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Gary Farr/Strange Fruit/2008 Cherry Red Records ECLEC2029



“ゲイリー・ファーは7年もの間、自分自身に、自分の音楽に、そしてミュージック・ビジネスに妥協してきた。結果、彼が書き歌ってきたものが人々の耳に届かないことに彼は大きなフラストレーションと不安を抱えてきた。そこで私は彼をロンドンのCBSに連れていき門を叩いたのだ。彼のギターと然るべき時と場所で彼の歌は聴かれるはずだという固い信念を持って。ゲイリーはCBSの人間に向かって歌ってみせた。彼はもう妥協などしなかった。そしてレコードを作りそれはまだ世に知られていないシンガーソングライターの才能が、最高に引き出された重要なレコーディング作品の1枚となったのである。このレコードはピュアなゲイリー・ファーの姿である。詩人?あるいはそうかもしれない。ギタリスト?ひょっとしたらそうかもしれない。シンガー、そうそれは間違いないだろう。だがもう妥協はしまい。”

リッキー・ファー/オリジナルLPスリーヴノーツより


ゲイリー・ファーは70年代初頭の英シンガーソングライターの一群の中で、最もR&B寄りの声を持ったうちの一人だ。彼のセカンドで最高作―1970年のStrange Fruitは、その時代そのジャンルに存在した多くのアルバムの中で、不当にも無視され続けてきた珠玉の1枚である。60年代半ばのロンドン・クラブ・シーンで人気のあったライヴ・パフォーマーとしてファーは、the T-Bonesのリーダーとして素晴らしい名声をつかんでいた。しかし1969年、彼はその豊富でムーディーなオリジナル・ソングによってソロ・キャリアに転身することを決めた。

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“僕は全体の軌道を大きく修正して長い旅に出たんだ。”ゲイリーはアルバムがリリースされた頃、メロディ・メーカー紙に語っている。“僕はフォーク・ブルースから始めてクロウダディ・クラブでT-ボーンズとして、ヤードバーズやストーンズらと一緒にプレイする日々を送ったんだけど、途中でつまづいてしまったんだ。4年前、僕は再びギターを手にとって曲作りと巡業を始めた。今の僕はフォーク・シンガーだと思っている。なぜなら今のロックンロールはフォーク・ミュージックだと信じているから。間違いなく言えることは、僕は詩人だということだ。僕にとって人々に向かって何かを伝えるということはいつもハードな作業だった。特に僕みたいにスポーツ一家に生まれて、父親が世界的に有名なボクサーならなおさらね。本を読んだりとかってのはあんまり似合わないのかもしれない。”

ゲイリー・ファーはかつて英国のヘヴィ級ボクシング・チャンピオンだったトミー・ファーの息子であった―the Tonypandy Terror―彼は1937年、ワールド・チャンピオンであったジョー・ルイスと人々の記憶に残る15ラウンドを戦った。ボクサーを引退したトミーは、家族とともにサセックス沿岸に落ち着いた。ここワーシングやブライトン近辺のパブやクラブで、ゲイリーはフォーク、ブルース・ミュージックをプレイし始めた。1963年、“ビート・ブーム”真っ只中、彼はあの伝説のT-Bonesを結成した。グループはメンバー・チェンジを繰り返していたが、その中にはのちにNiceを結成するキーボーディストのキース・エマーソンとベーシストのリー・ジャクソンも含まれていた。バンドはライヴによってセンセーションを巻き起こし、ロンドンのクロウダディ・クラブでハウス・バンドを務めることになるヤードバーズに代わって同じくロンドンの名誉あるマーキー・クラブのレギュラー・バンドになった。ファビュラス紙は興奮しながら当時の様子を伝えている―“ロンドンのウォーダー・ストリートにあるマーキー・クラブにやってくると、そこには毎週金曜日になるとT-Bonesと呼ばれる5人のイカした野郎たちを見るために長い長い行列ができるのだ。”

才能と人気のあるライヴ・バンド、ゲイリー・ファー&ザ・T−ボーンズは1964年と65年にコロムビア・レーベルから3枚のシングルと1枚のEP(Dem Bones, Dem Bones, Dem T-Bones)をリリースした。しかし彼らのパワフルなリズム&ブルースのレパートリーはレコード上にうまく反映されたとはいい難く、チャートを上昇することもなかった。バンドの最も大きなメディアへの露出は、間違いなく1965年8月に行われたリッチモンド・ジャズ・フェスティヴァルでの“Wooly Bully”の演奏で、これはアメリカのテレビ番組‘Shindig Goes to London’で放映された。そこではファーとT-ボーンズが当時すでに大きな人気を博していたアニマルズ、ムーディー・ブルース、ジョージー・フェイムそしてスティームパケット(未来のスター、ジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガー、ロング・ジョン・ボルドリーそしてロッド・スチュワートらがいた)らの中に混じって演奏しているところが見られる。The T-Bonesは1966年暮れに解散するまでもがき苦しんでいた。

ソロ・アーチストに戻ったファーは、再び自らのフォーク・ルーツに取り組んだ。クロウダディ・クラブを経営していたジョージオ・ゴメルスキー―ヤードバーズ初期の数年をマネジメントしていた―が引き続き彼のシンガーとしてのキャリアにかかわってはいたが。世には知られていないが1967年スウェーデンでの海賊ライヴ盤では、ゴメルスキーがマネジメントを行なっていたブロッサム・トウズのライヴで、ファーのソロによるアコースティック・ナンバーが2曲聴ける。1曲はティム・ハーディンのカヴァー、“Hang onto a Dream”だ。ファーは短期間ブロッサム・トウズのドラマー、ケヴィン・ウェストレイクと活動し、1969年のソロ・デビュー作Take Something With Youをゴメルスキーのマーマレイド・レーベルからリリースする前に、シングル“Everyday”/“Green”をリリースした(1968年5月)。Take Something With Youはコンテンポラリー・フォークとプログレッシヴ・ロック、とりわけ当時のティム・バックレイとティム・ハーディンの作品に大きな影響を受けていた。それはトラフィック流のなにか郷愁を誘うような牧歌的なロック−ジャズ−フォークの雰囲気を持っていた。奇妙にもアルバムはレーベル仲間、ゴードン・ジャクソンのThinking Back(サポート・プレーヤーにはトラフィックのメンバーがいた)と違和感なく並ぶような佇まいを持っている。ファーのLPに素晴らしいプレイを提供しているのが、当時シーンで活躍していた最も創意あふれていたバンドのうちの2つ―ブロッサム・トウズとマイティ・ベイビーだ。

マイティ・ベイビー(ブリティッシュ・サイケデリック・グループの中で失われた偉大なバンドのひとつ)は1968年、ジ・アクションの残党たちにより結成されていた。アクションはタムラ・モータウンに影響を受けたモッズ・バンドであった。マイティ・ベイビーはのちにもてはやされることになる2枚のアルバムをリリースした。1枚がMighty Baby―1969年12月、短命に終わったヘッド・レーベルから発売された(実際はその1年前に完成していた)。そしてもう1枚がA Jug Of Loveだ(1971年10月ブルー・ホライズンからリリース)。バンドはその野心的なライヴ演奏とセッション・ミュージシャンとして知られていた。彼らはアンディ・ロバーツのHome Grown、サンディ・デニーのNorth Star Grassman & The Ravens、キース・クリスマスのStimulusFable of The Wings、シェラ・マクドナルドのStargazer(訳注:どちらかというと‘Album’)、そしてロビン・スコットのWoman From The Warm Grassその他多くのアルバムに参加していた。2枚のアルバムの間でバンドのメンバーたちは、スーフィー・ムスリム教徒になった。キーボーディストのイアン・ホワイトマンは、リチャード&リンダ・トンプソンのスーフィーに影響を受けた見事なアルバム、Pour Down Like Silverに参加した。そしてロジャー・パウエル、マイク・エヴァンスとともに伝説の1977年ブリテン・ツアーのためにトンプソンのバッキング・バンドを結成した。ここで頭の中でひとつの地味な円が完成するだろう―これら3人のマイティ・ベイビーの頑固者―ホワイトマン、パウエル、エヴァンスはゲイリー・ファーのこのニュー・アルバム、1970年のStrange Fruitに参加し、そこにはまたリード・ギターとしてフェアポート・コンヴェンションのリチャード・トンプソンも加わることになるのである。

リチャード・トンプソンは間違いなくブリテン最高のエレクトリック・ギタリストだ。フェアポート・コンヴェンション―英国版フォークロック発明の父として認められている―の創設メンバーだ。フェアポートの名作Liege and Lief(1969)は画期的作品として長く認知されてきた。それはザ・バンドのMusic From Big Pinkがトラディショナル・ルーツによってアメリカン・ロックを定義づけたのと同じ手法で、ブリティッシュ・ロックを定義づけた。そのアルバムでリチャードのソングライターとしての才能が開花し、彼はトラディショナルなモードを深く掘り下げながら、コンテンポラリーな音楽を作り上げるようになっていった。70年代初めを通してトンプソンは呆れるほど多くのレコーディングにその特徴的なギターをかわれ、参加している。ファーのStrange Fruitは、リチャードのフェアポート/ウィッチシーズン(訳注:プロデューサー、ジョー・ボイドのプロダクション会社)外での最初のスタジオ・セッションであり、あるいはマイティ・ベイビーのリズム・セクションとの初顔合わせだったのかもしれない。

マーマレイド消滅後、ファーはCBSレコーズと契約を結んだ。彼のセカンド・アルバムのレコーディング・セッションはすぐに始まった。レコードの短いスリーヴノートでは、兄のリッキー・ファーがレコードに対する大きな期待を表明している。リッキーはかつてのジ・アクションのマネージャーであり、1970年ワイト島フェスティヴァルのプロモーターの一人であった。このファミリー的なつながりが、セッションでの3人のマイティ・ベイビーの参加と、1969年と70年のワイト島フェスティヴァルへのゲイリー参加を説明しているのは間違いないだろう。Strange Fruitはまた、ロンドン・ミュージック・シーンの革新的な青年たちの傑出した才能が注ぎ込まれていた。プロデュースを担当したのはフリッツ・フライヤーという青年で、Four Penniesの元メンバーであり、彼は1970年にレコード・プロデューサーとしてのキャリアをスタートさせたばかりであった。彼は続いてモンマス(ウェールズ南東部)のロックフィールド・スタジオの名を上げることに成功している。プロデュースを手がけたのは多種多様なアーチストたち―スタックリッジ、スキン・アレイ、モーターヘッド、ニュークリアス、ホースリップスらだ。1973年にはニール・ヤングの“After The Goldrush”のカヴァーでプレリュードをヒットさせている。ストリング・アレンジは21歳のマイク・バットによって書かれた。彼はすぐにWombleとしてチャートに上がることになった。ジャケット写真を撮ったカナダ出身のエリック・へイズは、ローリング・ストーン紙ロンドン支社で専属カメラマンとして短期間ロンドンで働いていた。彼はファーレイ・チェンバレンでのフェアポート・コンヴェンションのLiege & Liefセッションのあの忘れられないリハーサル風景の写真の数々をとった人物である。

Strange Fruitは我々の心を動かさずにはおかない田園詩的なルーツ・ロックとして好例であり、そこには魅力的で哀愁を帯びた雰囲気が漂っている。作品とアレンジが最もフォーク的であった彼のベストな時期に当たる―そしてわずかにアメリカのソングライター、ティム・バックレイとティム・ハーディンを彷彿とさせる。改めて聴いてみると、やはり初めてリリースされてからずっとこのアルバムは不当に見下されてきたと言わざるを得ないような感情がこみ上げてくるのだ。あるいは彼がひとつのレコード会社にもっと長くとどまっていれば展開は違ったのかもしれないが。

ゲイリー最後のレコーディングは1973年、ジェリー・ウェクスラーがプロデュースしたAddressed To The Censors Of Love(Atco)で、これはアラバマ、マッスル・ショールズ録音だ。セッション・ミュージシャンは当時定評のあったギタリストのジミー・ジョンソンとピート・カー、キーボーディストのバリー・ベケット、ベーシストのデヴィッド・フッドそしてドラマーのロジャー・ホーキンスだ。さらにロック−ソウルに焦点を絞ったにもかかわらず、またしてもより多くのリスナーの心をつかむことはできなかった。ゲイリー・ファーのたった全10年間のレコーディングは、R&B、フォーク、ブルースそしてソウルと魅力的な行程を歩んできた。“その時その時に真に有効な歌”を試みながら。しかし悲しいことに1994年8月、ゲイリー・ファーはロサンジェルスで帰らぬ人となってしまった。

デヴィッド・サフ、2007年11月


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