Welcome to my homepage


The Fame Gang/Grits & Gravy : The Best Of .../2015 Ace Records Ltd CDBGPD 288



1960年代のソウルとR&Bの黄金時代、名声あるアメリカのレコーディング・スタジオは、セッションのための才能あるミュージシャンたち一団を求めていた。イースト・コーストとウェスト・コーストではこれらは普通、それぞれの仕事で雇われた移り気なスタジオ・ミュージシャンたちから成り立っていた。それが‘レッキング・クルー’の時代だった。モータウンはファンク・ブラザーズをもっていた。南部ではナッシュヴィルを除き、本格的なレコーディング施設と集められるミュージシャンが相対的に少数だったことによって、スタジオはそういったすばらしいミュージシャンたちを手放さない傾向をもつようになった。そしてレコーディングにおいて、そのサウンドの独自性を打ち立てるハウス・バンドを作り、彼らは様々なアーチストやプロデューサーを引きつけることになった。スタックス以下、これらチームの多くは、ポップとR&Bの研究者たちによく知られている。その中で最も強力で、もしかすると最も過小評価された集合体が、アラバマ州マッスル・ショールズのアヴァロン・アヴェニュー603Eの古参者たちかもしれない―その一団がフェイム・ギャングだ。それは1960年代を通じてフェイムのハウス・バンドとして、代わるがわる別々の優秀なミュージシャン一団を作り上げてきたプロデューサー/エンジニアのリック・ホールへの敬意の度合いについて語ることだ。

フェイム・ギャングと最も深い関係をもったミュージシャンたちと、1960年代後半にその名の下でレコーディングを行なった人たちは、年代的にそのグループの3番目に属していた。公式にはこの名で知られているわけではないが、フェイム・ギャング・マーク1はテリー・トンプソン、ジェリー・ハリガン、デヴィッド・ブリッグス、ノーバート・パトナムその他であり、彼らは1960年代初頭に原始ソウルの中心地としてのマッスル・ショールズの確立に寄与した。彼らがナッシュヴィルの金もうけのために去って行った時、ホールはプロデューサーとしての彼のヴィジョンをうまく伝える、熟練した代わりのバンドを見つけた―フェイム・ギャング・マーク2は、ロジャー・ホーキンス、ジミー・ジョンソン、ジュニア・ロウ、デヴィッド・フッド、スプーナー・オールダム、そしてバリー・ベケットから成り立っていた。このバンドは彼らが自分たちのレコーディング・スタジオ、‘マッスル・ショールズ・サウンド’を設立するために去って行くまで、ほぼ5年間、その地の流儀に乗ったホールの命令に従った。

フェイム・ギャング・マーク3をもって、ホールは最も融通のきくミュージシャンたちを全て雇った。以前、フェイムのホーン・セクションは地元のプレーヤーたちの集まりか、あるいはセッションごとにメンフィスその他の地域から引き入れていた。今や彼はナッシュヴィルで鍛えられたジャズの素養のある十分なブラス・カルテットを手に入れ、重要なことに、4人中3人が黒人だった。ドラマーのフリーマン・ブラウンは南部風なファンキーさをもっていたが、以前のフェイムよりおおらかなフィールがあった。ジェシ・ボイスは1曲の中で、完全な陶酔状態のグルーヴから、精密なシンコペーションへとフレーズを繰り出すことのできる注目すべきベース・プレーヤーだった。クレイトン・アイヴィはベテランだったが、キーボードに対して偏見のないアプローチをしていた。ジュニア・ロウは常にソウルフルなギターをプレイした。最後になるが忘れてならないのが、エンジニアのミッキー・バッキンズだ。彼はフェイム・ギャング・セッションのボードのうしろで、シンガーが去ったあとのセッション最後か、あるいはウォーミング・アップ中に始まる即興プレイに心地よい音楽をまき散らしていた。その成果はたびたびすばらしいものになった―JBsスタイルのホーン・フレーズ、ミーターズのようなシンコペーション、それはMGsのキャッチ―さを併せもち、さらにアメリカン・スタジオのミュージシャン、あるいはディキシー・フライヤーズの流動性をも保持していた。

リック・ホールはこの一流のチームの大部分を彼らのフェイム在籍期間に作り上げた。しかし彼らが前任者たちよりもずっとファンキーだったことを考えると、ホールが彼らの才能を白人のポップ・アクトに多く活用したことは奇妙な話だ。不思議なことに、ホールは彼ら自身の強力なマテリアルを聴いても、思うほど彼らに没頭するようなことはなかった。まあいい。このCDで我々がフェイム・ギャングの真のサウンドに没頭することになるのだから。

3つの偉大なフェイム・セッション・クルーに共通する人物が、ギタリストのアルバート“ジュニア”ロウだった―控え目なマッスル・ショールズ出身者で、彼のカントリー風味あるフレーズは1965年以来、多くのフェイム・レコーディングに満ち溢れている。ロウのプレイはスティーヴ・クロッパーのそれ同様、サザン・ソウルの流儀と不可分だ。

ジュニア・ロウ:
「クロッパーと僕はいくつかの点でとてもよく似ていた。(でも)僕たちは互いにコピーし合ったりはしなかった。僕は独学だったし、直接の影響は受けなかったね。自然にこうなったんだ。エフェクトは使わなかった。その時もっていたアンプから出てくる音をそのまま使った。大昔はみんなアンプなんてもってなかったし、時には何に使うのかさえ知らなかったんだ。でもちょっとしたことをするようになった。実際僕はカントリーのフィーリングをもったただの男だ。僕が自分のプレイする場所を見つけた時、それはかなり容易なことだった。その音楽はあんまり多くのコードを使わなかったし、誰も譜面を読めなかったね」

初期ショールズのプレーヤー全てに共通することであるが、フェアレーンズといった地元のバンドで腕を磨いたロウの能力は、すぐにリック・ホールが最初のフェイム・セッション仲間とともに新しく設立したアヴァロン・アヴェニューのスタジオでのセッションで定着することになった。彼らが1965年初頭にナッシュヴィルに向かったあと、ロウはほぼ続く2年の間、フェンダー・ベースにもちかえた。ジミー・ジョンソン、ロジャー・ホーキンス、そしてスプーナー・オールダムとともに、彼はその時代の偉大なソウル/R&Bシンガーたちのうしろでプレイした。彼は1967年にデヴィッド・フッドがチームの一員となった時に、たびたびリード・ギターをオーヴァーダブし、そのパートを担うようになり、バリー・ベケットがキーボードを引き継いだ。

レーベル上に最初に‘ザ・フェイム・ギャング’のクレジットが入ったのが、1968年3月にリリースされたアトランティック・レーベルのシングルだった―わかりやすくストレートな“Spooky”と“Night Rumble-Part供匹離ップリングで、フェイムのギタリスト、テリー・トンプソンの手による60年代初頭のインストゥルメンタルの最新ヴァージョンだった。これは一度限りのリリースであり、フェイム・ギャング・マーク2がさらに自身のマテリアルをレコーディングしたかどうかはわかっていない。とりわけベケットとジョンソンは、ホールが1968年を通じてキャピトル・レコードのカール・エンゲマンとの関係を深め、ますます商売の話に精を出すにつれ、プロデュース業務のスキルを磨いていった。不運にも、ちょうど契約が今にも成立しようという時に、彼のスタジオ・バンドは去って行った。

デヴィッド・フッド:
「リックはキャピトルとともにレーベルを始めようとしていて、彼は僕たちと独占契約を交わしたがっていた。それっていうのは、彼のためだけに働くってことで、その時僕たちは他の人たちのために外部の仕事をしていたんだ。僕たちはフェイムとクイン・アイヴィのスタジオと、時にはナッシュヴィルで働いていて、まずまずのお金が稼げたのはもちろん、すごく楽しんで仕事をしていたんだ。彼が僕たちと契約をしようとしている間に、町をへだてたジャクソン・ハイウェイ3614にあるフレッド・ビーヴィスのスタジオが使えるようになった。ジミーとロジャーはフルのリズム・セクションでなければスタジオ・ワークができないと考えて、バリーと僕にいっしょにやらないかと話をもちかけた。僕たちはリックと衝突なんてしなかったし、僕たちはただチャンスがきたと考えただけなんだ」

フッド、ホーキンス、ベケット、そしてジョンソンは1969年の最初の数週間内に旅立っていった。そして彼らの新しく完成したばかりの‘マッスル・ショールズ・サウンド’はアトランティック・レコードの資金提供を受け、3月にオープンした。一方で、差し迫ったキャピトルとの契約によるセッションの予定はびっしりと埋まり、そこにはフェイム自身の期待の新人、キャンディ・ステイトンが含まれていた。ホールは彼が育てたミュージシャンからの2度目の‘裏切り行為’に激怒した。

ロウ:
「僕たちはここでまさに音楽の仕事にとりかかろうとしていた。僕たちのグループは本当にタイトにまとまっていた。それから彼らが勝手にとっぴな考えをもってきたんだ。ジェリー・ウェクスラーがやってきて、あの大物口調で話しかけてきた。ロジャーとジミーは熱心に聴き入っていた。僕はウェクスラーに会った初日から彼のことは好きじゃなかったね。彼は僕たちがフェイムでやってきたことを破壊しようと思っていた。彼らは僕に自分たちといっしょに大もうけしようと話をもちかけて、僕は彼らに‘ノー’といったんだ。僕がリックといっしょにいた理由は、彼とちょっといただけで彼のことがわかったからだ。僕はウェクスラーがリックに大きな圧力をかけたと考えている―リックが1曲のヒットをレコーディングすれば、人々はもう1曲欲しがるだろう。でももう一発当てなければ…うん、その時はもうそれっきりだってね…」

ホールはウェクスラーとの関係を密に築かなかったため、彼のキャピトルとの取引の希求はフェイムのアトランティックによる配給を終わらせただけでなく、アトランティックのアーチストによるスタジオ使用も終了に導いた―例えばウィルソン・ピケットの最後のフェイム・セッションは、1969年5月だった―ただしクラレンス・カーターはアトランティック・レーベルに在籍しながら、フェイムによるプロデュースが続行された。

しばらくして、ホールは助けが必要となった。彼はフェイムがスタッフ・ソングライターを提供するためにメンフィスに設立したデモ・スタジオのところにいた、ハウス・エンジニアのミッキー・バッキンズを呼び寄せた。バッキンズは自分のバンド、‘ニュー・ブリード’で、その2年前から地域的なセンセーションを巻き起こしていたもう1人のショールズ在住者だった。

ミッキー・バッキンズ:
「リックがやってみないかっていうまで、夜はぶらぶらしていたんだ。僕は彼のアシスタントとして、できることは何でもやり始めた。僕は厳密にはシンガーソングライターをやっていて、それは現場のトレーニングの結果だったんだ。リックより耳のいい奴なんて誰もいなかったね。それで結局、僕はメンフィスに行ってフェイムのためにあのスタジオをオープンさせた。デモを通じて、僕は慣習的な仕事のやり方を身につけようとしていた。たくさんのことを身につけたわけじゃなかったけど。当時はメンフィスの最盛期は過ぎていて、それから僕たちがあそこにいる間にマーチン・ルーサー・キングの暗殺事件が起きた。リックはいっしょに働きたくて僕に戻ってほしがっていて、最後には彼の予定がめいっぱい詰まったから僕はここに戻ってきて、(エンジニアの)ソニー・レンボがメンフィスに行ったんだ」

バッキンズはフェイム/キャピトルの提携期間にプロデューサーとして本領を発揮し、社のメイン・ポップ/ロック・アクトのデヴィッド&ザ・ジャイアンツを始めた。しかしホールはもう1つ差し迫った問題を抱えていた。彼はスタジオのあらゆるレコーディング・スケジュールをこなすことのできるミュージシャン一団を確保する必要があった。それは以前ほどではないにしても、何にでも対応できるミュージシャンでなければならなかった。彼は主要ギタリストとしてロウを確保し、他のプレーヤーを見つけるために広く呼びかけた。

ロウ:
「僕たちは出直さなければならなかった。僕たちはまずクレイトンとジェシを確保して、それからラング・ブラウンと全ホーン・セクションはナッシュヴィルからだった。僕たちはあのグループにカラーをもっていた!ミッキーはプロデューサーだった。あそこにいた人々はほんとにすばらしかったんだ!」

フェイム・ギャング・マーク3とその前任者たちとの最大の相違点は、彼らが人種的に調和していたことだった。ナッシュヴィルから迎えられた黒人メンバーたちはみなチトリン・サーキット(chitlin circuit:黒人出演者による黒人向けのクラブ)のベテランだった。ドラマーのフリーマン“ラング”ブラウンは、ハーレムのアポロ・シアターで働いていた。ハリソン・キャロウェイ(トランペット)とアーロン・ヴァーネル(テナー及びアルト・サックス)は、ハイスクール時代から友人同士であったし、彼らはテナー・サックスのハーヴィ・トンプソンとバリトン・サックスのロニー・エーズを連れてきた。エーズはバーミンガム育ちだったが、すでにフェイムで働いていた。そしてあとの2人がフロリダのペンサコーラ出身だった―ベースのジェシ・ボイスとオルガン、ピアノのクレイトン・アイヴィだ。唯一20代前半だったアイヴィは、10代後半にプロの野球選手としてのキャリアを目指していたが、5年以上ミュージシャンとして働いていた。ジャズ、ロックンロール、カントリー、そしてR&Bをかじっていたクレイトンの最も注目すべきフェイム以前のギグは、白人のショーバンド、ウェイン・コクラン&ザ・CCライダーズのメンバーとしてだった。しかし彼はロード生活に疲れ、セッション・プレーヤーになるべく照準を定めていた。

クレイトン・アイヴィ:
「僕はラジオで“When A Man Loves A Woman”を聞いた時、あるギグに行く途中だった。僕は多くのドゥーワップやR&B、ジェイムス・ブラウンやなんかのレコードを聴いていたけど、これはちょっと違っていた。完全に夢中になったんだ。僕がマッスル・ショールズに行こうと思ったのは、たぶん誰よりもロジャー・ホーキンスが僕を引きつけたんだと思う。つまり彼のドラミングだ。僕は1966年にパパ・ドン・シュローダーといっしょにここへやってきた。彼もペンサコーラ出身だったから。それはピューリファイズの“I’m Your Puppet”の次のシングルのためだったんだけど、何も起こらなかった。でも僕は(フェイムに)畏敬の念を抱いていた。ここで彼らがやっていたんだ、まさにここで、これが僕の人生でやりたかったことなんだってね。のちにフロリダのディファンク・スプリングスっていう小さな町の義母の家にいた時に、リック・ホールから電話をもらった。ロジャーとその仲間たちはみんな彼の下から去っていて、その時彼はキャピトルと契約を交わしたところだった。彼にはバンドがなかった。リックはこういった―‘マッスル・ショールズに来いよ。あとベース・プレーヤーを知らないかい?’ 僕は‘ああ、1人知ってるよ。ジェシ・ボイスだ’と答えた。僕たちはマッスル・ショールズにやってきて、もちろんみんなはオーディションをしたんだけど、僕たちが新しいリズム・セクションを結成したのは1969年の春だった。僕たちの最初のビッグ・セッションは(クラレンス・カーターの)“Patches”だった」

新しいチームはフルに詰まったスタジオのレコーディング・スケジュールに猛然ととりかかったが、クラレンス・カーターやキャンディ・ステイトン、そしてスタッフ・ソングライターのジョージ・ジャクソンといったフェイムと提携したアーチストだけでなく、マッスル・ショールズ・マジックを利用しようともくろんだ、よりビッグなアーチストたちとのセッションも増えていった。またミュージシャンたちはホールのやり方に慣れる必要があったが、その過程でエンジニア/プロデューサーとしての彼のスキルを知った。

アイヴィ:
「僕たちがレコーディングすると同時に、リックがそれをミキシングする。それでうまくいくんだ。僕たちが仕事を終えるとあとは彼がやる。彼は僕が会った中で最高の1人だった。彼はやり方をわかっていた。リックはウェクスラー同様、ふさわしい歌をふさわしいアーチストへ割り当てる特別の才能をもった1人だった。僕は彼から多くのことを学んだね」

バッキンズ:「彼は部屋が平方インチになってるか注意深く調べるんだ。彼はサウンドがどこでどう鳴るか知っていた。僕たちはどこでいいサウンドになるか、そういうサウンドをどうやって録るかよくわかっていたから、セッティングを全てそういう位置に固定していたんだ。リックのセオリーは僕のセオリーにもなったし、多くの南部のエンジニアたちはそのやり方をとっていた。僕たちはモノラルでミックスしてモニターしていた。レコーディングすると同時にミックスするんだ。なるべくミックスした状態に近くなるように録音したから、あとで微調整することもあまりなかったね」

時がたつにつれ、ホールは経営上の仕事に多く関わるようになり、ジョンソンとベケットとの関係が終わったため、エンジニアとして、そしてますます増えていたプロデューサーとしての仕事をバッキンズに任せるようになった。

バッキンズ:
「僕が週末の仕事を全てやっていた、僕1人でね。そうやって週末にやってくるグループやアーチストたちを相手に、僕は技術を磨いていった。リックは僕のことを買っていたから、いくつかプロジェクトを僕に割り振っていた」

ロウ、ヴァーネル、キャロウェイ、そしてボイスといった新進のソングライターを含んだ、有能で情熱ある8人組だったことで、セッションの合間にお決まりの即興ジャムが始まり、それが完全な1曲のインストゥルメンタルに変容し、楽曲が生まれることになるのは必然だった。プロデューサーとして、その発展途上のマテリアル一群を評価し、自身がレコーディング・アーチストとして存在する新しいフェイム・ギャングの独自性をもたせる役目を担ったのが、バッキンズだった。初期のスタジオ・チームとは違い、そのグループは同時代のブラック・リズムのより新しくアーシーなトレンドを難なく吸収した―やがてファンクと名付けられるものだ―プレーヤーたちのジャズ的傾向の結果、依然構造化され、メロディックな感性が加えられていたが。

ロウ:
「僕のプレイはよりファンキーになって、オクターブの音を重ねて弾いていた。自分の古いテレキャスターを使ってサステイン(音をのばすこと)はなしだった。当時はジミ・ヘンドリクスだけがサステインを使っていたんだ。僕はロックが好きだったし、ドゥエイン(・オールマン)をよく聴いていた。でも僕たちが録音したトラックは何にも忙しいことを要求するものじゃなかった。ホーン・セクションはいつもジャズのことを考えていて、古いやり方ではプレイしていなかったね…リックは彼らによく、‘もっとボウレッグス・ミラーとかアンドリュー・ラヴみたいに吹くんだ。ソウルフルに’っていってたね」

このことはヴォーカリストたちのバッキングをする時には道理にかなっていたが、彼ら自身のマテリアルとしては、音楽的知性とアーシーなグルーヴのバランスがフェイム・ギャングの特色となった。‘フェイム出版’で曲を登録する際は、マテリアルの作曲者は単にライター・クレジットによって叙述された。ホーン・ラインに展開するインストゥルメンタルであれば、通常はヴァーネル、キャロウェイ、エーズ、そしてトンプソンと表記され、ホーンなしのダウンホームなジャムならアイヴィと、ロウ/ボイス/ブラウンのリズム・セクションが表記された。どちらにしろ、たいていの場合、作品はスタジオのプレーヤーたちの波長が合えば発展していった。

アイヴィ:
「まさしくそのとおりだ。実際には、何かを思いついてそれをやるか、でなければ忘れてしまうんだ。それで僕たちはこういう―‘テープを回してくれ。思いついたことをリハーサルするから。それからあとでもう一度やってみるよ。アイデアをメモるんだ’ってね。ピアノ・プレーヤーがたいてい自動的にリーダーになった。まあ、本当は違うんだけど… 僕たちはお互いに顔を見合わせるだけで、どう修正すればいいかわかった。それがあのぴったり合ったタイトさだった。オリジナル・マテリアルは全員の共同作品だった。誰かがやり始めると、みんなが意見をいった―だからすばらしいものになったんだ」

バッキンズ:「フェイム・ギャングのリーダーが誰だったかをいうのは難しいな。僕たちはいつもクレイトンの方を見ていた。彼は編曲をしていたから。僕はプロデューサーだったからアイデアを出していたけど、ハリソン・キャロウェイが実際にホーン・アレンジメントに関わっていた。何人かがそれを引き受けて話し合ってまとめて、そのパートにまた他の誰かが参加するんだ」

フェイム・ギャングの最初のオリジナル・マスター群は1969年5月からのもので、ほとんどがカヴァーだった―エドウィン・スターの“Twenty Five Miles”やキャノンボール・アダリーの“Walk Tall”などだ。後者はハービー・ハンコックのシンコペイトしたフレーズが、マッスル・ショールズの独特なリズム感に融合した“Canteloupe Island”のいかしたヴァージョンとともに、ホーン・セクションのジャズ・ルーツを示している。初期の2曲のオリジナルは、基本的にリズム・セクションの作品だ。“Shoalin’”は閉店後のクラブでの練習から生まれた典型的なトラックで、一方の“Crime Don’t Pay”はあとでバッキンズによってサウンド・エフェクトが施された、その場のノリのように思われる。

バッキンズ:
「僕たちはレコーディングから抜け出して実験を試みるのが好きだったんだ。プレッシャーがない時とか、何かクリエイティヴなことをしようとする時は、すごいものを思いついたりするだろう?最高だと思った時はそれらのトラックを使うことになる。誰も真似できないからね。僕が最初のフェイム・ギャングの未完トラックをリックに聞かせた時、彼は上の事務所で商売の話をしていた。彼は僕たちが下で何かをやっていることは知っていたが、それが何なのかは知らなかった。彼はその未完トラックに仰天して、これはやってみる価値があると判断したんだ」

ホールはたしかに、フェイムのテープ保管室に‘手直し状態’のフェイム・ギャングのオリジナル作品が20曲以上あった時に、彼らをけしかけている。それはほとんどが1969年6月のセッションからだった。日付をたどると、おそらくさらなるパートを加える必要があると思われる“Rang’s Thang”のように、ジャム・セッションが急ごしらえされたのかもしれない。しかし綿密なアレンジメントとプロダクションが施されたこの時期のいくつかのトラックは、それらがリリース目的で発展していったことを示している。“Groove Killer”、“Muscle Soul”、“Shufflin’”、そして快活な“Sax Appeal”は全てこのカテゴリーに入る。たしかではないが、“Shortnin’ Bread”がトラディショナル・チューンからの引用であることが認められる一方で、“Smokestack Lightning”はハウリン・ウルフの同名曲とは全く関係がない―しかしどちらも魅力あるメロディ的側面をもっている。ひょっとするとベスト・トラックはキャロウェイ/ヴァーネル作のムーディな“Sunrise”かもしれない。これはこの時期の多くのフェイム・レコーディング・マスターで聞けるように、逆回転テープやフィンガー・ドラムを含め、バッキンズがもちこんだ心地よい軽音楽である、どこか東洋風なモチーフのためにリズムを排除している。

バッキンズ:
「僕はいつもちょっとした洗練さがほしかったんだ。ガチガチにヘヴィでファンキーな4人のリズム・セクションと4人のホーン隊というよりはね。僕はもちろんそういうのが本当に好きだったんだけど、ちょっとしたフィンガー・シンバルとかトライアングルとかタンバリンを加えると、たしかにうれしかったね。それでそういう機会があった時に間違いなく僕はやった!」

この活動の最高点として、フェイム・ギャングはもう一度レコード上で登場した。1969年8月20日、彼らはみずからレコーディング・アーチストとしてフェイム・プロダクションズと契約を結び、そのすぐあとにファースト・シングルをリリースした。それは6月のセッションからの最もホットな2曲という、幸先のよいデビューだった。そのシングル“Grits And Gravy”のレーベルには、共同のライター・クレジットが載せられ、これもその録音が元々はジャム・セッションであった可能性が高い―このCDに含まれるヴァージョンは、ベース・ソロを伴った完全な未編集テイクだ―しかし最終テイクの特別でソウルフルな躍動感は、JBsやファビュラス・アパスルズのようなR&Bインストゥルメンタルの先導者の域に完全に達していた。元々は“Garbage Can”と呼ばれていた、名目上のA面だった“Soul Feud”は、すばらしく跳ねるファンキーなリズムを伴い、ロウとボイスによって書かれていた。そのシングルはインストゥルメンタリストとしてのフェイム・ギャングのダウンホームな実績を打ち立てたが、フォト・セッションや宣伝物があったにもかかわらず、バンドはおそらくフェイム・アクトとして真剣に取り組むことはなかった。

アイヴィ:
「リックが僕たちを第2のブッカーT&ジ・MGsにしようとしたとは全く思わなかったね。僕たちはスタジオに入ってレコードを録った―それだけなんだ。そこには‘すごいものを作ってやる’といった意気込みなんてものはなかった。そして僕たちには何も起こらなかった。僕はただの暇つぶしだったと思っている。社内でやったことであって、まさにそういうことだったんだ」

シングルへの反応がほとんどないまま、ホールとエンゲマンは妙案を思いついた。フェイム/キャピトル契約の最初のリリースLPとして、1969年のビッグ・ヒット・コレクションをフェイムのハウス・バンドにレコーディングさせるというものだ。すでにいくつかのすばらしいトラックはリリースできる状態にあった。ひときわすぐれたグル―ヴィなテイクが、並外れた雰囲気で成り立つ“Hey Joe”と、スライの“Stand”の生きいきとしたヴァージョンだ。これらと、“Proud Mary”やビージーズの“Marley Purt Drive”といったカヴァーは外されたが、代わりに新年に出すアルバムに間に合うように、10月に多くの新しいセッションが始まった。

バッキンズ:
「リックが僕たちに何かプロジェクトをやろうと話をもちかけて、キャピトルが当時1969年以降のナンバー1ヒットを全てインストゥルメンタルでやろうっていうアイデアを思いついたんだと思う。僕たちは‘ああ、やってみよう’っていった。他のセッションをしていない時だったから、僕たちはここに寝泊まりしてそのプロジェクトに取り組んでいた。どれくらいの時間がかかったのかわからないけど、僕の人生の10年分くらい働いたと思う。僕たちはLPの両面分を録音したけど、全くテクノロジーは使わずにサウンドを創り上げただけだった」

ロウ:「僕たちはフェイム・ギャングのアルバムを完成させるのに2週間の時間をもっていた。そりゃ大忙しのスケジュールだったから、アルバムの細かい部分を考える暇は十分になかった。僕たちがレコーディングしたようなトラックは、シングルの片面にする価値はなかったね」

彼らの努力が結集されたにもかかわらず、アルバム『Solid Gold From Muscle Shoals』は格別目立たない存在だ。“Wichita Lineman”、“Sweet Caroline”、“Spinning Wheel”といったポップ・スタンダードとともに、R&Bヒットの“Soulful Strut”、“Can I Change My Mind”、そしてクラレンス・カーターの“Too Weak To Fight”などの洗練されたヴァージョンをフィーチャーしている。プレイ・テクニックはいつものように高度で、バッキンズによるおもしろい効果(例えば、レズリー・アンプを通したギターやワウワウ・ペダルを通したサックスなど)が加えられてはいるが、ほとんどのマテリアルのアレンジメントはつまらない領域にある。

バッキンズ:
「リックと僕はいつもそれぞれ自分の担当するトラックの最終ミックスをやっていた。彼は僕に助言をくれていて、フェイム・ギャングのアルバムでは‘もう1回やってみない?もっとよくなるよ’とかいっていた。彼は僕の頭がいかれるまでそういっていた。僕はわからなかったけど、彼は僕の限界を知っていた。それで僕たちは自分たちの作ったものをカリフォルニアにもっていって紹介したんだ」

レコードの最高の瞬間は、プレーヤー自身のマテリアルに最も似たスタイルのトラックにある。最も威勢のいい録音が、ヴァーネルのいななくテナーが先導する“It’s Your Thing”の手足の柔軟な軽快さだ。徐々に盛り上がっていくルー・ロウルズの“Your Good Thing”は、ルーの最後のキャピトルでのアルバム『Bring It On Home』への彼らの参加の前触れとなっている。ジ・インプレッションズの“Choice Of Colors”は、控え目なアレンジメントながらインスピレーションにあふれている。しかし“Grits And Gravy”の泥臭い路線を期待してレコードを買った誰もが、ひどく失望してきたのはたしかだ。ある点では、リックの才能と実績にもかかわらず、フェイム・ギャングのアルバムはフェイムのサウンドがジャンルの枠を超え、R&Bチャートを超えて注目されることを望んだリック・ホールの象徴だった。彼の以前のハウス・バンドのスタジオ、‘マッスル・ショールズ・サウンド’は、(リックの)フェイムを色褪せた存在へと追いやり始め、ローリング・ストーンズとその同種のアーチストたちを引きつけていた。商売感覚となると抜け目のないホールは、猛然とポップ・マーケットへ飛び込み、フェイム・ギャングの助けを借りて彼のプロダクション・マジックに取り組ませるためにアンディ・ウィリアムズやライザ・ミネリといったありそうもないようなアーチストたちをアヴァロン・アヴェニューへと誘い込んでいた。

アイヴィ:
「ジ・オズモンズは本当にすばらしかったね。実際のところ、彼らはある意味才能ある子供たちだった。もちろん難しいセッションもあった。ウェイン・ニュートンだ。僕たちは彼といっしょにレコードを作った。どういういきさつなのかわからないけど、リックはみんなに無理強いした。僕たちはトム・ジョーンズとも働いた。僕たち全員がこれといって何もしないで座っていると、彼が入ってきてバンドがどこにいるのかを知りたがっていた。彼は全員が黒人だと思っていたし、そう望んでいたからね。クラレンス・カーターのセッションは僕の心に鮮明に残っている。もちろんリトル・リチャードもだ―可笑しかったことといえば、あの男がやってくれたね」

バッキンズ:「僕たちは普段いっしょにレコーディングしていたR&Bアーチストたちと同じような音楽的アプローチをしただけだった。ポップなやつでも根底はしっかりしていた」

こういった状況が続く間に、フェイム・ギャング自身のレコーディングに新たなメンバーが加わっていた。1964年のインストゥルメンタル、“Scratchy”で有名なトラヴィス・ワマックは、1967年以来、時々常連としてスタジオにやってきていた。彼はセッションへその特徴的なギター・ブランドを提供し、“Greenwood Mississippi”含む傑作ナンバーを書いている。新しいフェイム・ギャングのレコーディングが話し合われた時、ワマックは“Twangin’ My Thang”を提供した―ファンキーだが明らかにロック風味あるリフが使われていた。彼らはこれを1970年4月に2度レコーディングした。最初のテイクの方が、あとのよりもソウルフルでいくらか乱れが少なかった。ホーン・セクションはA面の“Turn My Chicken Loose”を提供した。またワマックは“Soul Stutterin’”でもフィーチャーされ、ひょっとすると“Cannonball”もそうかもしれない。これらはフェイム・ギャングが創り上げた中で、最もロック寄りなトラックだ。

バッキンズ:
「僕は長い間、トラヴィスのことを知っていたんだ。彼とはメンフィスにあるフェイムのデモ・スタジオで1枚のアルバムを録っていて、その中に“Greenwood Mississippi”が入っていたし、他も全て入っていた。彼がここのセッション・プレーヤーになった時、僕は彼といっしょにたくさん働いたね。信じられないくらいの才能ある男だけど、トラヴィスは本当はスタジオ・プレーヤーじゃなくてスタイリストだ」

“Turn My Chicken Thang”は1970年8月にリリースされ、それはレコーディング・アクトとしてのフェイム・ギャングの最後にあたっていた。スタジオの忙しいスケジュールが主な要因だったが、他の問題が明白になっていた。サイドマンの役割は真に本領を発揮し始めていたし、フェイムの彼らのような自給式のスタジオ・チームは、今や一般的ではなくなっていた。リック・ホールの支配的なパーソナリティの効果は重要な役割を果たしたのかもしれないが、フェイム・ギャング・マーク3のほとんどは比較的友好的に立ち去っていたように思われる。

アイヴィ:
「“One Bad Apple”のあとがまさにそうだった。全てが変わったんだ。2年リックとすごしたあと、キャピトルとの契約が終わった。キャピトルが僕たちの給料を払っていたし、それが終わった時に僕はフリーのミュージシャンになりたいと思った。リックとの仕事よりずっとたくさんのお金が稼げるからね。僕は彼のオフィスに行って、彼にこういった―‘僕はまだプレイしたいから、僕が必要になったら呼んでよ。でも僕は行きたいところへ行けるようになりたいんだ’ってね。(プロデューサーの)ウェス・ファレルがそこに座っていて、リックにいった―‘リック、どういう時に人が君と働きたくなくなるかわかる?’。僕はそのことばはリックに突き刺さったと思うけど、僕たちは握手を交わして、今でも親友同士だよ」

ロウ:「僕はとても長い間、彼といっしょにいた。僕にとっては習得期間だったから。僕はリックの全てが好きだったけど、彼は一方通行の人間だった。僕はそれに嫌気がさしていた。僕は他の者たちが立ち去って行った時もリックといっしょにいた。最後のグループがつぶれたあとに、彼は様々なミュージシャンを集めたが、もうスタッフ・バンドはできなかった。僕たちはオズモンド・ブラザーズのレコーディングをしていて、朝の8時から仕事を始めていた。あそこに着いたら、夜中の1時か2時までぶらぶらしていた。僕は何年も朝早くに来て仕事をしていた。リックは僕たちに‘まだ全部終わっていない。2時間後に戻ってきてくれ’といった。それで僕たちが戻ると、まだ作業は終わってなくて、僕はトラヴィスにこういったんだ―‘なあ、僕はもうやり尽したんだ’。僕は新車を買ったばかりで、自分の衣服を後部座席に積んでいた。それから自分のアンプとギターをひとまとめにして立ち去ったんだ」

キャピトルの配給契約は1971年夏に終わったが、リック・ホールは新しくつかんだポップ界での成功で上向きの状態にあった。したがってバンドの解散はマッスル・ショールズがアーチスト同様、プレーヤーを引きつけている限り、おそらくそれほど大問題ではなかったのだろう。またレコーディング・アクトとしてのフェイム・ギャングのコンセプトはそれほど成功の見込みはないとみなされ、そして一方で、スタジオで1人のアーチストのバッキングを務めた者にその名(フェイム・ギャング)が適用されても、それ以上はその名の下でレコードがリリースされることはなかった。この重大事に注目すれば、フェイム・ギャングとしてレコーディングしたバンドの作品は、そのクオリティにおいて傑出している。その多くが今なお未発表マテリアルであり、すばらしいサウンドであることが、フェイム・スタジオの重要部分である一貫した卓越性の根底にある。

アイヴィ:
「僕たちのオリジナル作品を聴くと、僕たちのアルバムに入っている曲よりすばらしく聞こえるんだ。僕は“Sweet Caroline”じゃなくて、これをレコードに入れるべきだったって独り言をいうんだ!」

バッキンズ:「フェイムは僕がエンジニアとしても、セカンド・エンジニアとしても、曲を書いた時でも、セッションでパーカッションをプレイした時でも、プロデュース作業をした時でも、多くの段階でマジックのほとんどが存在したところだった。僕は本当にこの会社とこの建物に自分の人生を注ぎこんだ。それは楽しかったし、とてもエキサイティングだった。あのマシンが近くにあって、あのフィーリングを感じながらこの部屋に立っていたっていうマジックは二度と経験しないだろう。いったんあれを知ってしまえば、今やっているような方法にはあまりゾクゾクしないだろうな」

ALEC PALAO/2015
El Cerrito, California

Thanks to Junior Lowe, Mickey Buckins,
Clayton Ivey, David Hood, Rodney Hall,
Rick Hall, Cindy Vorte and everyone at
Fame Studios, Muscle Shoals.

Pre-production by Alec Palao and Wally Sound

Photos and memorabilia courtesy
Fame Studios unless noted



ホームへ