることは、故エドワード・ヒース政権下で実施された‘Power cuts’(節電政策)の年であり、ラウンドハウスの送電が停止されたことだ。私は何時に停電したのか全く覚えてないが、すぐにガス・ライトが点けられた。夜間の道路工事でよく見るタイプのあれだ。私の記憶では、この時点でモリス・ダンスの一団がステージに上がって、消防隊が安全確保の理由からオーディエンスを会場の外に出すことを決定するまで踊りが続けられた。消防隊と会場マネジメント側の長い交渉の結果、彼らはみなが会場を出て停電が終わるまで待ってから再入場することを認めて、それでイヴェントを続けることができたんだ。2000人強のオーディエンスのほとんどが会場の外で再入場できるまで待っていた。もちろん彼らは中に入るまで多くの人たちの興味を引いていたから、さらに何百人かの人々が加わっていた。そしてドアが再び開いた時に、元々のオーディエンスと一緒に列をなして入っていったんだ。しかしそれがまた消防隊との別の問題を引き起こしていた。今度は法的な最大収容人数をはるかに超えてしまっていた。さらに交渉が行なわれ、人々はぎちぎちに詰めて座るように説得された。そうやってイヴェントは少なくとも30〜40パーセントの人々が増えた状態で続けられたんだ。”

ダグ・スミス, 2007


60年代終わりから70年代初頭にかけて、多くのブリティッシュ“アンダーグラウンド”カウンターカルチャーのイヴェントが催されたが、1972年2月13日ロンドン、チョークファームのラウンドハウスで、ある一つのイヴェントが行なわれた。これは歴史上最も悪名高いうちの一つとして知られるようになった。“The Greasy Trucker’s Party”は、あるいは最後のフリークス、ヒッピーそしてアナーキストたちの集まりの一つだったのかもしれない。そしてホークウィンドとマンという二つの別格バンドのキャリアにとって足掛かりとしても見ることができる。上り調子にあったホークウィンドの場合、そのコンサートで最初に録音された1曲が書き直され、オーヴァーダブされリミックスされ、バンドにUKトップ5ヒット・シングルをもたらすことになり、一連のベスト・セラー・アルバムのきっかけとなった。マンにとっても光が見え始め、UKアルバム・チャート・ヒットに入るきっかけとなった。コンサートのビラはまた、過小評価されていたバンド、“パブ・ロック”のパイオニア、ブリンズレィ・シュウォーツと桁外れのフリーク者、マジック・マイケルをフィーチャーしていた。マジック・マイケルを除いて全てのバンドはUKのユナイテッド・アーチスツ・レコーズと契約していた。この会社は独創的な才能を持っていたアンドリュー・ローダーが指揮をとっていた。ローダーは1969年という疑いを知らない世界に突如として現れたレコード・アルバム・ロックの新興をうまく利用し、保守的なリバティ/UAレーベルをUKミュージック・シーンの中で信頼できる存在へと導くことに成功していた。

コンサートはロンドン“アンダーグラウンド”ミュージック・シーンの指導的人物であったダグ・スミスとデイヴ・ロビンソンの頭脳の産物、グリージー・トラッカーズ組織のために資金を生み出していった。スミスは音楽マネジメント会社、クリアウォーター・プロダクションの経営者で、その下のエージェンシーはホークウィンド、スキン・アレイ、ハイ・タイド、トゥリーズそしてコチーズを抱え、ロンドンで最もヒップなエージェンシーとして目されていた。以前ジミ・ヘンドリクスのローディーをやっていたデイヴ・ロビンソンは、Eire Apparentを売り出すマネージャーとしてキャリアをスタートさせた。Eire Apparentはジミ・ヘンドリクスのプロデュースによってブッダ・レコーズに1枚のアルバムを吹き込んだ。バンドのギタリスト、アーニー・グレアムを世話していたローダーは、マネジメント集団のフェイム・プッシャーズに参加し、彼はブリンズレィ・シュウォーツと契約した。彼の仲間であったフェイム・プッシャーズのマネージャー、John Eichlerは1970年の暮れにダウン・ホーム・マネジメント会社を設立した。スミスとロビンソンは、グリージー・トラッカーズ組織をサンフランシスコを拠点としていたヒッピー集団から着想を得て設立した。その集団は、地元の様々な事情、例えばホームレス、大麻所持で逮捕された売人への助言、その他の精神覚醒物質や社会的問題のために資金を増大させていった。のちにアンドリュー・ローダーはトラッカーズ組織のことを次のように述べている。“英国の‘アンダーグラウンド共同体’に利益をもたらすという、価値ある動機のために金を回収するという目的を持った、個々のつながりは希薄な組織だった。”

一連の小さなベネフィット・コンサートがロンドン周辺で開催されたあと、北ロンドン、チョークファームに以前は鉄道のエンジン置場だったThe Roundhouseが、アートと音楽のためにイヴェントの場としてより多くの人々を集める計画が立てられた。ラウンドハウスは1966年にロンドン・アンダーグラウンド・シーンが誕生して以来、そのための不可欠な会場として機能していたため、選択する会場としては明らかにふさわしかった。

こうして1972年2月13日の日曜日、The Greasy Truckers Partyが開催されたが、コンサートは不測の事態に見舞われることになった。1972年初めの数ヶ月、英国は全国炭鉱労働者組合によって起こされたストライキによるエネルギー危機に直面していた。これは他の地区の労働者が起こしたストライキに共鳴して引き起こされた連鎖反応だった。この行動は、発電所の石炭を節約するための全国的な送電停止計画を招くことになった。そして2月13日も例外ではなかった。停電の恐れがあったにもかかわらずイヴェントは決行され、パイの移動式レコーディング機材が運び込まれ、8トラック・テープに録音されることになった。レコーディングを指揮監督したのはエンジニアのヴィック・メイルで、アンダーグラウンドDJとしてリーダー的存在だったアンディ・ダンクレィが、MCと出演者の間に流す音楽を引き受けた。かくしてライヴはスタートした。まずはこのバンドだ・・・

MAN

宣伝では遅れて告知されたが、マンはグリージー・トラッカーズ・パーティーのオープニング・アクトとしての栄誉を与った。当時バンドは(それ以後もだが)、リバティ/ユナイテッド・アーチスツ・レーベルと長く契約し、最も革新的なアクトのうちの一つだった。マンは1968年にウェールズのポップ・バンド、ザ・バイスタンダーズ(シングル“98.6”でUKチャートに少しだけ顔を出していた)としてデビューした。彼らはクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ザ・グレイトフル・デッドそしてジェファーソン・エアプレインなどのUSウェスト・コーストのバンドに影響を受けていた。ギタリストのヴィック・オークレィが去った後、ミッキー・ジョーンズ(ギター)、クライヴ・ジョン(キーボード、ギター)、ジェフ・ジョーンズ(ドラムス)そしてレイ・ウィリアムズ(ベース)はロジャー“ディーク”レナード(The Dreamに在籍していた)を迎え入れ、バンド名をManに改名した。1968年後半の数ヶ月間に、マンはパイ・レコーズにファースト・アルバムを吹き込んだ。そのファースト・アルバム“Revelation”は1969年1月にリリースされ、英国でプレスの関心を集めたが、商業的成功は収められなかった。

パイはセカンド・アルバムを出すことを決め、その結果出来上がった“Two Ounces Of Black Plastic With A Hole In The Middle”は、パイの“プログレッシヴ”レーベル、Dawnの最初のリリースのうちの1枚として1969年9月に発表された。英国で大きな反響を呼ぶことはなかったが、アルバムはマンをヨーロッパ、特にドイツでのファン獲得に貢献した。その地でマンは猛烈なギグ・スケジュールをこなし、自分たちの作品に磨きをかけていった。ディーク・レナードはアルバム・リリース後一時的にマンを去り、代わりにマーチン・エースがギターとヴォーカルで加入した。数ヶ月内にレナードは古巣に戻り、レイ・ウィリアムズとジェフ・ジョーンズに代わってマーチン・エースがベースに回り、テリー・ウィリアムズがドラムスで加入した。マンはすぐにコンサートにおいてジャム演奏を長く繰り広げるという優れたスタイルを築いていった。そのことは“アンダーグラウンド”のオーディエンスを増やすことに大いに役に立った。1970年夏、マンはリバティ・レコーズと契約し、自らの名を冠したサード・アルバムを1971年3月にリリースした。アルバムは英国では注目を集めなかったがドイツで評判となり、マンはそこで多くの熱狂的ファンを獲得していくことになった。

UK音楽紙のメロディ・メーカーがバンドのステージを称賛し記事にすると、マンは次第に英国で忠実なファンをつかんでいった。1971年11月の“Do You Like It Here Now, Are You Settling In?”リリースまでに、グループはブリティッシュ・コンサート・サーキットの常連になっていた。しかしこの頃、クライヴ・ジョンがバンドを去ったことにより、マンはキーボードレスの4人編成バンドとなった。バンドの“The Greasy Truckers Party”への出演は素晴らしいパフォーマンスとなった。ライヴは20分のジャムに加えて、彼らの伝説的インストゥルメンタル“Spunk Rock”で始まった。この曲は元々セカンド・アルバムで“Spunk Box”というタイトルで収録されていたものだ。もしかするとレコーディング機材の複雑な技術的問題によって、マンのオープニング・ナンバーの最初の数分がエンジニアにより消去されているかもしれない。しかし(デジタル48トラック・レコーディング時代の今から見れば)このような状況で録音されたものが技術的に高水準を保っているのは驚きであり、それは主にヴィック・メイルと彼のチームの熟達した腕のおかげである。

“Spunk Rock”の次に演奏されたのが、当時マンの最新アルバムからの“Many Are Called, But Few Get Up”と“Angel Easy”だった。次にプレイされたのが、最終的に書き直され彼らの名作となったアルバム“Be Good To Yourself At Least Once A Day”に収録されることになる“Bananas”の初期インストゥルメンタル・ヴァージョンだ。マンは自らの名を冠したサード・アルバムからの“Romain”でその素晴らしいライヴを終えた。バンドのThe Greasy Truckers Partyへの出演は、彼らが英国で求めていた現状打破を実現させた。ライヴ・アルバムへの参加は、1972年9月にリリースされたバンドの見事な腕前が発揮された限定プレスのライヴ・アルバム、“Live At The Padgett Rooms, Penarth”と共に多くの新しい支持者を生み出すことになった。この時までにマーチン・エースは、彼の妻とフライング・エースを結成するためにバンドを去っていき、ディーク・レナードも再びソロ・キャリアを追求すべくバンドを去った。

メンバー交代はクライヴ・ジョンがギターで戻り、フィル・ライアンがキーボード、ウィル・ユーアットがベースで加入した。このラインナップで名作“Be Good To Yourself At Least Once A Day”がレコーディングされ、1972年11月にリリースされた。1972年12月のスウォンジー、パッティ・パビリオンでの伝説的なコンサート(アルバム“Christmas At The Patti”としてリリースされた)は、クライヴ・ジョンのバンドでの最後のレコーディングとなった。次のアルバムのレコーディングに先立って、アラン“Tweke”ルイスがセカンド・ギタリストとしてマンに加入し、新たに活力を得たマンは、2枚組LP“Back Into The Future”(1枚はスタジオ録音、もう1枚はウェールズの男性聖歌隊をフィーチャーした秀逸なライヴ録音)をレコーディングし、バンド初のUKチャート入りを果たした。1973年の終わりにフィル・ライアンとウィル・ユーアットがニュートロンズを結成すべく去っていき、ディーク・レナードが戻ってきた。トゥイーク・ルイスはキーボードのマルコム・モーリーと交代し、ケン・ウェイリーがベースで加入(二人とも元ヘルプ・ユアセルフ)、このメンツで1974年、独創的なアルバム“Rhinos, Winos and Lunatics”がレコーディングされた。大規模なヨーロッパとアメリカのツアー(ホークウィンドと共に)を背景に、アルバムは商業的にも批評的にも成功を収めた。

1974年夏、モーリーがバンドを去り、残ったメンバーはもう1枚の素晴らしいアルバム“Slow Motion”を制作した。再びバンドはアメリカ・ツアー(今度はストローブスと共に)を行なったが、途中でケン・ウェイリーが抜けた。彼の代わりに加入したのがマーチン・エースで、彼はツアーに参加するためにアメリカに飛び、新曲にも取り組んだ。この時にマンはクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのギタリスト、John Cipollinaに出会った。メンバーたちと気が合ったCipollinaは、1975年5月、バンドの一員としてUKツアーに参加することを承諾した。ラウンドハウスで行なわれた三つのコンサートのうち、最初の5月24日のコンサートが録音され、アルバム“Maximum Darkness”として1975年10月にリリースされた。これがユナイテッド・アーチスツでのマンの最後のアルバムとなった。バンドは次作となる“The Welsh Connection”のためにMCAレコーズに移った。レコーディングに先立ってマーチン・エースがジョン・マッケンジーと交代するため再び脱退し、キーボードにフィル・ライアンが戻ってきた。

1976年10月の忘れることのできないトラウマ的なツアーによって、マンは解散を決めた。1976年12月に完売となった一連のラウンドハウスでのコンサートを含むフェアウェル・ツアーが企画され、それらはレコーディングされることになった。マンの70年代最後のアルバムとなった“All’s Well That Ends Well”は、1977年10月にリリースされた。しかしマンのストーリーはそこで終わらなかった。バンドは1983年、ロンドンのマーキー・クラブ25周年を記念した1回限りのコンサートのため再結成され、以来、彼らは活動を続けることにした。メンバーは流動的ではあったがいつも中心には、ミッキー・ジョーンズ、マーチン・エースそしてディーク・レナードがいた。2002年、ミッキー・ジョーンズは脳腫瘍と診断され、治療に耐える間、息子のジョージに手を借りることになった。2004年4月、ディーク・レナードはソロ・キャリアを再開すべくマンを脱退し、残ったマーチン・エースが舵を取ることになった。マンは今も評判のライヴ活動を続けている。“Diamonds & Coal”が彼らの最新アルバムだ。

UNCLE DIRTY

ラウンドハウスでマンに続いて登場したのが、アメリカン・アンダーグラウンド・コメディアンのアンクル・ダーティーだった。1969年にボブ・アルトマンがこのステージ・ネームを採用し、彼はジェファーソン・エアプレイン、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、グレイトフル・デッドのような多くのウェスト・コースト・バンドのオープニング・アクトとして人々の注目を浴びていた。これらパフォーマンスは1970年、エレクトラ・レーベルからの1枚のアルバムにまとめられ、そこで彼は得意の出し物“アンクル・ダーティー入門書”を披露している。そこでは60年代後半から70年代初頭にかけての“オルタナティヴ”なライフスタイルのあらゆる側面について言及されている。

イングランドに到着した頃である2月13日のアンクル・ダーティーの出し物は、荒っぽいラウンドハウスの聴衆の反応によりあまりうまく伝わらなかった。そして彼はわずか数分後に攻撃的になり、ステージでやじり始めたのである。この手に負えない聴衆に対して彼が言ったばかげたコメント“あんたらオレにいちゃもんつける気かい?”は、ブーイングの嵐となり、このアメリカ人出演者に対して一発のパンチが浴びせられることになってしまった。MCのアンディ・ダンクレィによってすぐに事態は落ち着きを取り戻したが、アンクル・ダーティーは“F*** you, you mother f***ers”などと怒鳴り散らしながらステージを降りていった!これとは対照的な振る舞いによって(少しずつではあるが)、“ピース・アンド・ラヴ”の精神が広められたことでグリージー・トラッカーズ・パーティーのアンクル・ダーティーの出演記事はほとんど削除されることになったが、それはもっともな事だった。

BYZANTIUM

ウェスト・コーストに影響を受けたブリティッシュ・バンド、ビザンチウムはビラでは次の出番だったが、アンディ・ダンクレィの差し迫ったラウンドハウス停電の予告により、次のブリンズレィ・シュウォーツと出番を入れ替えることになった。会場は真っ暗闇に突入し、聴衆はロンドン消防隊の指示にしたがってラウンドハウスから出ていくことになった。2000人もの群集がこの地域への送電が再開されるまで、チョークファームとカムデンタウンの舗道に列をなして出て行かねばならなかった。この遅れによってChase Jankelとペダルスチール奏者のB. J. コールが参加していたA&Mレーベルのこのバンドの出演は取りやめになってしまった。

BRINSLEY SCHWARZ

その日曜日に出演した3番目のバンドである。ブリンズレィ・シュウォーツはブリティッシュ・サイケデリック・ポップ・バンドだったキッピントン・ロッジ(パーロフォン・レコーズから多数シングルをリリースした)を母体としていた。彼らはあるいは、彼らのマネジメントが飛行機一杯に音楽ジャーナリストを乗せて、ロンドンからニューヨークのフィルモア・イーストに彼らのデビュー・コンサートを見に行かせるという華々しいキャリアのスタートを切ったグループとして一番記憶さているかもしれない。そのコンサートが見事に裏目に出てしまったことで、グループは英国音楽プレスから総スカンを食らうことになった。振り返ってみれば、このバンドに対するネガティヴな反応は受けるに値しないものであり、音楽的にいえばブリンズレィ・シュウォーツは今ではいわゆる“パブ・ロック”ムーヴメントの始祖として捉えることのできる革新的なバンドだった。メンバーはボブ・アンドリュース(キーボード、ヴォーカル)、ビリー・ランキン(ドラムス)、ブリンズレィ・シュウォーツ(ギター、ヴォーカル)そしてニック・ロウ(ベース、ヴォーカル)で、バンドはコマーシャリズムに背を向け、代わりに当時広まりつつあったUKパブ・ロック・サーキットで活動していくことを選んだ。

あと知恵をもってすれば、一緒にビラに名を連ねたバンドが長い曲で大音量の演奏をする中、彼らが簡潔なソウル、カントリー、ブルースを基調としたナンバーをプレイしたことは果敢な企てであった。しかしこういった他のバンドとの対立するようなスタイルにもかかわらず、ブリンズレィ・シュウォーツはオーディエンスからあか抜けたユーモア・センスあるバンドとしての評価を勝ち取った。バンドのオープニング・ナンバー、“Country Girl”は、ニック・ロウがステージで経験したヴォーカル・マイクのトラブルから、不安な様子が見て取れる(曲中の詞に隠された手掛かりがある)。しかしこれがうまくいったことでグループは自信を得て、結果ライヴは素晴らしいものとなった。それは“She’s Got To Be Real”、“Home Work”、“Nervous On The Road(But I Can’t Stay At Home)”、“Range War”、“Silver Pistol”、“Going Down The Road”、“Midnight Train”、“Private Number”、“Thank You”、“Wonder Woman”、“I’m Ahead If I Can’t Quit While I’m Behind”そして“Surrender To The Rhythm”ら全てのナンバーで感じることができる。

ブリンズレィ・シュウォーツは1970年から74年までの間に、リバティ/UAから計6枚のアルバムをリリースした。その間にはイアン・ゴムがギターで加入していた。最終的にはセールス的不振によりバンドは解散することになり、彼らは1975年3月にロンドンのマーキー・クラブで最後のコンサートを行なった。1974年にデイヴ・エドマンズがプロデュースしたシングル、“(What’s So Funny ‘Bout)Peace, Love and Understanding”は、70年代後半に全才能が開花し、“I Love The Sound Of Breaking Glass”のシングル・ヒットを放ち、さらに優れたプロデューサーとなったニック・ロウを見事に示していた。彼は今なおソロ・アーチストとして輝かしいキャリアを積み上げている。ボブ・アンドリュースとブリンズレィ・シュウォーツはのちにグレアム・パーカー・アンド・ザ・ルーモアに参加し、一方ビリー・ランキンはUKパブ・ロック・バンドのダックス・デラックスに加入した。

MAGIC MICHAEL

ロンドンのフリー・アンド・アンダーグランドのコンサートでよく知られていた“フリーク”であり、ラドブルック・グローヴ出身のマジック・マイケル(本名マイケル・カズンズ)は、後世の人々には1971年のまさに最初のグラストンベリー・フェスティヴァル(Nicholas Roegの“Glastonbury Fayre”)で、明らかに化学作用(ドラッグ)により裸となって完全に即興で歌う姿が捉えられている人物として知られている。彼はいつもオーディエンスからの野次にインスパイアされていた。彼の悪名はヴァーティゴ・レコーズの目にとまり、Patrick Campbell-Lyonsのプロデュースにより1枚のアルバムがレコーディングされたが、あまりに突飛な内容のせいでレーベルはリリースを断念した。マジック・マイケルは論争を好み、時にお気に入りのバンドを待つ客に対して口汚く罵倒を浴びせていた。ラウンドハウスでのパフォーマンスも例外ではなかった。彼は20分間“Music Belongs To The People”を演じ、最後には何人かの客がステージに上がり、彼に加わることになった。マジック・マイケルはUKアンダーグラウンド・サーキットで活動を続け、ジャーマン・バンドのカンのヴォーカリストとしてオーディションさえ受けている。その後ダムドのキャプテン・センシブル、ラット・スケイビーズと共にグループを組み、インデペンデント・レーベルのAtomicにシングル、“Millionaire”を吹き込んだ。

HAWKWIND

ホークウィンドはグリージー・トラッカーズ・パーティーでトリを務め、実際オーディエンスのほとんどがこのバンドを観るために詰めかけていた。この伝説的なブリティッシュ・グループについて書かれたうちの多くは正確性を欠いているが、その全てがホークウィンド神話に加えられることになった。1969年、元バスカー(大道芸人)のデイヴ・ブロックによりロンドンのラドブルック・グローヴ地区で結成されたホークウィンドは、元々ノッティンヒルのAll Saint HallでGroup Xというバンドとして、幻覚作用のあるパフォーマンスを繰り広げていた。オリジナル・ラインナップは、ブロック(ギター、リード・ヴォーカル)、ニック・ターナー(サックス、フルート、ヴォーカル)、ジョン・ハリソン(ベース)、テリー・オリス(ドラムス)、ディック・ミク(音響効果担当)、そしてミック・スラタリー(リード・ギター)で、マネージャーのダグ・スミスの目にとまり、彼はバンド名変更を提案した。短期間Hawkwind Zooとして活動した後、グループはHawkwindに落ち着き(またターナーというニックネーム((訳注:ドイツ人のことか?))は、彼の滑舌のよいヴォーカルから来ている)、リード・ギターのスラタリーはまもなくハウ・ロイド・ラントンと交代し、このラインナップで1970年、自らの名を冠したファースト・アルバムがレコーディングされた。プロデューサーは元プリティ・シングスのギタリスト、ディック・テイラーで、“Hawkwind”はバンドがUK中にいたヒッピーのための多くのフリー・コンサートを行なったことで、すぐに大きなインパクトを放つことになった。

セカンド・アルバム“In Search Of Space”の頃までに、ホークウィンドはその長時間のコズミック・ロック・ジャムを洗練させ、より結合力ある強固なユニットになっていった。ジョン・ハリソンは元アモン・デュール兇離瓮鵐弌次▲妊ぅ堯Ε▲鵐澄璽愁鵑噺鯊紊掘▲魯ΑΕ蹈ぅ鼻Ε薀鵐肇鵑魯丱鵐匹魑遒辰拭“In Search Of Space”は、ホークウィンド初のチャート・アルバムとなり、続く大きな影響力を持つロングセラー・アルバムの最初の1枚となった。1972年1月までに、イアン“レミー”キルミスターがベーシストとして加入し、サイモン・キングがテリー・オリスに代わってドラマーの座についた。1972年2月13日には、ホークウィンドはさらに詩人のロバート・カルヴァート、シンセサイザー・プレイヤーのデル・デトマーそしてダンサーのステーシア(演奏中、彼女が衣服を全て脱ぎ捨てる癖はバンドの悪名を高めた)を加えていた。ホークウィンドは1971年6月23日のグラストンベリー・フェア出演のおかげで、アンダーグラウンド・チャンピオンとして、また“民衆の”バンドとしてのステイタスを獲得していた。

停電騒ぎで多くの問題が発生したのち、ホークウィンドは美しい詩の朗読“Earth Calling”を披露し、“You Shouldn’t Do That”の熱狂的ヴァージョンに突入した。彼らのステージは歌と詩の循環が間を置かずに行なわれ、その年で頂点に達した「宇宙の儀式」の前兆となるものであった。“The Awakening”、“Master Of The Universe”、“Paranoia”に続いてホークウィンドは新曲“Silver Machine”をここで初めて披露した。ラウンドハウスでプレイされた初期ヴァージョンは、数ヵ月後にシングルとしてリリースされたヴァージョンと大きく異なっていた。この時点までにラウンドハウスの実況録音は8トラック・テープに移行されていた。レミーによるヴォーカルのオーヴァーダブが行なわれ(ロバート・カルヴァートの単調なヴォーカルと差し替えられた)、詞は書き直され、その結果これはホークウィンドのトップ5ヒットとなった。“Silver Machine”のオリジナル・ライヴ・レコーディングはのちの1972年の3枚組アルバム“Glastonbury Fayre”に収録された。ラウンドハウスのステージは耳をつんざくようなクライマックスの“Welcome To The Future”で幕を閉じた。オーディエンスのアンコールの要求が鳴り止まない中、バンドは“Born To Go”と次作アルバム“Doremi Fasol Latido”のベースとなる1曲のインストゥルメンタルをプレイした。

このグリージー・トラッカーズ・パーティーの大喝采を受けたライヴによって、ホークウィンドの2枚組ライヴ・アルバム“Space Ritual”はUKチャートの9位にまで達した。1974年の“Hall Of The Mountain Grill”までにデル・デトマーとディック・ミクがバンドを去り、代わりに元ハイ・タイドとサード・イヤー・バンドのメンバーだったサイモン・ハウスがヴァイオリンとキーボードで加入した。イアン“レミー”キルミスターがモーターヘッド結成のためにバンドを抜けたあと、1975年の“Warrior On The Edge of Time”はユナイテッド・アーチスツ最後のホークウィンドのアルバムとなった。レミーの代わりに元ピンク・フェアリーズのポール・ルドルフが加入し、バンドはトニー・ストラットン−スミスのカリズマ・レーベルと契約した。ホークウィンドはひき続いて残りの70年代から80年代にかけて商業的成功を成し遂げた。ラインナップは常に流動的であったが、いつも中心ではデイヴ・ブロックが宇宙船ホークウィンドの舵を取っていた。バンドは今日まで熱狂的な支持者を持つが、そのようなバンドは今ほとんどいない。

後記

イヴェントの成功を受けてアンドリュー・ローダーは、数週間後そのハイライトを編集した限定2枚組アルバムをリリースした。その年の暮れにUnited Artists UDX 203/4として発表されたアルバムは、限定枚数のみのリリースであったが、その2万枚はあっという間に売り切れてしまった。そこでは必然的に、とりわけマンとホークウィンドに関しては、長い曲が多いために多くがオミットされていた。そして今回このイヴェントのオリジナル8トラック・マスターテープが発見されたことにより、The Greasy Truckers Partyの全音源がリミックスされこの3枚組CDという形になった。30年以上の時を超えて、過ぎ去った時代の魅力的な音の記録が今送り出されたのである。平和、愛、最高の雰囲気と最悪の雰囲気、“Oz”と“Frendz”マガジンの時代へと飛んでいって楽しんでくれ!

マーク・パウエル



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