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Marianne Faithfull/Live At The BBC/2008 The Decca Record Company Ltd./BBC 5307959



ポップ神話によれば、私のキャリアはアンドリュー・ルーグ・オールダムがパーティーで私を見つけて、私のマネージャーになった時から始まったことになっているわ。彼はヒップで切れ者だった。そして映画の中でしか聞けないようなセリフ、“君をスターにしてやろう。ちょっとした手始めに過ぎないがね。”といって近づいてきた。でもこういうことは当時の世界に本当にあったことだった―レコーディング・スタジオでは―それは私がいつも一緒に働いていたマイク・レアンダーのことだった。マイクは本当にいい人だった。彼は若かったしそこそこにヒップだった。私たちはウマが合ったし、彼は私の初期のセッション全てを担当した。マイクは自信に満ちていた。ある時彼は、心を閉ざしていた私を見つけ出してレコードを作ろうと提案した。それは1972年のことで、その頃の私は本当に病気で気分が滅入っていた。私は一人じゃどうすることもできなかったから、そのオファーは今でも感謝しているわ。

この素敵なBBCレコーディングで聴けるのがマイクのオーケストラよ。(お金に糸目をつけない!)素晴らしいギター・プレイはジョン・マークで、彼はいつもツアー、TV、私のレコーディング全てでギターを弾いてくれた。私のレコーディングはほとんどがライヴか2テイクで済ませていたから、レコードとBBCセッションの間にはあまり違いはなかったわね。デッカのサウンド・エンジニアたちは私のことを‘ワン・テイク・フェイスフル’って呼んでいた。ハイソなハムステッドにあるやっかいなレコード会社って意味じゃ全然なくてね。

あの頃のことは正確には覚えてないわ。でも今振り返ると、もちろんあの頃は絶え間ないプロモーション活動とひどいライヴ・スケジュールの連続だった。今改めてこれを聴いて、私はこの音源が残っていたことに感謝しているし、これは当時の私のライヴ・ワークの記録ね。とても素晴らしいサウンドだと思う!みんなもそう思ってくれるとうれしいけど・・・

Love, Marianne Faithfull x


60年代を振り返ってみると、それから44年間大衆の目が見つめる中、マリアンヌ・フェイスフルはその辛い道のりを象徴する存在としてその大半を過ごしてきた。今年彼女は、そのあまりに少ないアルバム制作活動の中で最新作を完了しようとしている。一方でLive At The BBCは、彼女の初期のキャリアから未発表レコーディングの数々をフィーチャーしている。より純真で、よりナイーヴだった時代の声だ。

ローリング・ストーンズのマネージャー、アンドリュー・オールダムが最初にそのスター性を見抜いた時、マリアンヌ・フェイスフルは女子修道院学校に通うわずか17歳の生徒だった。パーティーで最初に彼の目を引いたのが、彼女の美ぼうと脆弱性であった。彼女はすぐにアンドリューの力によってデッカ・レコーズとの契約を果たした。自伝の中でフェイスフルはオールダムのことを“映画の中でしか聞けないようなことを言う”人物として描いている。それが今日でも失うことのない典型的な虚勢を張るオールダムの才能だ―“当時は誰かに出会ってそいつを気に入れば、すぐにレコーディングって時代だったんだ。”マリアンヌに関していえば、彼女が野心を持っていたことは彼女は決して否定していない。“彼女がなりたかったのはとにかくグレイトな存在だった。”事実、オールダムに発見されるまでの彼女は女優になりたがっていた。しかし1964年、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの‘As Tears Go By’によってデビューし、続く3枚のヒット・シングルによって彼女はスウィンギング60sの主役の一人となった。彼女は間違いなくキャシー・マッゴーワンやサンディ・ショウのような60sの顔役の一人であり、彼女のルックスは10代の傲慢さと絶好のチャンスを見逃さない強い意志を表していた。オールダムは最初の1年を超えて、フェイスフルのキャリアにおいてはその役割を果たさなかったが、パートナーのトニー・カルダーから手綱を引き継いでから、彼は確実に彼女の魅力を人々に効果的に浸透させていった。とりわけよだれを垂らす男たちに向けて。“マリアンヌは普通の人々が到達できない英国一流のバックグラウンドを持つ驚くべき存在だった。彼女はダニエル・ダリュー、カトリーヌ・ドヌーヴ、そしてグレース・ケリーに並ぶミルクトレイ(商標:英国のチョコレート)の箱のような外観上の純真さを持っていた。”

マリアンヌ・フェイスフルのデッカでのキャリアが、1964年9月にUKトップ10ヒットとなった‘As Tears Go By’で始まったとするなら、それはもっと素晴らしいシングルといえる、1969年の‘Something Better’/‘Sister Morphine’(500枚のみのプレス、すぐに回収されることになった)で幕を閉じたといえるだろう。このシングルはついにジャガー、リチャーズそしてマリアンヌ・フェイスフル自身の3人がクレジットされていた。またこれは未来の彼女のソングライティングを実証するような焼けつくようなリアリズムを初めて示したものとなった。マリアンヌ・フェイスフルが‘魅力的な女’から‘宿命の女’へと変容していった波乱の5年間、それはとりわけ世間の注目を浴びたあとのミック・ジャガーとの嵐のような5年間であった。キース・リチャーズのWest Witteringハウスでのストーンズ二人のスターの悪名高きドラッグ逮捕劇、ジャガーが映画Ned Kelly撮影のために訪れていたオーストラリアでのフェイスフルの自殺未遂などだ。

60年代の終わりまでに、マリアンヌ・フェイスフルはある意味メディアから追い詰められ環状に逃げ回るキツネであった。今日では陳腐なことであり、例えばエイミー・ワインハウスあるいはブリトニー・スピアーズの荒れた生活の手っ取り早い青写真であった。しかし最も重要なのは、マリアンヌ・フェイスフルがあの時代から現在までのロックの偉大な生き残りの一人となったことだ。大方の予想を裏切って、彼女はどん底に落ちたあと、驚くべきスタイルを持ってその悲惨な10年を経て復活した。彼女は初期のピンナップ・ガールとしての自身の日々を軽蔑するような発言を繰り返すようになり、決して巧みではないがアルバムBroken Englishでオリジナル・ソングを披露した。それらの歌は脆弱なものではなかったし、初期のヒットに聞けたような震えた声は、“酒と煙草の日々”による“こわれた少年の声”に変わっていた。

彼女はBroken Englishリリース時にZig Zagの中でクリス・ニーズに語っている。“私は一生懸命打ち込んだことなんてなかったし、そういうことを全く期待されたことがなかったわ。私はいつも歌えないだけじゃなく、曲を書いたりすることなんてないと思われていたし、どうでもいいような存在だった。これが初めて私が音楽の世界で必要とされて作ったアルバムね。”彼女のそういった主張はともかく、60年代のマリアンヌ・フェイスフルのレコーディング作品は、単に他人からあてがわれた一連の‘かわいこちゃんの歌’以上の価値は絶対的にあった。それがLive At The BBCに収められた初期の日々である。1965年と1966年の間にBBCの最重要ポップ番組Saturday Clubで収録された15曲は、最近まで単に‘幻’とされていたレコーディングだ。この必聴番組は毎週土曜の午前10時から12時まで放送されていたBBCの人気ラジオ番組で(1969年に打ち切られた)、愛想のいいブライアン・マシューがホストを務めていた。5回のセッションに渡りマリアンヌは、繰り返しその繊細なバロック・アレンジメントを聞かせるマイク・レアンダー・オーケストラと彼女のレギュラー・ギタリスト、ジョン・マークと共に出演した。そのパフォーマンスは、マリアンヌのか弱いポップ性と、より素朴な楽曲が交じり合ったものだった。レアンダーは彼女のレコーディング・セッションでも共に働き、‘As Tears Go By’を生み出し、彼女のデッカ期全てに渡って協力した。

二つのスタイルを維持するために、マリアンヌは1965年に2枚のアルバムを同時リリースした。1枚はセルフ・タイトルのポップ・アルバムMarianne Faithfull、もう1枚のCome My Wayは表向きにはフォーク・アルバムだった。Come My Wayはたしかにマリアンヌが自分のキャリア・パスにインプットされていたものを証明していた。1965年、彼女がNMEの中で回想するように、彼女がよく出演していたレディング・フォーク・クラブに戻ると、成功という許すことのできない罪を彼女が犯したことによって、フォーク・ファンたちからは彼女は憎まれたそうだ。マリアンヌは英国デッカにさらに2枚だけアルバムを残した。1966年のNorth Country Maidとその翌年のLoveinamistは、どちらもトラディショナル・フォークとコンテンポラリー・ソングのポップなミックスが維持され、バート・ヤンシュ、ティム・ハーディン、シリル・タウニーの‘Sally Free And Easy’さえ入っていた。

マリアンヌ・フェイスフルのデッカでのキャリアはごく短期間だった―彼女は1967年以降はほんの数枚のシングルをレコーディングしたのみだ―つまりこのLive At The BBCはさらにより測り知れない価値を持っているということを示している。これはマリアンヌがあまりに短命な60年代に生み出した作品に、事実上加えることのできるアルバムだ。これら5つのセッションでレコーディングされた中には、マリアンヌの4つの最大のヒット‘As Tears Go By’、‘Come And Stay With Me’、‘This Little Bird’そして‘Summer Nights’の未発表ヴァージョン、プラス彼女のデッカ・セッションの他の曲が含まれている。またジャッキー・デ・シャノンの‘In My Time Of Sorrow’、ハーマンズ・ハーミッツのヒット曲‘Can’t You Hear My Heartbeat’、そしてジョン・マークの陽気な‘Go Away From My World’、これら全てはレアンダーによってアレンジされている。その他ジョン・マークのフィンガー・ピッキング・ギターの聞けるトム・パクストンの‘The Last Thing On My Mind’、彼女の出産祝いに書かれたマーク作‘Lullaby’、そして‘Yesterday’のカヴァーが聴ける。この‘Yesterday’は大仰なオーケストラ・ヴァージョンよりも、より素朴な響きを持っている。これは1965年11月にシングルとしてリリースされ、マリアンヌ・フェイスフル最後のトップ40ヒットとなった。

音楽とは別に、Live At The BBCが示す皮肉っぽく可笑しなねじれ部分が、Saturday Clubの司会、ブライアン・マシューとの一連のインタビューだ。そこでマリアンヌは自身の‘貴族階級’的出自(英国大学講師とオーストリアの男爵夫人との間の娘であること)と、‘公開されていない’ジョン・ダンバーとの結婚について話し、自身の望みと最初の子供ニコラスについて話している。人の心をひきつける礼儀正しく全く魅力的な話しぶりは、青春期の少年たちの夢に出てくる彼女とぴったりマッチしていた。インタビューは全く異なった時代を鮮やかに喚起させるものだ。我々はもちろん今となっては、その後のマリアンヌ・フェイスフルの人生をはるかによく知っているし、これらのインタビューが放送された最後の頃までに、彼女はミック・ジャガーとの関係をマスコミにすっぱ抜かれ、実際には1970年まで成立しなかったダンバーとの離婚、別れが訪れることになった。やがてドラッグの噂が広まり、以前は修道院学校の生徒だった彼女が、悪名を高めることになった不義を描いたジャック・カーディフの映画Girl On A Motorcycleでのレザーの衣装を着たフェイスフルとして有名になっていった。これは実際はアート・シアター・ムービーであったが、“The film sensation of the year!”として予告編で宣伝された。同年(1968年)、彼女はローリング・ストーンズのRock And Roll Circus(当時お蔵入りとなったが)に出演した。その頃までにマリアンヌ・フェイスフルは完全にストーンズの邪悪な世界の住人として引き合いに出されていた。

Live At The BBCは、初期の天使のようなイメージと見事な美しさ、珍しいデッカ時代の写真によって非の打ち所のないマリアンヌ・フェイスフルの存在を浮き彫りにしている。これら美しい写真の数々は、最近になって発掘されたものであり、60年代中期の若きマリアンヌが、自宅やスタジオでくつろいでいる写真がフィーチャーされている。10年の間、マリアンヌ・フェイスフルには多くの出来事が展開し、それは間違いなくあまりに多過ぎ、目まぐるし過ぎた事件ばかりであったが、今では偏見なしに聴くことができるであろう。穏やかで愛らしく歌われるポップフォーク・ソングの数々は、過ぎ去った日々のチャーミングな工芸品である。

MICK HOUGHTON


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