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The Famous Jug Band/Sunshine Possibilities/1999 Wooden Hill Records Ltd. HILLCD 25



2月は荒廃の月だ。1月は年の始まり。3月は春の匂いを運んでくるが、2月は何もいうことがない。ジル、クライヴ、ピーター、そしてヘンリー8世は1969年2月に私の人生に入ってきた―彼らは2月に意味を与え、忘れられないものにした。

ロイ・ハーパーはウィズ・ジョーンズについて私に語り、ウィズはフェイマス・ジャグ・バンドについて私に語った。私がどんなジャグ・バンドを想像しようが、彼らは違っていた。インクレディブルズの創設メンバーの1人、クライヴ・パーマーは詩人然としている。ピートはいつも夢を見ているかのようだ。ジルは小さな体に似合わない驚くほど大きな声をもつ、才気ほとばしる発信源だ。ヘンリーは、そう、ヘンリーはヘンリーだ。あごひげの大男。彼はジャグをプレイする。

ピエール・タブズ、1969年


おかしなことに、60年代が70年代に変わり、残酷にも理想主義が現実とともに崩壊した時が魅惑的でシュールな時代だった。ヘンドリクスが“Hey Joe”をプレイする一方で、アーチーズは“Sugar Sugar”を歌い、ハロルド・ウィルソンとテッド・ヒースはダウニング街10番地(官庁街)を闘った。ワイト島にはディランが、月にはニール・アームストロングがいた。へヴィ・メタルの誕生、ビートルズの死。ザ・サウンド・オブ・ミュージックにチャールズ・マンソン。イージー・ライダーとオー・カルカッタ!

ほんの少しの移り気から夢は実現し、その気まぐれはさらに奇妙にとっぴに、そしてスリリングになっていった。1970年代の入り口においては、当てにならない者さえが、フォークロック、古楽、スキッフル、ブルーグラス、スワンプ・ブルース、ラグタイム、その他何もかもを組み入れ、フォークはユニークで素晴らしいあらゆる支流たちにとって肥沃な温床だったといった。ジャグ・ミュージックも含めて。

フェイマス・ジャグ・バンドがこれら全てのどこへぴったり収まるのかいえる者がいるだろうか?わたしはいえない。オスカーは?いやとんでもない。そのバンドはある部分煙に巻くようなやり方を取っていたが、それでも魅力的な空虚感を保持していた。それはまるであなたがどういうわけかサファリ・パークに迷い込み、どぎまぎさせるようにあなたを見上げる気のふれたジャッカルがフェンスを飛び越えることができるかどうかを、あなたが全く予測できないようなものだ。彼らが野生のままなのか、飼い慣らされているのか・・・あるいはそもそも公園の中にいたのかどうかを誰も知らなかったのだ。

ジャグ・バンドはヘンリー‘8世’バートレットのお気に入りだった。プログレッシヴ・ロック、コンセプト・アルバム、複雑に入り組んだアレンジメントは忘れて、ヘンリーの運命を動かしたものなど何もなかったかのように、ベースのリズムを生み出すためにビール瓶(jug)の首を吹くことだ。「僕はジャグ・バンドが大好きだった―無名であればあるほどね」 ヘンリーはいう。「16の時、僕はストリーサムで買った無名のレコードを毎晩聴いて過ごしていた」

それでもフェイマス・ジャグ・バンドは、それまでのジャグ・ミュージックのフォーマットには収まらない存在だった。「私がどんなジャグ・バンドを想像しようが、彼らは違っていた」と、ピエール・タブズはこのアルバムのオリジナル・スリーヴ・ノーツで語っているが、それが彼らの特別たる所以だった。あるいはリッチで有名になることがないのは運命づけられていたのかもしれない。

彼らはたしかに変な一団だった。それぞれの背景と音楽的ルーツの奇妙なミックスである彼らは、1960年末のペンザンス(コーンウォール州)にあった“フォーク・コテッジ”で、どういうわけかひとつになった。19歳のギター・ヒーロー志望のピート・ベリーマンは、すでにザ・フーのサポート・アクトを務め、Shawn & The ShondelsというバンドでEMIから1枚のシングルを出していた。そしてデイヴィ・グレアムにショックを受け、The Haverimというグループで初の名声を得たのち、フォークブルースにはまっていた。コーンウォールは若いフォーキーたちの温床だったが、ベリーマンはラルフ・マクテルのアルバム『Spiral Staircase』に参加した直後にそこへたどり着いた。ヘンリーもまたマクテルとともに働き、ニューキーの海岸で“Hey Joe”をプレイした時に初めてベリーマンと出会った。これは全く真実である・・・。

その時期、様々な駆け出しのバンドが出現していた。ベリーマンとバートレットはJohn The Fishとコラボレートし、いみじくもWhispering Mick in the Great Western Bandと名付けた。しかしインクレディブル・ストリング・バンドの裏切者で一匹狼のクライヴ・パーマーという男が全てを変え、やる気満々の熱意とよろよろとした困惑状態の中、皮肉っぽく名付けられたフェイマス・ジャグ・バンドの基礎を築いた。パーマーはすでに伝説的な変人であったし、どこか天空の最果てから手に入れたかのような定義できないソングライティングの腕前をすぐに発揮した。それにベリーマンの魅惑的なギターと、バートレットの容赦ないジャグ・プレイが結びついた彼らは、すでに耳のヒリヒリするようなサウンドだった。

学校を出てすぐにやって来たトルロ出身の17歳のジル・ジョンソンのピュアな声は、全く別の次元を提供することになった―切なく無垢なヴォーカルの対照的要素と、彼女のいたずらっぽさの中にある稀なる音楽的安定性だ。「僕たちがもっていたのは、ギターとジャグと3つの声だった。驚くべきことじゃないかな」 ピート・ベリーマンは過去をふり返り、仰天しつつそういっている。

そして彼らはおんぼろのオースチン・モリス社製の郵政公社用ヴァンに乗ってロードへ出発した―奇妙なスタイルと音楽的ルーツを引きずりながら・・・古いジャグ・バンドのマテリアル、アンクル・デイヴ・メイコンの歌、昔懐かしい曲、ラグタイム・クラシック、ブルースの狂想曲、変てこで素晴らしいクライヴ・パーマーのオリジナル・ソング、さらに深くより内向的なピート・ベリーマンのソングライティングなどだ。「いや、僕たちはマスタープランなんてもっちゃいなかった」 ベリーマンはいう。「全ては行き当たりばったりだったね」

リバティ・レコードのピエール・タブズに彼らを勧めたグレイトなギタリスト/シンガーがウィズ・ジョーンズだったが、1969年なかば、イングランド北方をツアーして回っていた彼らは、タブズに会いに立ち寄った。彼のロンドン・オフィスで即興演奏を披露したあと、タブズは彼らにツアーを中止してアルバムをレコーディングするよう勧めた。彼らのセカンド・アルバムから“God Knows”と“Chameleon”の2曲をボーナス・トラックとして収録したこのCDが、その彼らのファースト・アルバムだ。彼らの拠点のパトニーでわずかな予算によって2日以内でレコーディングされたが、彼らの無頓着なスピリットと天性の魅力は、当時そのままの姿を反映していた。万事考慮すれば、アルバムはかなりいい線をいっていた。彼らのスケジュールは次の年までいっぱいになり、彼らは全国の学生たちのヒーローとなったが、あるいは“カルト・ヒーロー”と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。

彼らはベリーマン作のラグタイム風の“The Only Friend I Own”をシングルとしてリリースした(B面はパーマーによるブレル((ジャック・ブレル:ベルギーのシャンソン歌手))風の“A Leaf Must Fall”だった)。ヒットはしなかったがかなりのエアプレイを獲得し、ほかならぬエリック・クラプトンによる‘Radio l's Round Tale’で取り上げられた。「ギターをつまびくことのできる者はみな僕の友人だ」 エリックはひっそりとそういった。

「クライヴの歌をA面にもってきていればもっとうまくいっただろうね」 ベリーマンはいう。「アルバムを作るまでに僕たちは自分たちのオリジナル・ソングに力を入れるようになっていたし、僕はもっと深いレベルで歌を書くことを見つけ出していたところだった。その音楽はすごく濃厚になっていたし、オーディエンスは熱中するように耳を傾けていた。男たちはみなジルに魅せられていた。グレイトなシンガーだったからね」

「僕たちがある晩、ハムステッドでプレイしていると、僕のヒーローの1人、クライヴ・ジェイムズがピート・アトキンといっしょにそこにいたんだ。彼は僕のところにやって来て、僕たちのアルバムを毎朝目覚ましに聴いているといった。信じられなかったね!実は僕はセカンド・アルバムの『Chameleon』よりも『Sunshine Possibilities』の方を気に入っている。『Chameleon』はほとんどが僕のマテリアルだったし、僕たちはクライヴ(・パーマー)がいないことを残念に思っていたんだ」

『Sunshine Possibilities』のラインナップは短命だった。クライヴ・パーマーは彼らしく、インクレディブルズの時と同様、他のことをやりたくなり、自身のバンド、COBを結成すべく去って行った。残り3人のメンバーはがんばって活動を続け、ますます風変わりになっていたベリーマンの曲作りを大々的にフィーチャーした、やや奇妙なセカンド・アルバム『Chameleon』は、1970年にリリースされた。それから度重なるメンバー・チェンジが行なわれた―エース・ギタリストのウィズ・ジョーンズとジョン・ジェイムズの参加と、ハモンド・オルガンのティム・ライス(あのティム・ライスではない!((訳注:知らん!)))などだ。

ジル・ジョンソンの脱退がちょうど2年に及んだバンドの終焉を予兆していた。「ジルはちょっと動揺していたんだ。彼女はもうたくさんだと判断した」 ベリーマンはいう。「彼女は学校を出てすぐにヴァンのうしろに乗って3人の野郎たちと国中をツアーして回った。そのうちの1人は見たこともないような変人だった。僕たちはかつてシェフィールドに住んでいて、そこは雪と氷におおわれていたんだけど、クライヴはこういったんだ―“夕食のありかを知ってるよ。” そして彼は僕たちを救世軍の施設へ連れて行った!ジルはおびえていたね!」

のちにジル・ジョンソンは結婚し、カリフォルニアへと姿を消したが、ゴスペル聖歌隊で歌い続け、まもなくイングランドに戻り、ヘンリー・バートレットとともにデモ・レコーディングを行なっていた。バートレットは最愛のジャグをベースに持ち替え、アンティーク・ディーラーとしての別のキャリアを追求しながら、ドーセットの様々なバンドに在籍していた。ベリーマンはアムステルダムで再び頭角を現わし、その地でアイザック・ギロリーと組み、ヨーロッパで大きな名声を打ち立てた。ギター狂たちに今なお崇敬される彼は様々な劇団に身を置き、“ブルー・チケット”でケルティック/アフロのフュージョン・ミュージックを開拓し、エイドリアン・オライリーとともにアコースティック・ギター・アルバムを作り続けている。クライヴ・パーマーに関しては、彼はブルターニュの未開地で原始の輝きに満ちた生活を送っていると聞く―華々しい返り咲きをもくろみながら。
気をつけた方がいい・・・

コリン・アーウィン 1999年



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