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The Grease Band/The Grease Band/2003 Hux Records Ltd. HUX 045



1971年夏に出たグリース・バンドのその名を冠したデビュー・アルバムは、ザ・フーの‘Who’s Next’やロッド・スチュワートの‘Every Picture Tells A Story’以上に私の日々のサウンドトラックだった。これは時が経つにつれて単なるノスタルジアとなるどころか、何度も聴き返すうちにどんどんと偉大なレコードへと成長していった。32年という歳月を経てもなお、これは興奮と意外性をもたらしてくれる。私はこのユーモア、才能、気取りのなさに今なお仰天させられるのだ。

1966年、シンガーのジョー・コッカーは若いベーシスト、クリス・ステイントンを雇い、バッキング・バンドをグリース・バンドと命名した。クリスは回想する。‘グリースっていうのは黒人に使うアメリカ名だったんだ。’このCDで聴ける彼らの元々の基盤が築かれたのは、コッカーの“With A Little Help From My Friend”がナンバーワン・ヒットした1968年の秋にギタリストのヘンリー・マッカロウを加え、バンドの形が明確になり始めていた頃のことだ。
1943年7月ロンドンデリー、Porstewartに生まれたヘンリーはショー・バンド、スカイロッカーズでギタリストとして最初の経験を積んだ。60年代半ばまでに彼は初のアイリッシュ・ロック・アーチストとなり、Eire Apparentを結成すべくシンガーのアーニー・グレアムと組んでいた。

しかしバンドの最初の北米ツアー、ヴァンクーヴァー公演で警察沙汰になり、彼はグループを抜けざるを得なくなり、メンバーらとはアルバムを作らずじまいだった。しかしながらその結果、彼は当時将来性のあったフォーク・グループ、スウィーニーズ・メンに参加することになった。‘ちょっとした法的問題があって僕はダブリンに戻ったんだ。そこには何人かの友人がいて、その友人を通じて僕はジョニー、テリー、そしてアンディと会った。ちょうどロック・ミュージシャンがトラディショナル・ミュージックに目を向けていた時期だった。アンディが東欧に旅立った時、僕は参加しないかと誘われたんだ。僕らはエレクトリック・ギターを使ってた。グレイトだったね。僕は彼らと一緒にツアーを続けた。僕らは素晴らしいギグをしていたけど、どういう風に音楽を展開していこうかみんな悩んでたよ。ブズーキのような楽器をエレクトリック化するのは難しかった。そして僕らはベースとドラムを加えようと考えていたんだ。’

‘僕らはケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルに出演してて、僕はロンドンのマジソン・ホテルに泊まっていたんだ。ジョー(コッカー)はギタリストを探していた。で僕は彼とマリファナを吸ってマーキーに行きバンドに加入した。僕らはイングランド中をヴァンに乗ってツアーしたよ。ジョーのファースト・アルバム、With A Little Help From My Friendsの制作途中から参加して3曲でプレイしたね。’

しかしながら彼らがそのヒットをうまく利用する前の段階として、ジョーのバッキング・バンドとしてもっといい音が求められていた。サウンドはジャジー過ぎていた。ジョーとクリスはもっとソリッドな音を欲しがっていた。そしてステイントンはキーボードに回り、それぞれベースとドラムスにアラン・スペナーとブルース・ローランド、アイランド・レコーズからウィンダー・K・フロッグが参加した。こうしてグリース・バンドのメンツが揃ったのだった。

1969年、彼らは地球上の他のどのバンドよりも忙しく活動することになった。エド・サリヴァン・ショーに出演した彼らはアメリカで人気爆発し、ジョーは大スターとなった。その年の8月、続いて彼らはニューヨーク州北部の伝説的なウッドストック・フェスティヴァルに参加した。しかしながら1969年の終りまでにバンドはブルース曰く、‘燃え尽きていたね。熱意はまだあったけど、もうそれ以上の曲をやることができなくなってたよ。’グリース・バンドはブルースが回想するように、マネジメントに問題を抱えていた。‘ヤク漬けだったんだ。マネジメントは僕らは気まぐれな連中だと思ってた。’一方ジョーはアメリカに住みたがっていた。彼は英国を離れて労働許可を得るために3週間を要していた。レオン・ラッセル―MD with デラニー&ボニー―がジョーをマッド・ドッグス&イングリッシュ・メンに入れてeleventh hour concept(?)を思いついた時、マネジメントにとってはグリース・バンドを解雇する絶好の機会となった。ジョーはクリス・ステイントンを連れてマッド・ドッグスのツアーを行った。あとは知ってのとおりだ。

ジョーのかつてのバッキング・バンドのメンバーたちはしばらくの間は活発な動きを見せていた。ブルースはテリー・リードとヘヴィ・ジョリーのところでドラムを叩いていた。ヘンリーとアランはスプーキー・トゥースのアルバム、Last Puffに参加した。そしてついに以前ミスアンダーストゥッドのマネージャーだったナイジェル・トーマスの下、彼らはゆっくりと再結成していった。コッカーは彼らを祝福し、そのままグリース・バンドの名を使うよう勧めた。ニール・ハバードがギタリストとして加入した。ニール―ブルースいうところの‘僕が聞いた中でベスト・リズム・ギタリスト’―はロンドン・シーンでBluesology、Juicy Lucy、そしてWynder K. Frogなどを渡り歩いたヴェテランだった。復活したバンドの最初の仕事は、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェーバーによるロック・オペラ、Jesus Christ Superstarにバッキング・ミュージックを提供することだった。彼らはゴールド・レコードを獲得し、ブルースは次のように言っている。‘映画に対する貢献ってことでかなり気前のいい金額が転がり込んだね。’

グリース・バンドは1971年のあたまにアイランド・スタジオでデビュー・アルバムをレコーディングし、それは4月にEMIハーヴェスト・レーベルからリリースされた。音楽シーンはいくらか混沌としていた。グラム・ロックが隆盛を極めていた。アルバムはパブ・ロックが流行する少し前にレコーディングされた。エレクトリック・フォークロックはプログレッシヴ・ロック同様、大きな人気を集めていた。ジェスロ・タルのAqualungがグリース・バンドのデビュー作の数週間前にリリースされていた。

グリース・バンドはハーヴェストのメジャーなアーチスト―耳を痛めつけるようなヘヴィ・メタル・グループ、ディープ・パープルやどんどんともったいぶったプログレッシヴ・ロックになっていくピンク・フロイドに辟易していた者たちにとって万能薬であった。彼らはサザン・コンフォートやフォーマリー・ファット・ハリーと共に広く受け入れられたが、この二つもハーヴェストと契約したグループであり、クィーヴァー、ブリンズレィ・シュウォーツ、ヘルプ・ユアセルフ、そしてグリーシー・ビアらを含む当時新興して来たUKカントリー・ロック・シーンの一端を担っていた。グリース・バンドは素晴らしくダウン・ホームな肌触りを持ち、アコースティックとエレクトリック楽器を合体させ、カントリー、ブルース、ソウル、フォーク、R&B全てのスタイルを含んでいた。私が最も適していると思う表現は英国のMusic From Big Pink(ザ・バンドの1st)だ。今ではグリース・バンドはザ・バンドの影響下にあった最初のUKバンドとしては数えられていない。

ブリンズレィは実際ザ・バンドに強く影響を受けていたし、ロジャー・モリスは短期間にほとんどロビー・ロバートソンらのサウンドを盲目的に引用したかのようなソロ・アルバムを制作していた。そしてフェアポート・コンヴェンションは、ザ・バンドのロックンロールを自国のトラディショナル・ミュージックに置き換え、信じられないような独創性に富んだLiege & Liefを創り上げるという偉業を成し遂げた。

しかしながら当時類似のグループはいくつか存在したが、それは偶然であった。‘みんな共通性を持ってたね。お互い聴いたことがなくてもね。僕はいろいろ聴いてたよ―デラニー&ボニー、ザ・バンド―でもグリース・バンドは特に影響を受けたものはなかったよ。’しかし確かにブルースのヘヴィなドラム・サウンドはザ・バンドのドラマー、リヴォン・ヘルムから何らかの影響があるに違いないのだが?‘いや偶然だよ。当時僕はジム・ケルトナーを目指してたよ。僕のフェイヴァリット・ドラマーは、エディ・テイラーとザッティ・シングルトンだ。シングルトンからジム・ケルトナーへは、ドラミングが一本の線でつながっているよ。最初にジムを聞いた時にこれだ!って思ったね。’

ナイジェル・トーマスとグループ、そして放浪者のクリス・ステイントンが共同プロデュースにあたり、戻ってきたステイトン―別名フィル・ハーモニアス・プロンクは多くのキーボード・パートを担当した。これはこのレコードの逸品といえるだろう。快楽主義的な雰囲気はあるが、個々のプレイは真のアンサンブルを作り上げている。マッカロウはよく覚えている。‘僕らはなるべくライヴ・サウンドでレコーディングしようと心がけた。メンバーがプレイできないものは一切入ってないよ。’ヘンリーはギターと多くの作曲だけでなくリード・ヴォーカルも多くとっている。彼はいう。‘僕はグリース・バンドの前はコーラスだけでリード・ヴォーカルはとったことがなかったんだ。いつもシンガーのいるバンドでプレイしてたからね!’なるほど、しかしここで聞ける彼のヴォーカルはごく自然だ。

熱気を帯びたアルバムのスタートはアーサー‘ビッグ・ボーイ’クルーダップの‘My Baby Left Me’だ。ブルース―‘これは即興だったんだ。ボブ・ポッター(エンジニア)が音のバランスをとるために僕らになにか曲を演ってくれっていったんだ。クリス・ステイントンがリフを弾き始めて、それからヘンリーが自発的に歌いだしたんだ。’

次が魅力的な‘Mistake No Doubt’だ。これは元々ヘンリーがスウィーニーズ・メンにいた頃書かれた曲で、テリー・ウッズとジョニー・モイニハンがセカンド・アルバム、The Tracks Of Sweeneyでさらにもっとフォーキーなヴァージョンで曲をつけていた。ここではアランとブルースが役割を交代している―ブルースはアフリカン・トーキング・ドラムでけたたましく騒ぎ、これにベースをオーヴァーダブしなければならなかった。歌が始まる前の奇妙なサウンドは、ブルースのドラムから生じた自然なフィードバック音だ。これに対するヘンリーのコメント―‘いく分サイケデリックだ。ちょっと混沌としてるけどメロディはキャッチーな響きをもっているね。’

‘Let it be Gone’はヘンリーの考察によれば、‘1日24時間音楽漬けでそれ以外は何もしないでいた結果できた曲だ。なにか他のことをするなんて異星人のやることに思えたな。’これもスウィーニーズ・メン時代に書かれたナンバーだ。ブルースはいう。‘ヘンリーの典型的な変な拍の入った曲だね。’アコースティック・ギターはオープン・チューニングで、ニールとヘンリーはエレクトリック・ギターで素晴らしいツイン・リードをとり、アランはがっしりとしたベース・ラインをキープしている。

レイドバックしたトラックが終わると次の‘Willie and the Pig’はなにかグラム・ロック・バンドを思い起こさせる。この作者について特に私が気に入っているエピソードがある。私はいつもこの古典的な詞、‘West Bromwich Albion 21, Sheffield Wednesday 2’に魅了されてきた。そしてヘンリーとブルース両者とも原作者は自分だと主張しているのだ。どちらが原作者にせよちょっとおもしろい事件だ。このヘンリーいうところの‘詩の断片’騒ぎはこのナンバーに特別な風味を加えている。

‘Laughed at the Judge’はLPのA面最後に収録されていた。チャック・ベリーのおなじみのギター・リフを伴ったコテコテのロックンロールで、彼らのもう一つの側面であり、スペナー作の1曲だ。ヘンリー―‘アランが即席で作った曲だよ。彼は詞さえ用意してなかったんだ!’ブルースも同意する。‘アランのぶっつけ本番だ―彼はそういうのが得意だった!何のコードを使うべきかで意見が分かれてね、夜遅くにレコーディングされたんだ。ミスだらけだね!’たしかに。まあミスがあろうがなかろうが、これは彼らにフランスでのナンバー・ワン・ヒットをもたらした!

レコードのB面はかなり下品な‘All I Wanna Do’で幕を開ける。アランの唸るような扇動的なベース・ラインがニールとヘンリーのガリガリと挑発的なギター・リフと格闘している。彼らによればこれは単なる‘ファッキング・ソング’だそうだ!

シーツの上での興奮した一勝負のあと、私たちは一転‘To The Lord’で極めてスピリチュアルな雰囲気に包まれる。美しく純粋なナンバーだ。ヘンリーは示唆する。‘これは僕が巡礼者たちから聞いた歌だ―クリスチャンたちは僕が生まれたPortstewartでは行列をなして歌いながら歩いていた―タンバリンを持ってね。僕はその詞が何のためなのか詮索する気はないし、彼らがどこから来たのかも知らないよ。僕はドラマーとアコーディオン・プレイヤーと一緒に外に飛び出すんだ。彼らは僕より一世代半ほど上でみんなその歌を知っていたよ。’

トラディショナルの‘Jesus James’で再び陽気にテンポアップする―これはヘンリーがショー・バンドにいた頃に身につけた曲だとブルースは考えている。なぜならヘンリーの息子Jesseが生まれたのがこの頃だからだ。誰かがイントロでユーモラスで気の利いた言葉、‘Easy, boy’といっている―この曲はいくらかバンドのアウトロー的なイメージを喚起させるものがある―ジャケットを見てのとおりだ―いかがわしく、ワイルドで、反体制的だ。素晴らしいパフォーマンスである!このアルバムには余分なものが一切なく、全てのトラックが間違いなく秀逸だ。

アルバムは静寂の中、内省的なトーンで終わる。最初がアランの感情のこもった‘Down Home For Momma’―ホワイト・ソウルの王道だ。当時ブリンズレィズがやっていたことと酷似している。ヘンリー:‘グレイト・ソングだ・・・究極的に巧みに歌われているね。’

最後の最後が‘The Visitor’だ。ブルースがハーモニウムを担当したほとんどアコースティックなナンバーで、臨場感に溢れている。詞は辛辣で痛烈なようだがヘンリーは特に誰かを指すつもりで書いたのではないと否定する。‘僕はアーニー・グレアムが自分のことだと思った―彼はちゃんと理解してなかった―と聞いたことがあるけど、バンドの誰のことでもないんだ。’

オリジナル・アルバムのジャケットのアートワークは、ユーモアと悪趣味のミックスだったが、見開き内側のスリーヴの彩色は素晴らしかった。ヘンリーがいうように実は一人の男のその後のすごいストーリーがある。‘実は僕は3年前までそのことを知らなかったんだけど、彼はロイヤル・ファミリーに仕える肖像画家になってたんだよ。僕はジョニー・モイニハンを通じて彼と会った。ジョン・ナッパーはフォーク・ミュージックに関心を持っていて、僕が彼を使うことを提案したんだ。

今回のリリースは71年4月のBBCセッションによって完結する。それらはボーナスとしてマッカロウの未発表ナンバー、‘Believe In What You Believe In’とDJブライアン・マシューの紹介による風変わりなレゲエで、奇妙なタイトルの付いた‘Peyton Place Boogie’が含まれている。‘Let It Be Gone’、‘Willie and the Pig’、そしてとりわけ‘Laughed at the Judge’は、贅肉の全くない、キーボードによる装飾がはぎ取られたグリース・バンドの原型といえるパワフルな演奏を聴くことができる。特にリフはとげとげしくギターは彼らそのものだ―まさにヤスリのようだ。これは今なおグッドタイム・ロックンロールだ。

残念ながらこのラインナップはすぐに解体されることになった。ズルースが脱退した主な要因の一つはヘンリーとの確執にあった。彼らはパグウォッシュ・ウィザースを加入させてがんばり続け、セカンド・アルバムを完成させ遺作としてGood Earからリリースした―そのAmazing Greaseはヘンリーによれば、‘方向性が最初の頃と違って誠実じゃなかった。僕らはファースト・アルバムの頃は開放的な姿勢を持っていた。それを続けるべきだったね。’彼のいうことは正しい。多くのプレイヤーが参加しているが、前作にあった光り輝くようなヴィジョンがそこにはない。

1971〜1972年にかけての冬、ザ・グリース・バンドはついに活動を停止した。ヘンリー:‘僕は自分が好戦的だったことを悔いているよ。僕は権威主義的なものとはどうしてもウマが合わなかったんだ。僕らはツアーの後何年間か打ちひしがれていた。次のステップが見出せなかったんだ。みんなで一緒に続けていくにはどうすればいいかも分からなかった。’ブルースは結局フェアポートで実り多い期間を過ごすことになった。アランとニールはココモを手伝った。しかし悲しいことに1991年にアランは心臓病で死んでしまった(彼の息子ヘンリーは父の才能を受け継ぎ今ではミュージシャンとして大成している)。ニールはメンバーの中で最も素晴らしい仕事を続けた―その中にはブライアン・フェリーとロキシー・ミュージックも含まれる。ヘンリーはポール・マッカートニー&ウィングスからロニー・レーンに至る全ての仕事で実を結び、一連の優れたソロ・アルバムを発表した。最近はベルファストからボストンへ移っている。バンドはヘンリーのソロ、Mind Your Own Businessとマリアンヌ・フェイスフルのFaithlessなどで再び一緒に演奏する機会を多く持つようになった。ロンドンのパレス・シアターのデイヴ・キャッシュのBig Music Nightでは特別に再結成ライヴさえ実現した。

しかし私にとってはハーヴェストに残した彼らの最良の時であったこのアルバムが今でも頭から離れない―そう、このレコードは無人島へ持っていく一枚であり、いまだかつてないブリティッシュ・ロックンロールの偉大な敗者の一枚なのだ。

ナイジェル・クロス
2003年6月

アラン・スペナー(7/5/48-29/7/91)の思い出に捧げる



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