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Gay & Terry Woods/In Concert/1995 BBC Enterprises Ltd. Wincd071



彼は歌い続けてきた。熱狂の時代、酒の日々、絶え間ない恋愛の日々、たくさんのフラストレーションと自暴自棄の日々を。

彼女はキッチンの窓から見えるものを歌い続けてきた。優美なバラッド、田園生活、そこで安らぎと慰めを求めながら。

彼はきらめくようなスライド・ギターを弾きながら、けだるく粗いアイリッシュの物憂げなヴォーカルをとっていた。

彼女は時にはほとんど聞き取れないほどの声で繊細な旋律を歌い、そのソウルフルな声は何よりも誠実さを伴って響いてきた。

テリーとゲイ・ウッズはある人たちの間では、群れから離れたデュオであったと考えられてきた。彼らは流行に乗らなかったし、いつも最高のレコード会社に恵まれていたわけではなかった。

“みんなから私たちは丸太小屋に住む世捨て人だと見なされていたと思うわ。彼らは私たちによりフォーキーになるように望んでいたわね。”ゲイ・ウッズは証言する。

60年代のアイリッシュ・フォーク・シーンの産物ではあったが、二人はフォーク・ミュージックをやろうとはほとんど考えていなかった。事実、彼らは非常に高い志を持って自らのルーツから離れていった。そして彼らは満足することのない創造性を保ちながら、The Woods Bandとして伝統を消化し自分たちの音を完成させた。ウッズバンドは挫折感を伴う短期間の活動であったが、彼らは民族的背景を見据えながら新しい音楽的手法を思い描いて見せた。

1972年彼らはダブリンから遠く離れたミーズの田舎に移り住むことになり、ミュージック・ビジネスの中心からはさらに距離を置くことになった。ビールに囲まれながら一個人として生きていくことを決意した若い二人は、自らの体験と独自の生活を題材に歌を書き始めた。それは将来を見込んで時間をかけて書き溜められていったが、本腰を入れてレコードという形にするために、十分な気持ちの余裕ができたのは70年代中頃になってからだった。彼らの方向性はアイルランドの真髄を示すコンテンポラリー・ミュージックを創造することにあった。

彼らのその特異性とは、常に決然としていてピリピリとした緊張感を保っていたことだ。時には詞の中に、音楽に対する彼らの誠実さが表れていた。緊張感が彼らの曲にはほとばしっていた。しかしその後プロのミュージシャンとしても、夫婦としても二人は終わりを向かえ、流れ出る彼ら流のアイリッシュ・ミュージックは動きを止めてしまった。

ゲイはすぐさま一人で過ごす期間を作るためにオランダへ飛び、テリーはしばらくプレイしていたが意気消沈し、活動を止め工場労働者となった。

しかしながら、かつて持っていた希望は失われたわけではなく、このストーリーはハッピーエンドとなる・・・ テリーは今までどおり頑固な姿勢を貫き、1980年代のほとんどと90年代初頭にかけて、あの騒々しい生気みなぎるザ・ポーグスの不可欠な一員として過ごした。そこで彼はアイリッシュ・トラッドの案内人として、バンド全体に渡って新しいアプローチを手がけた。この時期さらに彼はアイリッシュ・アメリカン・ソングを素材に自身のバンド、The Bucksでその魅力を爆発させた。そのバンドは移民としての感情を祖国の曲に託していた。

ゲイは以前の形態からは考えられないようなロックを奏でるAuto Da Feとしてヨーロッパで一時期活動した後、アイルランドに戻った。その後彼女は娘の養育のために音楽シーンから完全に引退した。しかしこの間彼女は、古い仲間スティーライ・スパンに家庭生活から出ることをことば巧みに言い寄られていた。“私はいつも音楽は個人や集団の体験を伝えるものだと思ってきたわ。” ポーグスとの最後のツアーで筆者が尋ねた時、テリー・ウッズは思いめぐらしていた。“当時の曲はまさに僕たち自身のことを表わしているね。ゲイは自分のしたことについて多くの反省点を持ってるみたいだけど、僕は当時の曲を聴くと陽気な気分になるよ。”

ゲイはいう。“私たちが書いたのは、私たちの身の回りに起こったことに対する受け止め方、感じたことね。あるいはもっと違う方法があったのかもしれないけど。時には私たちは他人を弁護しようとしたわ。たしかに生活についての歌を歌っていたけど、テリーも私もつまらないアイリッシュ・ミュージックをつっ立って演奏するような人々には反抗的だったわね。”

このセレクションはあっという間に終わってしまうが、極めてシリアスなサウンドだ。

サイモン・ジョーンズ、フォーク・ルーツ誌 1995年2月


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