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Gay & Terry Woods/Lake Songs From Red Waters/2003 Hux Records Ltd. HUX040



この‘Lake Songs From Red Waters’は、田園生活の安らぎ、祖国の未発達だった時代を思い起こさせる。ゲイとテリー・ウッズは1972年に音楽業界からのプレッシャーから逃れ、ミーズ州(アイルランド東部)の田園地帯に安息の地を見つけた。彼らはテリー・ウッズが在籍したスウィーニーズ・メンのメンバーだったジョニー・モイニハンからオールドカースルの町近くにあった18世紀の猟場番人の小屋を借りた。

番人の小屋は二つの湖近くに位置していた。小屋のすぐそばにはLough Craobh(またはLoughcrew)があり、そのすぐ左側にはLough Rua(またはthe Red Lake)があった。土地の民間伝承には、その湖の水には不思議な治癒効果があるとされていた。テリーはカワカマスとパーチ(スズキ類)を釣り、ゲイはしばしば湖で泳いだりして過ごしていた(このことはその土地の人たちにとっては仰天することであった。なぜならこの二つの湖には巨大な魚、あるいは何か底深くに得体の知れないものがいてそれが出没すると考えられていたからだ)。ゲイ・ウッズは回想する。‘私たちの猫もLoughcrewの魚を獲るのが好きだったわ。そうね、彼らはテリーが使っていた釣竿に付けていたエサをジャンプして獲ろうとしてたわね。’Lough Ruaはまるで少年たちが自分たちだけの秘密の場所として隠しているようなところに位置していた。

この田舎の田園風景はフォークロックの激しい世界からは遠く切り離されてはいたが、ウッズ夫妻に創造的な効果をもたらすことになった。生粋のダブリン子であったゲイとテリー・ウッズは元フェアポート・コンヴェンションのベーシスト、アシュリー・ハッチングスと共にスティーライ・スパンを立ち上げ、バンドを去る直前の1970年に‘Hark! The Village Wait’をレコーディングした。それからゲイとテリーはドクター・ストレンジリィ・ストレンジと共にツアーを行ない、自分たちのバンド、The Woods Bandを結成した。他のメンバーはギタリストにエド・ディーン、ドラマーにパット・ナッシュそしてゲイの兄弟であるオースチン・コーコランだった。ウッズバンドは1971年グリニッジ・グラモフォン・レーベルから1枚のアルバム、‘The Woods Band’をリリースした。そのエレクトリック・バンドの解散に伴い、ゲイとテリー・ウッズはアコースティック・シンガー/ソングライター・デュオとしてプレイしていたがアイルランドに戻ることを決意した。田舎の環境は二人に隠遁とインスピレーションをもたらした。この時期ゲイとテリーは自給自足の家庭生活を送り、彼らの新曲は田園生活の美しさに溢れたものとなっていた。

スティーライ・スパンはトラディショナル・ナンバーをレコーディングし、ウッズバンドは彼ら自身のオリジナルとアイリッシュ・トラディショナルの歌や曲をミックスさせていたのに対し、テリーとゲイの関心はシンガー/ソングライターに移行していた。しかしながら彼らは‘Dunlavin Green’、‘The Brown Girl’のようなトラディショナル・フォーク・ソングにおいて傑出したアレンジを施している。

アコースティック・ギター、ダルシマー、オートハープ、コンサルティーナ、マンドリン、マンドーラそして5弦バンジョーの想像力に富んだアレンジメントが、アメリカン・フォーク・ミュージックと彼らのルーツである1960年代初頭のダブリン・フォーク・シーンを見事に融合させていた。ゲイの甘い歌声とテリーの特徴的なヴォーカルが合わさった結果生じたサウンドは、全く特別なものであった。

その魅力的な音はポリドール・レコーズの興味をひきつけ、1973年、ゲイとテリーはレコーディング契約を結んだ。彼らは1974年から76年の間に3枚のアルバム、‘Backwoods’、‘The Time is Right’そして‘Renowned’をリリースした(このコンピはその3枚から編集されている)。

トニー・アトキンスによってプロデュースされ、ロンドンのマーキー・スタジオでレコーディングされた‘Backwoods’は、音楽シーンへの復帰第1弾として大歓迎された。その楽曲群は彼らのヨーロッパでの活動とミーズでの暮らしが反映されていた。‘I Missed You’はオランダ・ツアーをしていたアイルランド時代の追憶に基づいている。‘Dublin Town’は変わってしまった彼らの故郷への辛辣な歌のようだ。一方‘Sorry Friend’は元ローディーのために書かれた曲で、アコースティック・ギター、コンサルティーナ、オートハープのアイリッシュ/アパラチアン的な融合が試みられている。トラディショナル・ソングの“Dunlavin Green”は1798年の反乱で苦闘する悲劇的な事件を描写していて、ドラマチックかつ繊細な処理が施されている。‘Backwoods’はアコースティック・フォークとカントリーのスタイルにヘヴィなロックの要素がブレンドされている。サポート・メンバーはエド・ディーン、ヴァイオリニストのジョー・オドンネル、マイク・ジャイルズそしてイアン・マクドナルドだった。

‘Backwoods’は肯定的なレビューを受けてリリースされた。‘メロディ・メーカー’のコリン・アーウィンは書いている。‘‘Backwoods’を聴く時にまずすることは、ゲイとテリー・ウッズが誰であるかを忘れることだ。スティーライ・スパンもしくはウッズ・バンドの再来を期待すると失望してしまうだろう。なぜならこのフォークに影響を受けた二人は今やフォークというより、とてもポップでほとんど完全にコンテンポラリー・ミュージックだからだ。’

サンディ・ロバートンは‘The Time is Right’をプロデュースした。‘Backwoods’の大きな特徴の一つがアイリッシュネスであるのに対して、‘The Time is Right’はアメリカン・フォークとカントリー・ミュージックを強く感じさせる。アルバムは素晴らしい‘Songs for the Gypsies’で幕を開ける。これは彼らのウッズ・バンド時代を強く喚起させる。一方冷えびえするような‘Empty Rooms’は、彼らのアコースティックとエレクトリックの折衷的な成果を示している。B. J. コールの見事なペダル・スティール・ギターは‘When The Time is Right’で全体を覆い、複雑な拍子のリズムはインストゥルメンタルの‘Redlake Piker’で際立っている。このタイトルはテリーの釣りの手柄からきている。‘The Brown Girl’は、片思いとささやかな仕返しの歌である‘Barbara Allen’の流れに属するアメリカン・トラディショナル・ソングだ。アルバム‘The Time is Right’のアメリカでのリリースは、アイランド・レコードの姉妹レーベルであるアンティルズからであった。このアルバムに対するレビューは長年メディアに関わってきたメロディ・メーカーのコリン・アーウィンが指摘するように好評であった。アーウィンのコメントは次のとおりだ。‘この作品は聴く者を圧倒するものではない。しかしそれは決して出しゃばらず、繊細で、複雑で、一級の作品群である。ゲイとテリーは生きいきかつ謙遜のようなものを表わしている。彼らはリスナーを初めて魅了し、より深く彼らの音楽の世界に引き込む才能を示したのである。’

ところが‘The Time is Right’は芸術的勝利であった一方、セールス的に大成功したわけではなかった。彼らの音楽的誠実さは全く損なわれなかったが、大きな成功を収められないことに対するフラストレーションが現れ始めた。

ゲイ&テリー・ウッズのポリドールでの最後のアルバム、‘Renowned’は1976年秋にリリースされた。それはエレクトリック・ロックへの回帰であった。より強力なロック的要素が‘Renowned’を深く濃厚なサウンドに仕立て、彼らの曲に極上のリズムが加わることになった。テリー・ウッズがアコースティック・ギターを弾く一方で、アルバム全体でエレクトリック・ギターをプレイし、ブリン・ハワースのシャープなスライド・ギターとデヴィッド・モリソンのアコースティック・スライド・ギターを盛り立てている。フェアポート・コンヴェンションからデイヴ・ペグとデイヴ・マタックス、グレアム・パーカー・アンド・ザ・ルーモアからアンドリュー・ボトナーとスティーヴ・ゴールディングがベースとドラムのリズム・セクションを担当した。一方ボブ・アンドリュースとケイジャン・ムーンのジョン・ギレスピーがキーボードを担当した。

粗いアプローチは、活気ある‘Radio Man’、哀愁を帯びたバラッド、‘Love is Like a Burden’そして素晴らしい‘Solace’のような曲で効果的に作用した。‘Radio Man’は当時のアイルランドのラジオからひっきりなしに流れていたお決まりのアイリッシュ・スタイルのカントリー&ウェスタン・ミュージックの1曲として恰好のナンバーであった。プロデューサーのサンディ・ロバートンはラジオに焦点を合わせたフォークロック・サウンドをしっかりと利用し、‘Renowned’に、より強力なエッジを加えている。‘Renowned’にはドック・ポーマスとモート・シューマンの‘Save The Last Dance For Me’のカヴァーが含まれていた。ブラス・セクション、ボブ・アンドリュースのハモンド・オルガンそしてほとんどディランのようなテリーのヴォーカルがフィーチャーされていた。それはザ・バンドとザ・マヴェリックスを組み合わせたようだった。ヒット・シングルに相応しいその素晴らしいヴァージョンはしかし、商業的成功をもたらすのに必要なラジオでの十分なオンエアをされることなく終わってしまった。

‘Renowned’はゲイ&テリー・ウッズのポリドール・レコード時代最後のアルバムとなってしまった。二人は1978年夏、ロックバーロウ・レーベルから‘Tenderhooks’によって再び姿を現した。このアルバムはスペシャル・ゲストにケイト・マガリグル、パット・ドナルドソン、ギタリストのフィル・パーマー、ドラマーのジム・ラッセルそしてアイルランド人のミュージシャン、キース・ドナルドとマーチン・オコーナーを迎えて、ダブリンのロンバード・サウンド・スタジオでレコーディングされた。この作品によってゲイとテリーは見事に調和したリリシズムと音楽的な器用さをもって新しい境地へ足を踏み入れることになった。

1978年暮れ、ゲイとテリーは次のアルバムを画策し、デモ・レコーディングではトレヴァー・ナイト(ダブリンのジャズ・ロック・バンド、メトロポリスのキーボード・プレーヤー)がフィーチャーされた。しかしちょうどこの時期、二人の生活に隔たりが生じ、1980年初頭に離婚してしまった。

ゲイはオランダに移住し、トレヴァー・ナイトと共にAuto Da Feを結成した。ゲイのけばけばしい新しいイメージと率直な歌詞、それにニュー・ウェイヴ・ロックをベースとした大仰なシンセサイザーは、以前の彼女からは遠くかけ離れていた。1982年から85年の間にAuto Da Feは6枚のシングルと2枚のアルバム(プラス2枚のBBC‘In Concert’―Hux Records-Hux022)をリリースした。Auto Da Feが解散した後、ゲイとトレヴァーは1990年代初めに袖を分かち、ゲイはユング心理学の勉学に打ち込んだ。1994年、彼女はスティーライ・スパンに再加入し、2000年暮れまで在籍した。現在彼女はソロ・アルバムの制作を考えている。

テリー・ウッズは1985年ケリー州(アイルランド南西部)KenmareのCibeal Cinciseフェスティヴァルでポーグスと出会い、バンド加入を誘われた。テリーの経験、マルチ・プレーヤーとしての才能と進歩的な姿勢は、パンクとアイリッシュ・トラディショナル・ミュージックを推進させるための重大な役割を果たしていた。彼はバンドの音楽的振幅を大きく増大させ、自身のオリジナルもレパートリーに加えていった。ウッズの導きによってザ・ポーグスは彼らの最も商業的に成功した時期を迎えることになった。ヒットしたアルバムは‘If I Should Fall from Grace with God’、‘Peace and Love’そして‘Hell’s Ditch’だ。

テリー・ウッズは90年代初頭までポーグスに在籍した。彼はその後短命に終わったThe Bucks(1枚のアルバムを残した)をロン・カヴァナと共に結成した。彼はパートナーのマリアン・スケフィントンとQuiet Managementを結成するまで活動を止めていたが、最近二人は結婚している。テリーは2001年12月のポーグス再結成ツアーで再加入した。彼は最近新しいラインナップでウッズ・バンドを再編し、そのデビュー・アルバム‘Music From the Four Corners of Hell’は2002年暮れ、批評家たちの称賛をもってリリースされた。

心をうずかせるような美しく力強く響く歌を書きレコーディングしてきたゲイとテリー・ウッズ。この‘Lake Songs from Red Waters’はゲイ&テリーの助けを借り、彼らの個人的お気に入りナンバーで構成されている。ここにある歌―近くに二つの湖のあるウッズたちの隠れ場所で書かれた―それは、時を経て今なお新鮮に響いてくるのである。

ジョン・オーリガン
2003年3月



このコンピレーションCDに入っている70年代初頭の歌のコレクションは、私が最初に曲を書き始めた頃のものよ。私は1972年11月、ミーズの人里離れた田舎に引っ越した。それまではロンドンの様々なワンルーム・アパートや小さなフラットに住んでいてもう十分だった。私は周りに芝生のある小さな家に憧れていたわ。そしてついに私の親しい友人ジョニー・モイニハンからレイク・ロッジを借りる手配をしたのよ。

私は季節の移り変わりや自然荒廃の接近とかに触発されて、インスピレーションを得ていたわけじゃなかったわ。生まれた時に何かが潜在的な無意識の中に入り込んだのよ。それが何だったかその時はわからなかったけど、Winter Poemを書いたときのことは覚えているわ。初めて私は冷たい11月に炉に当たりながら1回限りの言い回しを使って歌全体を書き上げた。私はその炉の上で料理をしたし、その人里離れた素晴らしい土地で家族愛に囲まれて幸せに過ごしたわ。Winter Poemは自然の驚異と美に対する私の初めての信仰的目覚めを表現したものね。自らの意思でまた再び暖かさが戻ってくることが約束されたその謎めいた冷たい感覚(季節)は、当時の私にとってとても大事なものだった。

70年代初頭の数年間に書いた曲はLough CraobhとLough Ruaとレイク・ロッジの玄関から続く牧草地の神秘的な作用が影を落としていると思う。

私はほとんどの曲の中にうつ的特徴があると思う。でも田舎での生活はすごく幸福だった。私の歌と愛用のダルシマーは、11月の冷たい風がヒューヒューと吹く間、私の親友だった。1月になると雪ときらめく霜が木々と平原を覆いつくして奇跡のようだった。田舎で初めて春を体験した若い女の子にとっては(私はダブリンの中心地で育ったから)、まるで地球が生まれ変わったように感じたものね。

ゲイ・ウッズ
2003年6月


僕はこの作品の数々が再び日の目を見ることを嬉しく思う。僕はずっとこの無名のレコーディングをまた世に出したいと思ってきたから、Huxがそれを実現してくれたことにすごく感謝してるよ。ずいぶんとこれらの曲には念入りな作業が加えられていて、こんなにいい音で聴けるなんて思ってもいなかったね。Huxはすごくいいマスタリングをしたと思う。ブライアンとジョーのその辛抱強さと忍耐に対してお礼をいいたい気持ちでいっぱいだ。

テリー・ウッズ
2003年6月


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