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Gary Farr/Take Something With You/2008 sunbeam records SBR2CD5051



ゲイリー・ファーは1944年10月19日に生まれ、サセックス州ワージング(イングランド南部)で育った。彼は伝説的なウェールズのヘヴィー級ボクサー、トミー・ファーの4人の子供の末っ子だった。自ら経験を積んだ彼は、音楽の世界へ足を踏み入れる決心をする前に旅して回り、一時期ロンドンにある姉のジャズ・クラブで働いていた。彼は1964年2月にthe T-Bonesのヴォーカリストとしてキャリアをスタートさせた。彼らはリッチモンドにあった興行主ジョージオ・ゴメルスキーのクロウダディ・クラブに長期間出演し、すぐにUK R&Bシーンの主要グループとなり(そこではヤードバーズ、ローリング・ストーンズその他多くが出演していた)、コロンビアと契約を交わした。彼らはまたマーキー・クラブにも出演し、ソニー・ボーイ・ウィリアムソン、ハウリン・ウルフら伝説のブルースマンたちとツアーを経験し、人気TV番組‘レディ・ステディ・ゴー’にも出演したが、1964年と1965年にリリースした3枚のシングル、EPは売れず、ファーは1967年の初めにソロになるべくグループを去った。

1月、彼はジ・アクションをバックにアップテンポのナンバー、‘A Little Piece Of Her’をレコーディングした(これは初めて今回このCDで聞ける)。しかし他の彼の歌は明らかに違ったスタイルを見せていた。それは哀愁を帯び、詩的な内容を持ったアコースティックなシンガーソングライターの性質を示していた。ゴメルスキーは彼のマネージャーを引き続き務め、ファーの多くのデモ(このCDのディスク2)をレコーディングしたのち、彼とブロッサム・トウズのドラマー、ケヴィン・ウェストレイクを組ませることにした。このデュオは最初、自分たちのことを‘The Lion and the Fish’と名乗っていたが、唯一のシングル、‘Green’/‘Everyday’(これもこのCDのボーナス・トラックで聞ける)は彼らのフルネームのもと、ゴメルスキーのマーマレイド・レーベルから1968年6月にリリースされた。その後すぐに彼らは友好的に袖を分かち、ファーはロンドンのフラムにあったレーベル・アーチストのためのレンタル・ハウスで生活しながら、再びソロ・キャリアを始めた。年末に向けてゴメルスキーは彼のソロLPのために、レーベル傘下の多くのミュージシャンたち―マイク・スティーヴンスとアクションのメンバー、マイティ・ベイビー、ブロッサム・トウズそしてスプーキー・トゥース―と共にファーをスタジオ入りさせた。

メロディックで思慮深く巧妙に作られたTake Something With Youはしかし、チャンスを逃してしまった―リリースはほぼ1年遅れ、ついに1969年12月に発表された時にはマーマレイドは半ば倒産状態にあり、ゴメルスキーはフランスに移住してしまっていた。アルバムはいかなるセールス・プロモーションもされず、見たところUKのポップ紙ではわずかに2つがレビューを載せたにとどまり、それはアルバムに先がけたシングル(‘Hey Daddy’/‘The Vicar and the Pope’)と共にセールス的失敗を意味していた。それにもくじけず、1970年初頭、ファーはライヴ・シーンに着目し始めていた。それはとりわけ1969年8月に出演したワイト島フェスティヴァル(彼の兄Rikkiが企画していた)の後である。彼はまもなくCBSと契約を交わした。サリー州(イングランド南東部)に引っ越した彼は、その秋のセカンド・アルバムのために数ヶ月間をギグと新曲のリハーサルに費やした。セカンド・アルバムStrange Fruitのバッキングはリチャード・トンプソンとマイティ・ベイビーのメンバーたちだった。Strange FruitはTake Something With Youのちょうど1年後の70年12月にリリースされたが、残念ながら同じ運命を辿ることになってしまった。素晴らしいトラック、‘In The Mud’の初期デモでこのCD(ディスク2)は幕を閉じる。

その後すぐにアメリカに渡った彼は、ついにアトランティックと契約し、彼のサードでラストとなるアルバムをレコーディングした。1973年、マッスル・ショールズでレコーディングされたAddressed To Censors Of Loveは、伝説的人物であるジェリー・ウェクスラーのもとでレコーディングされた。その後10年の間に、彼はアメリカを拠点にロック・バンド、Lionを結成し、その唯一のLP、Running All Nightは1980年にA&Mからリリースされた。その後ミュージック・ビジネスに幻滅した彼は写真家としての道を志し、ハリウッド映画のスチール写真を撮ったり、プライベェイトな顧客のために写真を撮ったりしていた。しかし彼は音楽をあきらめず、彼の友人と家族が大事にとっていたプライヴェイトに作った彼の作品が、彼を再び若き日のブルースとフォークへの世界へ引き戻す素晴らしい結果を生むことになった。1994年7月29日、ローレル・キャニオンの彼の家近くでサイクリングをしたあと、悲しくも彼は若くして心臓発作に屈してしまった。しかし彼の名声はそれ以来どんどんと上がっていった。とりわけインターネットを通じてである。Take Something With YouのオリジナルLPはeBayで手動によって更新されていき、300ポンドまで上がっていった。彼の家族が全面的に協力しプロデュースした今回のCDが、初のリイシューであることを願いたい。今回のリイシューは以前よりも多くの人々が、彼の立派な才能を高く評価することにつながるであろう。

リチャード・モートン・ジャック、2008年9月


‘ゲイリー・ファーは数年間ブリティッシュ・シーンに身を置いてきたが、今ここに成熟し、シンガー/ソングライター/ギタリストとしての彼の全才能をとらえた見事なアルバムが届けられた。“Time Machine”(彼が今年のワイト島フェスティヴァルで歌った)は観察力を持ち、感受性強い作品であり、それは“Don’t Know Why You Bother, Child”、“Goodbye”、そして“Curtain Of Sleep”にも同様に当てはまる。よく練られ作られたLPだ。もしあなたが現代のソロ・アーチストを好むなら買いの1枚である。’―Disc & Music Echo, December 20th 1969


‘うわさではゲイリーはこのアルバムは彼のありのままの現在が反映されていないことで満足していないといわれるが、これはフォークロック・イディオムを使ったきわめて楽しめる作品であることは事実だ。全てが彼のオリジナル作品であり、ドラムスには今や引っ張りだこのロジャー・パウエル、コンガとタンバリンの元メロディ・メーカーのライター、ニック・ジョーンズ、そしてリード・ギターのマイク・スティーヴンスとマーチン・ストーンら気の合う仲間が彼のバッキングを務めたセレクションだ。彼ら参加ミュージシャンたちはヘヴィだがリラックスしたビートを提供し、多くのミュージシャンが称賛するザ・バンドと似た雰囲気を醸し出している。元アクションのレジー・キングがプロデューサーとなり、ゲイリーは自分自身と友人たちを誇らしく見せつけている。’―Melody Maker, December 27th 1969


‘今過去を振り返ってみると、実際長い船出だったね。僕はフォークとブルースをプレイし始めて、クロウダディでヤードバーズやストーンズと共にT-ボーンズでプレイする日々を送っていた。でもつまずいてしまったんだ。4年前、僕は再びギターを手にとって曲作りと旅を始めた。僕は今の自分はフォーク・シンガーだと思っているよ。なぜなら僕は今日のフォーク・ミュージックこそロックンロールだと信じているから。一つ確かにいえるのは、僕は詩人だってことだ。でも人々と比べて僕にとってそれは難しいことだったんだ―運動選手の家庭に生まれて親父が世界的に有名なボクサーってのは、読書なんかを好むこととは全く正反対に思われるかもしれない。ただ僕にとってのそれはフォーク・クラブでいい歌を歌うことなんだ。それより楽しめることはないね。僕はコマーシャル過ぎるって言われ続けてきた―でも感じたことを歌うのが今の時代、本当に有効なことだ。今の僕がチャレンジしているのは、毎朝起きて昨日起こったことをイメージして歌を作ることだね。僕は今の自分に決して満足していない。だけどそれが僕なんだ。満足した時はやめるだろうね。’―Gary Farr, Melody Maker, December 12th 1970


マイク・スティーヴンス;

ロンドン音楽シーン最大の企業家の一人、ジョージオ・ゴメルスキーはマーマレイドというレーベルをスタートさせ、所属アーチストが共同生活するためにチェルシーにおしゃれな家を借りたんだ。Holmead Road 6番地はチェルシーのサッカー場の反対側フラム・ロードの少し離れたところにあった。僕はレーベルとは契約してなかったけど、そこに僕の部屋があったんだ。レーベルの人たちは僕にマーマレイドが全部払うからただで住んでいいよといってくれた。1967年の夏だったな。違う時期にあそこに住んでいたのがゲイリー・ファー、ブロッサム・トウズ、バリー・ジェンキンス(アニマルズのドラマー)、ゴードン・ジャクソン、そしてアクションのメンバーとブルー・チアーっていうアメリカのバンドだった。彼らは面白い連中で僕はすぐになじんだね。

ゲイリーはすごくかっこよくて美しいブロンドの持ち主だった。彼はウェールズの伝説的なヘヴィー級ボクサー、トミー・ファーの末っ子だった。当時ゲイリーは自分のファースト・アルバムのための曲を書いていて、それは結局Take Something With Youとしてリリースされた。彼はかわいいFender Palominoギターを弾いていたんだけど、まもなくマーチンの12弦に持ち替えた。その方が彼のスタイルに合っていてアグレッシヴでラウドなサウンドが出たんだ。僕のフィンガーピッキング・スタイルは彼のスタイルに完全に調和したし、僕らは床の上で何時間も足を組んで過ごしたよ。ゲイリーはノートを持ってギターでアレンジを考えて、詞を磨き上げ、新曲も書いていたね。自然な成り行きで彼は僕にアルバムで弾いてくれないかと依頼した。アクションのメンバーと共にね(のちのマイティ・ベイビーだ)。

オックスフォード・ストリートのLilly & Skinnerのビルにあったポリドール・スタジオがおさえられた。そこはマーマレイドの事務所があったところだ。エンジニアのKlausは若手のやり手で、彼は4トラック・レコーダーを同期させていた。一方僕らは8トラックと8トラック・ミキサーを持っていた。当時は最先端だったね。僕らはAdvisionに移動する前にアルバムの半分をレコーディングした。Advisionはロンドンで最初に8トラック・レコーダーを持ち込んだスタジオだった。セッションは延長されてHolmead Roadの居間で続けられた。ワイン、ビール、ネパールのブラックコーヒー、そして音楽が当たり前のように流れていたね。僕は前にこんな素晴らしいミュージシャンたちと一緒にセッションなんてしたことはなかった。僕らは知的で深い詞を持った素晴らしい楽曲にグレイトなアレンジを加えた―気取りもハッタリもなく、みんなが冒険精神を持ってプレイした。これがモダン・ミュージックが自然に発生した現場だよ。全ての堕落した陳腐なショービズ・ポップに別れを告げながらね。

僕はゲイリーと共に多くのギグもこなした。それは1969年8月31日のワイト島フェスティヴァルで最高点に達した。このイヴェントを共同で組織していた一人がゲイリーの兄のリッキーで、第1級の一獲千金企画人だった。これは以来ヨーロッパで開かれることになるフェスティヴァルの母となり父となった。もちろん同じ月にはウッドストックが開かれた。ボブ・ディランがビラのトップに載っていた。あとはトラフィック、ファミリー、ELP、ペンタングル、リッチー・ヘヴンスその他だ。会場は巨大で高い波形の鉄の柵で取り囲まれていた。楽屋も巨大で、アーチストとバンドのための大テントが張ってあったね。ステージ正面方向には多くのプレス関係者のための特別観覧席が設置されていた。たくさんのキャラヴァン集団が周りにいたね。組み立てられたPAシステムは過去最大だと言われていた。僕はイヴェントの威圧的なスケールのデカさに気づいて、ステージでたった1本のアコースティック・ギターでプレイするのが不安になったよ。

そのあと僕らはサウンドチェックのためにみんなを招集した―ヴォーカルと12弦ギターにゲイリー・ファー、アコースティック・ギターに僕、ベースにアンディ・レイ(スプーキー・トゥース)そしてドラムスにロジャー・パウエル(マイティ・ベイビー)だった。僕らはトム・パクストンの次だった。僕は楽屋でファミリー、トラフィックと一緒に酒とタバコをやりながら、オーディエンスの規模なんて分からずにずっと座っていた。少し経って僕はステージの片側によじ登ってみたんだ。でも僕はすぐに降りてしまったね。そこには見渡す限りの人々の海が広がっていたんだ。圧倒的な数だった。リッキー・ファーが僕らの出番を告げた。僕は帽子を深く被り直して演奏に突入した。‘坊や、なぜ君が悩むのか僕には分からない この古い世界は変わらないだろう なぜってやっかいな君がいるからさ(Don’t Know Why You Bother, Child)’ ゲイリーはそう歌った。つまり事実を歌ってたってわけだ。ショーを終えると僕らは25万人の聴衆から拍手大喝采を受けた。まだ午後4時半だった。ディランの出番まで1時間ほどあった。ゲイリーと僕はギャラをもらおうとリッキーを捜しに行った。僕らは楽屋の車両の中についに彼を見つけたんだけど、床は札束の山で覆いつくされていて、ディランと彼のマネージャー、アルバート・グロスマンが自分のひざの上で分け前を数えていたね―それが25,000ポンドだったんだよ!

Holmead Roadに戻ってくると事態は劇的に変化していた。ドラッグは手に負えなくなっていた。ある日誰かが僕のお茶に約1,000マイクログラムのLSDを入れて、僕は病院に担ぎ込まれる羽目になってしまった。病院で僕は静かにしていなきゃならなかった。ゲイリーはサリー州のケイターハムにある静かな家に引っ越すことを決め、僕も一緒に行かないかと誘ったんだ。それで僕もしばらくの間彼と一緒にいたんだけど、すぐにウェールズに戻ったよ。彼の次のアルバム、Strange Fruitのリハーサルをしていたんだけどね。彼は僕の代わりにリチャード・トンプソン(フェアポート・コンヴェンション)を呼んだ。僕は彼とビール2パイント以上を飲み、サリー州の田舎のパブでダーツのゲームをやって別れの挨拶をした。彼はボロボロのジープで僕を駅まで送ってくれたね。

Solva Bluesの許可による抜粋
(©Y Lolfa Books, 2004)



カリンシア・ウェスト;

私が最初にゲイリーを見たのは、1970年のロンドンでのパーティーで、彼はギターを持って背を丸めていたわ。店のオーナーは店内を砂と貝とヤシの木で埋め尽くして、何かはるか海の向こうの島の輝いたイメージを作り出そうとしていたけど、その晩唯一本当に輝いていたのはゲイリーの声だったわ。それはすごくピュアで説得力があって力強かった。すぐその後に頑固なダンサーが聴くのをやめてしまった時でさえ、まるでなにか古代の神様が彼らの頭に一撃を与えて彼らを石に変えてしまったかのようだった。その知られざるシンガーはウェールズ人の男だといううわさが広まったけど、その称賛の嵐が過ぎ去った後は、彼はギターをケースにしまい黒のカウボーイ・ハットを被り、嫉妬深い態度で消えていったわ。でも誰もそれに気づかなかった。翌日になって初めて私は彼が友人から私の電話番号を聞いたことを知った―そして私たちの5年間の生活が始まった。

私が最後にゲイリーを見たのはちょうど1993年のクリスマス前だった。ロンドンのあの時から長い道のりと時間が経過していた。私たちはSunset Boulevardのカフェにいたけど、二人とも違う約束があったからあまり長居はしなかったわ。私はカフェラッテをもてあそんでいて、たしか彼はエスプレッソをちびちびと飲んでいたと思う。私たちは彼の小さな自慢である最愛の妻アーマと子供たち、デヴォンとブランドンの手垢のついた写真を見ていた。私は彼の住んでいたトパンガ・キャニオン(ロサンゼルス西のリゾート村)にワインとラムの肉をごちそうになるために行くと約束していた。でも時間はあまりに速く過ぎ去ってしまった。私は当時結局行かなかった。私は彼が‘じゃあな、レッグス’といって通りを降りて行くまで、彼があの時の黒いカウボーイ・ハットを被っていたことに気づかなかったわね。

それから少しして私は彼から手紙をもらった。全てが調子よく進んでいるらしかった。彼の家族はみな元気で幸福だったし、彼は映画のために自分の父親の伝記の改作を手がけていた。彼は構成を手がける自分の潜在的な才能を発見していた(“自分で言うのもあれだけど私の素質もめちゃくちゃ凄い!ってことね”)。そして彼は再びバンドでプレイし曲を書いていた。ハリウッドでのスチール写真家としての仕事には苦悩を暗示させるようなものはなかったし、それはよく彼との会話に花を飾っていたわ。私は金ピカの町(Tinseltown:ハリウッドの俗称)の悪名高い固いベッドの中で、成功しようと苦闘していた彼は、満足できるところまで達したのだと感じていた。彼の好きなサイクリングに例えていうなら、彼はよく知られたトパンガの丘のうちの一つの頂上まで到達したようなものだった。それは彼の最大限の努力の後にもたらされた平和の瞬間だった。そしてそれは車輪が自在にスピードを上げ、彼の下でペダルが徐々に遅くなり、彼が谷へ向かって急降下する直前に訪れたことだった。

1994年、ゲイリーはサイクリングをしたあと、重い心臓発作に襲われてしまった。それでもありがたいことに彼は、その時家にいたのよ。彼のとなりには最愛の妻アーマがいた。私は彼のライナーノーツを書くことよりむしろ、彼の最後の声を聞くことを知らずに、彼に電話をかけたことをよかったと今思っているわ。その時彼は私に驚くようなことを言ったわ。“レッグス、僕は長い間幸せじゃあなかったけど、そこにはたくさんの感謝すべきことがあるんだ。”と。


Carinthia Westは1970年から1976年の間にゲイリー・ファーと暮らしていたライター、フォトグラファー。彼らはゲイリーが死ぬまで親友同士だった。


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