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Graham Parker & The Rumour/Squeezing Out Sparks & Live Sparks/1996 Arista Records, Inc. 07822-18939-2



ありきたりのギグ

オレはなにか虫の知らせのようなものを感じながら椅子に座っていた。北ロンドンで結成された新しい組織はリハーサル・ルームいっぱいに詰め込まれ、オレは膝にアコースティック・ギターを乗せ、硬くなったのどには興奮して乾いた唾液が細い流れとなってひっきりなしに通過していった。オレの震える手はケチなウルワース(雑貨店チェーン)の便せんのページをめくり、汚れのないところを探し出し、いきなり間違えたりしながら得体の知れないものをなぐり書きしていった。それは新曲のためだったが、その楽曲群がSqueezing Out Sparksに収録されることになった。

気の抜けた状態のルーモアの5人のメンバーは、カラ元気を出していたかあるいはうんざりしていたか―それは見方次第だが―ぼんやりしたり、イライラしたり、意気消沈したり、オレの不安な気持ちを表すかのように金属製の椅子を狼狽しながら引いたりしていた。奴らはすでに覚悟していた。これから聞こうとしているものが、奴らの音楽的才能に決して見合ったものじゃないってことを。あらゆることがこの馬鹿げた状況から救い出される必要があった。確かにそうだった。“Saturday Nite is Dead”っていう歌がオレの中の発射台からオレめがけてわめき散らしていた。それはまさに突然出てきた絶望的に無意味ででまかせなタイトルだった―でもオレはどこかで始めなきゃならなかった。仕事の終わりにオレは動揺して頭をかきむしってしまった。“いったいどうしちまったんだ?” いくらかのあくびの声とともに困惑の雰囲気が流れ、オレはまた困惑しながらも筆記作業に没頭した。奴らがオレみたいにイカレちまわないように願いながらね。

ちょっとしたヒネリを加えたばかばかしいタイトルの“Protections”が次にふと現れて、オレはそれにとりかかった。最後の歌が引き起こしていた失敗の嫌な匂いからバンドを遠ざけるために。でも本当はあまりよくなかった。実際ドラマーはフンと鼻を鳴らして退屈そうに手の甲に自分のあごを載せながら言ったね。“ジェイク・サッカリーみたいだな!” これは周りのみんなから神経質な失笑を買ったな。ジェイク・サッカリーは疲れた英国紳士のパロディーみたいな奴で、UKの子供番組に出演していた。奴はもごもごと時事ソングを歌っていて、それは幼少時代の三つ口や長い間続くアデノイドとか鼻炎を思い出させるんだ。メンバーのケチな激励を伴ったこの耐えがたい時は約1時間続いたがいつものことだった。オレは靴をコツコツ鳴らす音や引きつった笑いの中で、希望の光が消えていくのが見えたね。オレは溺れる男にロープが投げられたがごとく理解し、気を取り直す。これでOKだと自分を納得させながら。あるいはオレは最初の2枚のアルバムで燃え尽きていたのかもしれない。だがこの作品は悪くなかった。一方でルーモアはその不可解な最高速度のアレンジメントで無意味さと愚鈍さを覆い隠していた。オレの最新の楽曲群は全く絶望的な状態だった。

2週間後、ジャック・ニッチェがやって来た。スウェット・シャツにフードをかぶったしなびた老人のようだった。ロサンゼルスみたいなおもしろい場所から無理矢理連れて来られてムッとしていたな。オレのことを、“誰だ?何者だ?何でコイツらをプロデュースしにこの陰気なロンドンに来なきゃならないんだ?‘パンク’って一体何なんだ?”ってね。彼は“Satisfaction”でタンバリンを叩いてフィル・スペクターといっしょに多くのポップの傑作をアレンジした男だ。ランズダウン・スタジオ(ベイズウォーターにある陰気なスタジオ。第二次大戦の貯蔵庫みたいな作りでAcker BilkやDes O’Connerのような中堅のタレントがふだん出入りしていた)のミキシング卓に座り、ルーモアがオレの曲を台無しにしているのを見て、しかめ面をしていた。みんな―オレも含めて―曲は全て巨大なゴミクズだと確信してたね。牛乳ビンの底みたいな分厚いメガネの向こうにあるジャックの目はどんよりと曇り、時折一言二言ブツブツと不平をもらしフードのひもをもてあそんでいた。LAのガールフレンドや適当な鎮静剤もなく(彼の欲しかったものが何であれ、オレたちは何も聞かなかったし、彼のために用意することもできなかった)、その深い疲労から抜け出せずにいたが、その才人全体に漂う重苦しさがあの凄まじい音楽を生み出していた。マルチ・トラックには何一つ満足いくような音が刻まれずに二日間が過ぎていった。そしてついにオレは少しイライラしてきた。

“バンドがひどいんだ。” 彼はその二日目の晩にもらした。オレはいきなり正真正銘の大しくじりから始まってしまったこの事態から救出する方法を彼から引き出そうとしたんだ。“彼らは君の歌を真剣にプレイしていないね。ドラマーはシンバルを使いすぎだ。ライヴではエキサイティングだろう、しかしこのバンドの中ではエゴが大きすぎるんだ。” “エゴ?” オレは聞いた。“でもジャック、あなたはストーンズと仕事をしたんでしょう?” “ストーンズにエゴはなかったね。” 彼はきっぱりといった。“彼らは音楽をプレイしただけだ。” “やれやれ” オレはつぶやいた。頭をバシッと叩かれたようにオレは思い知らされた。“とにかく” オレは続けた。“僕はここで1枚のアルバムを作らなきゃいけないんです。” “私に何をしてほしいんだい?” 彼は完全に煙に巻くように尋ねてきた。“お願いだからオレたちをプロデュースしてほしいんだ。あなたはプロデューサーなんだ!奴らにどうしたらいいかいってくれよ!オレは奴らがいつもやり過ぎなプレイをしていることを分かってる。オレは3枚アルバムを作ってきたんだ!オレたちにどうすればいいかいってくれよ!” オレは彼の死んだ頭脳を目覚めさせようと必死だったね。

翌朝、ジャックは采配を振るい始めた。彼はオレに座ってギターで曲を歌うよう指示した。そしてバンドになぜオレがやるようにしないのか、なぜ曲の自然な流れを追わず、みな一度に違う方向に向かってプレイするのかを問いただした。“君たちは真剣にやっているのか?” 彼は奴らに聞いた。そして彼は言葉少なにみなにもっとシンプルな演奏をするよう促した。基本的にオレたちはみな続く9日間、まず入口でエゴを抑えるように心がけた。するとお粗末な曲たちはみるみる良くなっていった。でっかいモニター・スピーカーからジャックの光る目が彼のメガネから飛び出してくるようにさえ感じたな。

“Discovering Japan”(ヘンなリズムの押し引きがある難しい曲だった)が、一方のギタリスト(オレはどっちだか知っているが)がプレイしていた全くナンセンスな‘チッ、チッ’っていうフレーズを無しにしたことによって、ついに魅力を現し始めた。その場に立ちすくんでスピーカーを見つめながら唖然としたね。恐ろしいほどいかした美しさだったんだ。

“Can’t Be Too Strong”はオレが真剣に扱わなかった1曲だった。これはギルフォード大学のレックレス・エリックのギグに飛び入りして、酔っ払いながら“Johnny Be Good”をやったあとに書いた曲だったんだ。オレはアップテンポの短いカントリー・ナンバーのつもりで書いたんだが、ジャックはオレにもっとテンポを落としてはったりをかますのをやめるよう指示した。真実を受け入れて誠実にやったね。つまり―オレたち全員がそうだったように―何でも仮面をつけて曖昧なアレンジメントでごまかしたり、無意味に速いテンポでプレイすることをやめにしたんだ。

たった11日間でレコードは完成し、USツアーが始まる段階になっていた。Live Sparksはラジオ向けのみのプロモ・ディスクとして録音されたが、オレはそのことについては覚えてないな―まあ、よくあるありきたりなギグだ。

―グレアム・パーカー―


新たなる日の最初の輝き

そこに到着するまでは目的地ってのはグレイトなものだ。そして君は厄介な現実にぶち当たり、そこからどこかに抜け出すことになる。78年の秋までに3枚の猛烈で切迫したモダン・ロックンロール・アルバムが作られ、パブ・ロックの快適な悪臭にさらに火を付けていた。パブ・ロックはスリリングで新しいブリティッシュ・シンガー/ソングライター派のリーダーとしてグレアム・パーカーを指名し、すぐにエルヴィス・コステロ、その少し後にジョー・ジャクソンが続いた。巧妙さ、激しさ、自らの主張とアイロニーを結合させたこの異種3人組は、“怒れる若者たち”の看板を身につけていた。これはそれ自体、性別の呼称を単に正確に記述したものに過ぎない。3人の成熟した作者が表現したものは、敵意や青年の反抗といったパンクよりも、もっとエモーショナルで知的な力に深く根ざしていた。

パーカーがやって来た時、彼はそれなりに自分の創造的分岐点に気がついていた。1950年サリー州に生まれたシンガー/ギタリストは、10代の頃からロックとフォークのバンドでプレイしていた。しかしそれでは食っていけず、彼はガソリン・スタンド店員やネズミの飼育者としてありふれた仕事に就いていた。1975年、メロディ・メーカーにパーカーが載せた分類広告によってコネクションの輪が広がっていき、最終的にルーモアの結成に至った。ルーモアはギタリストのブリンズレィ・シュウォーツとキーボードのボブ・アンドリュース(両者ともニック・ロウと組んでいた元ブリンズレィ・シュウォーツのメンバー)、ギタリストのマーティン・ベルモント(元ダックス・デラックス)、元ボンテンプス・ルーリーのリズム隊だったアンドリュー・ボトナーとスティーヴ・グールディングを含む最高のパブ・ロックのヴェテラン・バッキング・バンドだった。グールディングはその時、メコンズとポイ・ドッグ・ポンダリングのドラマーだった。

こうしてパーカーの鋭い歌唱といらいらしたような声にテコ入れされ、1976年の春にアルバム、Howlin Wind、それに続いて10月には同様に猛烈なアルバム、Heart Treatmentがリリースされた。わずかに枠にはまったような扇動者ぶりが発揮され始め、それは攻撃的な自信を伴った未知の分野に踏み込んでいた。しかしいくつか強力なトラックを含んでいたにもかかわらず、Stick To Meは弾みをつけることに失敗し、1978年にはさらに危険信号がともり始めた。マーキュリー・レコーズとの契約に不安を覚えたパーカーは、3面仕様のライヴ・アルバム、The Parkerillaをマーキュリーへの別れの品としてリリースし(苦々しい非難である“Mercury Poisoning”含む)、新しい契約レーベル、アリスタからのLP制作にとりかかった。

その時期までの十分に好意的なレビューにもかかわらず、パーカーはセールス的に全く成功していなかった。彼は2度ブリティッシュ・トップ20の下位に入ったがそれが全てだった。レコード上での彼のけんか腰の個性と多様な解釈が可能な歌詞は、バンドの手に負えないライヴ・パフォーマンスほどの興奮は感じられなかった。その2年間にエルヴィス・コステロは英国のチャート上で真の力を発揮していた。さらに重要なのは、彼の最初の2枚のアルバムがUSトップ40にさえチャートインしていたことだ。ラモーンズ、セックス・ピストルズ、そしてクラッシュを先頭にパンクは英国で爆発し、他の音楽全てが説得力に欠け偽善であるかのように見えた。ニュー・ウェイヴの重要な先駆者だったパティ・スミスは、真のヒット・シングルを獲得し、10年間に渡った商業主義が終わりを告げたことを証明した。パーカーがわずかに正当化していたブルース・スプリングスティーンは真っ先に槍玉に挙げられていた。彼はソウルフルなシンガーソングライター/ロッカーとして、アメリカでプラチナ・ディスクを獲得したポスター・ボーイとなっていた。

そういった暗く不気味な海へとグレアム・パーカー・アンド・ザ・ルーモアは航海に出た。キャリアを重ねてきた彼らの選択ははっきりと二つに分かれていた。冒険のない安全なパブ・ロックの世界に後戻りするか、壁を越え創造的領域に踏み出し、ホームランを狙って大振りするかのどちらかだった。1977年のトゥラウザー・プレス誌でパーカーはいった。“もし誰かがオレに何かを期待してもそんなものはクソ食らえだ。”

2週間も経たないうちにヴェテランのアメリカ人プロデューサー/アレンジャーのジャック・ニッチェの助けを借り、グレアム・パーカーとザ・ルーモアはSqueezing Out Sparksで復活した。以前の彼らを形作っていたR&Bと基礎的なロックンロールのガードレールを取っ払った彼らは、素早く青写真となる有効な楽曲群を作り出していった。以前使っていたベースラインを用いた“Saturday Nite Is Dead”と“Local Girls”によって、バンドはパーカーのピンと引き締まった気分を引き立たせるような新しいソングライティングに広がりを加えた。

煮えたぎったようなアコースティック・バラッドの“You Can’t Be Too Strong”(そこからアルバム・タイトルがついた)は、アーチストとしてのパーカーと予定調和を拒む破壊主義としてのパーカーに再考を促すことになった。彼がその詞の中で妊娠中絶を告発したのか、あるいは単に個人的問題を冷淡な傍観者のごとく取り上げたにせよ、この親としての感受性の欠如に対しての忘れられない痛烈な告発は、憤慨して鏡の裏側を取り上げた批判としてパーカーの姿を浮き彫りにしていた。“ただの過ちさ オレは知らないね/名前をつけちゃだめだ 居場所も与えちゃいけない/チャンスも それが運命なのさ”

その痛ましい曲をセンターに置いたSqueezing Out Sparksは、その周りをパーカー個人の明確な関心事で深く掘り下げている。それは政治的ではない。小気味いいツイン・ギターのリフにせきたてられ、“Passion Is No Ordinary World”が性的支配の結果と誠意に疑惑を抱いている。パーカーの考えによれば、みなが見せかけであり、彼が見る報いは皮肉に満ちている。“全てがスリル/全ての女が獲物/それは非現実になる/お前はすでに何も感じない” しかし彼はあるいは他の者と同じように怪しいのかもしれない。パーカーは後ろめたさを感じる国に住んでいようが、そこから逃れることはできない。しつこく強要するフレーズ、“誰もお前を傷つけない”のあと、彼は宣言する。“誰もお前を傷つけない・・・お前自身が傷つけるよりも” 堂々とした進行を持つ“Love Gets You Twisted”は見たところ唯一いく分穏やかなナンバーだ。“Protection”が内外面の恐れに対する防御に向き合ったものだとすれば、パーカーは最後にはこの情報社会に安全な避難場所などないと結論づける。“全ての情報をストップしろ” 彼は命じる。エレクトリックとアコースティック・ギターの組み合わさったかのような不思議なサウンドを装備した、トリッキーな偽ディスコ・ビートの“Waiting for the UFO’s”は空に向かうかのようだ。パーカーは地球外生物の存在を否定する者たちに対して彼の懐疑主義をぶつける。パーカーのモチーフは自然現象に対しあいまいな態度を維持するが、次には彼が奇妙な自然科学に対してオープンな心を持っていることが示される。

1979年3月にリリースされたSqueezing Out Sparksは、その素晴らしく鋭さを伴ったラフかつ洗練さに対し称賛をもって受け入れられ、ビルボードのアルバム・チャートで40位(UKでは18位)に達し、USで25万枚以上を売った。これはパーカーのカタログの中でも商業的に最高水準をマークし、彼は今までにコンピレーションを除いて15枚のアルバムを制作してきた。Squeezing Out Sparksがリリースされてから1ヵ月後、パーカーとルーモアはアメリカン・ツアーを引き受けた。4月9日サンフランシスコと4月28日シカゴの2つのショーが録音され、地元のラジオで放送された。アリスタは曲を抜粋し、プロモ・オンリーのLive Sparksを制作した。それはスタジオ盤と全く同じ曲順でアルバムの10曲全てが収められたエキサイティングなコンサート・アルバムとなった。パーカーとバンドは“Protection”での痛烈な当てこすり以外は、オリジナル・アレンジメントに忠実にプレイし、“Don’t Get Excited”でそのお祭り騒ぎのクライマックスを迎えている。またこのプロモ盤の両面最後にはそれぞれジャクソン5のカヴァー、“I Want You Back”とパーカー作の“Mercury Poisoning”が収録された。当時プレスとラジオ向けのみに少量プレスされたLive Sparksは正規にはリリースされず、すぐにファンの間でコレクターズ・アイテムとなった。ここにSqueezing Out Sparksと対になったことで、パーカーとルーモアが生な直観から巧みに成熟していく変遷を示す2つの側面があらわにになった。

Ira Robbins, New York City, August 1996,



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