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Jerry Garcia/Legion Of Mary/2005 Warner Strategic Marketing Inc. & Jerry Garcia Estate LLC. 8122-74692-2



歴史を書き改めるのは容易なことではない。過去30年間のほとんど、ジェリー・ガルシアのファンたちと音楽歴史家たちは同様に、管楽器プレイヤーのマーティン・フィエロがフルタイムで加わったおおよそ1973年11月から、ガルシアと長年の付き合いがあったキーボード・プレイヤーのマール・サンダーズがフロントにいた1975年7月初めまでが、ガルシアのソロ・バンド、リージャン・オブ・メアリーの活動期間として捉えている。その約20ヶ月間にはおよそ140回のショーが行なわれた。その間に3人のドラマーが恐るべきベーシスト、ジョン・カーンと組み、常に弾力性あるリズム・セクションを維持してきた。グレイトフル・デッドのドラマー、ビル・クロイツマン、ジャズ界のヴェテラン、ポール・ハンフリー、そしてエルヴィス・プレスリーのドラマー、ロン・タットだ。

しかしながら、新聞のアーカイヴと最近の他の情報源をリサーチしてみると、実際ガルシア・バンドがリージャン・オブ・メアリーの名で活動したのは、ロン・タットがドラムスを担当していたラインナップで1974年12月から1975年7月の間だけだったいう避けがたい結論が導き出される。その間、60を少し超えるショーが行なわれた。この2枚組CDはそのリージャン・オブ・メアリーのマテリアルを初めて公式にリリースしたものだ。(ポール・ハンフリーがドラムスの座にいた時のラインナップは通常“ガルシア・アンド・サンダーズ”として知られているが、公式のバンド名を持ったことはない―1974年9月にバークレーのキーストーンで素晴らしくドキュメントされたショーは、ピュア・ガルシアのシリーズの一部として2000年にリリースされた。それはjerrygarcia.comを通じて入手可能だ)

1970年初めのある時期―ファンたちがいつものようにこそこそと、あるいは強迫観念にとらわれてショーを録音し始め、様々なコンサートとクラブ出演でプレイされた楽曲をリスト化する前の空白期間―ガルシアはジャズロックのオルガニスト、ハワード・ウェールズ、寡黙なベーシスト、ジョン・カーン、そしてドラマーのビル・ヴィットとともにサンフランシスコのマトリクスというクラブで自由なジャム・セッションをプレイし始めた。ガルシアはその時点でグレイトフル・デッドとともに約5年間プレイし、グループは地元のロック・クラブ・シーンの一種独特な中心バンドから、狂信的なファンを持つ全国的なバンドへ飛躍していた。デッドヘッドということばはまだ世の中に存在しなかったが、彼らはすでに世の中にいた(ダジャレのつもりではない)。ガルシアの音楽的渇望は飽くなきものだった―こうして彼はデッドとともにロードに出ていない時に、ウェールズと一緒にプレイするようになった。そしてあたかもそれだけでは物足らないかのように、ガルシアはカントリー・ロック・グループ、ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジの活動に着手し、甘く快い不思議なペダルスチールを弾き始めた。

マーティン・フィエロとう一人の若いサックス・プレイヤーが初めてガルシアと出会ったのがこの頃だった。

“僕はジェリーとゴールデン・ゲイト・パークで会ったんだけど、最初は誰だか分からなかったんだ。” フィエロはいう。“僕は友人のコンガ・プレイヤーと一緒にいたんだけど、そこには多分40人くらいのコンガ・プレイヤーがいてみんな太鼓を叩いて凄まじい騒音を出していた。僕は彼らとプレイしようとしていた。たくさんのホーン・プレイヤーもいたね。すると一人の男が僕に近づいてきて、自己紹介をしてからこういった。‘やあ、君のプレイはすごくいいよ。どこから来たの?’ 僕は‘エルパソだ’と答えた。彼は‘この町にはどれくらいいるの?’と聞いてきたから、‘1週間くらいかな。’って答えた。すると彼は、‘僕はフィルモアに出てたんだけど、今マトリクスでギグをしてるんだ。よかったら一緒にプレイしない?僕らのオルガン・プレイヤーはハワード・ウェールズっていうんだけど。’っていったね。おもしろいことに僕はエルパソのハワードを知っていたんだ。彼もそこでぶらぶらしてたんだよ!それで僕はいった。‘もちろんいいよ。今度行くよ。’ってね。実はそこに行って初めて僕は彼がジェリーだったってことを知った!彼のバンドはドラムスがビル・ヴァットでベースがジョン・カーンだった。僕らはプレイを楽しんでジェリーは‘君に頼みたいんだけど’といったね。僕らはすぐに友達になったよ。最初から好意を感じていたけどね。”

エルパソで最初フィエロはロック、R&Bプレイヤーとして経験を積んでいた。“ファッツ・ドミノやリトル・リチャード・スタイルのプレイ―つまりジョー・ヒューストンやアール・ボスティックのようなホーン・プレイヤーだ。” それから彼は何年にも渡ってジャズをプレイした。“僕は何でも聴いた―キャノンボール・アダレイ、チャーリー・パーカー、デクスター・ゴードン・・・特にジョン・コルトレーンが僕にとって凄く大きな存在だった。怪しげなことも全て含めてね!” 彼は笑いながらいう。

フィエロはガルシア、ウェールズと散発的にしかジャムらなかったが、彼はそのコラボレーションでの唯一のアルバム、Hooterollで卓越した役割を演じた。ウェールズは結局違う方向へ進むことになったが、ガルシア、カーン、そしてヴィットはともに活動を続け、まもなくマール・サンダーズがキーボードの座についた。サンダーズが加入してすぐに、グループはサンフランシスコのノース・ビーチ地区にあったKeystone Kornerというクラブに活動の場を移した。

サンダーズは他のメンバーより年上で、町で長年に渡ってジャズとR&Bをプレイし、より多くの経験を積んでいた。彼の熟達したハモンドB-3のプレイは、ジミー・スミスやジャック・マクダフらの影響を受け、彼はオスカー・ブラウン、ダイナ・ワシントン、そしてマイルス・デイヴィスとさえ一緒に仕事をしていた。最初からグループはサンダーズの存在と少しのジャズ・スタンダードによってファンク色濃いプレイをしていた。ジャズ・スタンダードはガルシアにとって新しい領域だったが、回を重ねるうちに彼らはR&Bナンバーやガルシアのヴォーカルによるロック・チューンを取り入れるようになっていった。ガルシアとサンダーズはジャムとソロ・プレイを存分に楽しんでいたが、これはグレイトフル・デッドの流儀であったディープで不協和なゾーンにも達した即興演奏をも恐れぬ姿勢が表れていた。フィエロも時折飛び入りで参加し、彼はデッドが生み出したものよりも伝統的なジャズの文脈で明確な味付けをしていくガルシアのプレイを見ていた。

“最初ジェリーはどうやってジャズをプレイしていいか本当に分からなかったんだ。” フィエロは回想する。“でもハワードとマール、それに僕がちょっとずつそのイディオムでプレイすることによってジェリーにどういう風にフィーリングをつかめばいいか示していったんだ。ジャズはそれ自身が言語みたいなもんだからね。僕らはたくさん話し合ったし、彼はすごく頭が切れて、いい耳を持っていたからすぐに理解することができたんだ。彼は何でも素早く吸収した。スポンジのようにね。彼は最初に分かってしまうんだ。全部が頭の中に入っていたよ。びっくりするほどさ!”

ガルシア-サンダーズ・バンドは70年代初頭に数多くのメンバー・チェンジを経験した。しばらくの間、元クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのギタリスト、トム・フォガティがメンバーの一人だった。またサンタナのパーカッショニスト、アルマンド・ペラッツァ、少しだけ名の知れていたシンガー、サラ・ファルチャーも同様だった。ビル・ヴィットが参加できない時は、(デッドの)ビル・クロイツマンがドラムスを担当した。グレイトフル・デッドの要求するスケジュールのため、デッドのツアー中グループの活動はほとんどベイエリアのクラブに限られていた。1973年9月のニューヨークとニュージャージーでの2つのギグで初めてバンドはカリフォルニア州を出た。ガルシアはデッドが大きな人気を獲得したことによって小さなスタジアムでプレイしなければならない時でも、同時にその控え目なクラブ・バンドの活動を継続していくことを決心した。“ガルシア-サンダーズ・バンドはほとんどプレッシャーを感じずにプレイしていたね。なぜなら僕らは有名になろうとは思っていなかったから。” 1973年にガルシアは語っている。“それが活動できた理由の一つだ。僕は二つの名声を持つことなんてできなかった。それはあまりに荷が重過ぎるんだ。”

マーティン・フィエロは1973年9月にデッドの8回のショーにトランペッターのジョー・エリスと参加した時に、ガルシアのグレイトフル・デッドでの消耗の激しい高いプレッシャーに置かれた生活を身近に感じていた。その前の月に二人は進行中だったデッドのアルバム、Wake Of The Floodから2曲をプレイしていたため、彼らは各ショーで数曲に飛び入りで参加するよう招待された(同じくオープニング・アクトのダグ・サームズ・バンドの一員としても)。“デッドヘッズは僕のことを嫌っていたね。” フィエロは笑いながら指摘する。“彼らはグレイトフル・デッドでホーンは聞きたくなかったんだ。かなりの反感があったよ。僕は否定的なコメントをたくさん聞いた。あの頃インターネットがなかったのはラッキーだったね!”

もちろんガルシアはフィエロを嫌っていたはずがなかった―その秋、フィエロはついにフルタイムのメンバーとしてガルシア-サンダーズのラインナップに加わり、もっとじゃんじゃんやるように要請された。“ジェリーはもっとジャズをやりたがっていた。” フィエロはいう。“彼は僕に新しい曲にどんどん入ってくるように励ましてくれた。それは本当にたくさんやったね。僕らはエディ・ハリスの‘Freedom Jazz Dance’やフレディ・ハバードの‘Little Sunflower’もプレイした。マイルスもだ。彼はラテン・チューンも大好きだった(フィエロによるオリジナル含む)。彼は何でも常にやる気満々だった。僕はジェリーが好みの音楽スタイルについてしゃべったのを聞いたことがないと思う。あと彼の好きな歌やキーやテンポについても聞いたことがないね。彼は全てを進んで受け入れていたんだ。” “ジェリーはレイ・チャールズみたいな感じだったんだよ。” フィエロは回想する。“彼はソウルを感じるものならどんなスタイルもプレイできたし、何でも操って違うスタイルの中で滑らかにプレイすることができたんだ。僕は音楽にレッテルを貼るのは好きじゃなかったけど、しばらくして僕は彼がプレイしたものは、何でもジェリーズ・ミュージックになってしまうんだと思うようになったね。”

ガルシアのソロ・グループはいつも折衷的だった。フィエロとサンダーズがバンドに持ち込んだジャズやラテン・フレイヴァーに加えて、バンドはモータウン、初期の古いロックンロール、あまり知られていないにぎやかなR&B、ファンキーなマールのナンバー、ボブ・ディランからジミー・クリフまであらゆる珠玉のカヴァーを取り上げた。ほとんどの曲はガルシア、サンダーズ、そしてフィエロがいったんソロを弾き出すといつも10分を超えた。15分から20分に及ぶナンバーも決して珍しくなかった。ポール・ハンフリーがドラムスを叩いていた時のガルシア-サンダーズ・バンドが初めてカリフォルニアを出てツアーした編成だった―北東部のクラブや小さなシアターでの彼らのショーは、少なくとも歓喜を持って迎え入れられた。

しかし1974年の終わりまでに変化が起ころうとしていた。グレイトフル・デッドは10月中旬、サンフランシスコのウィンターランドでのショーをもって、無期限の休止期間に入る決心をした。そして11月、ポール・ハンフリーはセッション・ドラマーとしての輝かしいキャリアに戻るべく、ロサンゼルスに帰っていった。また彼はLawrence Welk Orchestraのメンバーとしても時折プレイすることになった。(何だって!)

“ポールはファンタスティックなドラマーだったし、素晴らしい男だったね。でもちょっとバンドにフィットしないところもあったな。” ガルシアの専属ギター技術者だったスティーヴ・パリッシュは指摘する。“彼はその時Lawrence Welkでプレイするのと同時にジェリーともプレイしていたんだ!僕はLAのパラディアム近くの楽器屋でよく彼とばったり会ったものだった。彼らはそこで(The Lawrence Welk Showを)レコーディングしていた。彼はよくギグに黄色い靴、黄色いソックス、黄色いパンツ、黄色いシャツ、あるいはヘビ柄の靴やヘビ柄のパンツをはいて現れた。全てがバッチリ彼にハマッてたよ―彼は僕にこういうんだ。‘なあスティーヴ、今夜バンドは何を着ると思う?’ってね。で、僕はこういう。‘彼らが着たいものを着るんじゃない?!’” 彼はいつものように大声で笑いながらいう。

“それから僕らは‘Lawrence Welkとジェリー’から‘エルヴィスとジェリー’に移っていったわけ!” ロン・タットが加入した。彼は最初マール・サンダーズの提案によってガルシアの世界に足を踏み入れた。ジョン・カーンはジェリーの2枚目のソロ・アルバム、Complimentsにドラマーとして彼を雇っていた。そのアルバムはカーンのプロデュースによって、1974年の冬の間に主にロサンゼルスで録音された。この時までにタットは何度もエルヴィスとともにツアーし、ジョニー・リヴァース、リトル・リチャード、ビリー・ジョエル、そしてグラム・パーソンズ含む他の多くのアーチストのアルバムにも参加していた。タットをバンドのドラマーに推薦したのがサンダーズだった。彼はタットのことを“ドラマーのロールス・ロイス”と呼んでいた。この意見に異を唱える者を見つけるのは難しいだろう。

この時点でのタットのプロとしての活動は、大部分がロックとカントリー・ミュージックのプレイヤーとしてだったが、彼は次のようにいう。“僕はノース・テキサス大学で実際はジャズ・プレイヤーだったんだ。僕は多くのジャズを聴いていたし、シェリー・マンやメル・ルイスなんかの偉大なウェストコーストのジャズ・ドラマーに影響を受けていたね。”

“僕はいつもジェリーの音楽はジャズみたいなものだと言っていた。いつも音楽の中に‘頭脳’があった。みんながやりたいようにプレイするジャム・セッションの中には‘尾ひれ’や‘はみ出し’なんかが現れるんだけど、それっていうのはジャズをプレイする時の決まり文句にすごく近いものなんだ。”

“タットはクールだった。彼は素敵な人間だったね。” フィエロはいう。“彼も他のみんなと同じように、いかに音楽をプレイするか学ばなきゃならなかった。でも彼はそれを素早く身につけていったんだ。もちろん彼はすでにちょっとしたスーパースターだった。エルヴィスといっしょにプレイしてたんだからね。” フィエロは静かに笑う。

“それは本当だよ!” パリッシュは同意する。“一度僕らがアトランタ空港にいた時、‘Elvis Presley’って書いたタットのドラム・ケースがベルトに載って降りてきたんだ。すると周りにいた人々はみんなパニック状態に陥った。僕は群衆に追いかけられたよ。‘イエー!エルヴィス!エルヴィス!’ってね。ケースに載っていたその名前には特別な響きがあるんだ、特に南部ではね。”

タットがドラマーの座についた時にリージャン・オブ・メアリーが誕生した。しかしそのグループ名はどこから来たのか?“ジッピーのアイデアだったと思う。” タットがいうには、ガルシアのマネージャー、リチャード・ローレンによるアイデアで、‘ジッピー’はジョン・カーンがつけたニックネームだった。“彼はヴァチカン(ローマのヴァチカン市国)に旅行した時に、楽器を演奏する小さな修道士の立像をたくさん持ち帰ってきたんだ。今でも僕が持っているひとつは、石鹸石か象牙を彫刻したやつで、2つのシンバルをプレイしているものだ。彼はバンドのみんなに配っていた。[Loren]っていうのはイタリア語で、[part-]って意味だ。彼は自分の中にそういう教会の神秘的なインスピレーションを持っていて、ヴァチカンに行った時に感銘を受けたんだと思う。そこで彼はできる限りとっぴな考えを思いついたってわけ。それでバンドをLegion Of Mary(マリア師団)と名付けることにしたんだ。”

一方、スティーヴ・パリッシュの回想ではこうだ。“僕はジョン(カーン)が思いついた名だと思ってるよ。彼とジッピーは、口に出したくないような、冒涜的で人の感情を害するような名前ばかり使って遊んでいたんだ。” 彼はクスクス笑いながらいう。

“その名前は僕のアイデアだ。でも僕らには裏目に出てしまった。” カーンは1998年に亡くなる少し前に私に言ったことがある。“僕らはバークレイのキーストーンで、この名前で最初のギグをやったんだ。そしたら本当にLegion Of Maryっていう名の宗教団体が現れたんだ。僕はお礼を言おうと思った!”

パリッシュ:“修道会の人たちだった。彼女たちは裏口からどかどかと入ってきて、誰が自分たちの名前を使ってるのか知りたがった。すごく有意義な時を過ごしたね。僕たちはしばらくの間は彼女たちを楽しませた―ちょっとクレイジーなことが起こるまではね。多分誰かが彼女たちのうちの一人を非難したんだ。” 彼は笑う。

カーン:“彼女たちは僕らを聴きに来てくれて、結局僕らのことを気に入ってくれたし、この名前を使ってもかまわないことになった。でも同時に僕らはこの名前であまり長くはやりたくないなと思ったね。”

リージャン・オブ・メアリーは短命に終わったがフィエロは次のようにいう。“本当にグレイト・ミュージックだった。僕らは本当にグルーヴィーだったし、ピークも築いた。僕らは素晴らしい時期を過ごして、いつも笑っていたね。ジェリーとジョンはよく大笑いしたり、ジョークや小話を言い合っていた。僕らは東部ツアーもすごく楽しんだ。あとキーストーンでぶらぶらしたりね。僕がこれまでで一番楽しかった時期だ。”

“たくさんの笑いがあった。” タットも同意する。“ジョンは僕が知る中で最も天然のひょうきん者の一人だった。スティーヴ・パリッシュも同じくね。スティーヴとジョンはいつも互いにふざけ合戦みたいなことをやっていて、ジェリーと僕はいつも彼らのオーディエンスだった。僕らは座ってクスクス笑ったり大笑いしたりしてた。僕がジョンの一番のお客だったね。僕らはそうやって楽しんでいた時に、最も深い友情関係にあったと思う。”

またリージャン・オブ・メアリーがやすやすとあるスタイルからあるスタイルへとスウィングしながら、常に全ての曲にパワーとパッションを注ぎ込む音楽の中にも、その友情を聞き取ることができるだろう。この2枚組ディスクの何とバラエティに富んだことか。2曲のモータウン・クラシック(“I Second That Emotion”と“How Sweet Is To Be Loved By You”)、じっと抑えるようなロック・パイオニアのチャック・ベリー・ナンバー(“Let It Rock”)、同じくエルヴィス・プレスリーのヒット曲(“Mystery Train”)、1位となったザ・ドリフターズ永遠のR&B、“Money Honey”、ロビー・ロバートソンの内戦史“The Night They Drove Old Dixie Down”そして当時最新だったディランの“Tough Mama”、ノーマン・ブレイクの炭鉱地区の悲しみの物語、“Last Train From Poor Valley”、知られていないが素晴らしいアラン・トゥーサンの“I’ll Take A Melody”、これはまるでガルシアが書いたように聞こえてしまう。その他にもたくさんのナンバーが収められている。ジミー・ヒューズの1966年のオリジナル“Neighbor, Neighbor”を聞いたことがあるかい?ここに収められたヴァージョンの方がファンキーだ!

リージャン・オブ・メアリーが1975年の前半を通じてギグを行なっていた時、ガルシアは依然とても忙しい男だった。デッドはボブ・ウィアの新しいホーム・スタジオでアルバムBlues For Allahを録音していた。そのアルバムのジャジーな方向性はガルシアのソロ・バンドの影響を受けたのか?おそらくそうだろう。彼はまたザ・グレイトフル・デッド・ムーヴィーの仕事もこなし、ミッキー・ハートのDiga Rhythm Bandからキースとドナ・ジーン・ガチョウのセルフ・タイトル・アルバムまで、様々な他のプロジェクトに手を貸していた。

元々リージャン・オブ・メアリーは1975年の秋にヨーロッパをツアーする計画があったが、代わりにグループは静かに解散した。そいてガルシアのソロ・ワークは全く違った方向へ進むことになった。彼はタット、カーン、そして偉大なロックンロール・ピアノ・プレイヤー、ニッキー・ホプキンスとカルテットを結成した。それも偉大なグループとなったが、崇高なジャズ、ディープ・ファンク、そしてフィエロとサンダーズが具現化した冒険的アプローチは大部分過去のものとなった。しかし少なくとも今、我々の手元にはその音源が残っているのだ。

―ブレア・ジャクソン


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