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Peter Frampton/Where I Should Be/2004 Lemon Recordings CD LEM 25



1970年代の半ば、フランプトンの2枚組LP、Comes Alive!を持っていなかったティーンエイジャーはほとんどいなかったかもしれない。当時世界中で2000万の人々がそのレコードを買い、ライヴ・アルバム史上最高の売り上げを記録したのである。その4分の3のセールスが、Comes Alive!の収録地であるアメリカで記録され、アルバム・チャート1位となり、3ヶ月間チャート圏内にとどまり2年の間ベスト・セラー・アルバムとして居座り続けた。フランプトンがあまりにビッグになったことで、ジェラルド・フォード大統領でさえ彼をホワイトハウスに招いて1日を一緒に過ごすことで当選できると考えていたほどだ。

実をいうと、英国で我々はそれほど熱狂していたわけではなかった。しかしアルバムは6位をキープし、トップ10シングル、Show Me The Wayを生み出した。そして批評家たちの反発が起こったのである。1977年までにフランプトンは全ての(音楽ビジネス界の)縮図となっていたため、パンクが大攻撃を仕掛け彼の人気は急速に衰えていった。やがて我々は‘フランプトンはもう一つの世界記録を打ち立てた’とジョークをいうまでになっていった。ヒット・レコードであったのがウソであるかのように急に多くの人々が否定し始めた。そして今日まであらゆる中古レコード店へと流れ、今でも50ペンスのバーゲン箱でかなりの量が束になって詰め込まれているのを見ることができるのである。実際にはComes Alive!はいくつかの素晴らしいロック・ナンバーを収録している。Show Me The WayとBaby I Love Your Wayは中でも傑出している。しかしこれは言わねばならない。サウンドは十分に時代遅れとなってしまった。フランプトンがマウスピースを通じてサウンドを変え、ギター音によって言葉を作りだす悪名高いヴォイスボックス(=talk box:エフェクター)は、率直に言って今では笑ってしまうほどだ。そして彼のJumpin’ Jack Flashはよいとはあまり大きな声ではいえない。

しかし全盛期を過ぎたライヴ・スタジアム・ロック・アルバムというだけで、フランプトンが素晴らしいソングライターであり、才能あるギタリストであることを曇らせてしまうのは許されてはならないことだ。彼はキャリアを通じて興味深い音楽を作り続けてきたし、仲間から尊敬され、需要あるセッション・ミュージシャンとして、ジョージ・ハリスンのAll Things Must Passからデヴィッド・ボウイのGlass Spiderツアーまで幅広い活動で信頼を受けている。

1979年夏にリリースされたWhere I Should Beは、フランプトンにとってプロとしても個人的にも難しい時期に来ていたことを示していた。パンクの大群は彼をあざけり、ののしった。Comes Alive!に続いてリリースされた1977年のI’m In Youの時、ロバート・スティグウッドのこれは本当にひどい映画、Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Bandにビー・ジーズと共に出演していた彼は、評論家から総スカンを食らっていた。そして彼はバハマで車の事故を起こし危うく死にかけたが、骨を数本折り、かなりの肉体的損傷を受けたものの幸いにも命はとりとめた。しかしほぼ1年間、彼は活動休止状態となった。彼が回復しつつある中、長年付き合ってきたガールフレンドが彼のもとを去り、彼はドラッグに依存するようになっていった。

いわばWhere I Should Beは控えめにいっても不利な条件の中、制作されたのである。しかしよくあることだが、逆境は彼の特性を試したばかりでなく、彼からベストを引き出すことにもなった。

Where I Should Beを聴くことは、偽りなく自分自身を受け入れようと試み、誠実に自分の感情を表現する道を探し求める1人のアーチストを聴くことである。

共同プロデューサーのクリス・キンゼイは、実際にローリング・ストーンズのSticky Fingers以降のアルバム全てのエンジニアリングを担当し、最終的には彼らをプロデュースするまでになった。Got My Feet Back On The GroundやI Can’t Stand It No Moreのようなタイトルは、彼自身のストーリーを伝えている。フランプトンは10曲中8曲を書き、2曲がサム&デイヴのMay I BabyとYou Don’t Know Like I Knowだ。どちらの曲もスタックスのソングライティング・チーム、アイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーターの手によるものだ。忘れられがちなのが、フランプトンは1960年代の南ロンドンでソウルに熱狂したモッドとして、自身のキャリアをスタートさせていたことだ。1977年にカヴァーしたSigned, Sealed, Delivered(I’m Yours)ではスティーヴィー・ワンダー自らがゲスト参加し、ハーモニカを吹いた。

Comes Alive!後、批評家たちの猛反発が彼を葬り去ったにもかかわらず、フランプトンのアメリカの忠実なファンがまだ残っていた。Where I Should Beは1979年7月にトップ20に入り、そこからシングル・カットされたI Can’t Stand It No Moreは14位まで上がった。

しかしそれが最後のチャート・アクションとなってしまった。彼が最初にチャートに登場したのは、その12年前に在籍していた偽サイケデリック・ポップ・グループ、ザ・ハードのフロントマンとしてだった。ソングライターのケン・ハワードとアラン・ブレイクリーによってマネジメントされていたバンドは、不吉なFrom The Underworldと共に‘サマー・オブ・ラヴ’の疲れた最後の日々にビッグ・ヒットを飛ばしていた。フランプトンはRave誌による“68年顔”に選ばれ、彼のブロンド・ヘアーと若く愛らしいルックスは、当然のごとく彼をティーン・アイドルへと仕立て上げた。

しかしサイケデリックがヘヴィ・ロックに取って代わられるにつれ、フランプトンはポップ・スターとしてのステイタスに不快感を示し始め、元スモール・フェイシズのシンガー、スティーヴ・マリオットとハンブル・パイを結成すべく、1969年初頭にバンドを去った。ハンブル・パイのデビュー・シングル、Natural Born Boogieはすぐにトップ5ヒットとなった。しかしフランプトンはアルバム・アーチストとして正当に認められることを望んでいた。第一にバンドの中での好対照な二人の才能はバランスが上手くとれていた。バンドの最初の2枚のLP、As Safe As Yesterday IsとTown And Countryで、フランプトンのメロディックな楽曲、リリカルなギター・プレイとマリオットのきしむようなブルース・ロックは互いに完璧に補完し合っていた。しかしハード・ロック的側面が支配的になってくるにつれ、幻滅したフランプトンは1971年に脱退した。その前にリリースされたPerformance-Rockin’ The Fillmoreは、その10年間で最も売れたライヴ・アルバムのうちの1枚となった。もちろんComes Alive!がきっぱりとそれを負かしてしまうまでの話だ。

フランプトンのソロ・デビュー作、Wind Of Changeは1972年にリリースされたがほとんど売れなかった。さらにアルバム、Frampton’s Camel(一時期彼は自分のバンドをそう呼んでいた)、Something’s Happeningそして1975年のFramptonと続いた。その時までに彼はターゲットを完全にアメリカに絞り、年200日にも及ぶライヴを敢行した。しかしこれから何かが起こりそうな兆しは何もなかったのである。フランプトンは依然ビルボード・チャート32位でもがいているだけだった。

しかしどういうわけか1年後、彼がComes Alive!でロック史を塗り変えてしまったことは、今なお評論家たちをまごつかせ、思わず彼らが自分たちの頭を掻いてしまうような出来事である。最もいい答は、おそらく最も紛れもない事実だろう―すなわちハード・ワークと根気強さがついに報われたのだ。ピオリア(アリゾナ州南西部)からカラマズー(ミシガン州南西部)に至るアメリカ縦断ツアーのいたるところでフランプトンのコンサートを見ていた何100万という人たちが、そのショーの記念品を求め、熱狂的にアルバムを買いに出かけたのである。

もし70年代にフランプトンがリベート含む名声か、それが提供する全てのことを体験していたのなら、80年代には彼は満足しきって一線を退いただろう。彼は1981年にBreaking All The Rules、その1年後にThe Art Of Controlという興味深いアルバムを作り続けた。しかし1986年のシンセサイザーに重きが置かれたPremonitionまでに5年の空白期間があった。

そしておもしろいことに、1987年に過去を振り返ったアルバム、Peter Frampton Classicsが出たことによって、彼のバック・カタログが復活した。Baby I Love Your Wayのリメイク含む翌年のWill To Powerは、あり得ない事にアメリカでチャート1位を獲得してしまった。フランプトンはついに古い仲間であるマリオットと再び組んだ。しかしハンブル・パイ再結成の話は、悲劇的にもマリオットが1991年にエセックスの自宅で焼死してしまったことにより、すぐに立ち消えとなった。

あるいは彼が最大の成功へ再訪したいという欲求は必然なのかもしれない。1994年、彼はFrampton Comes Alive…Againツアーのためにアメリカへ出て行った。そして続編的アルバム、Frampton Comes Alive 兇リリースされた。しかし彼の最も新しいアルバムは2003年のNowだ。これは魅力ある抑制されたアルバムであり、満ち足りた息づかいの漂うルーツに根ざしたリラックスしたコレクションである。あるいは彼はついに然るべきところ(Where he should be)に到達したのかもしれない。

ナイジェル・ウィリアムソン


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