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Fotheringay/Fotheringay 2/2008 Fledg’ling FLED 3066



バンド自体は意見の相違によって消滅してしまったが、フォザリンゲイは偉大なブリティッシュ・ミュージックのひとつとしてずっと生き続けてきたことは間違いないだろう。彼らは1年も続かず、たった1枚のアルバムしかリリースしなかったが、彼らの消失はフォークロックを新しい繊細さと感性の高みへと引き上げる才能を持ったミュージシャンの一団から、70年代初めの舞台を奪い去ってしまった。そして今、ほぼ40年の間、彼らの唯一の遺言書と考えられていたデビュー・アルバムの9つの歌に、それに続くものとして新たに11曲が加わることになった。不意に訪れた災難と苦痛を伴う分裂によって葬り去られ、棚上げにされたあと、それらの曲はバンドの生き残りのメンバーによって救出され復活した。ある意味、今でも人々の記憶に残るこの特別なグループに対する称賛を強化するより他はなく、今回のリリースは新しい世代へ向けて、その豊かさと永遠の作品の価値を証明するものである。

サンディ・デニーはバンドの中で大きな存在だったし、彼女の名声―フェアポート・コンヴェンションのWhat We Did On Our Holidays, Unhalfbricking, そしてLiege and Liefを創り上げたこと―は1970年の春に最初のギグを行なった時には、いわばフォザリンゲイの名刺代わりであった。フェアポートを去ったのに続いて、彼女のトレヴァー・ルーカスとのロマンスは始まった。ルーカスはロンドンのフォークロック・グループ、エクレクションのシンガー/ギタリストだった。フラム(Fulham:ロンドン南西部)のChipstead Streetに引っ越した二人は、その時築き上げていた音楽的ステイタスを投げ出し、ニュー・グループを結成した。加わったのはエクレクションのドラマー、ジェリー・コンウェイと、短命に終わっていたPoet and the One Man Bandからの二人のミュージシャン、ベーシストのパット・ドナルドソンとギタリストのアルバート・リーだった。Chipstead Streetの防音リハーサル・ルームで1週間だけ練習したあと、リーは音楽的志向の違いによって友好的に袖を分かち、Poet and the One Man Bandのもう一人のメンバーだった若いアメリカ人ジェリー・ドナヒューが加入した。まもなく、メンバーの固まったグループはフェアポートのプロデューサー、ジョー・ボイドと共にスタジオ入りした。

サンディはBeat Instrumental誌のインタビューでグループ名の由来について語っている。“打ち首になった女王メアリーがいたスコットランドのお城の名前から付けた。私は彼女にとても興味があるし言葉の響きも好きだったから、それでFotheringayになった。” もちろん彼女はWhat We Did On Our Holidaysで同名の胸を打つ素晴らしい曲を提供している。大部分はサンディの存在の大きさによる恩恵でレコード会社の資金的投入が行なわれ、ニュー・バンドは彼女の素晴らしい歌唱とそれと同様にブリティッシュ・フォーク・ミュージックの様々な傾向に根ざした傑出した楽曲に加えて、オーストラリア人の血を引くルーカスの好むカントリーに影響を受けたロックを並列させることを試みた。ファースト・アルバムは何曲かの至宝(注目すべきはデニーの“The Sea”と彼女の驚異的な革新的解釈であるトラディショナルの“Banks of the Nile”だ)を含んでいるが、二人の対照的な要素を両立させることには失敗していた。ルーカスの参加に懐疑的だったボイドの姿勢は役立たなかったのかもしれない。しかしもっと重大な要因は、アルバムFotheringayはミュージシャンがお互いを知る機会であるバンドのライヴよりも前にレコーディングされたという事実だ。

そしてその機会はすぐに訪れた。ロイヤル・フェスティヴァル・ホールを含むUKを回る一連の3月のコンサートだ。ロイヤル・フェスティヴァル・ホールではボイドの会社所属のアーチスト、ニック・ドレイクがサポート・アクトを務めた。4月下旬、彼らはPop Promsとしてプロモートされた1週間のコンサートの一員として、北ロンドンのラウンドハウスに出演した。広告にはフェアポートと、グループの仲間の一人、イアン・マシューズが率いていたサザン・コンフォートが名を連ねていた。彼らが個人的な追憶からプレイした“Silver Threads and Golden Needles”で、コンサートは最大に盛り上がった。これは古いカントリー・スタンダードをスロー・ワルツとしてアレンジしなおしたナンバーで、サンディの最高の輝きがフィーチャーされた。

アルバムのリリースに対するかなり控えめな反応にもかかわらず、フォザリンゲイはライヴ・ショーの要請に事欠かず、10月2日には最大の栄誉の瞬間に違いないロイヤル・アルバート・ホールでのトリを務めることになった。しかしながら、彼ら自身の寛容さが、それを白紙に戻すことになってしまった。夏の間、バンドのリズム・セクションはチェルシーのスタジオ、サウンド・テクニクスで1日を過ごしていた。ボイドと出版契約しているアーチストの歌のデモのためであった。彼らは二人のセッション・シンガーにバックを付けていた。ボイドのガールフレンド、リンダ・ピーターズ(のちのリンダ・トンプソン)と一人の若い男、名前をエルトン・ジョンといい、彼は好評のセカンド・アルバムをリリースしたばかりだった。彼はロサンゼルスのトルバドールで1週間プレイするために、新しく結成した自身のバンドをスタートさせようとしていた。感銘をうけたフォザリンゲイのメンバーたちは、アルバート・ホールでのサポート・アクトとして彼を招待した。しかしながらコンサートの日がやってくるまでに、エルトンのハリウッドでの成功がセンセーションを巻き起こした。彼は自分の主人たちの穏やかなフォークロックを出し抜く熱いパフォーマンスで時の人となった。サンディは彼がフォザリンゲイのオーディエンスを魅了していくにつれ、高まる不安の中それを見つめていた。その晩の残りには失望感が覆いつくしていた。

しかし不利な状況ながらも、彼らはファンたちに報いるべくライヴを続けた。リズム・セクションの二人はその非凡な感情移入を進化させていた。何年も経ってから、ジェリー・コンウェイはサンディの歌をいかにプレイしたかを語っている。スロー・テンポが支配するサンディの歌は、彼のアプローチに深みを与えることを促していた。“サンディと一緒に仕事をし始めた時は、” 彼はAnil Prasadに言う。“歌をよく意識するドラマーとしての最初の経験だったね。突然僕はその音楽に対して可能な限りベストなプレイを欲するようになったんだ。” 結果はその年の暮れにレコーディングが始まったFotheringay 2全体で即座にはっきりと理解できる。

ベーシック・トラックとガイド・ヴォーカルは表面上はボイドの管理下に、サウンド・テクニクスに保管された―ボイドはワーナー・ブラザーズの映画のプロデュースのオファーに応じ、ロサンゼルスに戻ろうとしていた。そしてもう一人がスタジオ専属のチーフ・エンジニア、ジョン・ウッドだ。サンディの提案によって、“John the Gun”にはサム・ドナヒューによるテナー・サックス・ソロが加えられた。彼は戦後のスウィング・ジャズの名高いバンドリーダーで、ネバダ州のリノ(Reno)から息子のジェリーを訪ねて来ていた。クリスマス・パーティーの前にノッティンヒルのウィッチシーズン・オフィスで、全員はホリデイのあと再び集合し、仕事を続けることを話し合った。

しかし翌1月の最初の週に彼らが再びスタジオに集まった時に、爆弾発言が待っていた。サンディはソロ・キャリアに取りかかる時期を探し求めていた。“そりゃ大ショックだったし、とてつもなく失望したね。” 現在のドナヒューは言う。“サンディ含めたバンドは僕ら誰にとっても最高だったからね。彼女はいつも気の合う周りの友人やバンドと一緒にいるのが好きだったし。” 続く数週間、彼女はソロになるかグループを続けるかの選択に、何回か心が揺れている。しかしバンドを続けることはすでに不可能だった。ドナルドソンとドナヒューは、ゲイリー・ライト、コンウェイと共にキャット・スティーヴンスのツアーをするオファーをすぐに受け入れていた。5人のメンバー全員は新しい運命に向けて動き出し、セカンド・アルバムはお蔵入りとなった。“フォザリンゲイ分裂”のニュースは、メロディ・メーカー紙のトップ記事になった。そこでは彼らの名声にレコード・セールスが追いつかなかったことの重大性が強調されていた。

メンバー全員はその後もサンディのソロや、何度目か分からぬほどのフェアポート・コンヴェンションの再編などで共に仕事をすることになった。サンディ自身はファースト・ソロ・アルバム、The North Star Grassman and the Ravensに“Late November”と“John the Gun”を再収録した。“Silver Threads”と“Gypsy Davey”はのちにデニーのコンピレーションで日の目を見た。しかし現在に至るまで、1970年の終わりのセッションで一つになったバンドがレコーディングしたものは、日の目を見る機会を逃していた。

サンディの死後30年、トレヴァーの死後約20年、ミキシング作業はドナヒューによって指揮された。彼は今やギター・ヒーローの一人であると同時に、多くの経験を積んだプロデューサーでもある。グループのもともとの意向に忠実に、細心の注意を払い、彼はオリジナル・トラックの土台となったドナルドソン、コンウェイと共に仕事をした。何年にも渡っていろいろな所に散らばったマスター・テープから1970年のレコーディングのベストなパーツを注意深く突き止め、集め、整理していった。あとからオーヴァーダブ・セッションで差し替えることを念頭に置いた全てのオリジナル・ヴォーカルは、リズム・セクションと同時のライヴ録りであることを思えば、そのクォリティは驚くべきものだ。“Wild Mountain Thyme”は単にヴォーカルとギターのみで、マルチトラック・マスター・テープにのみ存在していた。それは最も気品ある台座として配置され、今やサンディの最も優れたレコーディングの1曲としてその姿を現した。今でも評価の高い“Silver Threads”も同様だ。トレヴァーのグループにおける位置もまた、自身の手による不吉な“Restless”と熱い解釈のトラディショナル、“Bold Jack Donahue”によって明確にされている。この最大に丹精を込めた再構築の愛情ある仕事のおかげで、不意に未来を断たれたバンドは、事実上、新しい完成品と新しい過去をここに祝うに至ったのである。

Richard Williams 2008


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